93℃の執着

UTAFUJI

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第一章

7話

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「栞季ー!起きてー朝だよー」

 呼ばれる声にうっすら意識が浮かび、重たいまぶたを持ち上げる。
 視界の先に立っていたのは、ジャケットを羽織った“見知らぬ青年”だった。

 ……誰?

 寝起きの頭では一瞬理解が追いつかなかったが、仕草や声でようやく腑に落ちた。口から自然に言葉がこぼれる。

「あぁ……姉ちゃんか」

 男装している姿を見るのは初めてじゃないはずなのに、やっぱり現実感がなくて妙に間抜けな声になった。

「おはよ~!ってまた寝ようとしてる!起きろ!朝だってば!」

 肩を揺さぶられて、渋々まぶたをこじ開ける。
 ソファに沈み込んだ体を引きずるように起き上がると、姉は満足げに頷いた。

「よし、そのまま顔洗ってきな。ついでに歯磨きもね。朝ごはん作っとくから」

「作るって、姉ちゃんが?」

「そう。文句ある?」

 男装のままキッチンへ向かっていく背中は、妙に頼もしい。まるで兄だ。

 洗面所で顔を洗い、歯を磨いてリビングへ戻ると、すでにキッチンから包丁の小気味よい音が響いていた。
 同時に、じゅうっと油がはねる音とともに香ばしい匂いが漂ってくる。

「ほんとに作ってる」

 エプロン姿でフライパンを振る姉の背中は、男装と相まって妙にサマになっていた。
 まるで料理上手な兄貴を見ているようだったが、エプロンのリボンが揺れるのを見て、脳がこれは姉ちゃんだぞと現実引き戻してくる。

 自然と口の端がゆるみ、空っぽの胃袋が小さく鳴った。

「何作ってんの?」

「ん~?サンドイッチとスムージー」

 フライパンから取り出されたふわふわの卵が、トーストしたパンにのせられていく。
 その上にスライスしたトマトとシャキシャキのレタスが重なり、カラフルな層を作っていった。

「おぉ……」

 マヨネーズの香りと野菜の瑞々しさが混じり合って、思わず唾を飲み込む。

 姉は手際よくサンドイッチを切り分けると、ガラスのコップに注がれたスムージーと一緒にテーブルへ運んできた。
 バナナとヨーグルトの甘い香りがふわりと漂い、部屋の空気が一気に朝らしくなる。

「はい、できたよ~」

 目の前に並んだ皿には、断面から黄色と赤と緑がのぞくサンドイッチ。その彩りの鮮やかさに、空腹を通り越して少し感動すら覚えた。

「すご、カフェのモーニングみたい」

「でしょ?うちの腕、なめないでよ」

 得意げに胸を張る姉を見て、思わず苦笑する。

 サンドイッチを手に取り、かぶりつく。
 ふわふわの卵にトマトの酸味、レタスの食感が重なって、思わず目を細めた。

「うまっ!」

「でしょ~?」

 得意げに笑う姉を横目に、つい口が動いた。

「姉ちゃんって、いつも朝ごはんちゃんと作ってんの?」

 姉はスムージーを飲みながら首を振る。

「いーや?いつもはスムージーだけ~。今日は久々に弟と朝ごはんだから、ちょっと張り切ってみた!」

「ふーん、ありがと」

 照れ隠しのように素っ気なく返すと、姉はにやにや笑いを浮かべながらサンドイッチを頬張った。

 ひと呼吸置いて、思い出したように声をかけてくる。

「で、今日お店に鍵取りに行くんでしょ?私も行くから、それ終わったら買い物付き合ってよ!」

「あぁ、だからその格好……」

 ようやく合点がいった。朝から男装していた理由はそれか、と。

「栞季くん的には、チャラ系ホストか正統派王子様系ホストかどっちが良いと思う?」

 今ならウィッグ変えられるからさ!金髪チャラい系か黒髪王子様か悩んでるんだよねぇ~とスムージーを飲む姉に、なぜホスト限定……?と思いつつ、脳裏にはなぜかキラッキラに光るシャンデリアの下でポーズを決める姉の姿が浮かぶ。

 金髪でにやけたチャラ男風か、黒髪で気取った王子様風か。どっちも似合いそうなのがまた腹立つ。

「……王子様系で」

「さすが、わかってるじゃん! 伊達にうちの弟やってないねぇ~」

 姉のドヤ顔に、思わず視線を逸らす。

 昔からオタクだった姉はコスプレにハマっていた時期があり、そこで男装にも興味を持ち始めたようだ。

 女性にしては少し高めの身長のせいでシークレットシューズを履かれると俺の身長と変わらなくなってしまう。だから、できれば隣に並びたくはない。男の尊厳がなくなってしまう。

 しかも姉は、なぜか仕事先に顔を出すときは必ず男装だ。

 お嬢様たちから嫉妬されないため。そんな理由を言ってはいるが、真相はわからない。

 そして一番納得がいかないのは、姉は身内の贔屓目かもしれないが、整った顔立ちをしているということだ。
 だから男装して俺と街を歩いていても、女の子から声をかけられるのは決まって姉の方だ。

 心底許せない。

 小さくため息を吐き、残っていた最後のサンドイッチを頬張る。卵の甘さとレタスのしゃきしゃきした食感が、妙に悔しさを誤魔化すみたいで腹立たしい。
 
 視線を上げると、姉はすでに席を立ち、大きな姿見の前で髪や服の乱れをチェックしていた。
 
 鏡越しに目が合った瞬間、何かを思い出したようにいそいそと部屋に引っ込み、数分後、両手に何かを抱えて戻ってきた。

「栞季の服まだ乾いてないから、今日はこれを着ようね」

 不敵な笑みとともに差し出されたものをみて、俺はピクリと口角が引きつるのを感じた。
 
 返事をする間もなく、姉は勝手に段取りを進める。
 その勢いに押されるように身支度を整え、気づけばもう玄関へと立たされていた。

 こうして俺と姉は並んで外に出て、鍵を取り戻すために再び職場へ向かうことになった。

 ほんとに、この格好で大丈夫なのか?いや、まぁ服に変わりはないから大丈夫なんだろうけど、いつもは着ないタイプの服を着させられて、そわそわしてしまう。

 胸の奥に重たい不安を抱えたまま、車はあっという間に目的地へと到着した。
 
 車から降り、窓に反射した自分を見て、思わずぼそっと愚痴をこぼす。

「姉ちゃん。やっぱり、この服似合ってない気がするんだけど……」

 すぐ隣で車にロックをかけた姉が、ぱっと笑顔を向けてきた。

「ばっちり似合ってるよ!心配しないで~」

 軽い調子で断言する声に、全然安心はできない。むしろその言葉が逆に不安を煽ってくる気さえする。
 
 黒ジャケットに身を包んだ姉は、シークレットシューズのおかげか俺より少し目線が高い。
 背筋をすっと伸ばし歩くその姿は“王子様系ホスト”そのもので、俺が女だったら惚れてしまいそうなほど綺麗な横顔だ。
 
 俺が見つめていることがわかったのか、こちらに笑みを浮かべてくる。
 
 ぐっ……悔しい。同じ血が通っているはずなのに、自分では絶対に出せないこの色気。思わず嫉妬しそうになり、せめてもの抵抗にジト目で「こっちを見ないでください」と無言の視線を返す。
 
 もうすぐ店舗に着くというところで、姉ちゃんはピタッと足を止めた。

「どうしたの?」

「栞季くんにリップ塗るの忘れてた」

 唐突に差し出された色付きリップ。

「唇の血色なさすぎよ~」

 悪びれもなく笑いながら、ぐいっと俺の顎を持ち上げて塗りつけてくる。

「ほら、こっちの方が綺麗じゃない?」

 差し出された小さな鏡に映る自分の顔。
 そこには赤いリップを引かれた俺の姿があった。肌に浮かぶ赤が、思った以上に目立って、どこか艶っぽく見える。

 言葉が出ずに固まる俺に、姉はさらに満足げに頷いた。

「白には黒と赤が一番映えるの。栞季は色白だから。……うん、とてもエッチ!」

「……その表現なんか嫌、やめて」

 顔を背ける俺を見て、姉はくすくすと笑いながら懐から小瓶を取り出した。
 そして躊躇いもなく、俺の首元にシュッと振りかけてくる。
 
 ふわりと甘い香りが広がり、鼻腔をくすぐる。

「これお気に入りなんだ~。せっかくだしお揃いにしよ」

 見た目だけは完璧なイケメンの姉に言われ、思わず唾を飲んでしまう。

 そんな俺を傍目に姉は数歩下がると、両手の指で四角いフレームを作り、片目を閉じる。
 舞台監督さながらに俺の姿をじろじろと眺め、満足げに口角を上げた。

「うんうん。これでよし!」

 ぱん、と手を叩く仕草までついてきて、俺は思わず深いため息を吐いた。

「完璧だね!さすが栞季~」

 得意げな笑みを浮かべる姉を見て、返す言葉もなく視線を逸らす。

 その時、姉がふと「あっ」と声を漏らした。

「……ん?」

「ここまで来たのに、アキトくんに渡す書類、車に置いてきちゃった……」

 額に手を当てて、苦笑いを浮かべる。やっちゃったなぁとでも言いたげな表情で俺を見やると、すぐに切り替えたように指をひらひらと振ってきた。

「ごめん、栞季。ちょっと取りに戻るから、あんた先に入ってて」

「えっ、俺一人で?」

「平気平気。どうせ店の中は顔見知りばっかりでしょ?」

 わざとらしくウインクを飛ばしてくる。

「すぐ戻るから!アキトくんに、オーナーくるよって挨拶よろしく~」

 軽口を叩く姉に返す言葉も見つからず、俺はただ深いため息を吐き、覚悟を決めて扉を押し開けた。
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