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カルテ1.ファーストセッション
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幼い頃に一度だけ、インコが風切羽を切られているのを見た。
その音を覚えている。
シャキン、シャキン、と。やたらと耳に残った。
羽を切られたインコは丸い黒目を見開いたまま、人間の手の中で為す術もなくじっとしていた。
きっとわたしも、あの時にはもう既に、自分の風切羽は切られていたんだろう。
─────────────────
閑静なマンションの高層階にある一室。公にはその詳細が伏せられ、ホームページもなければSNSのアカウントも存在しない。夫のマコトに手を引かれ訪問すると、出迎えてくださったのは、小柄で穏やかな女性だった。
「ようこそおいで下さいました」
心療内科の医者によくいる、カルテに記入する『だけ』の機械的なやり取りをこなす人物像を想像して、もしまた症状が出たらとふるえていたわたしは、まるで幼な子を愛しく抱擁するようなその一声に、初対面にも関わらず、不思議にも無防備になって心底安堵した。
「はじめまして、ナツキさん、マコトさん。シカタ先生から全て伺っています。三室陽子です」
陽子先生の笑顔はまさに自分が思い描いてきた理想の母親像そのもので、今思うと、きっとこの瞬間から既に、わたしの中にあるどうしようもない虚無感の一角に、先生はすっかり入り込んでいた。
玄関は掃除が行き届きとても清潔感があって、照明の光がなんとも心地よい。まるで春の木漏れ日みたいだった。対して、わたしの身なりはなんとも無様で、マコトが言うには風呂はもうかれこれ五日は入れておらず、夏場であることも重なって少し汗の匂いがしみていた。まだ三十二にも関わらず髪にハリもなく酷くパサついて傷み、もちろん化粧など出来ずすっぴんで、服も下着も何日も前から同じものを着ていた。
自分のことなのに、わたしはどこか他人事のようにそれを聞きつつも、陽子先生に案内されたリビングのテーブルにつくや、「そんなわたしがこんなに綺麗なおうちにいていいのだろうか」と少しそわついた。
「ここのところ、一ヶ月前からだったか、鬱とPTSDの症状が酷くて、夜間にもよくうなされて。寝ながら泣いているんです」
招かれたリビングはやはり清潔感があり、室内の隅の本棚にびっしり並べられた心理の専門書の多さと、テレビ等の生活品の物のなさを除けば、ショールームの様な綺麗なご自宅に見受け、ここがカウンセリングルームだなんてとても思えない。
・・・本当に、先生のおうちなんだ。
わたしの左隣に座ったマコトの言葉はなんだかこの場に相応しく感じず、夢心地に感じる。
「シカタ先生から処方された薬も最初は良かったんですが、今はもうあまり効いてないようで」
シカタ先生と言うのはわたしの主治医で、わたしが初めて信頼できた心療内科医だ。もうかれこれ二年お世話になっているのか。先生のもとを初めて訪れた時、青ざめて、全身硬直し、だらだらと涙があふれて止まらなかったのを覚えている。
気さくな男性医師で、わたしの症状がきつい時の方がテンションが上がるタイプというか、とにかく嬉しそうに診察してくれる。そこを隠すことなく、それでいてまるで子供にカブト虫のかっこよさを解説してくれる虫博士のような陽気さで接してくださり、なんだか面白いので、わたしはシカタ先生が好きだった。
「最近だと、ミエスギルことも増えているようで、怯えたりもあって。僕はナツキの見ているものが見えないので、そういう時はどうサポートしてあげたらいいのかわからなくて」
陽子先生はこの時点ではメモは取らず、じっくりとマコトの言葉に聞き入っていた。
「PTSDも合わさると、一度症状が出ると回復までに一週間ほどかかり、食事もいやがるし、とても人並みの生活がままならないんです」
いつの間にか視線が膝に落ちていたわたしの背中をさするマコトは、おそらく陽子先生とわたしを見比べながら話しているのだろう。わたしはなんとなくそっと下唇を噛んだ。するとそれに合わせたかのように陽子先生から出た言葉は明るい声音で、意外なものだった。
「お菓子、召し上がってね!」
「あ・・・え、と」
目を丸くしたマコトの横顔をぼんやりと見やった。
「あ、はい。あの、ありがとうございます」
「私も頂きますね!まずは!飲み物も飲んでゆったりやりましょう」
そう言って、陽子先生は笑顔でクッキーを一つ頬張った。同じものがわたしとマコトの前にも用意されている。ひと口サイズのクッキーとチョコレートとアイスティーとたっぷりのミルク。話のネタがPTSDの内容でなければ、まるで親しい家族とのお茶会のような雰囲気に、強ばっていたマコトの手のひらは、拍子抜けして力がストンと抜けている。
促されれるまま、クッキーに手を伸ばしたマコトに続いて、わたしもアイスティーにミルクを注いだ。たっぷりと。
「ナツキさん、安心してくださいね。マコトさんもね。ここにはナツキさんを苦しめる人はいません。もし現れても、ここはカウンセリングルームでもありますが、同時にわたしの家でもあります!わたしがそんな人の訪問は許しません!えいえいって、やっつけちゃいますからね!だから安心して、まずはお菓子、召し上がってください」
ボクサーのパンチの身振りをしながら、まるで世間話のようにお上品にお話になる陽子先生はなんともチャーミングで、わたしもマコトもこの時に同時に緊張の糸が切れ、自然と笑顔になれた。
「ありがとうございます、頂きます」
これが、陽子先生とのファーストセッションとなった。
その音を覚えている。
シャキン、シャキン、と。やたらと耳に残った。
羽を切られたインコは丸い黒目を見開いたまま、人間の手の中で為す術もなくじっとしていた。
きっとわたしも、あの時にはもう既に、自分の風切羽は切られていたんだろう。
─────────────────
閑静なマンションの高層階にある一室。公にはその詳細が伏せられ、ホームページもなければSNSのアカウントも存在しない。夫のマコトに手を引かれ訪問すると、出迎えてくださったのは、小柄で穏やかな女性だった。
「ようこそおいで下さいました」
心療内科の医者によくいる、カルテに記入する『だけ』の機械的なやり取りをこなす人物像を想像して、もしまた症状が出たらとふるえていたわたしは、まるで幼な子を愛しく抱擁するようなその一声に、初対面にも関わらず、不思議にも無防備になって心底安堵した。
「はじめまして、ナツキさん、マコトさん。シカタ先生から全て伺っています。三室陽子です」
陽子先生の笑顔はまさに自分が思い描いてきた理想の母親像そのもので、今思うと、きっとこの瞬間から既に、わたしの中にあるどうしようもない虚無感の一角に、先生はすっかり入り込んでいた。
玄関は掃除が行き届きとても清潔感があって、照明の光がなんとも心地よい。まるで春の木漏れ日みたいだった。対して、わたしの身なりはなんとも無様で、マコトが言うには風呂はもうかれこれ五日は入れておらず、夏場であることも重なって少し汗の匂いがしみていた。まだ三十二にも関わらず髪にハリもなく酷くパサついて傷み、もちろん化粧など出来ずすっぴんで、服も下着も何日も前から同じものを着ていた。
自分のことなのに、わたしはどこか他人事のようにそれを聞きつつも、陽子先生に案内されたリビングのテーブルにつくや、「そんなわたしがこんなに綺麗なおうちにいていいのだろうか」と少しそわついた。
「ここのところ、一ヶ月前からだったか、鬱とPTSDの症状が酷くて、夜間にもよくうなされて。寝ながら泣いているんです」
招かれたリビングはやはり清潔感があり、室内の隅の本棚にびっしり並べられた心理の専門書の多さと、テレビ等の生活品の物のなさを除けば、ショールームの様な綺麗なご自宅に見受け、ここがカウンセリングルームだなんてとても思えない。
・・・本当に、先生のおうちなんだ。
わたしの左隣に座ったマコトの言葉はなんだかこの場に相応しく感じず、夢心地に感じる。
「シカタ先生から処方された薬も最初は良かったんですが、今はもうあまり効いてないようで」
シカタ先生と言うのはわたしの主治医で、わたしが初めて信頼できた心療内科医だ。もうかれこれ二年お世話になっているのか。先生のもとを初めて訪れた時、青ざめて、全身硬直し、だらだらと涙があふれて止まらなかったのを覚えている。
気さくな男性医師で、わたしの症状がきつい時の方がテンションが上がるタイプというか、とにかく嬉しそうに診察してくれる。そこを隠すことなく、それでいてまるで子供にカブト虫のかっこよさを解説してくれる虫博士のような陽気さで接してくださり、なんだか面白いので、わたしはシカタ先生が好きだった。
「最近だと、ミエスギルことも増えているようで、怯えたりもあって。僕はナツキの見ているものが見えないので、そういう時はどうサポートしてあげたらいいのかわからなくて」
陽子先生はこの時点ではメモは取らず、じっくりとマコトの言葉に聞き入っていた。
「PTSDも合わさると、一度症状が出ると回復までに一週間ほどかかり、食事もいやがるし、とても人並みの生活がままならないんです」
いつの間にか視線が膝に落ちていたわたしの背中をさするマコトは、おそらく陽子先生とわたしを見比べながら話しているのだろう。わたしはなんとなくそっと下唇を噛んだ。するとそれに合わせたかのように陽子先生から出た言葉は明るい声音で、意外なものだった。
「お菓子、召し上がってね!」
「あ・・・え、と」
目を丸くしたマコトの横顔をぼんやりと見やった。
「あ、はい。あの、ありがとうございます」
「私も頂きますね!まずは!飲み物も飲んでゆったりやりましょう」
そう言って、陽子先生は笑顔でクッキーを一つ頬張った。同じものがわたしとマコトの前にも用意されている。ひと口サイズのクッキーとチョコレートとアイスティーとたっぷりのミルク。話のネタがPTSDの内容でなければ、まるで親しい家族とのお茶会のような雰囲気に、強ばっていたマコトの手のひらは、拍子抜けして力がストンと抜けている。
促されれるまま、クッキーに手を伸ばしたマコトに続いて、わたしもアイスティーにミルクを注いだ。たっぷりと。
「ナツキさん、安心してくださいね。マコトさんもね。ここにはナツキさんを苦しめる人はいません。もし現れても、ここはカウンセリングルームでもありますが、同時にわたしの家でもあります!わたしがそんな人の訪問は許しません!えいえいって、やっつけちゃいますからね!だから安心して、まずはお菓子、召し上がってください」
ボクサーのパンチの身振りをしながら、まるで世間話のようにお上品にお話になる陽子先生はなんともチャーミングで、わたしもマコトもこの時に同時に緊張の糸が切れ、自然と笑顔になれた。
「ありがとうございます、頂きます」
これが、陽子先生とのファーストセッションとなった。
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