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第三話 ほろほろ雨
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話し終えたあと、深い息を吐き出す。あのときのつらさがよみがえってくるようで、胸が痛い。
朝晴を見ると、彼も痛ましそうに眉をひそめていた。友人の話として伝えたが、それでも彼には他人事として客観視できない、胸が痛くなる話だったのだろう。
まぶたを伏せる。目の前のステーキはすっかり冷めてしまった。楽しく食事するはずだったであろう朝晴も、ほとんど手をつけていない。
彼を巻き込んで申し訳ない。そんな気持ちになりながらも、もう少しだけ、話を聞いてほしいと甘えが出る。
どういうわけか、つらい心の内を朝晴にわかってもらいたいと思ってしまう。
「ほろほろ雨は、泣き叫びたいほどにつらい思いをしたのに泣けない涙を表現しているんですよ」
降ってくるようで降ってこない。だけれど、晴れるわけでもない。苦しみからわずかに漏れ出た涙がほろほろと落ちる、そんな雨。
未央の心にはずっと、ほろほろ雨が降っている。あの作品を文彦が見たら、何を感じただろう。失ったものの大きさを痛感してくれただろうか。そう思うのも、あてつけのようで、彼の手に渡らなくてよかったのだと、今なら思える。
「その、文彦さんという方は、今?」
朝晴がためらいがちに尋ねてくる。
「亡くなったんです。作品をキャンセルしたあとに、交通事故で」
「それじゃあ……」
「前にお話した、事故に遭った知人というのは、文彦さんのことです」
「そうでしたか。いろいろと、おつらかったですね」
文彦が亡くなったと聞かされたとき、未央は何度も自分を責めた。もしあの時、もう少しだけ彼を理解して許していたら、こんな悲劇は起きなかったのではないか。許さないことが罪となって自分にのしかかってくるなんて、別れを決めたときはまったく想像していなかった。
「ほろほろ雨は、友人が彼を想ってデザインしたものなんですよ」
自分たちが穏やかに過ごせた時間を、幼なじみの交流に見立てて、きれいな思い出にしたかった。そう思っていたのに。
「それを未央さんが切り絵にされた?」
「文彦さんは罪滅ぼしで作品が欲しかったのかもしれませんが、心を込めて作ったつもりです。それなのに、キャンセルになってしまって、友人はまた裏切られたような気持ちになってしまいました」
「仕方ありませんよ、それは」
朝晴は同情を顔に浮かべる。
「友人は文彦さんに裏切られたと思ってますが、最後まで彼は裏切ってないと言ってたそうです」
「本当のところはよくわかっていないんですね?」
「はい。それでも、間違いなく心は完全に奪われていたと思います。心惹かれていなかったことは証明できず、友人は疑心暗鬼になり、別れを告げたんです」
「浮気する男の気持ちはまったくわかりませんね」
憤慨するように朝晴は言ったが、すぐに気まずそうに笑む。
「すみません。つい、感情的になってしまって」
謝ると、ステーキを口にほうり込む。少し固くなってしまっているだろうが、おいしそうに食べる姿を見ると、こちらも元気がもらえる気分になる。
彼はモテるだろう。しぐれが言っていた。東京にいたころは、遊び相手に事欠かない生活をしていただろうって。だから、朝晴はすごい人だけど、恋人には向かないと釘を刺したのだ。
しかし、清倉へ引っ越してきた朝晴は、昔のように穏やかで優しい兄になったらしい。人は環境で変わる。きっと、文彦が心変わりしたのも、婚約が正式に決まり、環境が変わろうとしていたからかもしれない。
「文彦さんは婚約が窮屈だったのかもしれません。おとなしくて頼りない、守ってあげたくなるような魅力のある彼女は、彼にとって癒しを与える存在だったのかもしれません。浮気したのは、友人にも問題があったのかも……」
「ご友人だって、守ってあげたくなるような繊細な方だったのでは?」
未央を遮って、朝晴は言う。
「なぜ、そう思われるの?」
「未央さんのご友人なら、そういう方かなと」
ただの印象で語ったからか、バツの悪そうな表情で、彼は髪をかきあげる。
「……どうでしょうか」
財前家を継ぐ文彦を支えたいとは思っていたが、婚約者として対等で、どちらかがもたれかかるような関係ではなかったように思う。
「その、ご友人ですが……、ほろほろ雨が、もし彼の手に渡っていたら、そのときはやり直したいと思ってたんでしょうか?」
朝晴は深入りするのを恥じるような表情でおずおずと尋ねてくるが、未央はそっと首を振って微笑む。
「いくらやり直したいと言われても、別の女の人に心惹かれていた時点で、友人の好きだった彼は死んだんです。それに気づいたときが恋の終わりかもしれないですね」
「そうですか。それじゃあ、別れてよかったんですよ。……って、余計なお世話ですね」
「私も、よかったって思ってますから」
まだ完全には吹っ切れていないかもしれない。けれど、どこか明るい気持ちになって、そう言うと、未央もようやく、ステーキにナイフを入れる。
「あの、未央さん」
「はい。何か?」
首をかしげると、朝晴は思い切ったように言う。
「月末、代休があるんですよ。よかったら、一緒に出かけませんか?」
話し終えたあと、深い息を吐き出す。あのときのつらさがよみがえってくるようで、胸が痛い。
朝晴を見ると、彼も痛ましそうに眉をひそめていた。友人の話として伝えたが、それでも彼には他人事として客観視できない、胸が痛くなる話だったのだろう。
まぶたを伏せる。目の前のステーキはすっかり冷めてしまった。楽しく食事するはずだったであろう朝晴も、ほとんど手をつけていない。
彼を巻き込んで申し訳ない。そんな気持ちになりながらも、もう少しだけ、話を聞いてほしいと甘えが出る。
どういうわけか、つらい心の内を朝晴にわかってもらいたいと思ってしまう。
「ほろほろ雨は、泣き叫びたいほどにつらい思いをしたのに泣けない涙を表現しているんですよ」
降ってくるようで降ってこない。だけれど、晴れるわけでもない。苦しみからわずかに漏れ出た涙がほろほろと落ちる、そんな雨。
未央の心にはずっと、ほろほろ雨が降っている。あの作品を文彦が見たら、何を感じただろう。失ったものの大きさを痛感してくれただろうか。そう思うのも、あてつけのようで、彼の手に渡らなくてよかったのだと、今なら思える。
「その、文彦さんという方は、今?」
朝晴がためらいがちに尋ねてくる。
「亡くなったんです。作品をキャンセルしたあとに、交通事故で」
「それじゃあ……」
「前にお話した、事故に遭った知人というのは、文彦さんのことです」
「そうでしたか。いろいろと、おつらかったですね」
文彦が亡くなったと聞かされたとき、未央は何度も自分を責めた。もしあの時、もう少しだけ彼を理解して許していたら、こんな悲劇は起きなかったのではないか。許さないことが罪となって自分にのしかかってくるなんて、別れを決めたときはまったく想像していなかった。
「ほろほろ雨は、友人が彼を想ってデザインしたものなんですよ」
自分たちが穏やかに過ごせた時間を、幼なじみの交流に見立てて、きれいな思い出にしたかった。そう思っていたのに。
「それを未央さんが切り絵にされた?」
「文彦さんは罪滅ぼしで作品が欲しかったのかもしれませんが、心を込めて作ったつもりです。それなのに、キャンセルになってしまって、友人はまた裏切られたような気持ちになってしまいました」
「仕方ありませんよ、それは」
朝晴は同情を顔に浮かべる。
「友人は文彦さんに裏切られたと思ってますが、最後まで彼は裏切ってないと言ってたそうです」
「本当のところはよくわかっていないんですね?」
「はい。それでも、間違いなく心は完全に奪われていたと思います。心惹かれていなかったことは証明できず、友人は疑心暗鬼になり、別れを告げたんです」
「浮気する男の気持ちはまったくわかりませんね」
憤慨するように朝晴は言ったが、すぐに気まずそうに笑む。
「すみません。つい、感情的になってしまって」
謝ると、ステーキを口にほうり込む。少し固くなってしまっているだろうが、おいしそうに食べる姿を見ると、こちらも元気がもらえる気分になる。
彼はモテるだろう。しぐれが言っていた。東京にいたころは、遊び相手に事欠かない生活をしていただろうって。だから、朝晴はすごい人だけど、恋人には向かないと釘を刺したのだ。
しかし、清倉へ引っ越してきた朝晴は、昔のように穏やかで優しい兄になったらしい。人は環境で変わる。きっと、文彦が心変わりしたのも、婚約が正式に決まり、環境が変わろうとしていたからかもしれない。
「文彦さんは婚約が窮屈だったのかもしれません。おとなしくて頼りない、守ってあげたくなるような魅力のある彼女は、彼にとって癒しを与える存在だったのかもしれません。浮気したのは、友人にも問題があったのかも……」
「ご友人だって、守ってあげたくなるような繊細な方だったのでは?」
未央を遮って、朝晴は言う。
「なぜ、そう思われるの?」
「未央さんのご友人なら、そういう方かなと」
ただの印象で語ったからか、バツの悪そうな表情で、彼は髪をかきあげる。
「……どうでしょうか」
財前家を継ぐ文彦を支えたいとは思っていたが、婚約者として対等で、どちらかがもたれかかるような関係ではなかったように思う。
「その、ご友人ですが……、ほろほろ雨が、もし彼の手に渡っていたら、そのときはやり直したいと思ってたんでしょうか?」
朝晴は深入りするのを恥じるような表情でおずおずと尋ねてくるが、未央はそっと首を振って微笑む。
「いくらやり直したいと言われても、別の女の人に心惹かれていた時点で、友人の好きだった彼は死んだんです。それに気づいたときが恋の終わりかもしれないですね」
「そうですか。それじゃあ、別れてよかったんですよ。……って、余計なお世話ですね」
「私も、よかったって思ってますから」
まだ完全には吹っ切れていないかもしれない。けれど、どこか明るい気持ちになって、そう言うと、未央もようやく、ステーキにナイフを入れる。
「あの、未央さん」
「はい。何か?」
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