かくまい重蔵 《第1巻》

麦畑 錬

文字の大きさ
40 / 58

(28)かくまい人の崩落

しおりを挟む

 ◇

 視界が薄く白んできた。

 底冷えする寒さに目を覚ますと、掛布団がわりの羽織がめくれていた。

(寒いわけだ)

 急いで羽織をひったくろうとした瞬間、かじかむ指の間から手紙が落ちた。

 枕元に置いていたものを、寝ぼけて手に取ったのだろう。

 山際から出てきた朝日が江戸を覗き込むと、朱い陽光が寝間へ差し込んでくる。

 西日をしのぐ強烈な日光に目を突かれ、重蔵は部屋の奥へと首を回した。

 奥側に寝ていたはずの勝之進はおらず、布団と寝間着だけが端正に折り畳まれている。

 重蔵はようやく、勝之進が明け方に出て行ったのを思い出した。

 夢現に、お花になにかを言われた気がしたが、おそらくは勝之進であろうと思った。

(とうとう行ってしまった)

 勝之進はいまごろ、仇討試合のために延命寺へと急いでいるのだろう。

――お花を信じてやってほしい。

 屋敷を去る直前、勝之進がそのような旨のことを、迷する重蔵に訴えていた。

(せめて、中身を見るくらいは、してやるべきではないか)

 この手で守れなかった勝之進への、せめてもの手向けとして、重蔵はほんの少しだけ勇気を振り絞った。

 こわごわと包み紙を破くと、震える指先で手紙を取り出した。

 手紙の冒頭には、丸みのある筆跡で《囲重蔵さま》と綴ってある。

『どんな重さんも、可愛くて好きよ』

 重蔵がかつて送った文の返事であろうか、なにかへ応えるような文面から始まっていた。

 紙面へ綴られた文字がお花の声を受肉して、耳孔の奥へと流れ込んでくる。

 手紙を読み終えたところで、重蔵の手が力なく床へ落ちた。

 持ち上げるにも、腕に力が入らなかった。

 文字のひとつひとつを頭に入れるうちに、重蔵も自分が綴った文の内容を思い出してきた。

 自分は女人を外へ連れるのが初めてで、下手な付き添い方をしてお花を幻滅させるかも、などと、悲観めいた一文を書いた。

 それに対するお花の手紙に、悪口など一言も書いてはいない。

『迎えに行くから待っていてね、あたしの可愛い人』

 きっと、麻疹にかかる以前に書いたものなのだろう。

 文面はそこで終わっている。

 いつも通りの短い手紙だが、綴られた字の向こう側には、文机に姿勢よく座りながら、優雅に筆を滑らせるお花が想起された。

《あたしの可愛い人》

 お花が好んで、重蔵に使った言葉だ。

 人前では弱みを見せまいと努めている重蔵だが、その実、お花に甘やかされると、自分でも驚くほどに幼稚で情けない本性が出てしまう。

 だが、そんな重蔵を見ても、お花は幻滅するどころか、嬉しそうな顔すら浮かべてくれた。

(花ちゃんはいつだって、私には優しかったではないか)

 重蔵は己を深く恥じた。

 人を殺したことさえ笑って許してくれるほど、お花は重蔵の汚点を受け入れてくれる。

 それを悲観にくれるあまり、忘れていた。

 再び手紙へ目を通すと、お花が重蔵を抱き寄せた感覚が、ありありと蘇ってくる。

 蘇っては、お花がもうこの世にないことを実感させた。

 すると、重蔵が失意の底にいるところへ、何者かが家の戸を叩いた。

(客人か、それとも駆け込みか)

 助けを求める者が駆け込んできたのならば、重蔵は家業として匿わなくてはならない。

「待たれよ」

 無理に背を伸ばし、武士らしく顔貌を引き締めて勝手口へ急いだ。

 玄関先で待っていたのは、失踪したはずの熊沢左近である。

 顔に包帯を巻いていたせいで、左近だと認識するのに時を要した。

「熊……」

「おい、重の字よ。勝之進はどうした」

 左近の問いかけが、重蔵の傷口に塩を塗る。

 仇討試合のことを、左近はまだ聞かされていない。

「勝之進どのは」

 重蔵が事情を説明しようと息を吸った利那、

「おめぇ、大丈夫か」

 左近が狼狽えた声で訊いた。

 虚を突かれて顔を上げると、いつも飄々と笑みを湛えている左近の面に、露骨な懸念の色が表れていた。

「だい、じょ……」

 たったひと言返すのに、声が震えた。

 きゅっと唇を結んだが、目頭はみるみるうちに熱くなってゆく。

 初対面の人間が来たのだと身構えていただけに、重蔵は見知った顔を前にして、不意に気が緩んだ。

「ずっ」

 顔だけは厳めしく取り繕ったものの、鼻を啜った拍子に涙がこぼれた。

 いちど涙が伝うと、もう目の力では抑えきれなくなった。

 重蔵はその場にしゃがみ込むと、静かに泣いた。

 熱い雫が肌を伝っていくと、濡れた頬が冷たく薄れた。

 めっきり、武士として、男として弱くなったのを痛感しながら、重蔵はお花の前でしか見せなかった有様を晒した。

「……なんだか知らんが、辛いことを話させたな。気が済んでからでいいから、俺に話しておくれ」

 左近は優しく伝えると、重蔵を屋敷の中へと導いた。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末

松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰 第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。 本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。 2025年11月28書籍刊行。 なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。 酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】 文化文政の江戸・深川。 人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。 暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。 家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、 「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。 常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!? 変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。 鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋…… その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。 涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。 これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜

上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■ おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。 母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。 今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。 そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。 母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。 とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください! ※フィクションです。 ※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。 皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです! 今後も精進してまいります!

花嫁

一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。

処理中です...