93℃の執着

UTAFUJI

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第一章

16話

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気づけば、外はすっかり暗くなっていた。

 いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。
 カーテンの隙間から覗く夜の気配が、ぼんやりとした意識に染み込んでくる。

 寝返りを打つように上体を少し起こし、ベッドサイドに置かれたグラスに手を伸ばした。
 指先に触れたグラスはひんやりとしていて、中の水も冷たい。どうやら、俺が眠っている間に何度か入れ替えてくれていたようだ。

 ちゃんと寝たからか少しだけ身体も軽くなった気がして伸びをひとつした時、そこで初めて、自分が着ているものに気がついた。

 ふと見下ろせば、スウェットを着せられている。肌に触れる柔らかい布地は、自分のものよりもずっとゆるく、袖も裾も余っている。
 どうやら、寝ている間に着替えさせられていたようだった。

「……イオリ」

 小さく名前を呼んでみるが、返事はない。寝室の空気は静まり返ったままで、人の気配はない。

「イオリ、いないのか?」

 仕方なく、重い腰を上げて寝室の扉を開け、廊下を歩く。すると、どこかの部屋から、かすかに声が漏れていた。耳を澄ますと、それはイオリの声だ。

(……誰かと電話してんのか?)

 気になって、そっと足を運ぶ。
 扉の前で一度立ち止まり、ノックしようかと迷ったが、そのままゆっくりとノブに手をかけた。

 ゆっくりと、ドアを開ける。

 そこにはモニターに向き合うイオリの姿があった。
 こちらに背を向けているのでどんな顔をしているのかは、ここから見るとこはできない。ヘッドホンをつけ、砕けた口調で誰かと楽しそうに話している様子を見て、こっちが”素”なんだろうなと思った。

(楽しそうだな)

 ゲームをしているのだろうか。時々声を荒げたり、笑ったりしている。そんな姿はこれまで見たことがなく、何故だか新鮮で、気づけばドアの隙間から、その様子を見るのに夢中になっていた。

「はぁ……やべ、もう水ないわ。ちょっと取ってく……」

 イオリがそう言いながら椅子を回した、その瞬間、目が合った。

 時間が止まる。驚きで固まるイオリと、反射的に体を強張らせた俺。互いに言葉が出ないまま、視線だけが宙を漂った。

「……だ、大丈夫か?」

 ようやく絞り出した声は、妙に上ずっていた。イオリはハッと我に返り、目を見開いたまま、慌ててマイクに手を伸ばす。

「ちょっ……!ちょっと待って!喋んないで!」

 裏返った声が室内に響く。

「今、ミュートするんで!ほんとに!ちょっとだけ喋んないで!!」

 焦ったようにキーボードを操作し、マイクを切ったらしいイオリは深く息を吐いた。
 イオリは肩を落とし、ヘッドホンを外しながらゆっくりと振り向く。その頬はほんのりと赤く染まっている。

「……っ、びっくりした……」

 絞り出すような声でそう呟きながら、視線を逸らした。その仕草が、なんとなく気まずくて、俺もつられて目を逸らす。

「なんか、ごめん。驚かせて」

「いや!あの、目、覚めたんですね。体は、大丈夫ですか?風邪ひいちゃうかもなんで、とりあえず向こう行きましょ」

 言われるまま、廊下を抜けてリビングへ向かう。
 夜の静けさに包まれた部屋は照明が柔らかく灯っていて、空気もほんのり暖かい。
 イオリが先にキッチンへ回り、冷蔵庫からペットボトルを取り出してグラスに注ぐ。

「はい……どうぞ」

「ああ、ありがと」

 受け取ったグラスは、指先に心地よい冷たさを残す。ひと口飲むと、乾いた喉が少し落ち着いた。
 その間、イオリは何かを言いたげにこちらを見たり逸らしたりして、落ち着かない様子だった。

「……さっきの、見ました?」

 不意に問われて、俺は少しだけ首を傾げた。

「え?ああ、ゲームしてた、よな?」

「っ……はい、まぁ……そんな感じです」

 曖昧に笑いながら、イオリは頭を掻く。その仕草がいつもより幼く見えて、つい肩の力が抜ける。

「声かけない方がいいのかなって思って、タイミング伺ってたんだけど……あんなに驚かれるとは思ってなくて。悪かった、と思ってる」

「いや、俺も……声荒げちゃって、すみません」

 イオリは目を伏せて、少しだけ唇を噛んだ。
 その頬がまだほんのり赤いままだったのを見て、思わず目を逸らす。

「ゲーム、つけっぱなしだったけどいいの?大丈夫?」

「う……大丈夫ではないんですけど」

 少し困ったように眉を下げて、イオリは小さく笑った。

「シキ様が起きたなら……その、側にいときたいなって、思っちゃって」

 へへ、と照れくさそうに笑いながら頬を掻く。その仕草に、なんとなく胸の奥が温かくなって、思わず息が漏れた。

「なので、一旦終わらせてきますね」

 イオリがそう言って立ち上がろうとしたのを、俺は思わず手で制した。

「別にいいだろ、そのままで」

「えっ?」

 戸惑ったように瞬きをするイオリに、俺はグラスをテーブルに置いて、ゆっくりと言葉を続ける。

「お前がゲームしてるところ、見たいんだけど。……見てちゃダメか?」

 その言葉に、イオリの動きがぴたりと止まる。
 わずかに息を呑んだ気配がして、次の瞬間、耳の先まで赤くなるのが見えた。

「っ、い、いやその……あの……ぅ、あ……」

 言葉にならない音を漏らしながら、額を押さえて俯くイオリ。観念したように、ひとつ深く息を吐くと、小さな声で続けた。

「実は俺……ゲーム配信してて。さっきのも、その……配信中で」

 言いにくそうに目を逸らし、声のボリュームも徐々に小さくなっていく、そんな姿が妙に可笑しくて、つい口の端が緩む。

「へぇ、配信ね」

「……っ、だから、その、見られると、恥ずかしいというか……」

 イオリが言葉を選んでいるのを見て、わざと軽い声で被せてやる。

「……俺が近くにいたら、邪魔ってこと?」

 意地悪く問いかけると、イオリはぎくりと肩を跳ねさせた。焦ったように両手を振って、必死に否定する。

「ち、違います!全然!そういう意味じゃなくて!」

「じゃあ、決まりだな。後ろで見てる」

「え、あ、いやっ、それは……っ!」

 うろたえるイオリの声が、夜のリビングに溶けていく。その必死な姿を見ながら、俺はグラスを持ち上げ、冷たい水を飲んだ。喉を潤すと同時に、ふっと笑みがこぼれる。

 このまま言い訳を重ねても、イオリが逃げきれないことくらい、もうわかっていた。

 グラスをテーブルに戻し、俺はゆっくりと立ち上がる。そして、まだ言葉を探しているイオリの服を掴んだ。

「待たせてるんだろ?」

「えっ、あ、いや、シキ様、ちょ、ちょっと!」

「ほら、戻るぞ」
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