93℃の執着

UTAFUJI

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第二章

9話

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 木曜日の夜。

 とうとう、約束していた日がやってきた。レイとのサシ飲みの日。

 俺は一足先に勤務を終え、着替えを済ませて、休憩室のソファに腰を下ろしていた。

 スマホの時計を見ると、まだ数分しか経っていない。レイの勤務が終わるまでには、もう少しかかりそうだった。

 少し間を持て余して、スマホのロックを外す。通知欄には、姉ちゃんからのメッセージがひとつ、ぽつんと届いていた。

『今日は何食べるのー?』

 そんなメッセージを見ながら、この数日間のことが、ふと脳裏をよぎる。

 姉ちゃんの“心配”は、あの日を境にさらに加速した。

 ついには『夜ごはんなに食べたか報告すること』というルールまで作られてしまった。さすがに拒否したものの『元はと言えば、不健康な食事を摂ってたお前が悪い』と論破され、観念するしかなかった。

 そんなわけで、俺は写真付き報告を数日間、真面目に続けている。ここ三、四日は久々にちゃんと自炊もした。
 作った野菜炒めを撮って送れば、「えらい!」のスタンプ。カレーを送れば、「好き」スタンプと一緒に、自分の夜ご飯の写真まで飛んでくる。

 とりあえず今日は外食だから、写真はなしってことでいいだろ。

『今日はレイと飯』

 それだけ打ち込んで送信。

 既読がつくのを確認するでもなく、スマホを伏せかけて、ふと画面左上の未読通知に気がついた。

 まだ少し時間あるし、ついでに他のメッセージも返しとくかとトーク一覧を開く。公式アカウントに紛れて、依織からのメッセージも届いていた。

『今日もありがとうございました!クッキーまでおまけしてもらっちゃって、すみません…』

 ああ、そういえば。
 お昼に依織が来たとき、店長が余ってた試作品の焼き菓子を、こっそり添えて渡していた。それを、わざわざこうしてお礼を言ってくるあたり、ほんと依織らしい。

 俺は軽く指を動かして、メッセージを打ち始める。

『あれは試作品だから、気にすんな』

 送信して数秒後。メッセージに「既読」がついたかと思えば、すぐ様に返信が飛んできた。

『あのクッキーすごく美味しかったです。メニューに追加されるんですか?』

 その返信を見て、少し笑ってしまった。どんなクッキーでも、美味しいって言ってくれるんだろうな、こいつは。

 俺は指先を止めたまま、しばらく考える。メニューに追加されるか、なんて俺が決めることじゃないけど素直なその感想が、なんか嬉しかった。

『店長に伝えとく。きっと喜ぶ』

 そう返信を終えた、その瞬間。

 バンッ!という派手な音とともに、休憩室のドアが勢いよく開け放たれた。

「お待たせーーっ!」

 声の主はレイ。制服の上着を片手にぶら下げたまま、にっこり笑って立っている。

「着替えるからもうちょい待ってて!すぐ済ませるから!」

 こっちの返事も待たずにレイはネクタイをゆるめ、シャツの裾をちょっと引っ張りながら、勢いのままロッカールームへ足早に消えていった。

 俺は内心で苦笑しながら、ソファに背中を預け直す。
 スマホの画面には、さっきの依織とのやり取りがまだ残っていたけど、電源ボタンを押して、それを閉じた。

 ロッカールームの奥から、シャツを脱ぐ衣擦れの音や、ハンガーが揺れる小さな音が聞こえてくる。
 そんな音を背に、俺はもう一度背もたれに身体を預けて、ぼんやりと天井を見上げた。

 やがて、パタパタと軽い足音と共に、レイが現れる。

「よしっ、準備完了!」

 俺の目の前に現れたレイは、いつものきっちりしたコーデじゃなかった。
 ゆるっとしたパーカーに、黒のカーゴパンツ。シンプルでラフな服装なのに、変に目を引くのは、たぶん顔のせいだろう。

「……今日はずいぶんラフだな」

「うん、たくさん飲む予定だし!動きやすい方がいいかなって!どう?」

 そう言って、レイはくるっとその場で一回転してみせた。
 パーカーの裾がふわりと揺れて、ちょっとだけカジュアルな雰囲気が、いつもより年相応に見える。

「悪くない、と思う……いや、似合ってる」

「シキくんにそう言ってもらえると、素直に嬉しい!!ありがとね」

 俺の言葉を聞いて、レイは目を細めてふわっと笑い、俺に手を差し出してくる。

「じゃ、行こっか。お腹空いたでしょ?」

 一人で立てるのにな、なんて思いながらも、その手に軽く手を添えて立ち上がる。
 けれど、添えただけのつもりだった手は、レイにそのまま、ぎゅっと握られた。

 あれ、離さないんだ?なんて思っているうちに、その手を引かれて、俺たちは休憩室をあとにした。手を繋いだまま、店の裏口を抜けて、人気のない路地に出る。

「歩きづらくないのか?」

「寒いから、駅まではこのまま!」

「駅って、今日飲む場所って駅前じゃねぇの?」

「んーん、シキくんの最寄り駅の近くに、いいお店あったから。そっち行きます~!」

 さらっと言われたその一言に、俺の足がほんの少しだけ止まりかけたのを、レイは気づいてたのかいないのか。そのままの手をぎゅっと引っ張って、振り返りながら笑った。

「今日は、シキくんが帰りやすいとこ優先で選びました!」

 その笑顔がまっすぐすぎて、返す言葉を探す前に、また一歩、レイが先を行く。それに慌てて俺も引っ張られるように着いていく。

 結局、俺たちは、駅までの道を手をつないだまま歩いた。俺が内心でそわそわしてる横で、レイは何気ない顔で、それでもどこか嬉しそうだった。

 まぁ最初は少し気恥ずかしかったけど。冷たい夜風にさらされるうち、レイの手の温もりがありがたく感じてきて。それが妙に心地よくて、結局、文句ひとつ言えずじまいだった。

 改札を抜ける時、レイは少し名残惜しそうな顔で、ようやく手を離した。でもその指先は、離れるギリギリまで俺の手を丁寧に包んでいた。

 電車に乗り込んで、俺はドアの近くのポールにもたれかかる。レイは吊り革にぶら下がりながら「俺、何気にこっち側あんま来たことないかも~」と目をキラキラさせてる。

 ホームを出発して数駅。
 いつもの見慣れた景色が流れ、やがて俺の最寄駅に着く。

「シキくん、降りるよ~」

「わかってる」

 レイの声に頷いて、俺はポールから身を離した。駅の構内は、人の姿もまばらで、足音がコツコツと夜の空気に響く。

「ねえねえ、お店さ、改札出てからちょっとだけ歩くんだけど。大丈夫?寒くない?」

「ん、大丈夫」

「本当!?寒かったら俺が上着貸してあげるからね!」

「上着…?お前パーカー脱ぐの…?」

 軽口を交わしながら、俺たちは改札を抜けた。
 駅前の明かりが、ゆっくりと後ろに遠ざかっていく。

「こっちこっち、もうすぐだよ」

 しばらく歩いたところで、レイが笑いながら歩幅を早める。少し前を歩くその背中は、夜道の中でもやたらと明るく見えた。

「そんなに急がなくても店なくなんねーよ」

「やだやだ、待たせちゃったぶん、早く連れて行ってあげたいの!」

「はいはい」

 歩道に響くスニーカーの音が並ぶ。ひんやりした風が通り過ぎたけど、近くにレイがいると、それだけで不思議と寒くない気がした。
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