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妻の名
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◇
甲賀衆が寿女を迎えにやってきたのは、昨晩である。
清貞が叔父に呼び出され、屋敷を開けてからほどなくして、勝手口が開けられた。
清貞が戻ったのかと思い、壁伝いに見に行くと、見知った甲賀衆が屋敷になだれ込んできた。
『寿女さま、ご無事で』
父の忠臣でもある甲賀衆が寿女を取り囲み、やがて、父の伊十郎が屋敷へ入ってきた。
再会して早々、寿女は父に張り倒された。
『伊賀者なぞと戯れおって。そなた、よもや体まで許してはおるまいな』
小川でのやりとりは、甲賀衆にも見られていたらしい。
寿女はうつむきながら、うなづいた。
娘が夜伽から逃げぬよう、足の腱をも切れる父なら、心配なぞするまいと予想はできていた。
甲賀衆はといえば、寿女を見ぬよう視線を逸らしていた。甲賀の忍びたちは、寿女を姫のごとく大切に扱うが、父の命令には逆らわぬ。
『そなたには辻家の跡継ぎを産んだ母となり、辻領の母となる責務があるのだ。甲賀に戻る支度を整えよ』
伊十郎は寿女に身支度をさせつつ、
『武器、防具となるものはすべて盗め』
甲賀衆へ命じた。
そして、甲賀衆は屋敷じゅうを漁り、ついに床下から清貞が準備していた武具を見つけ出した。
武具が盗み出されるのを目の当たりにした寿女は、咄嗟に、持ち出させてはならぬと判断した。清貞が叔父から開放されるため、丁寧に手入れをしていたものだと、 覚えていたためだ。
『お待ちください、それは、待って』
次々と武具を発見する甲賀衆に寄りかかり、抵抗したが、
『お許しください、寿女さま』
形ばかりの詫びを入れるばかりだった。
そこからの寿女には記憶がない。なにか薬を吸わせたのであろう布で鼻と口を塞がれ、起きた頃には見知らぬ場所にいた。
清貞の屋敷に似ている。
「ここは、どこで」
寿女のとなりで見守っていた甲賀忍びが、
「病葉家の本家でございます。今日には山を越えますゆえ、寿女さまはお休みなさいませ」
「病葉家の」
清貞のことを思わずにはいられなかった。
寿女が急に姿を消して、怒っているかもしれない。だが、それ以上に、悲しんでいるかもしれない。
(私を信じてくれていたのに)
結果的に、寿女が清貞から逃げたようになってしまった。
その誤解がどれだけ、清貞を傷つけるだろうと思うと、寿女なはやるせない。
「お願いです。一度でいいから、私をあの屋敷へお戻しください」
甲賀忍びに面と向かって要求すると、忍びのほうは目を泳がせた。
「なりませぬ。あなた様の帰る場所は甲賀であって……」
「必ず戻ります。せめてお別れのひとつでも申し上げねば」
誠意ゆえの行動だったが、欲もあった。
清貞には事情を説明して理解してもらいたい。寿女も、どうせ甲賀へ戻されるなら、最後に清貞の顔を見て別れを言いたかった。
甲賀忍びは肩をすくませながら、
「……今は、行かないほうがよろしいかと……」
おずおずとして、言葉を絶った。
慎んだ物言いが、かえって寿女に厭な予感を感じ取らせる。
「貸して」
忍びから刀を奪い取ると、それを杖にして部屋を飛び出した。
襖を開け放つと縁側へ出られ、そこから外の様子が見えた。砦の跡地を背景に、屋敷の外では伊賀者たちが群がっている。
急ぎ足で駆けつけた。
伊賀者たちが呑気に天へ掲げた槍の穂先から、赤黒い水が伝っている。狂宴的な殺気が満ちる、円陣の中央には、黒い羽織を来た男が倒れ込んでいる。
清貞であった。
黒い羽織と思われていたのは、ふだん着ている白の羽織が、血を吸ってできたものだ。
清貞を見下ろす男の手には、抜き放った刀が引っ下げられていた。
「おやめなさいッ!」
絶叫し、寿女が転がるように縁側を降りた。地面を這いずり、清貞の上へ覆い被さる。
顔は髪に隠れていたため、炎症を起こしていないが、首筋は素肌が赤みを帯び始めていた。
だが、素肌の赤みすら白く見えるほど、清貞は出血している。体の至る所に刺傷や刀傷があり、顔は口の端が惨たらしく裂けている。
言うまでもなく、虫の息であった。
「っ……」
足の腱を切られた寿女には、刃物の傷がどれほどの痛みを与えるか想像できる。
地獄のごとき苦しみであるはずだ。
しかも、周りの伊賀者たちには傷がほとんどなく、にもかかわらず、彼らの持つ槍には血が付着している。
清貞を囲み、多勢で嬲ったのだと理解できた。それも、清貞に不利な太陽の下で、ろくな武具も持たぬ状態で、弄ぶように傷つけたのだ。
甲賀忍びに、清貞の屋敷から武具を盗ませたのは、このためだったのだろう。
「……あなたたちに、人の心はないのですか」
伊賀者たちの輪の中にいる男を睨みつけ、
「どうしてこんな酷いことを!」
強い声で非難した。
嫌でも涙が出た。泣いたところで、この者どもを喜ばせるだけだと知りつつも、怒るほどに涙が溢れた。
「本間の姫君か」
寿女の魂の叫びなど歯牙にもかけず、男がほくそ笑んだ。
「恩知らずな甥を、ちと懲らしめておったところよ。長らく分家の庇護下にいながら、大恩ある分家に牙をむいたのでな」
清貞の言っていた分家の叔父とは、この男のことらしい。
「なんだ、本間の甲賀衆めは、おぬしに事情を話しておらなんだのか」
「清貞さまの武具を持ち出させたのも、あなただったのですね」
清貞に太陽が当たらぬよう、腰を曲げて庇いながら、寿女は唸った。
「この方ひとりでは、多勢に勝てぬと分かっていたはず。それなのに、武具まで奪うなんて」
「そう泣かぬでくれ。俺とて胸が痛かった。たった一人の可愛い甥を殺すなぞ」
男は心にもない大袈裟な演技などしてみせ、
「だが、姫君がそこまで惚れていたとは知らなんだ。清貞は上品な顔立ちをしとるからな。伊賀衆の中へ飛び込んでこられた勇気に免じて、話を聞いてやらんでもない」
歩み寄ると、寿女の顎をねっとりと持ち上げた。
「女には女の立ち回り方があるものよ。のう、そなたにはもう慣れたことだ」
黒黒としたものが渦をまく男の瞳を、寿女は最大の軽蔑をもって睨み返す。
「触るな!下郎!」
父の声が屋敷から飛んでくる。
立て続けに甲賀衆が伊賀衆を押しのけ、護るように寿女を囲む。
「それは辻家のご嫡男を育てる女ぞ。売女ならそのあたりで買うて参れ」
伊十郎の罵倒とともに、寿女の顎に添えられていた手を、甲賀忍びが叩き落とす。
その時、寿女は膝の上で清貞の首が動くのを感じた。髪を掻き分けてやると、漆を塗ったような黒目がこちらを見あげてきた。
「……さ……」
かすれた声で寿女を呼ぶ。
死にかけの身でありながら、清貞ら穏やかに目尻を垂れていた。
「寿女、早う来い」
伊十郎が寿女の腕を掴むや、清貞の肩を蹴って娘の膝から落とした。
「お父さまっ」
怒号を放った娘を引きずりながら、伊十郎はもう片腕を甲賀忍びに掴ませ連行する。
「お離し下さい」
乞うたが、当然、伊十郎は振り向きもしない。
「離せ!」
あらん限りの声で叫び、寿女は身を捩って暴れた。
「おのれも持て」
伊十郎に命ぜられた忍びが、寿女の腰帯を掴む。なすすべもなくなり、とうとう寿女の声も弱った。
「お願い、お願いだから、その人を殺さないで……」
泣くしかできない自分が情けない。
足が動けば、自分が男であればと、考えずにはいられなかった。
伊賀衆からの嘲笑の視線が、連れ去られる寿女の背中に突き刺さる。
寿女はそのまま屋敷の蔵へ放り込まれると、外から施錠された。ふだん武具を押し込めているのであろう蔵には、血の腐った臭いが立ち込めていた。
「恥をかかせおって。一晩はそこで頭を冷やせ」
父の吐き捨てる声が、蔵の外から聞こえてくる。
すすり泣く寿女の耳には、遠ざかる父の足音と、
「申し訳ございません、寿女さま」
謝罪する甲賀忍びの声が聞こえた。
伊十郎派の甲賀忍びたちは、いつだってこの台詞である。申し訳ない、などと詫びながら、常に父の言うまま寿女を傷つけてきた。
『信じます。あなたは私に、まだ一度も嘘を……』
清貞の言葉が蘇る。
伊賀者でありながら、清貞も寿女に嘘はついていない。口で冷たく突き放していても、不満そうな顔をしながら、助けてくれた。
寿女は唐突に、泣くのをやめる。
涙が引っ込むとはこのことで、寿女は泣き濡れた目を伏し目がちにし、やがて、眉根をぎりりと引き絞った。
「なにが、申し訳ございません、よ」
立膝をつくと、蔵の奥を漁る。
忍びの術も叩き込まれていない女は、泣くばかりの無力な生き物だと、父は侮っていたのだろう。
(清貞さまが死ぬのであれば、他の者も道連れに死ぬ)
殺せないとしても、この力の限り、奪えるものをすべて奪ってやろうと思った。
「寿女さま……?」
ぴたりと泣き止んだ寿女を案じた甲賀忍びが、蔵の戸を薄く開けて覗き込む。
覗き込み、息を飲んだ。
薄暗い蔵のなかが、あまりにも鮮明に見えすぎる。寿女が武具に被せていたムシロに火をつけ、床の上に炎を広げているのである。
「なんということを」
呟いた甲賀忍びに、寿女は振り返った。
冷徹な無表情である。砂埃まみれの袖口から伸びた手には、先端になにかを巻き付けた薪を持っている。
寿女の髪は肩の上で断たれ、切られた髪が薪の先に絡みついていた。
髪から着火させた薪を片手に、
「戸を開けなさい」
と、命じた。
「私を出さなければ、ここで焙烙玉に火をつけますよ」
凄んでみせたところへ、伊十郎が駆けつけてきた。
「なにをしておる」
父の声を聴き、寿女は懐にひとつ入れた焙烙玉を抱えながら、開けられた勝手口より姿を現した。
伊賀にはかつてより、ヨモギから硝石(硝酸カリウム)すなわち、火薬の原料を生成する技術がある。それを知っている伊十郎は、背筋が粟立った。
娘の手にある焙烙玉がすべてのはずがない。火を放った蔵の中には、まだ大量の焙烙玉が眠っているはずである。
「焙烙玉は蔵の床下にございました。引火まで時間はかかるでしょうが、弾ければ蔵が吹き飛ぶかと」
「お前、自分が何をしたのか分かっておるのか」
咎める父を前に、寿女は乾いた笑いをこぼした。
「お前、そなた、それ、あれ、これ……お父さまは、私の名前すらお忘れになったのでございますね」
松明を伝ってきた炎が、寿女の肌を炙る。火傷による痛みで全身から汗が吹き出した。
ところが、寿女は松明を手放さず、蔵の壁に背を預けながら焙烙玉に火をつけた。
「私は清貞さまの妻、寿女でございます」
着火した焙烙玉を、すぐ隣にある本家屋敷へと投げ込んだ。
「伏せろ!」
甲賀忍びの声をかき消すように、焙烙玉が爆発した。
当時の焙烙玉に、令和現在の爆弾ほどの火力はないと言われている。だが、木造建築のうえ茅葺き屋根の屋敷は、わずかな炎でも致命的になりえた。
「火を消すのだ、早うッ……」
伊十郎が叫びかけたところで、蔵の内側から爆発音が立つ。時を待たずして、木の蔵が炎とともに弾け飛ぶ。
爆風に吹き飛ばされ、地面に転がった寿女をよそに、伊十郎は娘を諦めた。
このような女を連れ帰れば、辻家の跡継ぎどころではなくなる。甲賀衆が本家屋敷の消火のために井戸を探しているなか、伊十郎はひとり敗走した。
ところが、二度目の爆発の刹那、四散した武具の欠片が伊十郎の足に直撃した。
足を失い、断末魔を上げる父の姿を見届けると、寿女はひとり地を這っていった。
◇
甲賀衆が寿女を迎えにやってきたのは、昨晩である。
清貞が叔父に呼び出され、屋敷を開けてからほどなくして、勝手口が開けられた。
清貞が戻ったのかと思い、壁伝いに見に行くと、見知った甲賀衆が屋敷になだれ込んできた。
『寿女さま、ご無事で』
父の忠臣でもある甲賀衆が寿女を取り囲み、やがて、父の伊十郎が屋敷へ入ってきた。
再会して早々、寿女は父に張り倒された。
『伊賀者なぞと戯れおって。そなた、よもや体まで許してはおるまいな』
小川でのやりとりは、甲賀衆にも見られていたらしい。
寿女はうつむきながら、うなづいた。
娘が夜伽から逃げぬよう、足の腱をも切れる父なら、心配なぞするまいと予想はできていた。
甲賀衆はといえば、寿女を見ぬよう視線を逸らしていた。甲賀の忍びたちは、寿女を姫のごとく大切に扱うが、父の命令には逆らわぬ。
『そなたには辻家の跡継ぎを産んだ母となり、辻領の母となる責務があるのだ。甲賀に戻る支度を整えよ』
伊十郎は寿女に身支度をさせつつ、
『武器、防具となるものはすべて盗め』
甲賀衆へ命じた。
そして、甲賀衆は屋敷じゅうを漁り、ついに床下から清貞が準備していた武具を見つけ出した。
武具が盗み出されるのを目の当たりにした寿女は、咄嗟に、持ち出させてはならぬと判断した。清貞が叔父から開放されるため、丁寧に手入れをしていたものだと、 覚えていたためだ。
『お待ちください、それは、待って』
次々と武具を発見する甲賀衆に寄りかかり、抵抗したが、
『お許しください、寿女さま』
形ばかりの詫びを入れるばかりだった。
そこからの寿女には記憶がない。なにか薬を吸わせたのであろう布で鼻と口を塞がれ、起きた頃には見知らぬ場所にいた。
清貞の屋敷に似ている。
「ここは、どこで」
寿女のとなりで見守っていた甲賀忍びが、
「病葉家の本家でございます。今日には山を越えますゆえ、寿女さまはお休みなさいませ」
「病葉家の」
清貞のことを思わずにはいられなかった。
寿女が急に姿を消して、怒っているかもしれない。だが、それ以上に、悲しんでいるかもしれない。
(私を信じてくれていたのに)
結果的に、寿女が清貞から逃げたようになってしまった。
その誤解がどれだけ、清貞を傷つけるだろうと思うと、寿女なはやるせない。
「お願いです。一度でいいから、私をあの屋敷へお戻しください」
甲賀忍びに面と向かって要求すると、忍びのほうは目を泳がせた。
「なりませぬ。あなた様の帰る場所は甲賀であって……」
「必ず戻ります。せめてお別れのひとつでも申し上げねば」
誠意ゆえの行動だったが、欲もあった。
清貞には事情を説明して理解してもらいたい。寿女も、どうせ甲賀へ戻されるなら、最後に清貞の顔を見て別れを言いたかった。
甲賀忍びは肩をすくませながら、
「……今は、行かないほうがよろしいかと……」
おずおずとして、言葉を絶った。
慎んだ物言いが、かえって寿女に厭な予感を感じ取らせる。
「貸して」
忍びから刀を奪い取ると、それを杖にして部屋を飛び出した。
襖を開け放つと縁側へ出られ、そこから外の様子が見えた。砦の跡地を背景に、屋敷の外では伊賀者たちが群がっている。
急ぎ足で駆けつけた。
伊賀者たちが呑気に天へ掲げた槍の穂先から、赤黒い水が伝っている。狂宴的な殺気が満ちる、円陣の中央には、黒い羽織を来た男が倒れ込んでいる。
清貞であった。
黒い羽織と思われていたのは、ふだん着ている白の羽織が、血を吸ってできたものだ。
清貞を見下ろす男の手には、抜き放った刀が引っ下げられていた。
「おやめなさいッ!」
絶叫し、寿女が転がるように縁側を降りた。地面を這いずり、清貞の上へ覆い被さる。
顔は髪に隠れていたため、炎症を起こしていないが、首筋は素肌が赤みを帯び始めていた。
だが、素肌の赤みすら白く見えるほど、清貞は出血している。体の至る所に刺傷や刀傷があり、顔は口の端が惨たらしく裂けている。
言うまでもなく、虫の息であった。
「っ……」
足の腱を切られた寿女には、刃物の傷がどれほどの痛みを与えるか想像できる。
地獄のごとき苦しみであるはずだ。
しかも、周りの伊賀者たちには傷がほとんどなく、にもかかわらず、彼らの持つ槍には血が付着している。
清貞を囲み、多勢で嬲ったのだと理解できた。それも、清貞に不利な太陽の下で、ろくな武具も持たぬ状態で、弄ぶように傷つけたのだ。
甲賀忍びに、清貞の屋敷から武具を盗ませたのは、このためだったのだろう。
「……あなたたちに、人の心はないのですか」
伊賀者たちの輪の中にいる男を睨みつけ、
「どうしてこんな酷いことを!」
強い声で非難した。
嫌でも涙が出た。泣いたところで、この者どもを喜ばせるだけだと知りつつも、怒るほどに涙が溢れた。
「本間の姫君か」
寿女の魂の叫びなど歯牙にもかけず、男がほくそ笑んだ。
「恩知らずな甥を、ちと懲らしめておったところよ。長らく分家の庇護下にいながら、大恩ある分家に牙をむいたのでな」
清貞の言っていた分家の叔父とは、この男のことらしい。
「なんだ、本間の甲賀衆めは、おぬしに事情を話しておらなんだのか」
「清貞さまの武具を持ち出させたのも、あなただったのですね」
清貞に太陽が当たらぬよう、腰を曲げて庇いながら、寿女は唸った。
「この方ひとりでは、多勢に勝てぬと分かっていたはず。それなのに、武具まで奪うなんて」
「そう泣かぬでくれ。俺とて胸が痛かった。たった一人の可愛い甥を殺すなぞ」
男は心にもない大袈裟な演技などしてみせ、
「だが、姫君がそこまで惚れていたとは知らなんだ。清貞は上品な顔立ちをしとるからな。伊賀衆の中へ飛び込んでこられた勇気に免じて、話を聞いてやらんでもない」
歩み寄ると、寿女の顎をねっとりと持ち上げた。
「女には女の立ち回り方があるものよ。のう、そなたにはもう慣れたことだ」
黒黒としたものが渦をまく男の瞳を、寿女は最大の軽蔑をもって睨み返す。
「触るな!下郎!」
父の声が屋敷から飛んでくる。
立て続けに甲賀衆が伊賀衆を押しのけ、護るように寿女を囲む。
「それは辻家のご嫡男を育てる女ぞ。売女ならそのあたりで買うて参れ」
伊十郎の罵倒とともに、寿女の顎に添えられていた手を、甲賀忍びが叩き落とす。
その時、寿女は膝の上で清貞の首が動くのを感じた。髪を掻き分けてやると、漆を塗ったような黒目がこちらを見あげてきた。
「……さ……」
かすれた声で寿女を呼ぶ。
死にかけの身でありながら、清貞ら穏やかに目尻を垂れていた。
「寿女、早う来い」
伊十郎が寿女の腕を掴むや、清貞の肩を蹴って娘の膝から落とした。
「お父さまっ」
怒号を放った娘を引きずりながら、伊十郎はもう片腕を甲賀忍びに掴ませ連行する。
「お離し下さい」
乞うたが、当然、伊十郎は振り向きもしない。
「離せ!」
あらん限りの声で叫び、寿女は身を捩って暴れた。
「おのれも持て」
伊十郎に命ぜられた忍びが、寿女の腰帯を掴む。なすすべもなくなり、とうとう寿女の声も弱った。
「お願い、お願いだから、その人を殺さないで……」
泣くしかできない自分が情けない。
足が動けば、自分が男であればと、考えずにはいられなかった。
伊賀衆からの嘲笑の視線が、連れ去られる寿女の背中に突き刺さる。
寿女はそのまま屋敷の蔵へ放り込まれると、外から施錠された。ふだん武具を押し込めているのであろう蔵には、血の腐った臭いが立ち込めていた。
「恥をかかせおって。一晩はそこで頭を冷やせ」
父の吐き捨てる声が、蔵の外から聞こえてくる。
すすり泣く寿女の耳には、遠ざかる父の足音と、
「申し訳ございません、寿女さま」
謝罪する甲賀忍びの声が聞こえた。
伊十郎派の甲賀忍びたちは、いつだってこの台詞である。申し訳ない、などと詫びながら、常に父の言うまま寿女を傷つけてきた。
『信じます。あなたは私に、まだ一度も嘘を……』
清貞の言葉が蘇る。
伊賀者でありながら、清貞も寿女に嘘はついていない。口で冷たく突き放していても、不満そうな顔をしながら、助けてくれた。
寿女は唐突に、泣くのをやめる。
涙が引っ込むとはこのことで、寿女は泣き濡れた目を伏し目がちにし、やがて、眉根をぎりりと引き絞った。
「なにが、申し訳ございません、よ」
立膝をつくと、蔵の奥を漁る。
忍びの術も叩き込まれていない女は、泣くばかりの無力な生き物だと、父は侮っていたのだろう。
(清貞さまが死ぬのであれば、他の者も道連れに死ぬ)
殺せないとしても、この力の限り、奪えるものをすべて奪ってやろうと思った。
「寿女さま……?」
ぴたりと泣き止んだ寿女を案じた甲賀忍びが、蔵の戸を薄く開けて覗き込む。
覗き込み、息を飲んだ。
薄暗い蔵のなかが、あまりにも鮮明に見えすぎる。寿女が武具に被せていたムシロに火をつけ、床の上に炎を広げているのである。
「なんということを」
呟いた甲賀忍びに、寿女は振り返った。
冷徹な無表情である。砂埃まみれの袖口から伸びた手には、先端になにかを巻き付けた薪を持っている。
寿女の髪は肩の上で断たれ、切られた髪が薪の先に絡みついていた。
髪から着火させた薪を片手に、
「戸を開けなさい」
と、命じた。
「私を出さなければ、ここで焙烙玉に火をつけますよ」
凄んでみせたところへ、伊十郎が駆けつけてきた。
「なにをしておる」
父の声を聴き、寿女は懐にひとつ入れた焙烙玉を抱えながら、開けられた勝手口より姿を現した。
伊賀にはかつてより、ヨモギから硝石(硝酸カリウム)すなわち、火薬の原料を生成する技術がある。それを知っている伊十郎は、背筋が粟立った。
娘の手にある焙烙玉がすべてのはずがない。火を放った蔵の中には、まだ大量の焙烙玉が眠っているはずである。
「焙烙玉は蔵の床下にございました。引火まで時間はかかるでしょうが、弾ければ蔵が吹き飛ぶかと」
「お前、自分が何をしたのか分かっておるのか」
咎める父を前に、寿女は乾いた笑いをこぼした。
「お前、そなた、それ、あれ、これ……お父さまは、私の名前すらお忘れになったのでございますね」
松明を伝ってきた炎が、寿女の肌を炙る。火傷による痛みで全身から汗が吹き出した。
ところが、寿女は松明を手放さず、蔵の壁に背を預けながら焙烙玉に火をつけた。
「私は清貞さまの妻、寿女でございます」
着火した焙烙玉を、すぐ隣にある本家屋敷へと投げ込んだ。
「伏せろ!」
甲賀忍びの声をかき消すように、焙烙玉が爆発した。
当時の焙烙玉に、令和現在の爆弾ほどの火力はないと言われている。だが、木造建築のうえ茅葺き屋根の屋敷は、わずかな炎でも致命的になりえた。
「火を消すのだ、早うッ……」
伊十郎が叫びかけたところで、蔵の内側から爆発音が立つ。時を待たずして、木の蔵が炎とともに弾け飛ぶ。
爆風に吹き飛ばされ、地面に転がった寿女をよそに、伊十郎は娘を諦めた。
このような女を連れ帰れば、辻家の跡継ぎどころではなくなる。甲賀衆が本家屋敷の消火のために井戸を探しているなか、伊十郎はひとり敗走した。
ところが、二度目の爆発の刹那、四散した武具の欠片が伊十郎の足に直撃した。
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