九つ憑き あやかし狐に憑かれているんですけど

うわの空

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1巻

1-1

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 第一話 土屋霊能事務所


 ――待て待て待て待て!
 猛スピードで走り去るワゴン車を見つめながら、私はそう念じまくっていた。
 黒のワゴン車は、通行人わたしに雨水がねたことはもちろん、それに驚いた私がバランスを崩して転倒したことにすら気づいていないらしい。
 路地を左折していく憎き車を、私は濡れたアスファルトにいつくばったままで見送った。

「……あいたたた」

 のろのろと身体を起こし、怪我けががないか確認する。派手な転び方をしたわりにはかすり傷ひとつなかったけれど、泥水を吸った白のブラウスはり色に変色しているし、チノパンには見たこともないダメージが入っていた。

「最っ悪……」

 独りごちたところで、ワゴン車も真っ白な服もかえってはこない。私は途方に暮れつつも、トートバッグから飛び出た私物を集め始めた。
 大学の図書館で借りてきた本、ペンケース、財布、スマホ。
 図書館の本は、よりにもよって水たまりの中に落ちている。スマホの画面には蜘蛛くもの巣状のヒビが入っているし、プラスチック製のペンケースは落とした衝撃でふたが開いたのか、中身が四方八方に散らばっていた。

「……どうしてこう、毎日毎日」

 ぼやきかけた私の背後でかしゃんと軽い音が鳴る。振り返ってみれば、お気に入りのバレッタが割れていた。ハーフアップにしていたセミロングの髪が、だらりとほおに落ちてくる。
 ――毎日毎日、どうしてこんなに運が悪いの!
 世界の中心で、私はなげいた。


       *


「……のうちゃん、今回のはさすがにやばくない?」

 アルバイト先の休憩室で私の話を聞いていた先輩が、ごく真面目な顔でそう言った。彼女の視線は現在、私のスマホにできたヒビへと向けられている。

「我ながら本当に運が悪いですよね。スマホは最近買い替えたばっかりですし、あのブラウスだっていつも着てるカットソーよりかは高い――」
「違う違うそっちじゃない。もうちょっとで大事故になってたかもしれないって話」

 先輩は私をおどすように、ハスキーな声をより低くした。

「スピードを出した車がこうしながら近づいてきたんでしょ? もしかするとぶつかってたかもしれないし、転んだところをかれてた可能性もあるじゃない。いつもの『加納ちゃんのツイてなかった話』とは次元が違うというかさ、下手すれば……」

 それ以上言うのははばかられたのか、先輩はウーロン茶にそっと口をつけた。
 ちなみに『加納ちゃんのツイてなかった話』とは、テレビやラジオの番組名ではない。私――加納九重このえが実際に体験した不運な出来事を、バイトの休憩中にまかないを食べながらグチグチと語っているだけである。
 旅行に行けば大雨が降る。買い物から帰って来たら卵がすべて割れていた。電化製品が保証期限を三日過ぎたところで壊れた。
 いつも話す内容は大体こんな感じで、笑い飛ばせるものばかりだ。休憩室の空気が重くなることもない。
 けれど。
 ――もうちょっとで大事故になってたかもしれないって話。
 言われてみれば、今回の不運は今までのそれとは少し違っていた気もする。一歩間違えれば大怪我をしていた。私が車に轢かれる可能性だって確かにあったのだ。
 私はたちまち不安になった。
 話が重くなったせいか、気まずい沈黙が続いた。休憩室に備え付けられている小さなテレビから、女性の低い声のナレーションが聞こえてくる。

『ちょっとした肝試し……。武内さんはそう考え、友人と冷たいはいおくに足を踏み入れてしまったのである。それが、恐ろしい世界への第一歩になるとも知らずに……』

 どうも、心霊番組の再放送らしい。夏が近づくとこの手の番組が増える。
 再現VTRでは、興味本位で心霊スポットに向かった男性二人が霊の恨みを買ってしまい、帰宅後も様々な怪奇現象に悩まされ続けていた。
 私も先輩も、気まずさから逃れるためにそのテレビを観ていた。けれどもやがて、先輩がこわごわとこう切り出した。

「……ね、加納ちゃん。大学生にもなって真面目にこんな話するのもアレだけどさ、そのー……こういうのに覚えはないよね?」
「こういうの?」

 先輩の視線の先を追う。心霊スポット潜入後、不運な出来事に襲われていた若者たちが霊能者のもとを訪れていた。
 霊能者が真剣なおもちで言う。

『十体いてますね』
「まさかとは思うけど加納ちゃん、不運なことが起こる前に心霊スポットに行ったりしてないよね? なにかに呪われてるとか……」
「ええ? いや、そんなことは」

 私が否定すると、「だよねー」と先輩はそうごうを崩した。

「ごめんね、変なこと聞いちゃって。テレビであんなこと言ってるからさー、つい」
「いえ……」
「幽霊だの呪いだの、思い当たるふしがあるほうがおかしいもんねえ。あはは」

 先輩が笑う。私はあい笑いしたまま押し黙った。
 ――正直なところ、思い当たる節はあった。
 けれど、「こんな話」をしたところで誰が信じてくれるだろう。率先して話したいような内容でもないし……。
 私が考え込んでいると、テレビの中の霊能者が言った。

『あなたが部屋に入ってきた瞬間ね、すっと空気が冷たくなったんですよ。それくらいの悪霊にとり憑かれています。もうね、いつ死んでもおかしくない』

 ……絶妙なタイミングで嫌なことを言ってくれる。重たい空気が再び私たちのもとを訪れた。それに耐えきれなくなったらしい先輩が、「そうだ」と明るい声を出す。

「さすがに霊能者はおおだしさ、占いにでも行ってみれば? 運気が上がる方法、聞けるかもしれないよ」
「へ? あ、ああ! そうですね!」

 先輩の発言を全力で肯定する。とっぴょうもない提案ではあるものの、私に気を使ってくれていることがひしひしと伝わってきたからだ。
 至極微妙なこの空気を解消すべく、私と先輩はいびつなくらいほがらかに笑った。

「やっぱ女子なら占いだよね! そうだ、占いならさ、私の友達が通ってる店を紹介できるよ。三千円くらいでみてもらえるし、結構当たるんだって。ね、どう?」
「えっ! あ、いやえーっと……」

 まさか本格的にすすめられるとは思っていなかった。私は中途半端な笑顔を作ったままで言う。

「あの、今月はちょっと余裕がないんで、占いはまた今度行ってみます……」

 声が尻すぼみになっていくのが自分でもわかる。先輩が「ああー」と残念そうな声を出した。
 というのも、私は二か月前――今年の四月から一人暮らしを始めたばかりの学生で、簡単に言うならお金とまったく縁がないのだ。学費は奨学金、生活費は中華料理店でのバイト代と貯金のみでなんとかやりくりしている。
 親とは三歳の頃に別れてそれきりだし、私を育ててくれたおばさんは最近身体を悪くして入院したところだ。まさか『占いに行くからお金を貸してください』とも言えないだろう。
 先輩は「そういや加納ちゃん、バイトを掛け持ちしたいって言ってたもんね」と難しい顔でつぶやいた。振り払ったはずの重い雰囲気が、あっという間に舞い戻ってくる。気を使わせて申し訳ないなと思っていると、先輩が「それじゃあ」と次なる提案をしてきた。

「ちょっとした開運グッズを持ってみたらどう? パワーストーンとかさ。神社で売ってるお守りなんかでもいいし」
「あっ、お守りなら持ってますよ。結構かわいいやつ」
「ほんと? どれ?」

 なごんだ空気にほっとして笑いあう。ところが、私がお守りを取り出して見せた途端、先輩はまたもや難しい顔をした。

「加納ちゃん……それ、どんぐりじゃない?」
「はい。かわいいですよね」
「いや、かわいいけどさ」

 どんぐりじゃない、と先輩は繰り返した。
 私にとってのお守りは、一粒のくぬぎの実だった。子供の頃から持ち歩いているそれは丸っこくて、ニスを塗ったようなこうたくがある。帽子はついていないけれど、見ているだけでなんとなく幸せになれる。そんな不思議なしろものだった。

「それ……虫とか出てこない? 大丈夫?」
「かれこれ十五年くらい持ち歩いてるんですけど、今のところ大丈夫です」
「十五年も持ってるの? よく割れないね……ちょっと感心した……」

 感心というよりドン引きに近い表情で先輩が言った。

「でも、なんでそれがお守りなの? 誰かにもらったとか?」
「いや……実は、どこでこのどんぐりを手に入れたのか覚えてないんですよ。多分、遠足で拾ったものだと思うんですけど」
「覚えてないのにお守りなの?」
「はい。子供の頃から大切にしてたので、今となっては愛着があるというか」
「……そっか。まあ、そういうものって誰にでもあるよね。うん、否定はしない……」

 半ば脱力気味に先輩は言った。私は失くさないように、どんぐりを鞄の中にしまう。
 テレビを見ると、心霊写真とともにクレジットタイトルが流れ始めていた。
 午後五時。飲食店はこれから忙しくなるだろう。私は髪をヘアゴムで結び、嫌な空気を店内に持ち込まないよう気合を入れなおした。


       *


 先輩にどんぐりを見せた翌日。教授の都合で午後の講義がなくなった私は、大学の最寄り駅周辺を一人で散策していた。
 駅前はそれなりに栄えていて、有名なファストフード店やドラッグストア、おしゃれな喫茶店や雑貨屋など、大学生に好まれそうな店が数多くある。私の好物であるきつねうどんを、一杯二百五十円で提供している店まであった。
 ――ここら辺なら駅から近くて便利だし、掛け持ちのバイトをするのにうってつけなんだけどなあ。
 私はのんびり歩きながら、スタッフ募集の張り紙をひとつひとつ確認していった。しかし、ピンとくるものになかなかめぐり合えない。
 この求人は講義と時間がかぶる。こっちの求人は、中華料理店のバイトと時間が被る。この求人は資格が必要……。
 私はうんうんうなりながら、求人情報を見て回った。すると知らないうちに、雑居ビルの林立する場所にたどり着いていた。
 どこか寒々しい灰色の建物は、あまり活気があるように見えない。通りにはひともなく、あたりは静寂に包まれていた。
 特に目的もなく、どのビルにどんな店が入っているのか目視しながら歩いていく。すると、かぐわしい香りがふいに私のこうをくすぐった。
 匂いにつられて視線を向ける。
「コーヒーショップ・リカー」という看板が目についた。
 ――変わった名前だなあ、コーヒーなのかお酒なのかよくわかんないや。
 ガラス張りのコーヒーショップにそっと近づき中をのぞく。店内にはカウンター席とボックス席があり、カウンターの後ろにはコーヒー豆の入った瓶が並んでいた。コーヒー豆の販売も行っている喫茶店、といった様子だ。暖色の照明とシーリングファンがとてつもなく高級なものに見えて、私には敷居が高すぎると感じられた。
 ――客だと間違われないうちに帰ろう。
 そう考え一歩後ずさった私は、なぜか唐突にバランスを崩した。

「わっ……!」

 踏ん張りがきかず後方へとたたらを踏む。私の足に当たった何かが、がたんと大きな音を立てた。いで、アスファルトにプラスチックをたたきつけたような酷い音。
 ぎりぎり転ばない体勢で持ちこたえた私は、おそるおそる後方を見る。
 黒板そっくりのウェルカームボードが足元に倒れていた。

「げっ……」

 ボードの盤面に大きなれつが生じている。私の頭は真っ白になった。
 ――しまった、壊しちゃった……!
 ボードが倒れている場所からして、コーヒーショップのものだろう。そう思い、私はボードの文字を読んだ。そして、我が目を疑った。


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 ――怪しい。
 最初の感想はこれだった。
 なにこの怪しい文句。悪霊退治をうたう看板なんて生まれて初めて見た。こんな事務所、実在してるんだ……。
 コーヒーショップの隣に目をやると、そこには確かに階段があった。あの階段をのぼった先が、「土屋霊能事務所」なる場所なのだろう。それはわかったけれど、だからといってこの階段を上る人間が存在するのだろうか。こんなにさんくさいのに。
 私は、階段からウェルカムボードへと視線を戻した。盤面の傷は「気のせい」で済むレベルではない。おそらく、持ち主に弁償する必要があるだろう。
 怪しい事務所に行く。ボード代を弁償する。それらを考えるだけで涙が出そうだった。

「でも、壊しちゃったのは私だし……」

 ウェルカムボードを立たせて、階段に向かう。下から見上げれば、窓も照明もあるのにどこか薄暗い空間が続いていた。……すでに心が折れそうだ。
 ――けれどこのまま謝りもせずに立ち去れば、小心者の自分は一生後悔するに違いない。
 私は腹を決め、階段に片足をかけた。
 暗い階段を上りきると、真正面と左手に扉がひとつずつあった。
 真正面の扉には「WC」と書かれた小さなプレートがあり、その下に「土屋霊能事務所専用」と書かれたコピー用紙がテープで貼り付けられている。
 左手側の扉にはすりガラスがはめこまれていて、そこに「土屋霊能事務所」と彫られたプレートが固定されていた。
 ――ここか。
 緊張のあまり鼓動が速まる。私は落ち着くために深呼吸を繰り返し、胸――ではなく首筋に左手をあてた。ドラマなんかでよく、胸に手をあてて落ち着くシーンがあるけれど、私の場合それはなぜか胸ではなく首だった。

「……よし」

 事務所の扉をノックするため右手を上げる。まさにその時、すりガラスの向こうでふらりと人影が動いた。

「ひっ――」

 私が短い悲鳴を上げるのと、扉が開くのはほぼ同時だった。

「……うちになんか用?」

 扉を開けた若い男性が、いぶかし気な表情で問いかけてくる。私は男性の顔を見ながら、こくこくと頷いた。
 男性は、実に不機嫌そうな顔をしていた。
 眉間には二本のしわがくっきりと刻まれているし、口角は下がっている。目つきも鋭く、絵に描いたようなぶっちょうづらだと私は思った。
 彼の髪にも自然と目がいく。くせなのかパーマなのかはわからないが、とにかくあちこちにはねまくっているのだ。結果、無造作ヘアにも寝ぐせにも見える、不思議な髪型に仕上がっていた。
 服装は、ポケットの数がやたらと多いカーキのミリタリージャケットに、サイドポケットのついた黒のパンツ。……どちらも見るからに冬物だ。今は六月なのに。

「で、なんの用」

 二十代半ばほどの男性は、なかなか話し出そうとしない私に対しあからさまに眉根を寄せた。彼のこの顔を見て、ご機嫌だと判断できる人間はまずいないだろう。
 ただ、身長百六十センチ弱の私とほとんど変わらないその背丈のおかげで、威圧感だけは若干緩和されている。あくまで「若干」だが。
 ――店の備品を壊したなんて言ったら、怒鳴られるか強請ゆすられるかしそう……。
 私は泣き出したい気持ちをこらえ、階段の下を指さした。

「す、すみません。このお店のウェルカムボード、壊しちゃって……」
「あ?」

 男性の顔つきが一層けわしくなる。その表情のまま階段の下を覗き込む男性に、私は再度謝罪した。

「私が思いっきり倒しちゃって、その時にヒビが入ったみたいなんです。あの、本当にすみません――」
「ヒビってのは一本だけか?」

 男性が言う。その高圧的な口調にされ、私は無言で頷いた。
 すると、男性が仏頂面のままでこう言った。

「それは元からだ」
「……え?」
「あのボード。あんたが倒す前から割れてんだよ」
「…………」

 ――なあんだ。
 緊張が一気に解け、その場にへたり込みそうになる。笑顔を取り戻した私は、元気よく男性に言った。

「あ、そうだったんですね! すみません勘違いしちゃって。それじゃあ私はこの辺で――」

 失礼します。
 そう言う前に、男性が「ところで」と声を出した。

「ずいぶん面白そうなきつねを飼ってんだな、あんた。そういうのが趣味なわけ?」

 私はぎょっとして、男性の顔を見た。男性は私の足元に視線を向けている。
 ――……なんで。
 なんでこの人は今、狐って言って……。

「もしかしてうちのボードを倒したのも、あんたじゃなくてそっちの狐なんじゃないか? 狐はイタズラ好きなやつが多いしな」

 どこまでも軽い調子で言われ、言葉に詰まる。そんな私を見て、愉快そうに彼は笑った。

「いいねえあんた、わかりやすくてさ。――これもなにかのえんだ。せっかくだし、うちでちょっと話していくか? 相談だけなら三十分五百円で乗ってやるけど」
「い、いやでも……」
「もしかして五百円、持ってないわけ?」
「いや、そんなことは……」
「そんじゃあどうぞ」

 を言わさぬ態度で男性が言う。
 押しに弱い私は「いや」と「でも」を繰り返しながら、事務所に足を踏み入れてしまった。


       *


 座るように勧められ、革張りの応接ソファにこわごわと着席する。男性がお茶をれに行っているすきに、事務所の中を見回した。
 デスク、パソコン、小さな金庫。ガラス引き戸の書庫に、背の高い観葉植物。
 ドラマで見る事務所をそのまま再現したような空間に、ほんの少しだけあんした。「霊能事務所」だなんて書いてあったものだから、もっと怪しげなグッズ――けの札や、呪いのわらにんぎょうなんかが飾られているものだとばかり思っていたのだ。
 私は息をついて、書庫に飾られている分厚い本に目をやった。

『呪術のすべて 末代までたたるための方法百選』

 ――見なければよかった。

「なにを一人でびくびくしてんだ?」

 背後から声をかけられ、私は肩を震わせた。男性は相変わらずの仏頂面で、みを私の前に置く。中身は緑茶のようだった。

「さて。そんじゃあこれから三十分、あんたと話をするけども」

 男性はそう言うと私の向かいにどかりと座り、右手を出してきた。

「五百円」
「……はい?」
「相談料の五百円。うちの事務所は『全額現金前払い』が鉄則なんでね。――今回、あんたがうちに依頼する仕事は『三十分間相談に乗ること』だろ? だから、その料金の五百円。前払いで」
「はあ……」

 ――きちんと話を聞いてくれるかどうかもわからないのに、先に代金を支払う必要があるのか。
 そう思いつつ、私はバッグからしぶしぶ財布を取り出した。偶然にも五百円玉が一枚入っていたので、それを男性に渡す。

「どうも。領収書いる?」

 ……意外とりちなんだな、この人。
 私が首を振ると、「じゃあこれ」と男性が一枚の紙きれ――名刺を差し出してきた。

「土屋だ。どうぞよろしく」

 言われて、名刺に目を落とす。そこにはこうあった。

『土屋霊能事務所所長 土屋はがね

 私は呆気に取られて、渡された名刺と、目の前にいる男性とを見比べた。
 ――所長? この、若くて仏頂面で敬語も使えない人が? てっきりスタッフか何かだと思ってたのに……。

「今すげー失礼な顔してるからな、あんた」

 不機嫌そうな男性――土屋の一言にはっとする。気づけば、不信感を前面に出してしまっていた。

「ま、別にいいよ。そういう顔する客ってわりと多いし。俺は熱血漢でもないから、『俺を信じろー!』なんてセリフを吐くつもりもないしな。――信じられないならそれでいい。三十分五百円のプチカウンセリングに来たつもりで、せいぜい日頃の不運を語っていけば?」
「えっ」

 ふいに出てきた「不運」という単語に反応してしまう。それを確認した土屋が、「本当にわかりやすい女だな」と笑った。

「……あの、どうして私が不運だなんて」
「狐」

 だしぬけに、そしてさらりと土屋が言う。

「さっきも言ったけど、あんたに狐が憑いてるから。そんなやつを連れて歩いてるんじゃ、常日頃イタズラされてんじゃないかと思っただけだよ」

 土屋はそこまで言うと、「ここから三十分測るからな」と自身の腕時計をいじり始めた。
 私は身を小さくして、上目遣いに土屋を見る。
 ――この人には本当に、狐の姿が見えているのだろうか。それとも、ただのあてずっぽうだろうか。
 疑念と期待がぐるぐるうずく。私は左手で首筋を押さえた。

「――そんで?」
「え?」
「狐と聞いて、なにか思い当たる節はないのか? あるなら話してくれたほうがいいんだけど」

 土屋の言葉に、私は口をつぐんだ。
 ――狐にまつわるエピソードならある。
 けれど誰も信じなかった話を、あるいは面白おかしくされた話を、今さら蒸し返したいとは思わない。しかもこんな、出会ったばかりの人相手に。
 私が黙り込んでいると、土屋は「まあいいけど」とためいきをついた。

「狐が憑いてるからといって、本人にその自覚があるとは限らないしな。ただ……そんな大型犬みたいなデカさの狐に憑かれてるとなると、あんた自身にも相当影響が出てるはずだ。たとえばあんた、油揚げが好物なんじゃないか? きつねうどんとかさ」

 言われてぎくりとする。私は思わず土屋に言った。

「それってやっぱり、狐が憑いてるのと関係あるんですか」
「はい引っかかった」

 土屋がにやりと笑う。私は「へ?」と間抜けな声を出した。

「あんたの好物と狐はなんの関係もねえよ。ただ、世間はなんでか狐と油揚げを結び付けたがるだろ。だからカマかけてみただけ」
「え、うそっ、カ――」
「『やっぱり』ってことは、狐について思い当たる節があるんだな?」

 私は口を結んだ。土屋が再び溜息をつく。

「あんたがなにも話さなくとも、俺は別にいいんだぜ。三十分、ここで適当な雑談でもしていくか? あんたが納得できるなら、俺はそれで構わない。ただ――」

 土屋は身を乗り出し、私の顔を見据えた。

「あんたは今、五百円で自分の『運』を変えられるかもしれないチャンスをつかんでる。そう考えたら、どうでもいい話で時間をつぶすのは馬鹿らしいと思わないか?」
「…………」
「話してみろよ。あんたが隠してること」

 土屋に促され、私は重たい口を開いた。


       **


【神隠しファイルその3 狐にさらわれた少女】

 平成*年、六月初旬。三歳の女児が行方不明になった。
 その女児は当時、田舎町にあるアパートで母親と二人暮らしをしていた。過疎化の進んだ町では仕事はおろか保育園もなかなか見つからず、母親は女児とともに日中を過ごし、夜間のみパートに出ていたという。
 事件当日、母親は女児に留守番を頼み、夜勤に出る。ところが朝方、アパートの自室に戻ると女児がこつぜんと姿を消していた。母親によると、女児の洋服や下着の一部、そしてリュックサックまでもがなくなっていたという。
 ――女児は、どこに行こうとしていたのだろうか。
 警察による捜索もむなしく、女児は発見されないまま月日が流れていく。その年は真夏日が続き、皆が女児の無事を願った。しかしその一方で、「誘拐」や「殺人」という噂も流れていたという。
 女児はもう死んでいるのではないか――考えたくもないそのイメージを、人々はふっしょくできずにいた。
 ところが、事件発生から四か月後の十月初旬、女児は無事に保護される。自宅から五百メートルほど離れた交番の前で泣き叫んでいたところを、警察官に発見されたのだ。
 女児は無傷で、栄養状態も悪くなく、自分の名前や年齢をしっかり答えることができた。しかし、行方不明となっていた四か月間については要領をえず、「山にいた」「川にも行った」「果物を食べていた」などと答えたという。
 三歳の子供が四か月もの間、一人だったとは考えにくい。
 警察官が「誰かと一緒にいたのではないか」とくと、女児は泣きながらこう答えた。

「コンコンといっしょにいた」

 ――コンコン。はたしてそれは、誘拐犯が名乗った名前だったのだろうか。それとも……。
 ここではこの事件を『神隠し』ととらえ、女児の言うコンコンを、隠し神としてはポピュラーな『狐』として考察していきたいと思う。


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