93℃の執着

UTAFUJI

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第一章

17話

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 引っ張るように歩き出すと、イオリは慌ててペットボトルを手に取り、半ば引きずられるようにしてついてくる。
 途中、何度か何か言いたそうにしていたが、結局何も言われることなく部屋に戻ってきた。

 先ほどはイオリが影になってよく見えなかったが、モニターが置かれてるデスクにはキーボードの他にマイクやヘッドホン、ミキサーなど配信するのに使っていると思われる機材も置かれてあった。
 思っていたよりも本格的な配信環境で少し驚きつつ、ここなら邪魔にならないかと、俺が床に腰を下ろそうとした瞬間、デスクにペットボトルを置いたイオリが慌てて手を伸ばす。

「ちょっ、シキ様!床はダメです!」

「え?」

「こ、この部屋、配信中ずっとクーラー入れっぱなしなんで、床冷たいんです!風邪ひいちゃいます!」

 早口でまくし立てるイオリは、部屋の隅に置かれた巨大なクッションを指差した。

「あれに!座ってください!それから……ブランケットも!持ってくるんで!ちょっと待っててください!」

 そう言うや否や、部屋を飛び出していく。
 俺は苦笑しながら、指されたクッションをデスクの近くまで引き寄せた。

 数十秒もしないうちに、イオリは少し大きめのブランケットと、ソファーにあったクッションを抱えて戻ってくる。
 息を弾ませながら、クッションを俺の前に置き、ブランケットをそっと肩にかけてきた。

「はい、これ。冷えるといけないんで」

 その仕草がやけに丁寧で、俺は思わず小さく笑ってしまう。

「……なんか、お前、世話焼きだな」

 そう言うと、イオリは少しだけ照れたように目を逸らした。

「だって、シキ様が風邪なんて引いたら……俺が困ります」

 その小さな呟きとブランケットの温もりがじんわりと染みて、ふっと息が漏れた。

 ブランケットにくるまりながら、隣で準備を始めるイオリをなんとなく見上げる。
 マイクの角度を調整してヘッドホンを首にかけて、キーボードを打つ、その手つきが妙に慣れていて、思わず目で追ってしまう。

 そんな俺の視線に気づいたのか、イオリが少しだけ振り返った。

「……そこから、画面見えます?」

「ん?」

「もし見づらかったら、もう少し角度変えますけど」

「ああ、別にこのままでいいよ」

 そう答えると、イオリはわずかに安堵したように息を吐いた。

 少しずつ"配信者"としての顔に戻っていく横顔を見て、さっきまでの慌てた姿とのギャップを感じる。

(……こういう顔も、するんだな)

 そんなことを思いながら横顔を見つめているとヘッドホンを装着しようとしたイオリが、ふとこちらを向いた。

「あ、シキ様」

「ん?」

「声、入っちゃうとアレなんで……」

 言いながら、少し頬を染めて視線を逸らす。

「喋らないように、してくださいね。話しかけたら、ダメですよ?」

 どこか照れ隠しのような言い回しに、思わず口元が緩む。

「わかった。静かにしてる」

「すみません、お願いします」

 そう言って少し微笑んだイオリは俺の頭を少しだけ撫でてから、ヘッドホンを装着した。

「ただいま~!ちょっと待たせたね、ごめん」

 軽やかに、明るく。さっきまでの優しい声とはまるで違う、配信用のテンション。
 その切り替えを隣で見ていて、思わず目を瞬かせた。

 クッションから背筋を伸ばして、チラリとみたモニターの端には、コメントが次々と流れていく。

『おかえり!』
『どこ行ってたの!?』
『女か!?』

「いや違う違う、男だから!変なこと言わないで!」

 その口調はまるで友達と話してるみたいに自然だ。

(……楽しそうだな)

 ふと、そんな言葉が頭をよぎる。昨夜、同じ部屋で俺に触れていた手が、今はマウスとキーボードの上で軽快に動いている。

 画面越しの相手に向けて笑うその横顔を、俺はただ静かに見つめる。すると、視界の隅を流れるコメント欄の勢いが増したのが見えた。

『え、まじで誰?』
『女だろ?』
『お泊まりって何事!?』

 イオリは苦笑している。

「いや、違うって。そういうのじゃなくて!」

 そう少し笑いながらも、早口で続ける。

「知り合いが泊まりにきてるだけ!俺、その人に配信してること言ってなかったから、配信のことちょっと説明してただけなんだって!」

 言葉の端に混じる焦りと照れ。それを、軽く笑いながら誤魔化している。

(……知り合い、ね)

 その言葉に胸の奥が少しチクリとした。それは別に嘘じゃない。でも、どこかに線を引かれたような感じがして、思わず視線を落とす。

 確かに、俺とこいつは、友だちでもなんでもない。ただの“知り合い”。間違いではないはずの言葉が、なんでこんなに冷たく響くのか、わからなかった。

 モニターの明かりに照らされたイオリは、隣にいるはずなのにやけに遠く思えた。
 そんなふうに感じていた時、ふと、彼の視線がこちらをかすめた。
 一瞬だけ目が合って、イオリの口元がわずかに緩む。それだけのことなのに、心臓が跳ねた。

 けれど次の瞬間にはもう、彼は画面に向き直っていた。
 明るい声と笑いがまた部屋に溶けて、さっきの視線なんて最初からなかったみたいに流れていく。

 軽快に進むイオリの会話は、ゲームを見ていなくても聞いてて飽きなかった。力を抜きクッションの上に体を預け、ブランケットを肩に引き寄せながら、ただ、ぼうっと声を聞く。

 マウスのクリック音、キーボードの打鍵、そしてイオリの笑い声。どれも心地よく、夜の静けさに溶けていく。

(……こうしてるだけで、いいかもしれない)

 イオリの声はずっと楽しげで。
 何を話しているのかまではわからなくても、その声のトーンだけで本当にゲームが好きなんだなということがわかる。

(……本当に、楽しそうだな)

 胸の奥が少しだけざわつく。けれど、それ以上の感情に名前をつけることはできなかった。

 俺はただ、クッションに寄りかかって、モニターに映る光をぼんやりと眺めていた。どれくらい経ったのかも、もうわからない。

 そんな時、不意にイオリが笑いながら息を吐いた。

「じゃあ――今日はここまでにしとこうかな」

 モニターの向こうから「えー!」「もう終わり!?」という声が聞こえた気がした。

 イオリはそれに軽く笑って、「また明日。お疲れさま、みんな」と言い、配信を締めくくる。

 カチ、と小さな音がして、配信がオフになる。それと同時に、静寂が戻ってきた。


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