至宝のいつわり 《伊賀病葉血風録》

麦畑 錬

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妻の名

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 甲賀衆が寿女を迎えにやってきたのは、昨晩である。

 清貞が叔父に呼び出され、屋敷を開けてからほどなくして、勝手口が開けられた。

 清貞が戻ったのかと思い、壁伝いに見に行くと、見知った甲賀衆が屋敷になだれ込んできた。

『寿女さま、ご無事で』

 父の忠臣でもある甲賀衆が寿女を取り囲み、やがて、父の伊十郎が屋敷へ入ってきた。 

 再会して早々、寿女は父に張り倒された。

『伊賀者なぞと戯れおって。そなた、よもや体まで許してはおるまいな』

 小川でのやりとりは、甲賀衆にも見られていたらしい。

 寿女はうつむきながら、うなづいた。

 娘が夜伽から逃げぬよう、足の腱をも切れる父なら、心配なぞするまいと予想はできていた。

 甲賀衆はといえば、寿女を見ぬよう視線を逸らしていた。甲賀の忍びたちは、寿女を姫のごとく大切に扱うが、父の命令には逆らわぬ。

『そなたには辻家の跡継ぎを産んだ母となり、辻領の母となる責務があるのだ。甲賀に戻る支度を整えよ』

 伊十郎は寿女に身支度をさせつつ、

『武器、防具となるものはすべて盗め』

 甲賀衆へ命じた。

 そして、甲賀衆は屋敷じゅうを漁り、ついに床下から清貞が準備していた武具を見つけ出した。

 武具が盗み出されるのを目の当たりにした寿女は、咄嗟に、持ち出させてはならぬと判断した。清貞が叔父から開放されるため、丁寧に手入れをしていたものだと、 覚えていたためだ。

『お待ちください、それは、待って』

 次々と武具を発見する甲賀衆に寄りかかり、抵抗したが、

『お許しください、寿女さま』

 形ばかりの詫びを入れるばかりだった。

 そこからの寿女には記憶がない。なにか薬を吸わせたのであろう布で鼻と口を塞がれ、起きた頃には見知らぬ場所にいた。

 清貞の屋敷に似ている。

「ここは、どこで」

 寿女のとなりで見守っていた甲賀忍びが、

「病葉家の本家でございます。今日には山を越えますゆえ、寿女さまはお休みなさいませ」

「病葉家の」

 清貞のことを思わずにはいられなかった。

 寿女が急に姿を消して、怒っているかもしれない。だが、それ以上に、悲しんでいるかもしれない。

(私を信じてくれていたのに)

 結果的に、寿女が清貞から逃げたようになってしまった。

 その誤解がどれだけ、清貞を傷つけるだろうと思うと、寿女なはやるせない。

「お願いです。一度でいいから、私をあの屋敷へお戻しください」

 甲賀忍びに面と向かって要求すると、忍びのほうは目を泳がせた。

「なりませぬ。あなた様の帰る場所は甲賀であって……」

「必ず戻ります。せめてお別れのひとつでも申し上げねば」 
 
 誠意ゆえの行動だったが、欲もあった。

 清貞には事情を説明して理解してもらいたい。寿女も、どうせ甲賀へ戻されるなら、最後に清貞の顔を見て別れを言いたかった。

 甲賀忍びは肩をすくませながら、

「……今は、行かないほうがよろしいかと……」

 おずおずとして、言葉を絶った。

 慎んだ物言いが、かえって寿女に厭な予感を感じ取らせる。

「貸して」

 忍びから刀を奪い取ると、それを杖にして部屋を飛び出した。

 襖を開け放つと縁側へ出られ、そこから外の様子が見えた。砦の跡地を背景に、屋敷の外では伊賀者たちが群がっている。 

 急ぎ足で駆けつけた。

 伊賀者たちが呑気に天へ掲げた槍の穂先から、赤黒い水が伝っている。狂宴的な殺気が満ちる、円陣の中央には、黒い羽織を来た男が倒れ込んでいる。
 
 清貞であった。

 黒い羽織と思われていたのは、ふだん着ている白の羽織が、血を吸ってできたものだ。

 清貞を見下ろす男の手には、抜き放った刀が引っ下げられていた。

「おやめなさいッ!」

 絶叫し、寿女が転がるように縁側を降りた。地面を這いずり、清貞の上へ覆い被さる。

 顔は髪に隠れていたため、炎症を起こしていないが、首筋は素肌が赤みを帯び始めていた。

 だが、素肌の赤みすら白く見えるほど、清貞は出血している。体の至る所に刺傷や刀傷があり、顔は口の端が惨たらしく裂けている。

 言うまでもなく、虫の息であった。

「っ……」

 足の腱を切られた寿女には、刃物の傷がどれほどの痛みを与えるか想像できる。

 地獄のごとき苦しみであるはずだ。

 しかも、周りの伊賀者たちには傷がほとんどなく、にもかかわらず、彼らの持つ槍には血が付着している。

 清貞を囲み、多勢で嬲ったのだと理解できた。それも、清貞に不利な太陽の下で、ろくな武具も持たぬ状態で、弄ぶように傷つけたのだ。

 甲賀忍びに、清貞の屋敷から武具を盗ませたのは、このためだったのだろう。

「……あなたたちに、人の心はないのですか」

 伊賀者たちの輪の中にいる男を睨みつけ、

「どうしてこんな酷いことを!」

 強い声で非難した。

 嫌でも涙が出た。泣いたところで、この者どもを喜ばせるだけだと知りつつも、怒るほどに涙が溢れた。

「本間の姫君か」

 寿女の魂の叫びなど歯牙にもかけず、男がほくそ笑んだ。

「恩知らずな甥を、ちと懲らしめておったところよ。長らく分家の庇護下にいながら、大恩ある分家に牙をむいたのでな」

 清貞の言っていた分家の叔父とは、この男のことらしい。

「なんだ、本間の甲賀衆めは、おぬしに事情を話しておらなんだのか」

「清貞さまの武具を持ち出させたのも、あなただったのですね」

 清貞に太陽が当たらぬよう、腰を曲げて庇いながら、寿女は唸った。

「この方ひとりでは、多勢に勝てぬと分かっていたはず。それなのに、武具まで奪うなんて」

「そう泣かぬでくれ。俺とて胸が痛かった。たった一人の可愛い甥を殺すなぞ」

 男は心にもない大袈裟な演技などしてみせ、

「だが、姫君がそこまで惚れていたとは知らなんだ。清貞は上品な顔立ちをしとるからな。伊賀衆の中へ飛び込んでこられた勇気に免じて、話を聞いてやらんでもない」

 歩み寄ると、寿女の顎をねっとりと持ち上げた。

「女には女の立ち回り方があるものよ。のう、そなたにはもう慣れたことだ」

 黒黒としたものが渦をまく男の瞳を、寿女は最大の軽蔑をもって睨み返す。

「触るな!下郎!」

 父の声が屋敷から飛んでくる。

 立て続けに甲賀衆が伊賀衆を押しのけ、護るように寿女を囲む。

「それは辻家のご嫡男を育てる女ぞ。売女ならそのあたりで買うて参れ」

 伊十郎の罵倒とともに、寿女の顎に添えられていた手を、甲賀忍びが叩き落とす。

 その時、寿女は膝の上で清貞の首が動くのを感じた。髪を掻き分けてやると、漆を塗ったような黒目がこちらを見あげてきた。

「……さ……」

 かすれた声で寿女を呼ぶ。 

 死にかけの身でありながら、清貞ら穏やかに目尻を垂れていた。

「寿女、早う来い」

 伊十郎が寿女の腕を掴むや、清貞の肩を蹴って娘の膝から落とした。

「お父さまっ」

 怒号を放った娘を引きずりながら、伊十郎はもう片腕を甲賀忍びに掴ませ連行する。

「お離し下さい」

 乞うたが、当然、伊十郎は振り向きもしない。

「離せ!」

 あらん限りの声で叫び、寿女は身を捩って暴れた。

「おのれも持て」

 伊十郎に命ぜられた忍びが、寿女の腰帯を掴む。なすすべもなくなり、とうとう寿女の声も弱った。

「お願い、お願いだから、その人を殺さないで……」

 泣くしかできない自分が情けない。

 足が動けば、自分が男であればと、考えずにはいられなかった。

 伊賀衆からの嘲笑の視線が、連れ去られる寿女の背中に突き刺さる。

 寿女はそのまま屋敷の蔵へ放り込まれると、外から施錠された。ふだん武具を押し込めているのであろう蔵には、血の腐った臭いが立ち込めていた。

「恥をかかせおって。一晩はそこで頭を冷やせ」

 父の吐き捨てる声が、蔵の外から聞こえてくる。

 すすり泣く寿女の耳には、遠ざかる父の足音と、

「申し訳ございません、寿女さま」

 謝罪する甲賀忍びの声が聞こえた。

 伊十郎派の甲賀忍びたちは、いつだってこの台詞である。申し訳ない、などと詫びながら、常に父の言うまま寿女を傷つけてきた。

『信じます。あなたは私に、まだ一度も嘘を……』

 清貞の言葉が蘇る。

 伊賀者でありながら、清貞も寿女に嘘はついていない。口で冷たく突き放していても、不満そうな顔をしながら、助けてくれた。

 寿女は唐突に、泣くのをやめる。

 涙が引っ込むとはこのことで、寿女は泣き濡れた目を伏し目がちにし、やがて、眉根をぎりりと引き絞った。

「なにが、申し訳ございません、よ」

 立膝をつくと、蔵の奥を漁る。

 忍びの術も叩き込まれていない女は、泣くばかりの無力な生き物だと、父は侮っていたのだろう。

(清貞さまが死ぬのであれば、他の者も道連れに死ぬ)

 殺せないとしても、この力の限り、奪えるものをすべて奪ってやろうと思った。

「寿女さま……?」

 ぴたりと泣き止んだ寿女を案じた甲賀忍びが、蔵の戸を薄く開けて覗き込む。

 覗き込み、息を飲んだ。

 薄暗い蔵のなかが、あまりにも鮮明に見えすぎる。寿女が武具に被せていたムシロに火をつけ、床の上に炎を広げているのである。

「なんということを」

 呟いた甲賀忍びに、寿女は振り返った。

 冷徹な無表情である。砂埃まみれの袖口から伸びた手には、先端になにかを巻き付けた薪を持っている。

 寿女の髪は肩の上で断たれ、切られた髪が薪の先に絡みついていた。

 髪から着火させた薪を片手に、

「戸を開けなさい」

 と、命じた。

「私を出さなければ、ここで焙烙玉に火をつけますよ」

 凄んでみせたところへ、伊十郎が駆けつけてきた。

「なにをしておる」

 父の声を聴き、寿女は懐にひとつ入れた焙烙玉を抱えながら、開けられた勝手口より姿を現した。

 伊賀にはかつてより、ヨモギから硝石(硝酸カリウム)すなわち、火薬の原料を生成する技術がある。それを知っている伊十郎は、背筋が粟立った。

 娘の手にある焙烙玉がすべてのはずがない。火を放った蔵の中には、まだ大量の焙烙玉が眠っているはずである。

「焙烙玉は蔵の床下にございました。引火まで時間はかかるでしょうが、弾ければ蔵が吹き飛ぶかと」

「お前、自分が何をしたのか分かっておるのか」

 咎める父を前に、寿女は乾いた笑いをこぼした。

「お前、そなた、それ、あれ、これ……お父さまは、私の名前すらお忘れになったのでございますね」

 松明を伝ってきた炎が、寿女の肌を炙る。火傷による痛みで全身から汗が吹き出した。

 ところが、寿女は松明を手放さず、蔵の壁に背を預けながら焙烙玉に火をつけた。

「私は清貞さまの妻、寿女でございます」

 着火した焙烙玉を、すぐ隣にある本家屋敷へと投げ込んだ。

「伏せろ!」

 甲賀忍びの声をかき消すように、焙烙玉が爆発した。

 当時の焙烙玉に、令和現在の爆弾ほどの火力はないと言われている。だが、木造建築のうえ茅葺き屋根の屋敷は、わずかな炎でも致命的になりえた。

「火を消すのだ、早うッ……」

 伊十郎が叫びかけたところで、蔵の内側から爆発音が立つ。時を待たずして、木の蔵が炎とともに弾け飛ぶ。

 爆風に吹き飛ばされ、地面に転がった寿女をよそに、伊十郎は娘を諦めた。

 このような女を連れ帰れば、辻家の跡継ぎどころではなくなる。甲賀衆が本家屋敷の消火のために井戸を探しているなか、伊十郎はひとり敗走した。

 ところが、二度目の爆発の刹那、四散した武具の欠片が伊十郎の足に直撃した。

 足を失い、断末魔を上げる父の姿を見届けると、寿女はひとり地を這っていった。

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