ひとまずコーヒーをどうぞ

遠井空

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ひとまずコーヒーをどうぞ

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 今年の春に葉山はやま瑠奈るなが片栗高校に入学してから、およそ二ヶ月が経つ。
 放課後の教室で、瑠奈は窓枠に身を預け、グラウンドを見下ろしていた。
 その視線の先には、サッカー部の男たちが元気にボールを蹴りあっている姿がある。
「瑠奈、いつも何を見てるの?」
 振り返ると、同級生の鈴木圭子が微笑を浮かべていた。
「ん……別に何も。圭子はなんで教室に?」
「忘れ物を取りにきたんだよ。ああ、ここからウチの部活よく見えるね」
 圭子は栗色のショートヘアーを揺らしながら瑠奈に並び、グラウンドを見下ろした。

 圭子は元陸上部員、今は、男子サッカー部のマネージャーだ。
 中学校では短距離走で華々しい活躍をし、片栗高校へはスポーツ特待生として試験免除で入学した。だが、入学から一ヶ月ほど経った頃、練習中に足首の靭帯を断裂し、選手生命を絶たれた。退部を余儀なくされた圭子は、その代わりという名目で、男子サッカー部のマネージャーをつとめることとなった。
 マネージャーなんていってもなんのことはない、部員が大量に排出する汚れ物の洗濯や、練習で腹を減らした連中におやつを差し入れる等、やっていることはまるで部員たちのお母さんのようなものだ。
 私だったら到底耐え切れないな、と瑠奈は思う。でも、圭子はどうやらまんざらでもないようだ。期待を寄せられた特待生が大会のひとつも出ないうちにリタイアしてしまったというのは、さぞかし居心地が悪いものだろう。何かやらされているほうがまだ気が楽なのかもしれない。

「うーん、本田先輩かな」
 圭子が言った。心臓が飛び出すかと思った。
「本田先輩、って誰?」
 内心の動揺を抑えて、瑠奈は聞き返した。
「気付いてない? 瑠奈、廊下とかですれ違ったときとか、本田先輩がいたらいつも目で追ってるよ」
 追い討ちをかけるように圭子が言う。
 何か言い返さなくてはと思うが、言葉が出てこない。
「まあいいか……じゃあ、私は行くね」
 しばしの沈黙のあと、圭子はそう言い残し、ひらひらと手を振って去っていった。
「……またね」
 硬直した喉から、かろうじてそれだけをしぼりだし、瑠奈は少しだけ足を引きずって歩く友人の背中を見送った。
 その姿が視界から消えてしばらくしてから、瑠奈は再度窓の外に目を向けた。
 ひとりきりになった教室で、噛み締めた奥歯が軋みをあげた。

   *

 瑠奈はあまり学力に優れたほうではなかった。だが、それを悲観したことは一度もない。本当に頭のいい人間というのは、最初からそうやって生まれついているのだということを瑠奈は知っていた。ごく身近で、ずっとそのような人間を見続けてきたからだ。
 だから自分のような人間は、目立って落ちこぼれない程度にほどほどの勉強をして、ほどほどの高校に入り、ほどほどの大学にでも進めればそれでいい。そう思って、学業よりは友人との交友を優先した生活を送り、成績は常に『中の下』程度の結果を残してきた。中学三年生になるまでの話だ。

 進路希望の調査で片栗高校の名前を出したとき、担任の教師は、「うぅん」と唸り声をあげ、
「とりあえずはわかった。応援はするけど、希望はまだ変えられるから、気が変わったらいつでも言ってくれていい」
 とコメントした。
 片栗高校は県内でも有数の進学校だ。この教師が、瑠奈を傷つけないように言葉を選んでいることはわかっていた。本当は、到底無理だと思っていたのだろう。
 だが、瑠奈はそれからの日々、友人や教師たちから心配されるぐらいに、生活の全てを勉強に費やした。遊びに誘われても「勉強があるから」と言って全て断り続けた。休み時間になっても、授業で使った教科書・ノートの代わりに参考書を引っ張り出して勉強を始めた。その日の授業が終わり、帰りのホームルームも終わると、誰よりも早く教室を飛び出してまっすぐ帰宅し、また勉強をした。
 そんな毎日を繰り返すうちに、友人たちもいつしか瑠奈を誘うことをやめた。
 たとえば、ある日の学校の休み時間、かつては瑠奈も親しくしていたグループで、放課後みんなでカラオケに行こうという提案があがる。
「……瑠奈は?」
 その中の誰かが、遠慮気味に口にする。
「いいよ、呼ばなくて」別の誰かが答える。「どうせ無駄だから」
 そうだね。その通り。

 合格発表の日、自分の受験番号を見つけたときは心の底から安堵した。
 この頃には親しかった友人たちとはすっかり疎遠になっており、もう連絡も取りあっていなかった。喜びを分かち合える仲間がいないことを寂しいとは思わない。受験なんて全て自分のためにやっていることだから。
 それでも、学校に合格の報告をしたときに担任の教師が、
「おめでとう、よくがんばったな」
 そう言ってくれたことを、本当に、ほんの少しだけ、嬉しいと思った。

   *

「ただいま」
 と瑠奈は言った。返事はない。
 家の明かりはついているから、留守ではないだろう。
 キッチンを見に行くと濃厚なシチューの香りが漂っていて、コンロでは大鍋が弱火にかけられていた。ふたを開けてみると、もう何時間煮込まれているのか、すっかり煮詰まって黄土色になったシチューが、ぐつぐつと気泡を上げていた。ところどころに消滅しかけたジャガイモが見える。底の方は焦げているかもしれない。
 瑠奈はコップに水を汲んで鍋に加え、軽くおたまでかき混ぜた。
 二階へ上がり、掃除機の音が響いている部屋の戸を開く。
「お母さん、ただいま」
 塵一つない床を掃除機で往復していた母が、手を止めて振り返る。
「おかえりなさい、里奈りなちゃん」
「……私は瑠奈だよ」
「あら、ごめんなさい。里奈ちゃんはまだかしら?」
「まだ、みたいだね」
「そう……遅いわね、今日は里奈ちゃんの好きなシチューなのに」
 母は机の上にある目覚まし時計に目を向け、不安そうにため息をついた。
 実のところ、その時計はだいぶ前から電池切れで止まっていて、針はいつだって十時十分を指しているのだが、母にとってはそれは関係のないことだ。どうせ時間なんか見ちゃいない。
「お鍋、火にかけっぱなしだったよ」
 瑠奈が言うと、母は「あらまぁ」と声を出して瑠奈の脇をすり抜け、姉の部屋を出て行った。
「そうそう、お父さんはお仕事で遅くなるって言ってたわ」
 階段を下りながら母が言う。
「うん、わかった」
 瑠奈は返事をしながら自室へと入り、カバンをベッドの上に放り出した。
 嘘だろうな、と思う。父はもうずっと帰りが遅い。
 はたしてそれは娘を失ったことによるショックのせいなのか。それとも、その事実に耐え切れずに、未だに娘が生きているように振舞う妻から逃れるためなのか。もしかしたら、夕飯が毎日シチューであることが嫌になってきたのかもしれない。

 着替えを済ませて階下に降りると、リビングのテーブルの上に、三人分の食事が配膳されていた。
「お母さんも、もう食べちゃいなよ」
 そわそわと時計を気にする母に声をかけ、瑠奈はスプーンを口に運んだ。
 焦げ付いたシチューの、苦い味がした。

   *

「瑠奈、あの話知ってる?」
 朝、瑠奈が教室に入り自分の席に着くと、隣席から川崎愛が声をかけてきた。
 愛はおしゃべりが大好きで、授業中を除いて五分以上黙っていた姿を見たことがない。また、声量のセーブというものができないため、彼女の言う『ここだけの話』は、いつもクラス中に伝わることとなる。
「どの話よ?」
「なんでも、ウチの学校の理科室に魔女が出るんだって」
「またありがちな……」
『学校の七不思議』とか、その手のものだろう。愛から聞いた不思議話は、この二ヶ月ですでに十七を超えている。
 先週はたしか音楽室のベートーベンが鶏を食っていたんだったか。しかし音楽関係はなんでいつもベートーベンなんだろう。バッハもたまにはお出かけしたいだろうに。
「まあまあ、しかもこの魔女、願い事を叶えてくれるそうな」
「へー、すごいね」
「あっ、信じてないね。真紀子と松田のこと知ってるでしょ? あれ、真紀子が魔女にお願いしたらしいよ」
 豊田真紀子はクラスメイトの女子だ。瑠奈はあまり話したことはないが、ひとつ特徴をあげるとすれば、控えめに言っても容姿は整っている方ではない。
 松田というのは隣のクラスの男子生徒で、要約すると、何をとっても『普通』の男だ。外見も普通、頭も普通(ただし、この学校で普通というのはそれなりに立派なものだ)、運動神経も普通と、わざとやってるのではないかと疑うくらいに特徴がない。
 この二人が、最近付き合い始めたと噂になっている。『普通』の松田ならば、少なくとも普通レベルの女の子と付き合えるはず……むしろ絶世の美女よりも普通の女を選ぶのが松田という男ではなかったのかと、噂を聞いた者は皆、首をひねっていた。
「……だったら、愛も魔女に何かお願いすればいいじゃない」
「うん、試してみたんだけどね。どうもあたしは気合いが足りないみたい」
「なによ、気合いって」
「その魔女に会う条件でね。気合いを入れて理科室の戸を開けると会えるらしいのよ。それで、あたしもやってみたけどだめだった。しかも授業中だった」
 なんていい加減な話だ、と瑠奈は思った。どこの誰が作った話だか知らないけど、途中で考えるのが面倒くさくなったとしか思えない。
「……バカバカしい」
 瑠奈のつぶやいた声は、ちょうど重なった始業のチャイムに掻き消されて、愛にも、他の誰の耳にも届くことなく、空に溶けてなくなった。

   *

 放課後、瑠奈は理科室の前にいた。
 わざわざこんなところまで来てしまった自分を、恥ずかしい思う気持ちはある。だけど、試してみるだけなら損はないだろう。
 愛が試したときは授業中だったと言っていたが、最近愛が授業をサボっていたという記憶はない。上級生は曜日によって授業時間が多くなることもあるらしいから、その日はおそらく私たち一年生には放課後だったが、二年生か三年生はまだ授業をやっていたのだろう。
 少しだけ戸を開いて中を覗き込む。幸いにも、というべきなのか、今は無人だった。
 瑠奈は戸を閉めなおし、引き手に指をかけたまま、固く目を閉じた。
『気合いを入れて理科室の戸を開けると会えるらしいのよ』
 ふざけた話だ。それでも、バカバカしいと思うことと、期待してしまうことは矛盾しない。
 脳裏に強く、本田武史の顔をイメージする。昨日の放課後――だけではなく、毎日、日課のように瑠奈が教室の窓から見下ろしていた、サッカー部の男だ。
 一年かかった。死に物狂いで勉強して片栗高校に入ったのは、彼がこの学校にいると知っていたからだ。だけど、それから何ができるわけでもなく、ただただ遠くから眺めているだけの日々だった。
 やっと、近くまでこれたのに。

 目を閉じたまま、瑠奈は渾身の力を込めて戸を開け放った。予想された大きな音は耳に届かない。
「なぜ?」と軽い混乱を覚えつつ、ゆっくりと目を開く。
 見慣れた理科室の景色だった。壁際には鍵のかかったガラス棚があり、その中には怪しげな薬品のビン、ビーカー、フラスコ、メスシリンダー等が並んでいる。大きな実験机が六つ、机ひとつあたりに六脚ずつの椅子が配置されている。そのひとつに、長い黒髪の少女が腰掛けていた。
 机の上には、透明な液体の入った三角フラスコが三脚台に乗せられ、アルコールランプの炎が底を炙っていた。少女はその火加減を調整しているようだった。
 もうひとり。
 少し離れたところで、外国人らしい金髪の少年が、上皿天秤で茶褐色の粉を量っていた。
 ふたりとも、見たところでは、まるで小学生のようだった。
 瑠奈があぜんとして立ち尽くしていると、少女がふいに顔を上げ、瑠奈の方に目を向けた。
「ん、お客さんかな? そんなとこでボーっとしてないで、入りなよ」
 少女が嬉しそうに手招きをした。
 彼女は、明らかにサイズの合っていない、だぼだぼの白衣をはおっていて、瑠奈の当惑をよそに、液体に差し込んだ温度計に目を戻した。見れば、少年のほうも同じような白衣に身を包んでいる。
「あの……魔女ですか?」
 瑠奈は少女に向かい合った椅子に腰を下ろし、問いかけた。なんてマヌケな質問だろう、と思った。
「おうよ」
 少女は、少年から茶褐色の粉のセットされた器具を受け取り、ビーカーに乗せながら答えた。それから手袋をはめてフラスコを手に取り、湯気を上げる液体を、受け取った一式に少しずつ、小さな円を描くように注ぎ始めた。立ち昇る芳香が空気中に広がっていく。コーヒーの香りだ。
「あたしはリリア、魔女だよ。そっちはハル」
 少年が「ハルです」と言ってうやうやしく頭を下げた。なんとなく、リリアと名乗った少女との間に主従関係のようなものがうかがえる。
「さて、ひとまずコーヒーをどうぞ。お砂糖かミルクは入れるかな?」
 少女はビーカーを瑠奈の前へと押し出した。黒い水面が、ぴったり二百ミリリットルの目盛りに重なっていた。
「いや……これはちょっと」
「む、お客さんビーカーに偏見持ってるね。ちゃんと消毒してあるから、そこらの御家庭のカップなんかよりよっぽど清潔だよ。もちろん変な薬品とかも残ってない」
 機嫌を損ねられてはまずいかもしれないと思い、瑠奈はビーカーを手に取って、それを少しだけすすった。あまりいい気分はしないが、それはこれまでに飲んだどんなコーヒーよりもおいしかった。もうひと口飲みたいとは思わないが。
「それで、えーと……葉山瑠奈ちゃんか、ご用件は?」
「なんで私の名前を?」
「自分がヤサにしてる学校の生徒のことぐらい何でも知ってるよ。そんでなに? 頼みごとがあってきたんでしょ? じゃないと入ってこれないようにしてるんだから」
 頼みごと。どうやら愛の仕入れた情報に間違いはないらしい。
「それは、どんなことでもですか?」
「んー……残念ながら、どんなことでもではないね。魔女ってのも万能じゃないからね」少女は答えた。「起こり得ることしか起こせない」
 瑠奈はうなずいた。その境界線はどこにあるのか、なんて質問はしない。死人を生き返らせるなんてのは確認するまでもなく、明らかに起こり得ないことだろうから。
 だったら、私の願いはたったひとつだ。
「三年生の、本田武史という生徒を殺してください」

   *

 瑠奈には二つ年上の姉がいた。名を里奈という。
 賢くて綺麗な、自慢の姉だった。
 勉強しているところなんて見たこともないのに常に成績がよく、難関といわれる片栗高校へも楽々と合格した。あまり成績がよくない瑠奈に対して父母がうるさく言わないのも、この出来のいい姉がいるからなのだと、なんとなくわかっていた。
「あんなお姉さんがいると、大変じゃない?」
 ときどき、そんなふうに言われることがあった。なにかと比較されるのではないか、ということだろう。姉はあんなに優秀なのに、妹はてんでたいしたことないなと。
 いわゆるコンプレックスと呼ばれるような感情は、ある時期までは持っていたかもしれない。頭のよさよりはむしろ、容姿についてだ。姉は美しかった。どこに行っても、誰からも、天使のようだとほめたたえられていた。私は違う。

 瑠奈が小学六年生、里奈が中学二年生のころ、家でたまたまひとりになった瑠奈は、衝動的に自分の髪を切った。瑠奈は里奈と同じ髪型だった。理由があったとすれば、それだけだろう。散髪用でもない、工作に使ったりするようなただのハサミで、ろくに鏡も見ずに乱雑に切ったため、目も当てられないようなありさまになった。ひどいことになっているとは自分でもわかっていたが、ここから何をどうすればいいのかわからず、途方に暮れて泣きじゃくった。
 そんな瑠奈を見つけたのは里奈だった。里奈は驚いた顔をしたが、特に問いただすこともなく、瑠奈の手を引いて洗面所に連れて行った。瑠奈を椅子に座らせ、「動かないでね」とだけ言って、散髪用のハサミを取り出し(瑠奈はそんなものが家にあることも知らなかった)、荒れ地の雑草のように滅茶苦茶になっていた瑠奈の髪を、少しずつ切り揃え、整え始めた。
 しばらくして、「ほら、かわいくなったよ」と里奈が言った。
 鏡の中にはにこにこと微笑む姉の顔があり、その下に落ち着いたショートボブの髪型になった自分の顔があった。
「瑠奈ちゃんは、かわいいよ」

 それからふたりで床に散らばった髪の毛を掃除した。帰ってきた母は瑠奈を見て驚きの声をあげたが、里奈が「私が切ったんだ」と自慢げに胸を張ると、ほっと息をついて優しく瑠奈の頭をなで、「似合ってるじゃない」と言った。
「ごめんなさい」と瑠奈はつぶやいた。
 とぼけたように「なにが?」と言って笑う姉は、やっぱりこの世の誰よりも綺麗だと思った。

 昨年の四月、姉は自殺した。自室で首を吊っているところを、母が発見した。
 母はそのときのことを覚えていない。きっと、認めてしまったら、母自身が生きていけなかったのだろう。彼女の中では、姉はまだ生きている。
「里奈ちゃんはどこに行ったのかしら? 里奈ちゃんはまだかしら?」
 穏やかな声で、穏やかな表情で、この言葉を日に五十回は繰り返す。一昨日も昨日も、今日も明日も明後日も。
 姉を見失ってしまった母の目には、もう何も映ってはいない。瑠奈にとって、彼女はいい母親だった。父にとっても、いい妻だったのだと思う。だけどそれは、姉がいたからこそなのだと、今となってはよくわかる。
 姉は、母にとっての全てだった。宝であり、希望であり、太陽だった。 
 彼女はきっと、永遠に里奈を待ち続けるのだろう。来る日も来る日も、あの日、食べさせることのできなかったシチューを煮込んで、なかなか帰ってこない大切な娘の帰りを待つ。それが、彼女の選んだ人生だ。

 父は、仕事が手につかなくなった。酒に溺れた。暴力を振るうようになった。しだいに帰りが遅くなり、家に帰ってこない日も多くなった。
 それでも、母よりはだいぶマシだと思う。
 別人のようになってしまったが、それでも正気は保っているし、仕事だってしている。もう出世することはないのだろうけど、家族の食いぶちを稼ぎ続けている。外に女でも作ったかな、と考えることもある。そうだったとしても仕方ないな、と瑠奈は思う。むしろそのほうがいいのかもしれない。あの母とずっと一緒にいたら、きっと父も気が狂ってしまうだろうから。

 死亡が確認された姉のことで、気になったことがひとつあった。妊娠していたらしいということだ。
 その話を警察官から聞かされたとき、母はすでにお花畑の住人になっていた。父は大いに困惑し、「心当たりはあるか?」と瑠奈に訊ねた。
 瑠奈は「知らない」と答えた。嘘だ。
 命を絶つ三ヶ月ほど前、姉は「お父さんとお母さんには内緒ね」と前置きをした上で、恋人が出来たと瑠奈に教えてくれた。姉をとられてしまうようで悔しいと思う気持ちはあったが、姉だって女だ、恋のひとつぐらいするだろう。なによりも、その相手について語る姉が、とても幸せそうだったから、それでもいいかなと、瑠奈は自分を納得させた。
 相手は同じクラスの、本田武史というサッカー部の男だったそうだ。

   *

「じゃあ課題は何にしましょうかねー」
 少女は言った。瑠奈の依頼に驚いた様子はない、むしろおもしろがっているようだ。
「課題?」
「うむ、タダでやってもらえると思っちゃいかんよ。なにごとも代償が必要なのさ、わかるかね?」
「それはわかりますけど……何をすれば?」
「それじゃあ、これの落とし主を探して返してくること」
 少女は緑色の鉛筆を瑠奈に手渡した。あまり使い込まれていないのか、新品のように長い。表面に商品名らしき文字列が刻印されている。
「色鉛筆?」
「そう、おととい生徒の誰かがここに忘れていったものだね。今日中……はちょっと厳しいか、明日の夜十二時までにしよう」
 瑠奈は戸惑った。代償と言ったが、生徒の忘れ物を届けることが魔女にとって何の得になるというのか。
「うん、考えてることはだいたいわかるよ。あたしはね、頼みごとをした人が苦労する姿を眺めてニヤニヤするのが大好きなのさ。これに勝る報酬はないね」
「悪趣味」と少し離れたところで人形のようにじっとしていた、ハルとかいう少年が言った。同感だ、と瑠奈は思った。
「あ、ちなみに課題に失敗したらペナルティが瑠奈ちゃんを襲うから、承知しておいてね」
「ペナルティ?」
「うん、うまい話にはリスクがつきもの。これも世の常だね」
「それは、どのような?」
「んー……それは失敗したときのお楽しみってことで。まだ頼みはなかったことにもできるけど、どう? やるかい?」
 瑠奈は考える。人を殺そうとしているのだ、ペナルティというのも相応のものだろう。もしかしたら自分が死ぬことになるのかもしれない。それでも――
「……やります。本田武史を、殺してください」
 瑠奈が答えると、少女は嬉しそうに微笑んだ。
「だいじょうぶ、どうやっても無理な課題なんかは出さないよ。瑠奈ちゃんならできると思ったからこの課題を出してるんだよ。がんばれ」
 瑠奈はうなずいて渡された色鉛筆を握り締め、理科室を出た。

 戸を閉め、ひと呼吸置いてから再びそれを開いてみる。
 部屋の中は、もう百年も人が立ち入っていないかのように、がらんとしていた。少女の姿も少年の姿も、コーヒーの芳香までも、まるで白昼夢でも見ていたかのように、あとかたもなく消えていた。
 しかし右手には色鉛筆が残されていた。あれは夢ではない。そして、夢のように消え去っているからこそ、あの魔女は本物だ。

   *

 色鉛筆の持ち主をどう探せばいいものか、正直なところ全く見当がつかない。一見してどこにでもあるようなふつうの色鉛筆だし、実際のところもそうだろう。
 瑠奈はまず学校からほど近い、いかにも昔ながらという感じの古ぼけた文房具店に入った。特別値段が安くもなく、品ぞろえも決してよくはない、ほとんど片栗高校の生徒しか立ち寄っていないような店だ。もしなんらかの事情で片栗高校がなくなってしまったとしたら、この店も運命を共にするだろう。
 ざっと店内を見回ったあと、瑠奈は店主の老婆に色鉛筆を見せ、「これと同じ商品はありませんか?」と訊いた。リリアよりもよほど魔女らしい風貌の老婆は、たっぷり十五分ほどかけて店内を探し回ったあげく、「ない」と答えた。
 それから瑠奈は駅に隣接したショッピングセンターに文房具のテナントがあったことを思い出し、そこに向かった。ここでは店員を呼ぶまでもなく、あっさりと落とし物と同じ商品を見つけることができた。十二色セット、八六四円。だけど、それがどうしたというのだろう? 仮に落とし主がここで色鉛筆を購入していたとして、それが何の手掛かりになるのだろう?
 どうやら根本的に間違えている。やみくもに動き回っても、たどり着けるとは思えない。

 家に帰った瑠奈はインターネットで商品名を検索し、文房具店めぐりが完全な時間の無駄だったことを知った。こんなもの、今の世の中ではネットショッピングでどこからでも買えるのだ。
 財布を落としたのなら騒ぎ立てもしようが、たかが色鉛筆一本を落とした程度で周囲に言って回るとも思えない。片栗高校の生徒なんて六百人以上もいる。その中からたったひとりをみつけるなんて、本当に可能なのだろうか。
 いらだっているせいか、壁の向こうから響く掃除機の音が、やけに耳障りに感じた。
 瑠奈は姉の部屋に入って、掃除を続ける母を適当な言葉をかけて追い出し、姉の使っていた椅子に腰を下ろした。この部屋は姉の生前から変わらない。ベッドも机も本棚も、主がいなくなったことに気付いていないように、いつまでもずっとここにある。母みたいに。
 ふと思い立って、机の引き出しを開けてみる。ペンや手帳といった文房具類が几帳面にしまわれていた。そして、本当に憎らしいぐらいどこにでもある、くだんの色鉛筆のセットまでそこにあった。ふたを開ければ当然、それは一本も欠けてはいなかった。

   *

「瑠奈、いいかげん起きなよ」
 顔を上げ、薄く目を開くと、あきれたような様子の圭子が視界に映った。
「ん……圭子、おはよう」
「おはようじゃないでしょ、もうお昼だよ」
 瑠奈は体を起こし、辺りを見回した。隣席の川崎愛を含む、クラスメイトのおよそ半数が教室から姿を消しており、残る半数がいくつかのグループになってそれぞれの昼食を広げていた。
 昨夜は色鉛筆の落とし主を探す方法を考えていたせいでほとんど眠れなかった。どうやら午前の授業のどこかで力尽きてしまったらしい。
 瑠奈の前の席の男子生徒は、昼休みの間は教室に戻ってこない。圭子はその椅子を後ろ向きにして座り、先ほどまで瑠奈が突っ伏していた机に、かわいらしい弁当箱を置いた。彼女は瑠奈と同じく登校途中のコンビニで昼食を買ってくる一派だったはずだが、最近料理に目覚めたそうで、ときどき手作りの弁当を持ってくる。
「愛は?」
「今日は食堂だって」
 瑠奈は菓子パンとペットボトルのお茶をカバンから取り出した。昼休みのうちに職員室に行くつもりだったが、急いで食べてからでもいいだろう。

「圭子、理科室の魔女って知ってる?」
「こないだ愛が言ってたやつ?」
「聞いてたんだ」
「教室中に聞こえてたよ」
 それはそうだろう。もっとも、愛の与太話に真剣に耳を傾けるような人間がいまだにこのクラスにいるとは思えないし、仮に真に受けたとしても、誰でもあの部屋に入れるわけではない。リリアの言によれば、条件は『強い願いをもっていること』になるのか。
「圭子は、魔女に会いたいって思う?」
「いや別に。これといって願い事もないし」
「……そう?」
 瑠奈は机の下にちらりと目を向けた。
「私ね、走るの嫌いだったんだよ」
 視線に気付いたのか、圭子がつぶやいた。
「中学のとき、たまたま足が速かっただけで陸上部に誘われて、大会に出たら優勝しちゃって、なんだかわからないうちに期待されるようになっちゃってね。期待って嫌なものだよ、重苦しい。あんまりこういうこと言っていい立場じゃないんだけど、今は走れなくなってよかったって思ってる」
 その表情に嘘や強がりの色は見当たらなかった。なるほど、才能ある人間が、必ずしもそれを求めているとは限らないだろう。もし自分がボブスレーの天才だったとしても、ちっとも嬉しくはない。
「それに、そのおかげで瑠奈と仲良くなれたからね」

   *

 県内でも有数の進学校に通っているという自負のためか、この学校の生徒は学力の優れない生徒をことさら見下す傾向がある。その対象となっているのが瑠奈であり、圭子だった。

 瑠奈は合格が決まったその日からきっぱりと勉強をやめた。瑠奈にとって勉学とは本田武史と同じ学校に入るための手段でしかなく、それが達せられた今となっては何の価値も見出せないものだった。入学してからは授業も適当に聞き流すばかりで、ろくにノートもとっていない。
 授業で教師に指名されたときは、いつも堂々と「わかりません」と答えた。教室のあちこちから失笑が漏れ、教師が静かにするようにといさめる。それから次に指された生徒が自信満々に答えを口にするまでがお決まりの流れとなっていたが、特に恥ずかしいと思うことはなかった。単純に、興味がなかった。

 圭子はスポーツ特待生だ。部活動での活躍を期待されて筆記試験を免除されていたため、元々この学校の授業レベルに見合うだけの学力はもっていない。圭子だけに限らず、学年ごとに数人ずつ存在する特待生はたいていそんなもので(たまに文武両道とかいう意味のわからない人種もいるが)、授業中は体力の回復のために居眠りをしているのが当たり前の光景となっており、教師もそれを黙認していた。
 とはいえ、学力を至上とするここの生徒でも、勉強とは別の面で才能を発揮している特待生には多少なりとも敬意を持っているらしく、少なくとも表立って馬鹿にするようなことはなかった。そんな中、唯一の例外となったのが圭子だ。怪我で陸上部を退部した彼女は、連中の目には『もはや何のとりえもない』と映るらしい。
「部活もできなくなったなら退学にするべきじゃない? 試験も受けてないんだから」
 たとえば、そんな陰口を耳にすることがあった。
 瑠奈は不思議に思った。特待生がケガをした。部活を続けられなくなり、退部した。それが、他の生徒に何の関係があるのだろう? いったい、どんな不利益が発生するというのだろう?
 もしかしたら、頭がよければわかるのかもしれない。だったら、わからなくてもいいな、と思った。馬鹿でよかった。

 以前の圭子は他の特待生同様、『授業は休養』といったふうに舟をこいだり、教科書の偉人たちに現代的なコーディネートを施したりしていたものだが、陸上部を退部してサッカー部のマネージャーに就いてからは、うってかわって真面目に授業を受けるようになった。
 しかし、それまでスポーツ一辺倒で生きてきた人間が急に勉学の道を志したところで、ついていけるはずもない。圭子は休み時間も教科書に向き合い、必死に頭をひねっていた。クラスメイトに教えを請うことまでした。だけど周りからは、「小学生でもわかるような問題さえわからない」などと、つまらない冗談の種にされるばかりで、まるで相手にされていなかった。
 見かねた瑠奈が「私でよければ、教えようか?」と声をかけた。圭子は、少し戸惑っていたと思う。
「……いいの?」と圭子が遠慮がちに言い、「いいよ」と瑠奈は答えた。
 この組み合わせはおそらく、他人を貶めることに生きがいを見出している連中に格好のネタを与えることになる。圭子の「いいの?」はそういう意味だろう。返事の「いいよ」は、「どうでもいいよ」の意味だ。
 瑠奈は人間関係の構築には関心がなかった。そういうのはもう要らない。
 むしろ心配があったとすれば、「私に教えられるだろうか?」というところだった。自分だって充分に劣等生なのだ、どちらかと言えば教えられる側の人間だ。
 結果としては、それは杞憂きゆうだった。中学三年生の一年間、猛勉強していた甲斐もあってか、圭子がつまずいているところはまだ瑠奈にもわかる範囲だった。「小学生でも」は言い過ぎにしても、中学生の時点では理解しておかなければならないところではあった。
「馬鹿同士でつるんでるよ」
 案の定、そんな声が耳に届く。
 声のした方向に目を向けると、クラスメイトの数人が集まってクスクスと笑っていた。その中の誰が言ったのかはわからなかった。
「あんたらとつるめなくて嬉しいよ」
 瑠奈はぼそりとつぶやいた。
 ノートに向かっていた圭子がペンを止めて、ぷっと吹き出した。彼女の笑った顔を見たのは、それが初めてだった気がする。
 話をするようになったのは、たしかそんな縁だ。

   *

 瑠奈はパンの最後のひとかけらをお茶で流し込み、「ちょっと出てくるね」と言って腰を上げた。まだ弁当の三分の一ほどを残している圭子が小さくうなずく。たぶんトイレだと思ったのだろう。

 瑠奈は職員室に入り、担任の化学教師のもとに向かった。
「鮎川先生」
 自席で店屋物らしい天丼を咀嚼そしゃくしている教師に声をかける。
「ん? 葉山、どうした?」
「今週の月曜日に、理科室で授業があったクラスってわかりますか?」
 今日は木曜日だ。昨日リリアは『おととい生徒の誰かが忘れていった』と言っていた。つまり落とし主は月曜日に理科室にいたことになる。生徒であるなら、理由は授業以外にないだろう。
「そりゃあ、調べりゃわかるけど……メシの途中なんだ、後でいいか?」
「今すぐで。急ぐんです」
「わかったわかった、ちょっと待ってろ」
 鮎川先生は席を立ち、壁際の棚に置かれていたファイルを持って戻ってきた。
「月曜日は……一時間目は使ってなくて、二時間目に2-A、三時間目に3-D、四時間目も使ってない、五時間目が1-C、六時間目が3-Cだな」
 鮎川先生がファイルを眺めながら言い、瑠奈はそれをメモにとった。
「そんなこと聞いてどうするんだ?」
「落し物を届けるんです」
「なんだ、それなら先生が預かるぞ」
「結構です」
 職員室を出ると同時に授業開始五分前の予鈴が鳴り、瑠奈は自分の教室に戻った。
 四クラスまでは絞りこめた。だが、まだ百人以上だ。ここからどうするか。
 色鉛筆、ノートを取るのに複数の色を使っているとすれば女子の可能性が高いだろうか。いや、ゴツい顔をして意外にカラフルなノートを取る男だっていないこともない。無闇に限定してしまうのは危険だろう。
 考えているうちに、本日最後の授業が終わるチャイムが鳴り響いた。
「瑠奈、なにやってんのさ、授業中ずっと先生ににらまれてたよ」
 隣席の愛が言う。だが今はそれどころではない。タイムリミットまでは、もう十時間を切っている。
「何それ、色鉛筆? それどうしたの?」
「理科室で拾ったの」
「へー、理科室……そういえば、あのときもみんな色鉛筆でなんか描いてたなぁ」
「あのときって?」
「昨日言ったじゃん? 魔女様に会いに行ったときだよ。あれは大恥かいたね、あはは」
「愛、それって何日の話?」
「んーと、三日前だったかな。月曜日だよ」

 瑠奈は落ち着かない気分でショートホームルームが終わるのを待ち、解散の号令がかかるとともに教師に詰め寄った。
「鮎川先生」
「またお前か。今度はなんだ?」
「月曜日に理科室で3-Cの授業をやっていた先生は誰ですか?」
「ん、三年生は、たしか岩崎先生が担当だな」
 知らない名前だった。まあ、それはいい。
「どこのクラスです?」
「たしか今年は担任は持っていない」
 それだけ聞けば充分だ。三日前、月曜日は一年生の授業は五時間目までしかなかった。愛が理科室に乱入したのはそのあとで、3-Cが授業をやっていた六時間目になる。

 瑠奈は職員室に足を踏み入れ、「岩崎先生はいますか」と大声で言った。教師たちの視線がひとりの初老の男性に集中する。あの人か。
「はじめまして葉山瑠奈です。月曜日の六時間目にどんな授業やりましたか?」
「唐突だな君は。月曜日? ゾウリムシの顕微鏡観察だが、それがどうかしたかね?」
 当たりだ、と思った。色鉛筆はゾウリムシのスケッチに使ったものだろう。ただし、三年生はもうひとクラスある。
「三時間目の3-Dも、同じですか?」
「いや、そっちは硝酸カリウムの再結晶を」
 聞き終わらないうちに、瑠奈は職員室を飛び出した。
 途中ですれ違った鮎川先生がなにか言っていた。どうせ廊下を走るなとかそんなところだろう。当然耳を貸すはずもなく、階段を二段飛ばしで駆け上る。三年生の教室は三階だ。
 奇異の視線を浴びながら廊下を走り抜け、瑠奈は息を切らせて3-Cの教室に飛び込んだ。無人だった。
「葉山、今日は三年も五時間目までだよ。お前たちと同じ」
 追いかけてきた鮎川先生が言った。
 瑠奈はしばらくその場に立ち尽くしたあと、ふらふらと部屋を出た。鮎川先生から何か声を掛けられたような気がするけど、頭には入らなかった。

 日々の習慣というのはしっかりと体に染みついているものらしい。あてもなく、足の向くままに歩みを進めていると、気付けば自宅に到着していた。シチューの香りが漂うリビングを通り過ぎ、階段を上って自室に入る。それからカバンを放り捨て、制服のままベッドに横たわった。
 無人の教室を見て、気付いてしまった。魔女は夜の十二時までと言っていたが、実質的にこれは放課後までがタイムリミットだ。落とし主がわかったところで、他クラスの、それも三年生の住所なんて、知っているわけがない。
 多くの失敗をしたと思う。色鉛筆の購入先なんて調べる必要はなかった。当日に授業を受けていたクラスを、さっさと絞るべきだった。どのクラスか、落としたのは誰かまで突き止める必要はない、四クラスを片っ端から訪ねて回って、「色鉛筆を落とした人はいませんか」と大きな声で叫ぶべきだった。
 だけど、そんなことは今だからわかることだ。手遅れになった今だから。

 気付けば、外が暗くなっていた。どうやら眠っていたらしい。時計に目を向けると、十一時を指していた。あと一時間で刻限の十二時を迎える。
 ペナルティとはどんなものだろう? たしかリリアは具体的な内容は口にしていない。
 ……どうなるんだろう。私は、死ぬのかな?

『自分がヤサにしてる学校の生徒のことぐらい何でも知ってるよ』

『今日中……はちょっと厳しいか、明日の夜十二時までにしよう』

『あたしはね、頼みごとをした人が苦労する姿を眺めてニヤニヤするのが大好きなのさ』

『瑠奈ちゃんならできると思ったから、この課題を出してるんだよ』

 瑠奈は身を起こした。リリアの言葉の中に、なにか、ひっかかるものがあった。
 あの口ぶりは、もしも最短の手順をとったなら、その日のうちにだって達成できるかのように聞こえる。昨日のうちに。あのとき、すでに放課後だったのに? 
 まさか、と思いながら、瑠奈は床に放り出していたカバンから携帯電話を取り出した。
《もしもし》
 十三回ほどコールしたあと、寝ぼけたような友人の声が届く。
「圭子、寝てた?」
《寝てた。こんな時間に何?》
「起こしちゃってごめん。本田武史のクラスってわかる?」
《……本田先輩? 三年C組だよ、なんで?》
 ――三年C組。
「ありがとう。ちなみに、住所は知ってる?」
《そんなの知ってるわけないでしょ。私が知りたいぐらいよ》
「うん、わかった。こんな時間にごめんね」
 瑠奈は電話を切った。
 ようやく理解した。リリアは、生徒のことは何でも知っていると言った。それは、私の交友関係も、圭子がサッカー部のマネージャーをやっていることも、そしておそらく、姉と本田武史の関係も知っていた。
 私ならできる。それは、落とし主は私にたどり着くことのできる人物ということ。あの意地の悪い魔女は、よりにもよって、この私に、本田武史の落し物を届けろと言っているのだ。

 あと必要な情報は、本田武史がどこにいるのか、それだけだ。サッカー部は明日も朝練があるから、この時間まで帰っていないとは考え難い。家にいるだろう。
 圭子も住所までは知らなかった。だけど私には知ることができる。私はきっと、すでにそれを見ている。
 瑠奈は姉の部屋に入り、机の引き出しを開けた。きちんと整頓された文房具類、色鉛筆のセット、そして姉の使っていた手帳が顔をのぞかせた。
 パラパラとページをめくり、後ろの方にあるアドレス欄を開く。本田武史……あった、隣町だ。時計に目を向けて、瑠奈は舌打ちをした。十時十分、この時計は止まっているのだ。
 手帳をもって自室に戻る。時刻は十一時三十分に差し掛かろうというところだった。瑠奈はカバンに手帳と携帯電話を突っ込み、階段を駆け降りた。
「瑠奈ちゃん? なにをしてるの?」
 靴を履いているところに、母が声をかけてきた。
「ちょっと出かけてくる」
「……ちゃんと、帰ってきてくれる?」
 おかしなことを言うな、と思った。ふりかえると、母は不安そうに目を細めて、胸の前で手を組んでいた。そういえば、母から名前を呼ばれるなんて、ずいぶんと久しぶりな気がする。
「うん、私は帰ってくるから、だいじょうぶ」

 電車では間に合わない、タクシーを使うことにした。この時間なら電話で呼ぶより大通りで流しのタクシーを拾った方が早いだろうか、と考えていたところに、狙ったようにタクシーが通りがかった。しかし、どうやら客が乗っている。
 車は家の前で止まり。後部座席のドアから父が出てきた。酒が入っているらしく顔が赤かったが、そこまで酔っぱらってはいないようだ。
 ドアが閉まり、車が走り出そうとする。瑠奈はあわてて進行方向をさえぎり、「乗ります」と叫んだ。
「瑠奈?」と父が言った。「こんな時間に、どこに行くんだ?」
 まさか男を殺しに行くなんて答えるわけにもいかない。ほとんど反射的に、「電池を買いに」という言葉が口をついた。なんで電池なんだろう、もっとマシな言い訳はいくらでもあるだろうに。
「電池?」父が不思議そうに繰り返した。
「そう、時計の電池を買いに行くの」
 父はじっと瑠奈を見つめたあと、「気をつけろよ」と言った。
 瑠奈はうなずき、車に乗り込んだ。行先の住所を運転手に伝え、車が走り出す。
 父と会話なんてものをしたのも、相当に久しぶりだった。変な日だ。

   *

 その一帯は、こぎれいな戸建ての家が立ち並んでいた。人生で一定以上の成功をおさめた者とその家族のみに住むことを許された住宅街だ。かすかに響く虫の声まで、どこか品がいいように聞こえる。
 辺りの家をめぐり、携帯電話の明かりで表札を照らす。五件目で『本田』を発見した。
 瑠奈はチャイムを鳴らした。動悸が高まるのを感じる。応答がなかったらどうしよう、窓でも割ってやろうか、と考えた。しかしその必要はなく、ほどなくしてドアは開かれた。
「はい、どちらさま?」と、半開きのドアを押さえながら、本田武史が言った。
 互いの距離は一メートルもない。遠くから眺めていたことは数知れないが、ここまで間近で彼の姿を見たのは初めてだった。スポーツで鍛えられた引き締まった体に、目鼻立ちの整った顔が乗っている。少し、父に似ているかもしれない。
「緑の色鉛筆をなくしませんでしたか?」と瑠奈は言った。声は、自分でも驚くくらい平静だった。
「なくしたけど……なんで」
「届けにきました」
 瑠奈は色鉛筆を差し出した。本田武史が当惑の色を見せつつ、それを受け取った瞬間、指先がかすかにその手に触れた。あたたかい手だ、と思った。
 魔女、リリアに感謝する。今この場に、私を立たせてくれたことを感謝する。
 以前、父から姉の妊娠について心当たりはあるかと問われたとき、瑠奈は知らないと答えた。もしもあのとき、姉との約束を破って、父に本田武史の存在を伝えていたら、父はきっと、この男を殺したのだと思う。
 なぜ嘘をついたのか。
 それは、姉のことが大好きだったから。
 その役目を父に譲りたくなかったから。
 この男を、私の手で、殺したかったからだ。
「それじゃ、失礼しました」
 瑠奈は踵を返し、携帯電話で時間を確認した。二十三時五十八分。達成だ。
「……里奈?」
 後方からつぶやくような声が届く。
 思わず吹き出しそうになった。こいつまで何を言い出すのだろう、うちの母じゃあるまいし。
 ――ああ、そうか。
 姉の死後、前髪を自分で切り揃えるぐらいで、ろくに散髪をしていない。伸びた髪は、ちょうど生前の姉と同じくらいの長さになっていた。着ている服も、同じ片栗高校の制服だ。それに、声だけは昔から、似てるって言われてたっけ。
 瑠奈はふりかえり、立ちすくむ本田武史に向けてほほ笑んだ。
「私の名前は葉山瑠奈。葉山里奈の、妹です」

   *

 家に帰ると、リビングで父がシチューを食べていた。母の姿は見当たらない、もう眠っているのだろう。
「ただいま」と瑠奈は言い、「おかえり」と父が言った。
 父はスプーンを持つ手を止めて、じっと瑠奈を見つめていた。夜中に外を出歩く娘に、小言を言うべきか迷っているのかもしれない。
「母さん、心配してたぞ」
「私を?」
「当たり前だろう、もう瑠奈しかいないんだから」
 そう言って、父は弱々しい笑みを浮かべた。
「電池は買えたのか?」
「買えたよ」
 瑠奈はカバンから乾電池を取り出し、父に見せつけた。帰ってくる途中で、コンビニに寄って買ってきたものだ。
「時計ってのは、里奈の部屋の?」
「うん、いつまでも止まったままじゃ、かわいそうだから」
 父は、よくわからないというふうに肩をすくめた。
「シチュー、瑠奈も食べるか? よそってこようか?」
 急に父性にでも目覚めたみたいにかまってくる父が、なんだかおかしかった。
「ううん、いらない」
 夕飯は食べそこねていたが、空腹は感じなかった。今はなんとなくそれよりも、コーヒーが飲みたいな、と思った。

   *

 翌日、学校で臨時の朝礼が開かれ、昨夜、三年生の本田武史が死亡したと伝えられた。
 校長が退屈極まりないお悔やみの言葉を唱え、全校生徒で黙祷をささげた。死因については学校側から語られることはなかったが、どこにでもいる耳の早い連中によって、一部の生徒の間ではすでに「自宅で首を吊ったらしい」という話が広まっていた。

 放課後の教室で、瑠奈は窓枠に身を預け、グラウンドを見下ろしていた。その視線の先には、サッカー部の男たちが元気にボールを蹴りあっている姿がある。ただし、そこに本田武史はいない。
 この二ヶ月、ずっとその姿を見てきた。刃物をその心臓に突き立てる夢想を、何度も思い描いてきた。
 だが、実行に移すことはなかった。瑠奈は、本田武史のために自分の残りの生涯を棒に振るつもりなんてなかった。むしろ逆だ。
 姉の死は、私から全てを奪った。
 止まっていた時計の針を動かすように、あの男を殺したときに、再び私の人生が始まるのだと、そう思ったから。
 瑠奈は笑った。
 初めは小さく、やがてこらえきれなくなって、校舎中に響き渡るほどの大声で。
 呼吸が苦しくて涙があふれ、声を聞きつけてきた教師たちに取り押さえられても、その笑い声は止むことはなかった。 

   *

「あーあ、瑠奈ちゃん楽しそうだなぁ」
 アルコールランプの炎を見つめながら、リリアは退屈そうにつぶやいた。
「こーゆーのは、惜しいところまで行って、ギリギリ達成できないってのがお約束だというのに、十五歳の小娘にはわからんか……」
 青い炎に炙られるフラスコに温度計を差し込む。八十七度、適温だ。
「失敗させたいんだったら、邪魔すればよかったじゃない。リリアならできたでしょう」
 そう言いながら、ハルはコーヒーの粉をセットしたドリッパーをリリアに手渡した。
「なに言ってんの、それじゃあ意味がないんだよ。イカサマなしの真剣勝負で、一生懸命がんばって、それなのにあとちょっと、ほんのわずかのところで届かないってのが最高なんじゃない。わかる?」
「悪趣味」
 リリアは受け取ったドリッパーをビーカーに乗せ、フラスコのお湯をゆっくりと、円を描くようにして注いだ。たちまち立ち昇る芳しい香りを楽しんでいると、ふいに入り口の戸が開け放たれた。
「おっと、お客さんか。どうぞ、入ってきなよ」
 そう言って、入り口に目を向ける。
 おやおや、また女の子か。最近大繁盛だなぁ、とリリアは思った。
 入り口では、女子生徒が驚いたような顔で立ちすくんでいた。しかし彼女はすぐに表情を引き締め、リリアとハルに交互に目をやったあと、少しだけ足をひきずりながら、リリアのもとに歩み寄った。
「葉山瑠奈を、殺してください」
 リリアを見下ろすようにして、栗色のショートヘアーの女子生徒は言った。
「まあまあ、そう慌てないで。えーと、あなたは鈴木圭子ちゃんだね。ひとまずコーヒーをどうぞ。お砂糖かミルクは入れるかな?」

 <了>
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