93℃の執着

UTAFUJI

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第一章

18話

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 イオリはゆっくりとヘッドホンを外し、軽く息を吐く。
 指先で髪を整えてから、デスクの電源を落とし、ようやくこちらを振り向いた。

「……お待たせしました」

 穏やかな声だった。
 さっきまで画面越しに見せていた明るさとは違う、少し低くて落ち着いた声。

「ん」

 短く返すと、イオリは少しだけ口元を緩めた。
 その笑みが、なんだかくすぐったくて、俺は視線を逸らす。

 数秒の沈黙のあと、イオリはぽつりと口を開いた。

「……長くなっちゃいましたね」

「別に」

「退屈じゃなかったですか?」

「してるの、見てるだけだったし」

 軽く肩を竦めて答えると、イオリは柔らかく笑って「そうですか」とだけ返す。

 静まり返った部屋には、機材の電源が落ちる音と、外の風の音だけが残っている。
 さっきまで喧噪に包まれていた空間が、急に現実に戻ったようで、少しだけ居心地が悪くなる。

「……なんか、久しぶりに緊張しました」

 不意にイオリが呟いた。
 モニターの明かりを受けたその横顔は、どこか照れているようにも見える。

「なんか、変にシキ様のこと意識しちゃって」

「へぇ。あんな堂々としてたのに?」

 茶化すように言うと、イオリは一瞬だけ目を瞬かせて、それから小さく笑った。けれどその笑いはどこか力が抜けていて、耳の先が少しだけ赤くなっている。

「だって、シキ様に見られてるって思うと……なんか、落ち着かなくて」

「なんで?」

「……なんで、ですかね」

 言葉を濁して、イオリは視線をモニターの方へ逸らす。
 モニターの明かりが彼の横顔を淡く照らして、その光の中で揺れるまつ毛の影が、妙に綺麗だった。

 しばらくの沈黙のあと、イオリが小さく息を吐く。

「あの、シキ様」

「ん?」

「お腹、減ってませんか?」

 不意に出たその言葉に、少しだけ目を瞬かせた。

「そういえば、今日、まだ何も食べてないか」

「今、家に食材ほとんどなくて。食べにいくか、出前頼もうかなって思ってるんですけど……シキ様、何か食べたいものあります?」

「んー。別に、なんでも」

 そう答えると、イオリは小さく肩を落とした。

「なんでもって一番困るやつです」

 そう言って微笑むイオリの声が、少し柔らかく響いた。スマホを操作する手つきも、どこか楽しそうで。俺は、そんな横顔を見ながらふと口を開く。

「お前、いつもそんな感じなのか?」

「え?」

「いや、楽しそうだなって思って」

 イオリは少しだけ目を見開いて、それから照れたように笑った。

「シキ様が隣にいるからかもしれません」

 その言葉を、笑いながら聞き流すふりをした。けれど、胸の奥では小さく音を立てて、何かが沈んでいく。

 さっきもそうだ。「シキ様がいるから意識しちゃって」なんて、軽い調子で言っていた。
 きっとこれも同じ類の言葉だ。ただの社交辞令か、モテる男が相手に自分を意識させるための手法。

(こういうの、慣れてるんだろうな)

 そんなことを漠然と思ってしまう。イオリが笑えば、周囲は勝手に温度を上げる。俺だって例外じゃない。面がいい男に好意を向けられたらそりゃあ気分も良くなる。

 でもさっき、こいつは自分で言ってたじゃないか。“俺とはただの知り合い”だって。間違いではない関係性ではあるが、ちゃんと言葉にされるとなんか虚しさが増した。

 "好き"とは店で何度か言われたことがあるが、本当に俺のことを好きなのかなんて、わかるはずもない。そのわからなさが、急に現実に引き戻す。

 だから、心が少しでも沸き立つたびに、自分でその熱を押しつぶすように、冷めたふりをする。

(こんなことで、心を沸かせてたらダメだな)

 そう思って息を吐く。イオリは何事もなかったように笑って、スマホの画面を見せてくる。

「出前、頼みましょうか。ほら、ここの中華とかどうです?」

 その明るさに、少しだけ遅れて笑って「いいじゃん」と返す。それだけのことが、どうしようもなく苦しかった。

「シキ様、辛いのって平気ですか?」

 イオリはスマホを手に、画面をスクロールしながらこちらを覗いてくる。

「まあ、ほどほどならな」

「なるほど……じゃあ、麻婆豆腐はギリいけそうですね」

 そう言って笑うその横顔が、キラキラして見える。同じ画面を見ているせいか近くなった距離にも少し鼓動が速くなるのを感じた。

「シキ様は何が食べたいですか?チャーハンとか、餃子とか……あ、酢豚とかもあります」

「なんでもいい。お前が食べたいもんで」

「え、それだと決まんないですよ」

 笑いながらも、イオリは真剣にメニューを見ている。その姿がなんだか可笑しくて、つい「じゃあ、天津飯」と口に出してしまった。

「了解です。天津飯と餃子も頼みますね」

「食う気満々じゃねぇか」

「もちろんですよ。シキ様の分もちゃんと残しますから」

 笑う声が部屋の空気を和らげていく。さっきまで胸の奥に沈んでいた痛みが、ほんの少しだけ、輪郭を失っていくようだった。

 それからしばらくすると、ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴った。

「来ましたね」

 イオリが軽やかに立ち上がり、インターホンの画面を確認してピとエントランスの開錠ボタンを押して、玄関へ向かう。
 その数分後、イオリが両手に袋を持ってリビングに戻ってきた。そのまま袋をテーブルに置くと、ふわりと中華の香りが部屋に広がる。
 香ばしい油と湯気の混ざる匂いに、自然と腹が鳴りそうになった。

「熱いうちに食べましょう」

 テーブルの上に容器を並べ、箸を二膳取り出す。

「シキ様、天津飯こっちですよ。餃子も半分こで」

「おう」

 手渡された割り箸を折る音が、妙に静かな部屋に響く。もちろんスプーンも受け取り、黄金に光る餡と卵と対峙する。

 スプーンをすくうたびに、餡の甘い匂いがふわりと立ちのぼる。
 静かな部屋に、二人分の食事の音だけが響いていた。

「美味いな」

「でしょう!?ここの雲白肉もめちゃくちゃ美味しくて、担々麺も美味しかったですよ!」

 テンション高めに語るイオリに、思わず口元が緩む。

「……中華料理、好きなのか?」

「はい。辛いのも味濃いのも大好きで、気づいたら中華率高いです」

「へぇ。意外だな。お前、もっと洋食とか食ってそうなのに」

「洋食も好きですけどね。中華はこう……元気出るっていうか」

 そう言って、イオリは嬉しそうにまた一口食べる。そして、少しの沈黙のあと、イオリがふとこちらを見た。

「じゃあシキ様は、好きなご飯とかあるんですか?」

「俺?」

 箸を止め、少し考える。

「……甘いものは好きだけど、料理だとなんだろ?」

 しばらくして脳裏に浮かんだものを、ぽつりとつぶやく。

「天ぷら、かな」

「天ぷら?」

「うん、手間だから家では作らないけど、美味いじゃん?」

 そう言いながら、なんとなく視線を落とした。別に特別な思い出があるわけじゃない。ただ、昔から好きなだけ。

 イオリは少し驚いたように目を瞬かせ、それからゆるく笑った。

「意外です。なんか……大人っぽい」

「普通だろ」

 そう返すと、イオリは少し驚いたように目を瞬かせ、それからゆるく笑った。

「俺、天ぷら美味いところ知ってるんで、よかったら今度一緒に行きませんか?」

「……考えとく」

「ぜひお願いします」

 ほんの冗談半分のように笑うその声に、テーブルの空気が少し柔らかくなる。
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