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カルテ2.四度目のセラピー
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階段を降りた先には扉があるらしい。
自分のイメージで脳裏に描けばよいそうだ。木造のロッジを思い浮かべる人もいれば、高級ホテルにある洒落た螺旋階段を思い浮かべる人もいるらしい。イメージはその人の自由でいいらしい。
なのにわたしはどうしても、冷たく狭い階段を思い浮かべてしまった。
─────────────────
陽子先生は、まろやかで優雅な声音でわたしに「軽く目を閉じてくださいね」と言った。
「私がこれからゆっくり十数えます。地下室の階段をゆっくり降りていくイメージをしてください。一段一段、ころばないように、ゆっくり降りてください。ナツキさんいいですか?いきますよ」
「わかりました」
わたしは目を閉じ、ゆっくり呼吸をしながら頭の中に地下室を思い浮かべた。冷たい氷のような石造りで、狭く仄暗いような不気味さがある。せめて足元を照らす光が欲しい。灯りをともそう。火は怖い。階段の端に一段ずつライトをともそう。
イメージを広げるたび、酷く頭痛がした。それがまるで、この記憶をこじ開けないようにと言う忠告のようで、無意識に右目に頼ってしまいそうになる。ダメだ、今はイメージのみだ。陽子先生の言葉を信じなきゃ。
緊張で肩が揺れたらしく、隣に座って支えてくれているマコトが、膝の上でふるえていたらしいわたしの手をぎゅっと握ってくれた。
「ナツキさん、大丈夫ですよ。安心してください」
陽子先生もやわらかな声を添えてくれた。
「その地下室におりても怖いことは何も起こりません。何も、恐ろしい事は繰り返しません。大丈夫よ」
「はい」
目を閉じたまま、声になるかならないかの掠れ漏れた息で返した。怖いことは起こらない。二度と。わかっているんだ。でも反応してしまう、心が。痛みが。
「今、ナツキさんの隣にはマコトさんがいて下さっています。もし地下室に入った時、ナツキさんを傷つけた人・物・対象が出てきたら、マコトさんとわたしでやっつけます。ナツキさんを守ります、必ず。だから安心してください。」
「・・・はい」
無意識に右頬を涙が伝った。
陽子先生には、主治医の紹介で二ヶ月前からお世話になっている。ひと月に二度のペースのトラウマケアのセラピー。今日はちょうど四度目だ。今まで人を疑うことが自然で、『人に心を開く』『自分を許す』というのがどうにも出来ずにいたし、パートナーのマコトにどれだけ「そばについてるよ、愛してるよ、いつもナツキの味方だよ」と言われても、申し訳無いと思いながらも、不明確な心の穴を埋めるには至らなかった。それなのに、陽子先生にはなぜかファーストコンタクトから心を開いてしまった。先生が素晴らしいセラピストだからだろうが、この数回のセラピーの中で、何となく、それだけでは無い気がしてきた。
・・・・もしかしたら、陽子先生も、わたしと似た経験がおありなのかも・・・・
おこがましいけれど、そんな確信があった。きっとそれは、先生の声音にまじった吐息がそう思わせるんだ。
「はじめます。ゆったり呼吸をしてね」
「はい」
「十・・・九・・・・八・・・・」
陽子先生のゆったりとした誘導が始まった。息を整え、頭の中の地下室に続く階段を降りる。
一歩、一歩、一歩、また、一歩。
イメージした足元のライトの光に僅かな癒しを求めながら足を動かす。ああ、壁が冷たい。手すり、手すりが欲しい。いや、でも、大丈夫だ。怖くない。陽子先生もマコトも居てくれてるもの。信じなきゃ。
「三・・・二・・・・一・・・・・」
驚いた。
陽子先生のカウントに合わせて階段をおりきると、そこには本当に扉があった。重々しく、無機質で錆びた匂いがする。冷たい鉄格子の扉だ。もっとあたたかみのある、ドールハウスのような可愛らしい扉がよかったな。
「ナツキさん、ゆっくり呼吸してね」
いつの間にか息が浅くなっていたようだ。
「あ、はい」
「大丈夫よ」
目を閉じたまま、まるで天の声のように響く陽子先生の声を頼りに、目の前の扉に集中する。
ドールハウスのような可愛らしい見た目とは程遠い、なんとも冷ややかな鉄格子の扉は分厚く、取っ手も見るからに重々しい。仕方ない。イメージできないんだ、こればかりは。この扉はわたしの心象の象徴なのだから。
「ナツキさん、中に入れそうですか?」
この扉の中に、わたしはわたしの右目の秘密を忘れてきた。それを取り戻さなきゃいけない。入らなきゃ、いけない。もう、繰り返したくないから。
「・・・・はい」
陽子先生の声と、マコトの手のぬくもりに身を委ね、わたしは扉の取っ手に手をかけた。
「・・・冷た」
取っ手の冷たさは壁の冷たさの比ではなかった。大量の塩をまぶした氷水に手を突っ込んだみたいだ。冷たさが鋭く痛い。
わたし、ほんとに今から、過去と、対峙するんだ・・・
「ナツキさん、大丈夫よ。呼吸をしっかりね」
「は、はい」
深く、ゆっくりと呼吸をととのえ、取っ手をまわした。その重々しい見た目とは裏腹に、ギィと音を立てはしたが、扉は簡単に開いた。
「そこに誰かいますか?」
陽子先生のこの質問が耳に入るより一足先に、扉の中に見えたのは、「うううぁあああ」と低い唸り声を上げ続けこちらを凝視しているヒトガタが崩れたような黒い大きな塊だった。
「ひっ!!あっ・・・いや!なに!?」
黒い塊はズルズルとモヤを引きずって、こちらに向かってきた。
「人?!なに?!だれ?!」
だめだ、右目を使ってはだめだ。理性はわたしにそう言い聞かせるのに、心拍数が異常に上昇し全身の血が下がっていき、右目の瞳孔がぐるると開ききった。
「ナツキ!!ナツキ!!」
遠くでマコトの声がしたけれど、右目に激痛が走ってそれどころでは無い。見える。この黒い塊の過去の映像が、右目にどろどろと流れてくる。熱い、痛い、右目が、爛れて落ちそうだ。
「大丈夫よナツキさん!」
その場で膝から崩れ落ちかけたわたしの体を支えてくれたのは、陽子先生だった。イメージをしていないのに、その場に確かに陽子先生の姿がありありと存在していた。
「わたしが一緒についてますからね!」
陽子先生は先程とからわず、やわらかな口調と笑顔だ。
「せ、先生。あの」
がくがくと勝手に口元がふるえて上手く喋れない。それが余計に心拍数を上げてしまう。陽子先生はわたしの背を撫でた。
「大丈夫ですよナツキさん。ナツキさんあのね、わたし今モコモコでやわらかいスリッパ履いてるでしょう?」
先生に促されるまま、先生の足元のグレーのスリッパに視線を落とした。
「このスリッパで、ナツキさんの足のつま先、かるーく踏みますね。いーい?」
「え?あ、はい」
何が何やらわからないまま、下がり続ける血に意識を奪われそうになりながら、ただ陽子先生の誘導を信じて頷く。この間にも黒い塊はどんどんこちらに近寄ってきている。陽子先生は変わらぬトーンでわたしのつま先をぎゅむっと踏んだ。
「今わたし、踏んでるのわかりますか?」
「はい」
ヒューヒューと過呼吸気味になってきた息の中で返事を絞り出す。
「良かった。じゃぁ、ナツキさんも自分で足のつま先にギュッて力を入れて丸めてみてください」
「は、はい」
「繰り返してみましょう」
ギュッ、ギュッと精一杯の力を込めた。最初は動かすのがやっとだった。けれど徐々に力が入るようになってきた。陽子先生に踏まれたつま先は気づくと安心できる圧迫に感じられていた。
「そう、その調子です!ナツキさん上手!」
いつの間にかパニックはおさまっていて、心拍数も正常に戻り始めた。ほっと肩を撫で下ろすと深く呼吸ができた。
「す、すごい、・・・発作・・・おさまった」
「よかったー!」
右目がコントロール出来なくなると必ずと言っていいほど起こるこの発作が静まるなんて信じられなかった。今までどんな治療も薬もだめだったのに。こんなことで、治まるなんて。いや、悠長にそんなことに浸っている場合じゃない。黒い塊は・・・、と眼前に視線を戻した。が、そこには黒い塊はいなかった。
「え?」
「さ、ナツキさん。今ナツキさんの右目の瞳孔はとじています。今目の前に何がみえますか?」
「目の前・・・」
黒い塊が居たはずのその場所に居たのは、先程とは全く違うものだった。今見えるその姿は、あの唸り声の正体は───
「子供の頃の、わたし・・・が、います。」
覚えている、そのピンクのワンピース。
お店のショーウィンドウに飾れているのを初めて見た時、お姫様みたいだと思った。母にせがんでやっと買ってもらった、たった一度しか着られなかったワンピース。
「子供のナツキさん。ナツキちゃんはどんな様子ですか?」
「座り込んで、泣いて、います。こわい、こわいって」
あの唸り声は、この小さな泣き声だったのだ。
「いくつくらいかな?」
「4つ、です」
ワンピースは下から胸元まで大きく切り裂かれたあとがあり、首回りや裾にあしらわれたレースはぼろぼろに破けている。淡い桃色の生地はすっかり土や泥をかぶって汚れきっていた。
「ナツキちゃんは、なにが怖いのかな?聞けますか?」
陽子先生には、どうやら子供のわたしの姿は見えないらしい。
「わかり、ました」
右手にぐっと力を込める。
「なぁちゃん!今、なにがこわい?」
自分で呼びかけておいて、子供の頃の自分の愛称に酷く懐かしさを感じた。あの頃「なぁちゃん」と呼んでくれたのは母だけだったけれど。
「・・・おじさん」
ヒックヒックと泣き込みながら必死に答えてくれた。その一言を発するのが、この小さな体にどれほどの負担があるのか。わたしは知っている。目を背けてきた記憶が、なぁちゃんから伝わってくる苦しみを通して、脳裏に蘇る。
本当にあの人は「おじさん」だったのか、今となってはわからない。お兄さんだったかもしれない。今のわたしくらいだったのかもしれない。
「わたしは、大人になったなぁちゃんだよ!安心して!助けに来たの!」
なぜだろう、不思議にも言葉があふれた。
「助けに来たよ!もう怖くないからね!」
───もう怖くないからね。
あの頃、この言葉がどんなに欲しかったろう。
誰も信じてくれなかった。母さえも。
「信じてくれる人、居なかったもんね。辛かったよね。でもわたしはあなただから。全てを知ってるから」
ぽたぽたと両目からあふれた涙を、陽子先生が優しく拭ってくれた。ローズの香りがするやわらかなタオルハンカチが目元にあてがわれる。
「わたしは信じますよ。大丈夫。ナツキさんもなぁちゃんも、わたしが助けます!」
マコトさんもついてますよ、と微笑んで、陽子先生は、見えていないはずの幼いわたしが居る場所を見つめた。
「はじめまして、なぁちゃん。三室陽子先生です!よろしくね!」
自分のイメージで脳裏に描けばよいそうだ。木造のロッジを思い浮かべる人もいれば、高級ホテルにある洒落た螺旋階段を思い浮かべる人もいるらしい。イメージはその人の自由でいいらしい。
なのにわたしはどうしても、冷たく狭い階段を思い浮かべてしまった。
─────────────────
陽子先生は、まろやかで優雅な声音でわたしに「軽く目を閉じてくださいね」と言った。
「私がこれからゆっくり十数えます。地下室の階段をゆっくり降りていくイメージをしてください。一段一段、ころばないように、ゆっくり降りてください。ナツキさんいいですか?いきますよ」
「わかりました」
わたしは目を閉じ、ゆっくり呼吸をしながら頭の中に地下室を思い浮かべた。冷たい氷のような石造りで、狭く仄暗いような不気味さがある。せめて足元を照らす光が欲しい。灯りをともそう。火は怖い。階段の端に一段ずつライトをともそう。
イメージを広げるたび、酷く頭痛がした。それがまるで、この記憶をこじ開けないようにと言う忠告のようで、無意識に右目に頼ってしまいそうになる。ダメだ、今はイメージのみだ。陽子先生の言葉を信じなきゃ。
緊張で肩が揺れたらしく、隣に座って支えてくれているマコトが、膝の上でふるえていたらしいわたしの手をぎゅっと握ってくれた。
「ナツキさん、大丈夫ですよ。安心してください」
陽子先生もやわらかな声を添えてくれた。
「その地下室におりても怖いことは何も起こりません。何も、恐ろしい事は繰り返しません。大丈夫よ」
「はい」
目を閉じたまま、声になるかならないかの掠れ漏れた息で返した。怖いことは起こらない。二度と。わかっているんだ。でも反応してしまう、心が。痛みが。
「今、ナツキさんの隣にはマコトさんがいて下さっています。もし地下室に入った時、ナツキさんを傷つけた人・物・対象が出てきたら、マコトさんとわたしでやっつけます。ナツキさんを守ります、必ず。だから安心してください。」
「・・・はい」
無意識に右頬を涙が伝った。
陽子先生には、主治医の紹介で二ヶ月前からお世話になっている。ひと月に二度のペースのトラウマケアのセラピー。今日はちょうど四度目だ。今まで人を疑うことが自然で、『人に心を開く』『自分を許す』というのがどうにも出来ずにいたし、パートナーのマコトにどれだけ「そばについてるよ、愛してるよ、いつもナツキの味方だよ」と言われても、申し訳無いと思いながらも、不明確な心の穴を埋めるには至らなかった。それなのに、陽子先生にはなぜかファーストコンタクトから心を開いてしまった。先生が素晴らしいセラピストだからだろうが、この数回のセラピーの中で、何となく、それだけでは無い気がしてきた。
・・・・もしかしたら、陽子先生も、わたしと似た経験がおありなのかも・・・・
おこがましいけれど、そんな確信があった。きっとそれは、先生の声音にまじった吐息がそう思わせるんだ。
「はじめます。ゆったり呼吸をしてね」
「はい」
「十・・・九・・・・八・・・・」
陽子先生のゆったりとした誘導が始まった。息を整え、頭の中の地下室に続く階段を降りる。
一歩、一歩、一歩、また、一歩。
イメージした足元のライトの光に僅かな癒しを求めながら足を動かす。ああ、壁が冷たい。手すり、手すりが欲しい。いや、でも、大丈夫だ。怖くない。陽子先生もマコトも居てくれてるもの。信じなきゃ。
「三・・・二・・・・一・・・・・」
驚いた。
陽子先生のカウントに合わせて階段をおりきると、そこには本当に扉があった。重々しく、無機質で錆びた匂いがする。冷たい鉄格子の扉だ。もっとあたたかみのある、ドールハウスのような可愛らしい扉がよかったな。
「ナツキさん、ゆっくり呼吸してね」
いつの間にか息が浅くなっていたようだ。
「あ、はい」
「大丈夫よ」
目を閉じたまま、まるで天の声のように響く陽子先生の声を頼りに、目の前の扉に集中する。
ドールハウスのような可愛らしい見た目とは程遠い、なんとも冷ややかな鉄格子の扉は分厚く、取っ手も見るからに重々しい。仕方ない。イメージできないんだ、こればかりは。この扉はわたしの心象の象徴なのだから。
「ナツキさん、中に入れそうですか?」
この扉の中に、わたしはわたしの右目の秘密を忘れてきた。それを取り戻さなきゃいけない。入らなきゃ、いけない。もう、繰り返したくないから。
「・・・・はい」
陽子先生の声と、マコトの手のぬくもりに身を委ね、わたしは扉の取っ手に手をかけた。
「・・・冷た」
取っ手の冷たさは壁の冷たさの比ではなかった。大量の塩をまぶした氷水に手を突っ込んだみたいだ。冷たさが鋭く痛い。
わたし、ほんとに今から、過去と、対峙するんだ・・・
「ナツキさん、大丈夫よ。呼吸をしっかりね」
「は、はい」
深く、ゆっくりと呼吸をととのえ、取っ手をまわした。その重々しい見た目とは裏腹に、ギィと音を立てはしたが、扉は簡単に開いた。
「そこに誰かいますか?」
陽子先生のこの質問が耳に入るより一足先に、扉の中に見えたのは、「うううぁあああ」と低い唸り声を上げ続けこちらを凝視しているヒトガタが崩れたような黒い大きな塊だった。
「ひっ!!あっ・・・いや!なに!?」
黒い塊はズルズルとモヤを引きずって、こちらに向かってきた。
「人?!なに?!だれ?!」
だめだ、右目を使ってはだめだ。理性はわたしにそう言い聞かせるのに、心拍数が異常に上昇し全身の血が下がっていき、右目の瞳孔がぐるると開ききった。
「ナツキ!!ナツキ!!」
遠くでマコトの声がしたけれど、右目に激痛が走ってそれどころでは無い。見える。この黒い塊の過去の映像が、右目にどろどろと流れてくる。熱い、痛い、右目が、爛れて落ちそうだ。
「大丈夫よナツキさん!」
その場で膝から崩れ落ちかけたわたしの体を支えてくれたのは、陽子先生だった。イメージをしていないのに、その場に確かに陽子先生の姿がありありと存在していた。
「わたしが一緒についてますからね!」
陽子先生は先程とからわず、やわらかな口調と笑顔だ。
「せ、先生。あの」
がくがくと勝手に口元がふるえて上手く喋れない。それが余計に心拍数を上げてしまう。陽子先生はわたしの背を撫でた。
「大丈夫ですよナツキさん。ナツキさんあのね、わたし今モコモコでやわらかいスリッパ履いてるでしょう?」
先生に促されるまま、先生の足元のグレーのスリッパに視線を落とした。
「このスリッパで、ナツキさんの足のつま先、かるーく踏みますね。いーい?」
「え?あ、はい」
何が何やらわからないまま、下がり続ける血に意識を奪われそうになりながら、ただ陽子先生の誘導を信じて頷く。この間にも黒い塊はどんどんこちらに近寄ってきている。陽子先生は変わらぬトーンでわたしのつま先をぎゅむっと踏んだ。
「今わたし、踏んでるのわかりますか?」
「はい」
ヒューヒューと過呼吸気味になってきた息の中で返事を絞り出す。
「良かった。じゃぁ、ナツキさんも自分で足のつま先にギュッて力を入れて丸めてみてください」
「は、はい」
「繰り返してみましょう」
ギュッ、ギュッと精一杯の力を込めた。最初は動かすのがやっとだった。けれど徐々に力が入るようになってきた。陽子先生に踏まれたつま先は気づくと安心できる圧迫に感じられていた。
「そう、その調子です!ナツキさん上手!」
いつの間にかパニックはおさまっていて、心拍数も正常に戻り始めた。ほっと肩を撫で下ろすと深く呼吸ができた。
「す、すごい、・・・発作・・・おさまった」
「よかったー!」
右目がコントロール出来なくなると必ずと言っていいほど起こるこの発作が静まるなんて信じられなかった。今までどんな治療も薬もだめだったのに。こんなことで、治まるなんて。いや、悠長にそんなことに浸っている場合じゃない。黒い塊は・・・、と眼前に視線を戻した。が、そこには黒い塊はいなかった。
「え?」
「さ、ナツキさん。今ナツキさんの右目の瞳孔はとじています。今目の前に何がみえますか?」
「目の前・・・」
黒い塊が居たはずのその場所に居たのは、先程とは全く違うものだった。今見えるその姿は、あの唸り声の正体は───
「子供の頃の、わたし・・・が、います。」
覚えている、そのピンクのワンピース。
お店のショーウィンドウに飾れているのを初めて見た時、お姫様みたいだと思った。母にせがんでやっと買ってもらった、たった一度しか着られなかったワンピース。
「子供のナツキさん。ナツキちゃんはどんな様子ですか?」
「座り込んで、泣いて、います。こわい、こわいって」
あの唸り声は、この小さな泣き声だったのだ。
「いくつくらいかな?」
「4つ、です」
ワンピースは下から胸元まで大きく切り裂かれたあとがあり、首回りや裾にあしらわれたレースはぼろぼろに破けている。淡い桃色の生地はすっかり土や泥をかぶって汚れきっていた。
「ナツキちゃんは、なにが怖いのかな?聞けますか?」
陽子先生には、どうやら子供のわたしの姿は見えないらしい。
「わかり、ました」
右手にぐっと力を込める。
「なぁちゃん!今、なにがこわい?」
自分で呼びかけておいて、子供の頃の自分の愛称に酷く懐かしさを感じた。あの頃「なぁちゃん」と呼んでくれたのは母だけだったけれど。
「・・・おじさん」
ヒックヒックと泣き込みながら必死に答えてくれた。その一言を発するのが、この小さな体にどれほどの負担があるのか。わたしは知っている。目を背けてきた記憶が、なぁちゃんから伝わってくる苦しみを通して、脳裏に蘇る。
本当にあの人は「おじさん」だったのか、今となってはわからない。お兄さんだったかもしれない。今のわたしくらいだったのかもしれない。
「わたしは、大人になったなぁちゃんだよ!安心して!助けに来たの!」
なぜだろう、不思議にも言葉があふれた。
「助けに来たよ!もう怖くないからね!」
───もう怖くないからね。
あの頃、この言葉がどんなに欲しかったろう。
誰も信じてくれなかった。母さえも。
「信じてくれる人、居なかったもんね。辛かったよね。でもわたしはあなただから。全てを知ってるから」
ぽたぽたと両目からあふれた涙を、陽子先生が優しく拭ってくれた。ローズの香りがするやわらかなタオルハンカチが目元にあてがわれる。
「わたしは信じますよ。大丈夫。ナツキさんもなぁちゃんも、わたしが助けます!」
マコトさんもついてますよ、と微笑んで、陽子先生は、見えていないはずの幼いわたしが居る場所を見つめた。
「はじめまして、なぁちゃん。三室陽子先生です!よろしくね!」
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