93℃の執着

UTAFUJI

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第一章

10話

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 バーの扉を押した瞬間、外の喧騒が嘘のように遠のいていった。

 代わりに耳に届いたのは、旋律を奏でるピアノの生演奏。

 暗めの照明が店内を柔らかく包み込み、淡い琥珀色のライトが静かな温もりを醸している。

 カウンターには数人の客が腰掛け、グラスを傾けながら思い思いの時間を過ごしている。

 案内されたのは、店の奥の薄いカーテンで仕切られたBOX席だった。

 革張りのソファの対面には艶のある黒いテーブル。その上には小さなキャンドルがひとつだけ灯されており、ゆらゆらと揺れる炎が静かなリズムを刻んでいた。

 まるで、時間までもが緩やかに溶けていくような空間だった。

 他の客からは死角になるような位置にあるせいか、周りの話し声などが一段遠くに感じられる。

「……なんか、こういうのって落ち着かないな」

「ふふ、いいじゃないですか。せっかく二人なんですし」

 革張りのソファに腰を下ろすと、イオリは楽しそうに笑いながら、すぐ横に座ってきた。ほんの少し腕が触れる距離。

 案内された時にイオリがオーダーをしていたのだろう、店員が運んできたグラスがテーブルに並べられる。

 緋色の液体が照明を受けて揺らめく。

「シキ様、乾杯しましょう」

 軽くグラスを合わせると、澄んだ音が小さく響いた。

 一口含んだ瞬間、アルコールの熱が喉を焼く。

 あまり口にしないカクテルに舌鼓を打つ。また一口、もう一口とグラスを傾けてしまい、気がついた時にはグラスを空にしてしまっていた。

「甘いお酒好きですか?なら、たぶんこれも好きだと思います」

 そう言ってイオリは次のオーダーをしていく、軽めのフードも嗜みつつ、運ばれてきたカクテルに口をつける。

 アルコールの苦味よりも、果実の甘みや香りが先に広がって、ついグラスを空けてしまう。イオリがすすめてくれるカクテルはどれも飲みやすくて、美味しかった。

 隣にいる彼は最初の一杯があと少しでなくなるといった感じで、自分だけ飲んでしまっているという事実に少し申し訳なくなる。

「お前は飲まないの?」

 ちらっと隣を見てみると、イオリは目を細めて微笑んだ。

「俺はいいんです。美味しそうに飲んでるシキ様を見たいんで」

 その声色が妙に甘くて、心臓をきゅっと掴まれるような気がした。

 何杯目かのグラスが空く頃には、視界がほんのり霞んでいた。

 イオリの指がそっと俺の頬に触れる。

「……酔ってきちゃいましたか?」

 至近距離で真正面から見つめられる。好みの顔面にこんなふうに迫られて、顔に熱がぶわっと広がった。

 そんな俺をよそに彼の指先が頬をなぞった。

「顔……赤くなってきてますね」

 甘やかな声が耳に落ちる。その響きと、頬をなぞる指先の感覚にふと既視感を覚えた。レイだ。あいつもこうやって頬を触ってくる。

 こいつもレイみたいなことをするんだな。

 次の瞬間、イオリの纏う空気ががらりと変わった。

 頬に沿っていた手が後頭部へ回され、ぐっと引き寄せられる。

「ぅん……っ!?」

 強引に塞がれた唇は熱く、舌が絡みついてくる感覚に頭の芯まで痺れる。
 押し返そうとした腕は途中で力を失い、胸の奥でばくばくと音を立てる心臓に支配される。

 なんで、?急に?

 戸惑いでいっぱいなのに、息を奪われる苦しさに混じって、甘さが滲んでくる。
 どうにか逃れたいはずなのに、視界が揺れ、思考が絡め取られて、されるがままキスを受け入れてしまっていた。

 ようやく顔が離れた瞬間、喉の奥から大きく空気を吸い込んだ。
 唇はまだ熱を帯びて痺れるようで、胸の奥まで酸素が届かない。肩を震わせながら息を整え、視線を落として俯く。

 だが次の瞬間、顎をぐいと掴まれ、上へと持ち上げられた。逃げ場を奪われ、無理やり視線を絡めさせられる。

「ねぇ……レイって誰ですか?オーナーの本名?それとも彼女とか?いや、彼女にそんな顔するわけないもんな。じゃあオーナーか」

 低く落とされた声。吐息が頬を撫で、ぞくりと背筋が粟立つ。その瞳は据わっていて、冗談の色は一切なかった。

「な、なに……?」

 問い返す俺に、イオリは唇の端をわずかに吊り上げ、笑みとも怒りともつかぬ顔で呟いた。

「シキ様もひどいなぁ。あの状況で、他の男の名前呼ぶなんてさ……俺もシキ様のこと、大好きなのに」

 掠れる声で囁かれる。

「傷ついちゃったなぁ……ね、ちゃんと俺の名前、呼べる?シキ」

 徐々に近づいてくる顔。吐息が触れる距離まで迫られて、困惑のあまり身体が固まる。

「い、……イオ、っん、」

 ようやく声を紡ごうとしたその瞬間、唇はまた塞がれた。さっきよりも強く、深く。
 喉の奥まで侵されるような熱に、思考が一瞬で掻き消える。

 呼吸を奪うような深い口づけが、何度も重ねられる。
 舌を絡め取られるたび、頭の奥まで痺れるようで、抗う余裕なんて残されていなかった。

 やっとのことで唇が離れた時には、口は半ば開いたまま、肩で必死に息をしている自分がいた。呼吸が落ち着かず涙が溢れる。

「……は、っ……ぅ……」

 か細い息が漏れる俺を、イオリはじっと穴が開くほど見つめてくる。何をするんだという意味を込めて目の前の男を睨みつけると、

 彼の唇がにやりと吊り上がる。

「……えっろ」

 低く、喉を震わせるような声。

「なにその顔……めちゃくちゃそそるじゃないですか」

 俺の唾液で濡れた唇を舌でいやらしく舐め上げながら、その目は俺を捕らえたまま離そうとしない。ぞわりと背筋に寒気が走るのに、視線は絡め取られて動けなかった。

「こんなところで盛るな」

 やっと絞り出した声は、自分でも情けないほどに震えていた。
 イオリは微動だにせず俺を見つめたまま、ゆっくりと、口の端を持ち上げる。

「じゃあ、ここじゃなかったら、いいんですね?」

 片手でスマホを取り出し、画面をちらと確認する。時間を見て、意味ありげな笑みが浮かぶ。

「どうしますか?俺ん家来ます?もう終電なくなっちゃいましたし」

 その言葉はもはや“提案”なんかじゃなかった。俺は睨み返すように顔を歪めて言う。

「帰る……!」

 その返しでさえ、予想通りだとでもいうように、彼の目がさらに嬉しそうに弾んだ。

「帰る……帰る、ねぇ?」

 囁くように繰り返しながら、距離を詰めてくる。気づけば、心臓の鼓動がうるさいほど響いていた。

 彼は優しそうに、安心させるような笑みを浮かべる。その顔をみて、少し安堵した。その直後、スンと表情が抜け落ちたのがわかった。肩に置かれた手に、じわりと力を込められる。

「俺、選択肢ってどんな状況でも必要だと思うんです。俺は今、ここで襲うこともできますが、シキ様が嫌がるかなって思って、選択肢をあげてるだけです」

 言葉とは裏腹に、彼の指先はそっと、しかし執拗に俺の肩をなぞる。押しつけがましくないのに、逃げられない。肌が、ぬるく縛られていく。

「シキ様は賢いから、間違えないよね?」

 まっすぐに向けられた視線には、確かに熱を孕んでいるようにみえた。

 その問いに俺は何も答えられなかった。

 沈黙が走り、店内のBGMがやけに大きく聞こえた。

 イオリの目が、ほんのわずかに揺れる。期待と、疑念と、ほんの一瞬の迷い、そして、失望。

 「……そっか」

 低く、吐き出すように呟いたかと思うと、手の動きが速かった。
 気づけば俺はソファに押し倒されていた。クッションの沈み方と同時に、イオリの体温が上から被さってくる。

「ここ、はッ……嫌だ」

 声が裏返る。必死に拒否の意思を示すが、上に乗る彼の片腕が肩を押さえ、逃げ場がない。

 イオリは、ほんの少し首を傾げて甘く笑った。

「じゃあ……俺の家、来てくれますよね?」

 それは、もはや選択ではなく承諾を促す命令に近かった。俺の目をじっと覗き込み、そこに答えを探している。

「わかった、行く……」

 言葉にすると同時に、イオリの表情が柔らかくほころんだ。だがその目の奥に宿る光は、熱を孕んで揺れている。

「そう言ってもらえて、よかったです。俺も、シキ様のえっちな姿を他の人に見せたくなかったので」

「なっ……!」

 思わず息を詰める。赤く火照った顔を見られている気がして、余計に体温が上がった。

「ちょっと待っててください」

 そう言って席を立つイオリ。足音が離れていく。

 今なら、逃げれるかも。そんなことが頭に思い浮かぶ。心臓が早鐘を打つ。震える手に力を込め、腰を浮かしかける。

「……あ、言い忘れてました」

 不意に声が落ちてきて、思わず声のした方へ顔を向ける。

 目の前の仕切りカーテンがわずかに揺れて、そこからイオリが顔を覗かせていた。

「逃げようなんて、思わないでくださいね」

 逆光だからなのか、覗き込む瞳は光を宿していないように見えた。柔らかな笑みを残したまま、イオリはカーテンの向こうへすっと消える。

 一瞬で静寂が戻る。けれど、その言葉の余韻だけが耳の奥に焼き付いて、体が強張ったまま動けなかった。
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