93℃の執着

UTAFUJI

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第一章

8話

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 カラン、とドアベルが鳴る。

「おかえりなさいませ」

 キャスト達の声を聞きながら顔を伏せがちに中へ足を踏み入れると、ちょうど誰かがお見送りを受けているところが視界に入った。
 
 ぶつからないようにしないと。と自然と顔を上げると、視線がぶつかった。

「……シキ様?」

 驚いたように目を丸くしたのは、よりによってイオリだった。一瞬、俺も固まる。体の芯から血の気が引いていくのがわかった。

「今日、お休みって聞いたんですけど」

「あ、いや、本当は休みなんだけど……」

 絞り出した声は、我ながら間抜けなほど小さかった。

「シキさん!体調、大丈夫なんですか!?」

 お見送りをしていた後輩も、俺がシキだとわかったようで声をかけてくる。お前は仕事をしろ。

「まあ、なんとか……」
 
 慌てて言葉を返すと、イオリが一歩ずつ近づいてきた。その瞳に射抜かれ、思わず肩が強張る。

「なんか今日は雰囲気違いますね。香水……? つけてます?」

 ぐっと距離を詰められる。鼻先に届く低い声。端正な顔がすぐ近くにあるという事実に俺の胸の奥がざわざわして、落ち着かない。

 その時、ドアベルがもう一度鳴った。

「あれ?シキ、どうしたの?そんなとこで突っ立って」

 振り向くと、茶封筒を片手にした“真琴さん”が立っていた。そう、男装姿の姉。いつもより少し低めの声を出してるのか、その出で立ちは優男そのものだ。姉のことを知らない人がみたら完全に男だと思うだろう。

「シキ、こっちおいで」

 そんな声で名前を呼ばないで欲しい。周りのお嬢様達も何事かとこちらに注目し始めてしまった。動こうとしない俺に痺れを切らしたのか、姉はこちらに歩き出して俺の隣に移動してくる。

「ま、真琴さん……」

 思わず名前を呼ぶと、姉はにっこり笑みを浮かべた。
 そしてイオリと後輩に向かって、軽く会釈をしながらさらりと言い放つ。

「僕のシキがお世話になってます」

「――っ!」

 腰をぐいっと引き寄せられ、至近距離に姉の横顔が迫る。心臓が嫌なほど鳴っているのが自分でもわかった。
 さっきお揃いで吹きかけられた香水が鼻腔をくすぐる。

 なにやってんだ、この人!!!

「ちょ、なにやって……」

 腕から抜け出そうとしてる間に店内が一瞬にしてざわめきたった。

 周囲から黄色い歓声が上がる中、ひときわ鋭い視線が突き刺さるのを感じた。視線の主を探すと、目が合った。イオリだ。

 いつもの柔らかな色を帯びた瞳とは違う、鋭く射抜くような眼差し。

「何かあったのか?悲鳴が聞こえたが……ってオーナー!?」

 休憩していたらしい店長が慌てて出てきて、俺たちを見て一瞬固まり、思わず声を漏らしてしまった。店の空気が一瞬にして慌ただしくなり、耐えきれず視線が下へ落ちる。
 
 姉はにこりと笑って茶封筒を胸元で抱え直すと、ひらひらと手を振った。

「アキト、元気そうで何より」

 店長が慌てて歩み寄りながら訊く。

「真琴さん?今日はどうしたんですか、連絡は?なんで急に?」
 
 姉は肩をすくめて、微笑んだ。

「あぁ、ちょっとね。シキが家の鍵をロッカーに忘れたらしいんだ。だから、昨日は僕の家に泊めてあげたんだけど、今日鍵取りに行くって言うからついて来ちゃった。……僕の店だし、何の問題もないよね?」

 周囲のざわめきが一瞬ぴたりと止まった気がして、思わず頭を抱える。なんでわざわざ全部言うんだ、この人。

 店長は「……あー、なるほどな」と小さく頷いただけだった。

 それ以上突っ込むでもなく、ただ理解したような顔をされる。本来なら、ただ身内の家に泊まっただけなのに。なんでここまで変に聞こえるんだ。

 隣の姉は相変わらずあっけらかんとしていて、茶封筒を胸に抱えたまま余裕の笑みを浮かべている。

 その様子に店長も呆れたようにため息を吐いた。

「とりあえず中に入ってください……」

 そう言ってこちらを休憩室へ誘導する。

「ん、了解。あ、そうだ。ご主人様方、お騒がせしてしまって申し訳ございません。もしよろしければ、ご迷惑をおかけしてしまったお詫びに、次回ご来店時に使用していただけるクーポンをお配りいたしますので、お許しくださいませ」

 そう言って、姉ちゃんが綺麗なお辞儀をすると、客席から小さな歓声が上がり、ざわめきが一瞬落ち着きを取り戻す。

 その隣で姉が、ふっと微笑んだ。片手を差し出して、俺にだけ聞こえるような声で囁く。

「シキ、行こうか」

 腰を軽く支えられる。その仕草があまりに恋人に接するようで、また誤解を生んでしまうだろうと胃がキリキリと痛む。

「ご主人様に挨拶しとかなくていいの?」

 横からさらりと投げかけられた姉の声に、思わず肩が跳ねた。
 ご主人様。つまりイオリのことだ。振り向くのが怖かったが、ちらりと視線を送ると、彼はまだそこに立ち尽くしていて、鋭い視線をこちらに注いでいた。

 喉が詰まりそうになりながらも、かろうじて声を絞り出す。

「……また、な」

 その一言に、イオリの眉がわずかに動いた気がした。何を思ったのかまではわからない。ただ、その瞳がますます強く俺を捕らえたのは確かだった。

 この視線から逃げるように、俺は姉に促されるまま足を動かし、休憩室へと入った。

 ドアが閉まると同時に、外のざわめきが少し遠のく。ふぅ、と息を吐いた俺の横で、姉はぱっと笑顔になり、両手を広げる。

「どぉ?どぉ?かっこよかった?ねぇ、めっちゃかっこよかったよね!これでイケメンオーナーを見たいと言うお嬢様の来店も増えるかな!」

 キャッキャと弾む声。腰に手を当ててくるりと回ってみせる姿は、当の本人だけが楽しそうだ。
 その無邪気さに、俺は額を押さえた。すぐ隣では店長も同じ仕草をしていて、思わず目が合う。

「アキトくん的にはどうだった!うち、めっちゃかっこよかったでしょ!」

 こちらの気まずさなんて一切気にしていない姉が、満面の笑みで胸を張る。

 アキトのこめかみがぴくりと動いた。

「……お前が!そんなことするから!あんな騒ぎになったんだぞ!?」

 ずいっと前に出て、こんこんと姉を問い詰め始める。けれど、当の本人はまったく動じない。

「え~、いいじゃーん。みんな好きでしょ?こういうの!なんなら、うちの栞季っていうのも間違ってないし~!ね!」

 もうやめてくれ。胃が死ぬ。

 俺とアキトが揃って頭を抱えているのをよそに、姉はまだ楽しそうに鼻歌まで歌っていた。

「てかさ!さっきのご主人様!」
 
 ふと思い出したようにぱっと顔を上げる。
 
「えっぐいイケメンじゃん!常連様?」

 イオリのことだろう。不意に名を伏せて語られた相手の顔が頭に浮かび、思わず心臓が跳ねる。

「……まぁ、そんなとこ」

 姉はにやにや笑いを浮かべたまま、俺に視線を向ける。

「ねぇ、あんな逸材のことなんで黙ってたの!?なんで勧誘しなかったの!」

「はぁ!?」

 思わず声が裏返る。やめてくれ、本当に。

 横で腕を組んでいた店長が小さくため息を吐き、苦い顔で言った。

「無理だな。あの人は、ほぼシキ目当てみたいなもんだからな」

「ふ~ん、なるほどねぇ」

 姉は一拍置いてから、ぱっと手を叩き、大げさに頷いた。

「まぁ仕方ないか。うちの栞季くん、イケメンですからね!そりゃそうです!あの常連様、見る目あるわ~!」

 にっこにこと笑いながら俺の背中をばんばん叩いてくる姉。

「や、やめろって!」

「いやぁ~、弟ながらほんと良い素材だよ。もっと自覚した方がいいって!」

 俺が必死に払いのけていると、姉ははっと思い出したように、表情を切り替えて茶封筒を手に取った。

「あ、アキトくん、これこの前言ってた書類。確認お願いね~」

「……かしこまりました」

 店長は真面目な顔で封筒を受け取り、中身をざっと確認し始める。

 今だ。俺はそっと二人から距離をとり、休憩室の隅に並ぶロッカーへ歩いていく。
 慣れた手つきで自分のロッカーを開けると、中から家の鍵がひょっこりと顔を出した。

「……あった」
 
 小さく呟きながらポケットへ滑り込ませる。ようやく胸の奥に重くのしかかっていたものが少しだけ和らいだ。

「栞季~、鍵あった?じゃあアキトくんにコーヒー淹れさして、ちょっと休憩してから出よっか!」

 振り返ると、にっこにこで俺を呼ぶ姉が机に腰かけていた。
 店長がまだ書類に目を落としているのをいいことに、暇を持て余した子どもみたいに俺に絡んでくる。

「シキ、そういえば体調は……大丈夫か?」

 店長がちらと俺に目をやり、手元の書類を置いた。

「あぁ……まぁ、なんとか」

 自然と視線が落ちる。昨日から迷惑をかけっぱなしで、言葉を選ぶ余裕もなかった。

「せっかくの休みだったのに、こんなのに振り回されて……同情するよ」

 軽く肩をすくめながら、ちらりと隣の姉に視線を投げる。

「ちょっとアキトくん?それどういう意味かな~?」

「そのまんまの意味ですよ、真琴さん」
 
 姉が頬を膨らませるのを見て、俺は思わず吹き出しそうになる。

 店長は少し柔らかい声に戻して続けた。

「まあ、三連休になったんだから。気にせず、自分の好きなことでもして過ごせよ」

「……ありがと、ございます」

 短く返すと、胸の奥に少し温かいものが広がった。
 
 そのやり取りを横で聞いていた姉は、急にぱっと身を乗り出す。

「で、アキトくん!今日の栞季くんどう?地雷系ホストをイメージしてコーディネートしたんだけど!可愛くない?天才じゃない?赤のリップも映えてるし!本音を言えば目元に少し赤みを入れたかったんだけどね~」

 ズイズイと俺の肩を店長に押し付けるように前に押しやり、にやにやと自慢げに言う姉。

 店長はそんな姉に苦笑しながらも、ちらと俺を見て言った。
 
「……確かに、いつもとは雰囲気が違うように見えるな。でも、それも似合ってるぞ。シキは美人だからな」

「はっ……!?な、なに言ってんですか」
 
 思わず変な声が出てしまい、顔に熱が上る。

 姉は「ほらね~!」と大袈裟に頷き、店長によく言ったとでもいう様に親指を立てる。

 結局そのままの流れで、店長にコーヒーを淹れてもらい、短い休憩をとることになった。
 熱いカップを手にしてひと息つく間も、隣では姉が延々と「やっぱりこういうカプはどっちが右でもいい」だの「うちの弟は素材がいいから」だのと騒いでいて、頭痛がぶり返しそうになる。

 カップを空にしてようやく腰を上げたところで、姉が立ち上がり、振り返って笑いかけてきた。

「じゃ、出よっか!」

 茶目っ気のある笑みを浮かべて、俺の肩をぽんと叩く。

「じゃ、このあとは買い物付き合ってね~」

「はぁ……」

 そんな姉にため息を漏らすも、姉は気にも留めず、ひらひらと手を振って先に歩いていく。
 その背中を追いながら、結局逆らえない自分にため息が出た。
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