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秘密を覗きたい(前編)
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昇降口前に黄葉のカーペットが敷かれていた。
散った分だけ銀杏の木には隙間が目立つ。
冬の足音が近付いてきていた。
教室棟二階の覗きスポットは夏になって緑葉が生い茂るまでは近付かないようにしよう。いずれにしろ冬場にパンチラは余り期待できないのだから引き際が肝心だ。
何事にも終わりと始まりがある。
僕はベランダから教室に戻り、自分の席に腰掛けた。
「やっぱり早過ぎたな」
教室にはまだ自分以外の生徒は登校していない。静けさに包まれた教室はまるで時が止まっているようだった。
ぱたぱたと軽い足音が廊下から聞こえてくる。
「おはよう、佐藤くん!」
「おはよう、有村さん」
まるで儀式を執り行うように、いつもと変わらない朝の挨拶を交わす。
何も変わっていない姿こそが異常なのだと、今ならそれがよく分かる。果たして今も有村さんの中ではどんな感情が渦巻いているのだろうか。
あの日、僕の家に泊まり、そして次の日の朝――自宅へと戻る有村さんと交わした会話を思い出す。
*
「泊めてくれてありがとう。今日からまた頑張れそう」
「本当に頑張る必要はあるのかな」
玄関で靴を履いた有村さんが振り返る。
「それが一番綺麗に丸く収まる方法だと思うんだ」
「……そっか」
「うん、これはわたしがわたしのためにやりたいことだから。何も心配は要らないよ……なんて、佐藤くんには迷惑掛けちゃったばかりなんだけど」
たくさんの荷物が詰まったボストンバッグを抱えて、有村さんは玄関の扉に手を掛けた。
呼び止めようと声を上げようとしたが、有村さんの姿を目にして言葉を呑み込んだ。
恐くて辛くて立ち止まりたい。
今すぐにでも引き返してしまいたい。
頑張りたくなんかない。
震える背中は何よりも雄弁に語っていた。
家出をする覚悟も、家出から戻る覚悟も僕には分からない。
ただ一つ確かなのは、有村さんを呼び止めるならば彼女の一生を背負うつもりでなければならないということだ。安易な同情でこれ以上は踏み込めなかった。
「気を付けて帰ってね」
「ありがとう、また明日!」
「うん、また学校で」
有村さんはもう振り返らなかった。
閉じられた玄関の向こう側で、有村さんの背中が扉に寄り掛かる。
その場から動かない人影に向けて僕は本音を漏らした。
「それでも有村さんが辛そうにしているのを見るのは悲しいよ」
我ながらズルい言葉だ。
天秤の反対側に僕は立つ。家族や友人に囲まれた生活に対して僕はたった一人だ。相手に選択肢を委ねたと言えば聞こえはいいが、僕自身にそこまでの価値あるとは思っていない。有村さんを助けるために何一つとして自分の信念を譲らなかった、というだけの話だ。
それから少し経って、人影は引き返すことなく静かに去っていった。
*
覗きスポットは気付かれにくい場所だ。
それは得てして密会の場所としても有用だった。
僕は有村さんのトイレを覗いて以来、昼休みに特別棟三階のトイレに行くのが習慣になっていた。
今日も何か目的があったわけでもなく訪れた結果、先客が居ることに驚いた。
三階から聞こえる話し声に、僕は自然と足音を忍ばせる。階段を上がり廊下を覗き込めば、男女が並んで空き教室の一つに入っていくのが見えた。
「あれって、遠藤さんと荒谷……?」
二人の組み合わせ自体は意外でもないが、こんな場所でこそこそと二人っきりになっているのは意外な状況だ。
僕は空き教室に近付いて聞き耳を立てる。これまでに培った覗きテクニックで諜報活動をすることになるとは思わなかった。
「こんなところに呼び出してどうしたの?」
遠藤さんの声は弾んでいた。口振りからするに、荒谷からこの場所に誘われたようだ。
「ちょっとさ、有村のことで相談があってさ」
「なんだナナちゃんの話か……それで?」
荒谷の一言に、遠藤さんの声が低くなりぶっきら棒な受け答えになった。
「あいつ、俺のこと最近なんか避けてねぇか」
「ええー? そうかな?」
「遠藤はなんか聞いてねぇのか」
「聞いてても言うと思う?」
「おいおい、俺の方が付き合い長いじゃねぇか。ちょっとぐらい協力してくれよ」
「はぁぁ……避けてるって嫌われるようなことしたんじゃないの」
「んなことするかよ」
「じゃあ気不味いんじゃない、あんたと話すのがさ」
「はぁ? 結局は嫌われてるって話じゃねぇか」
「そうじゃなくてさ、プラス方向でどう話していいか分からなくなる時だってあるじゃん」
「……おお、つまりそういうことか?」
「さあ、分からないけど」
「でも話せなきゃ意味ねぇし」
「そんなこと言われてもなぁ」
沈黙した空き教室の状況を知りたくて、廊下側の窓を少しだけ開いてこっそりと覗き込む。
「話せりゃ後はこっちでどうにかするからさ、協力してくれよ、な?」
荒谷の一言に遠藤さんは腕を組んで考え込んでいる様子だった。何か妙案が思い付いたのか、ニヤリと笑みを浮かべる。
「ふーん、だったら良いこと教えてあげる。放課後なんだけどさ」
遠藤さんが背伸びをして、荒谷の耳元で何かを囁いた。
廊下からでは聞き取ることはできず歯噛みする。
話を聞き終えた荒谷がガッツポーズをする。その様子を見て遠藤さんはほくそ笑んでいた。
空き教室から立ち去ろうとするの確認して、僕は反対側の空き教室へと飛び込んだ。身を伏せて二人をやり過ごす。
勉強会の件で有村さんを交えた三人の会話を教室で聞いたのを思い出して、なんとなく三人の関係性に察しが付いた。体操着の一件や、荒谷の僕に対する態度など色々と辻褄が合うので、恐らく間違いはないだろう。
三角関係。それも不格好な一方通行だ。
有村さんの日頃の苦労が垣間見えて、切ない気持ちになった。
「救われないな、本当に」
*
放課後を迎えて、僕は帰り支度を進める振りをしながら三人の動きを観察する。
有村さんは美化委員の活動があると言って教室を後にした。
教室に残っていた遠藤さんは荒谷に目配せする。荒谷はそれに頷いて教室を出ていった。
「……嫌な予感ほどよく当たる」
僕は有村さんと荒谷が通るであろうルートを考えて、鉢合わせしないようにしながら用務員室に先回りできるルートを組み立てる。
以前に着替えを覗いた時は、脱出時の施錠が問題になった。しかし、執念で調査を続けた結果、その問題を解決できる方法を見付け出した。
奇しくも自宅のお風呂場がヒントになったのだ。
用務員室の倉庫には一箇所だけ施錠確認されない窓が存在していた。どうして確認されないのか、その理由は簡単だ。施錠の有無で何も変わらないからである。何故ならば、外側にも内側にも物が積まれており通り抜けるどころか、開け閉めすらできないのだ。
さて、そこで僕は考えた。見掛け上は塞がれた状態を維持して、自由に出入りできるようにしてしまえばいいと。
僕は少しずつ積まれていた荷物の配置を変更して、一見して重そうに見えるが簡単に動かせる荷物――空のダンボールであったり滑り止めを剥がしたロッカーをその窓の前に集中させた。
一気に内装が変われば察知されるが、何週間にも渡って行われる変化に気付く者は誰も居なかった。
予め開けたままだった窓から、誰にも見られないように用務員室の倉庫に侵入する。
廊下からの扉は施錠されたままで、ロッカーには誰の着替えも入れられていない。どうやら無事に先回りできたようだ。
散った分だけ銀杏の木には隙間が目立つ。
冬の足音が近付いてきていた。
教室棟二階の覗きスポットは夏になって緑葉が生い茂るまでは近付かないようにしよう。いずれにしろ冬場にパンチラは余り期待できないのだから引き際が肝心だ。
何事にも終わりと始まりがある。
僕はベランダから教室に戻り、自分の席に腰掛けた。
「やっぱり早過ぎたな」
教室にはまだ自分以外の生徒は登校していない。静けさに包まれた教室はまるで時が止まっているようだった。
ぱたぱたと軽い足音が廊下から聞こえてくる。
「おはよう、佐藤くん!」
「おはよう、有村さん」
まるで儀式を執り行うように、いつもと変わらない朝の挨拶を交わす。
何も変わっていない姿こそが異常なのだと、今ならそれがよく分かる。果たして今も有村さんの中ではどんな感情が渦巻いているのだろうか。
あの日、僕の家に泊まり、そして次の日の朝――自宅へと戻る有村さんと交わした会話を思い出す。
*
「泊めてくれてありがとう。今日からまた頑張れそう」
「本当に頑張る必要はあるのかな」
玄関で靴を履いた有村さんが振り返る。
「それが一番綺麗に丸く収まる方法だと思うんだ」
「……そっか」
「うん、これはわたしがわたしのためにやりたいことだから。何も心配は要らないよ……なんて、佐藤くんには迷惑掛けちゃったばかりなんだけど」
たくさんの荷物が詰まったボストンバッグを抱えて、有村さんは玄関の扉に手を掛けた。
呼び止めようと声を上げようとしたが、有村さんの姿を目にして言葉を呑み込んだ。
恐くて辛くて立ち止まりたい。
今すぐにでも引き返してしまいたい。
頑張りたくなんかない。
震える背中は何よりも雄弁に語っていた。
家出をする覚悟も、家出から戻る覚悟も僕には分からない。
ただ一つ確かなのは、有村さんを呼び止めるならば彼女の一生を背負うつもりでなければならないということだ。安易な同情でこれ以上は踏み込めなかった。
「気を付けて帰ってね」
「ありがとう、また明日!」
「うん、また学校で」
有村さんはもう振り返らなかった。
閉じられた玄関の向こう側で、有村さんの背中が扉に寄り掛かる。
その場から動かない人影に向けて僕は本音を漏らした。
「それでも有村さんが辛そうにしているのを見るのは悲しいよ」
我ながらズルい言葉だ。
天秤の反対側に僕は立つ。家族や友人に囲まれた生活に対して僕はたった一人だ。相手に選択肢を委ねたと言えば聞こえはいいが、僕自身にそこまでの価値あるとは思っていない。有村さんを助けるために何一つとして自分の信念を譲らなかった、というだけの話だ。
それから少し経って、人影は引き返すことなく静かに去っていった。
*
覗きスポットは気付かれにくい場所だ。
それは得てして密会の場所としても有用だった。
僕は有村さんのトイレを覗いて以来、昼休みに特別棟三階のトイレに行くのが習慣になっていた。
今日も何か目的があったわけでもなく訪れた結果、先客が居ることに驚いた。
三階から聞こえる話し声に、僕は自然と足音を忍ばせる。階段を上がり廊下を覗き込めば、男女が並んで空き教室の一つに入っていくのが見えた。
「あれって、遠藤さんと荒谷……?」
二人の組み合わせ自体は意外でもないが、こんな場所でこそこそと二人っきりになっているのは意外な状況だ。
僕は空き教室に近付いて聞き耳を立てる。これまでに培った覗きテクニックで諜報活動をすることになるとは思わなかった。
「こんなところに呼び出してどうしたの?」
遠藤さんの声は弾んでいた。口振りからするに、荒谷からこの場所に誘われたようだ。
「ちょっとさ、有村のことで相談があってさ」
「なんだナナちゃんの話か……それで?」
荒谷の一言に、遠藤さんの声が低くなりぶっきら棒な受け答えになった。
「あいつ、俺のこと最近なんか避けてねぇか」
「ええー? そうかな?」
「遠藤はなんか聞いてねぇのか」
「聞いてても言うと思う?」
「おいおい、俺の方が付き合い長いじゃねぇか。ちょっとぐらい協力してくれよ」
「はぁぁ……避けてるって嫌われるようなことしたんじゃないの」
「んなことするかよ」
「じゃあ気不味いんじゃない、あんたと話すのがさ」
「はぁ? 結局は嫌われてるって話じゃねぇか」
「そうじゃなくてさ、プラス方向でどう話していいか分からなくなる時だってあるじゃん」
「……おお、つまりそういうことか?」
「さあ、分からないけど」
「でも話せなきゃ意味ねぇし」
「そんなこと言われてもなぁ」
沈黙した空き教室の状況を知りたくて、廊下側の窓を少しだけ開いてこっそりと覗き込む。
「話せりゃ後はこっちでどうにかするからさ、協力してくれよ、な?」
荒谷の一言に遠藤さんは腕を組んで考え込んでいる様子だった。何か妙案が思い付いたのか、ニヤリと笑みを浮かべる。
「ふーん、だったら良いこと教えてあげる。放課後なんだけどさ」
遠藤さんが背伸びをして、荒谷の耳元で何かを囁いた。
廊下からでは聞き取ることはできず歯噛みする。
話を聞き終えた荒谷がガッツポーズをする。その様子を見て遠藤さんはほくそ笑んでいた。
空き教室から立ち去ろうとするの確認して、僕は反対側の空き教室へと飛び込んだ。身を伏せて二人をやり過ごす。
勉強会の件で有村さんを交えた三人の会話を教室で聞いたのを思い出して、なんとなく三人の関係性に察しが付いた。体操着の一件や、荒谷の僕に対する態度など色々と辻褄が合うので、恐らく間違いはないだろう。
三角関係。それも不格好な一方通行だ。
有村さんの日頃の苦労が垣間見えて、切ない気持ちになった。
「救われないな、本当に」
*
放課後を迎えて、僕は帰り支度を進める振りをしながら三人の動きを観察する。
有村さんは美化委員の活動があると言って教室を後にした。
教室に残っていた遠藤さんは荒谷に目配せする。荒谷はそれに頷いて教室を出ていった。
「……嫌な予感ほどよく当たる」
僕は有村さんと荒谷が通るであろうルートを考えて、鉢合わせしないようにしながら用務員室に先回りできるルートを組み立てる。
以前に着替えを覗いた時は、脱出時の施錠が問題になった。しかし、執念で調査を続けた結果、その問題を解決できる方法を見付け出した。
奇しくも自宅のお風呂場がヒントになったのだ。
用務員室の倉庫には一箇所だけ施錠確認されない窓が存在していた。どうして確認されないのか、その理由は簡単だ。施錠の有無で何も変わらないからである。何故ならば、外側にも内側にも物が積まれており通り抜けるどころか、開け閉めすらできないのだ。
さて、そこで僕は考えた。見掛け上は塞がれた状態を維持して、自由に出入りできるようにしてしまえばいいと。
僕は少しずつ積まれていた荷物の配置を変更して、一見して重そうに見えるが簡単に動かせる荷物――空のダンボールであったり滑り止めを剥がしたロッカーをその窓の前に集中させた。
一気に内装が変われば察知されるが、何週間にも渡って行われる変化に気付く者は誰も居なかった。
予め開けたままだった窓から、誰にも見られないように用務員室の倉庫に侵入する。
廊下からの扉は施錠されたままで、ロッカーには誰の着替えも入れられていない。どうやら無事に先回りできたようだ。
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