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1巻
1-2
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「――……なるほど。この『女児』があんたってわけか」
スマホでオカルト掲示板を黙読した土屋は、合点がいったような顔をした。
いつもならこの時点で「怪奇現象だ」とはやしたてられるけれど、土屋にはその気配がない。私はそのことに少し安心した。
「そんで? あんたはこの事件のこと、覚えてんのか?」
「いえ、まったくと言っていいほど。ただ、その後のことはよく覚えてます」
当時のことを思い出して、私は唇を噛んだ。
狐に連れていかれたなんて話、大人はともかく子供たちにとっては盛り上がるのに最適な怪談話だ。当時発行されていたオカルト雑誌にこの事件が取り上げられたこともあり、「狐に連れ去られた少女」の存在はあっという間に田舎町に知れ渡った。
交番で保護されてから数日だけ検査入院した私は、母親ではなく親戚に引き取られることになった。けれど、これもまたオカルトな方向に話を盛られてしまい、「狐憑きの娘を母親が拒絶した」なんて根も葉もない噂が広まった。私はともかく、私を引き取ってくれた親戚からすればいい迷惑だっただろう。
物心がついてからこの事件のことを改めて知った私は、それ以降、狐や誘拐事件に関する話題を避けるようになった。好奇の目を向けられたくなかったし、深く考えるのが恐ろしかったからだ。
そう。だから、私が狐について悩んでいるなんて、仲のいい子ですら知らないはずなのに――
「あんたを誘拐したコンコンってのは、そこにいる狐のことで間違いないだろうな」
土屋は、狐という単語をためらいなく使用した。
「このサイトにも軽く書いてあるけど、神隠しの犯人は狐や天狗が多いんだ。だからあんたを『隠した』犯人が狐だったとしても、俺からすればまったくおかしな話ではない。しかし……ただの狐憑きにしては不可解な点が目立つな」
「不可解な点?」
土屋は私のソファの隣――空きスペースを指さした。
「まず、そこにいる狐のデカさだ。……イタズラ好きで有名なのは『野狐』って種類の狐なんだが、そいつらは本物の狐よりも小柄であることが多い。なのにあんたの連れてる狐は、レトリバーくらいのデカさがある。毛色が金ってのも珍しいし……」
憑いてる年数も長すぎる、と土屋は呟いた。
「あんたの話を聞いてる限り、その狐はかれこれ十五年以上あんたのそばにいることになる。ただの狐にしては長すぎるんだ。――あんたにひどく執着し、交通事故まで起こしかねない悪質な狐となると……」
土屋はおもむろに立ち上がると、ずかずかと私のそばまでやってきた。私は反射的に、土屋から少しでも離れようと身体をのけぞらせる。
けれど土屋はそんな私を見ても躊躇せず、そして一切の断りもなく、私の髪をさっと払いのけた。
「ひっ、ちょ、なにっ……」
エアコンで冷やされた空気が首にあたった気持ち悪さと、初対面の男に髪を触られた不快感に肌が粟立つ。私はいつでも立ち上がれるように身構え、土屋を睨んだ。
けれど土屋は私の視線など気にもせず、晒された私の首筋を――そこにある痣を見ていた。歯型にも見える、奇妙な痣を。
「……やっぱり」
厄介なものでも見たかのように、土屋は顔をしかめた。
「間違いない、『コノツキ』だ」
――コノツキ。
聞き慣れないその単語に、私は首を傾げた。
「な、なんですかその、こ……?」
「コノツキ。『九つ憑き』の略称だ」
髪で痣を隠そうとする私に目を向けたまま、土屋は自分の席についた。
「単なる狐じゃなくて九つ――九尾の狐に呪われている人間のことを、昔からこっちの業界じゃコノツキと呼ぶんだ。……九尾に呪われている人間には、特殊な痣ができる。ちょうどあんたの首筋にある、犬に噛まれたような形の痣がな」
指をさされ、首の痣を押さえる。土屋はわずかに口角を上げた。
感じの悪い人だとは思う。けれど、相談していないにもかかわらず『狐』や『痣』について指摘してきた土屋という男の力を、私は少しずつ信じ始めていた。
……いや、でも。
「どうして一目でわからなかったんですか」
思いついた質問をそのままぶつける。けれど言葉足らずだったと思い、言いなおした。
「九尾の狐って、尻尾が九本ある狐の化け物ですよね? だったら、私に憑いてる狐を一目見れば、九尾だってすぐにわかったはずじゃないですか。なのにどうして首の痣を確認するまで――」
「一本しかないんだよ」
私の言葉を遮って、土屋が言った。
「あんたに憑いてる狐には、尻尾が一本しか残ってない。だから判断しづらかった」
「……尻尾が一本しかないのに、九尾?」
言葉の意味がわからず、私は呟く。土屋はジャケットのポケットに右手を突っ込むと、九枚入りの板ガムを取り出した。
「――ご指摘の通り、九尾の狐というからには通常、尻尾は九本ある」
そう言うと、真新しい板ガムの封を切り、机に並べ始める。ミントの香りがふわりと漂った。
九枚のガムをきれいに並べ終え、土屋は顔を上げる。
「ある日、九尾の狐が誰かを恨み、そして呪ったとする。そいつ――九尾に呪われた人間をAとしようか。九尾に呪われたAは、死ぬまで九尾にイタズラされ、不運なまま一生を終えることとなる。……ここまでは想像つくよな?」
私は頷いた。呪われた人間が不運なまま死んでいくというのは、小説や漫画なんかでもよく見る話だ。
私の反応を見た土屋は、「ここからが九尾の呪いの特殊なところ」と、一枚の板ガムの上に指を載せた。
「不運なまま死んだAの魂だが、よほどのことがない限りは転生することになる」
「転生?」
「輪廻転生ってやつだな。人間や動物の魂ってのは通常、輪廻転生を半永久的に繰り返すものなんだ。だから俺たちには『前世』があるし、『来世』もある。……ただし、ほとんどの生物は前世を覚えちゃいないから、輪廻転生なんて信じない」
それはいいとして、と土屋は机上のガムに目を落とした。
「九尾に呪われた存在――『コノツキ』であるAの魂ももちろん輪廻転生する。ただし、半永久的にじゃない。九尾に呪われると、呪われてから八回しか転生できなくなるんだ」
「八回……」
「そ。これが九尾の呪いの、最も特徴的かつ厄介なところだ」
土屋はそっと、板ガムを一枚手に取った。机の上には八枚のガムが残る。
「コノツキであるAが転生すると、九尾は尻尾を一本失う。代わりに、Aが『どこ』に転生したのか、そのおおまかな位置がわかるようになるんだ。そうして九尾はAを探し出し、またもや不運をもたらし続ける。Aが死ぬまで延々とな」
「それで、Aが死んでまた転生したら……」
「九尾は尻尾を一本失う代わりにAの転生先を知り、死ぬまで追い詰める。これの繰り返しだ」
土屋はそう言うと、並べた板ガムを一枚ずつ手に取っていった。
机上に残るガムは残り七枚、六枚、五枚、四枚……。
「この世に存在する呪いのほとんどは、『死ぬまで祟る』か『末代まで祟る』かのどちらかだ。ひとつの魂を、転生した後も追い続ける呪いなんてそうそう存在しない。……まさしく『死んでも許さない』ってやつだな」
土屋は淡々と説明しながら、ガムを取っていく。
残り三枚、二枚、……一枚。
「コノツキであるAが八回転生すると、九尾の尻尾は残り一本になる。――これが今のあんたの状態だ」
土屋がすっと顔を上げた。
「悪いことをした覚えもないのに九尾に取り憑かれていて、結果、不運な出来事ばかりが続く。……それだけでもウンザリしてるだろうが、今一番まずいのは『九尾の尻尾が残り一本しかない』ってことだ」
「……どういうことですか」
机の上のガムを見ながら私は言った。
土屋が、手に取った八枚のガムを私に見せる。
「コノツキとなった人間は、八回しか転生できないって言っただろ。……あんたはすでに、八回の転生を済ませてる。だから、このまま何もせずに死んだとすると――」
土屋は、机の上に唯一残っていたガムを手に取った。
「次に転生する前に、九尾の尻尾はゼロになる。そうなれば九尾の狐もろとも、あんたの魂は消滅してしまう」
しん、と室内が静まり返った。
私は土屋の手にあるガムを見つめた。非現実な話に頭がふわふわする。
仮に私が「コノツキ」という存在だとして、私に憑いている狐の尻尾が一本しか残っていないのだとしても、今すぐどうにかしなければとは思えなかった。ましてや魂が消滅するなどと言われても、大して危機感を抱けない。
私の心境を見透かしたように、土屋は肩をすくめた。
「ま、魂が消滅するだの来世がないだの説明したところで、いまいちピンとこないだろ。『転生なんてまっぴら御免、消滅するなら超ラッキー!』って考えのやつも結構いるしな」
「はあ……」
「だから、あんたにとって一番の問題は『不運な出来事が続く』ってことだろうな」
土屋は、板ガムを一枚一枚丁寧にパッケージへと戻し始めた。
「さっきも言った通り、九尾の呪いは『呪った相手の魂とともに九尾自身も消滅する』という自己犠牲をともなう。……そこまでして呪った相手の魂を、九尾がそうやすやすと消滅させてくれると思うか?」
私は首を振った。もはや嫌な予感しかない。
土屋は私の嫌な予感を、さらりと口にしてくれた。
「九尾の狐はこれからも、あんたをなぶり続けるだろう。あえて殺さず、延々と。……今日までの不運なんざなんでもなかったと思えるような、生き地獄を味わわせるためにな」
背筋に冷たいものが走り、私はぶるりと身震いした。部屋の温度が急激に下がった気さえする。
土屋は最後のガムをパッケージに戻すと、ジャケットのポケットにねじ込んだ。そして、ゆっくりと顔を上げる。
「……まだ間に合うぜ」
「え?」
「あんたの不遇、俺なら変えることができる」
土屋の表情は自信に満ち溢れていた。私はごくりと喉を鳴らす。
「それって……」
「九尾の狐の呪いは解くことができるんだ。――ただし、強力な呪いだけあって解くのも簡単じゃない。こればっかりはあんた自身の努力も必要になる」
嫌な言葉を聞いた。私はぎこちない笑みを土屋に向ける。
「えーっと、努力っていうのは……」
「『前世を思い出すこと』と『金を用意すること』。あんたがやるべきことはこのふたつだ」
金という言葉にぎくりとする。けれど、腰を浮かしかけた私を引き留めるように、土屋は早口で話し始めた。
「順を追って説明しようか。コノツキから九尾を引き剥がす方法は、『どうして九尾に呪われたのかを思い出し』『九尾に呪われた場所へと赴き』『第三者である霊能者に特殊な経を読んでもらう』という三ステップが必要になる。そして、どのステップも絶対に飛ばせない。――ここまでは理解できるか?」
「……なんとか」
「わかったけれど理解不能って感じの顔してんな。ま、その理由は察するぜ。前世なんて思い出せるのかっていう疑問だろ?」
私は首を縦に振った。まったくもってその通りだ。
輪廻転生というものが本当にあるのだとしても、自分の前世なんて一切記憶にない。むしろ、覚えている人間のほうが少ないだろう。それをどうやって思い出せというのか。
私がそんな疑問を口にする前に、
「楽とは言わないが、前世を思い出す方法ならあるぜ」
土屋がそう言いきった。私は半信半疑のままで問う。
「方法って……?」
「霊感をつけるんだよ」
土屋は即答した。
「前世の記憶をたどるのに、霊感ってのは必要不可欠なんだ。逆に言えばあんたも、霊感さえ上げてやれば前世を思い出せるようになる」
「霊感って……私、そんなの全然ないんですけど」
「知ってる。だからさっきから『つける』『上げる』って言ってんだろ」
土屋は笑い、ソファの背もたれに身体を預けた。そして、指を三本立てる。
「生来霊感のない人間でも、霊感が上がる場合がみっつある。ひとつは幼少期。ふたつは死ぬ直前。――そしてみっつめは、霊能者のそばにいる時だ」
前ふたつは聞いたことがあると思うぜ、と土屋は言った。
「子供の頃は幽霊が見えてたけれど今は見えないって人間は結構多いし、死に際の人間が黒い影や先祖の霊を見るっていうのもよくある話だ。……それじゃあどうして『霊能者のそばにいたから霊感が上がった』という話が出にくいのか。答えは単純。時間がかかるからだ」
「時間……」
「霊能者のそばにいれば数分やそこらで幽霊が見えるようになる。……そんな簡単な話なら、この世に生きる人間全員が『見える』ようになってもおかしくないだろ。――たとえばあんたも、霊能者である俺と出会ってからすでに二十分は経過してる。どうだ? なんか変なもん、見えたり聞こえたりしてるか?」
私は首を振った。聞こえているのは土屋の声だけだし、自分に憑いている狐の姿だって見えやしない。
それが普通、と土屋は言った。
「けれどもしも、俺と一緒に一年間生活したとすれば、あんたにも様々なものが見えるようになるはずだ。……あ、俺、ルームシェアとかそういうのはお断りだから」
私だってお断りだ、と土屋を睨んだ。
「――ただ、仮にあんたが前世を思い出したとしても金の問題が残る」
土屋はそう言うと腕を組んだ。
「あんたが俺に九尾退治を依頼すれば、当然ながら別料金が発生する。が、五百円を出すのも渋る学生が払えるような金額じゃないぜ。なんせ九尾自体が相当厄介な相手だし、あんたの前世まで絡んできてる話だからな」
私は頷いた。そして、今度こそソファから立ち上がろうとする。
――不運をどうにかしたいのは確かだけれど、土屋を雇えるだけのお金などない。五百円で狐の話を聞けただけでも良かったと思うことにしよう。
けれど、腰を上げる私を見て、土屋が「待った」と声をかけた。
「霊感と金。このふたつを同時に解決する方法がある」
「え?」
「あんたがうちで働けばいいんだよ」
「…………は?」
思いがけない言葉に私は唖然とした。自分の顔を指さして、金魚のように口をぱくぱくさせる。
「え、わ、私が? 働く? ここで?」
「そ。ここで俺と一緒に働けば、否が応でもあんたの霊感は上がるはずだ。そうすれば前世を思い出せるだろうし、金も手に入って一石二鳥だろ。――時給は一〇一三円、服装は自由、シフトはあんたの要望に合わせる。悪い条件じゃないと思うぜ」
土屋が頬を引きつらせるようにして笑う。私は困惑した。
時給は東京の最低賃金。けれど「シフトはこちらの要望に合わせてくれる」というのは魅力的だ。ここなら大学からも近いし、かけもちのバイトとしては比較的好条件といえる。
ただ、この事務所は――土屋という目の前の男は、本当に信用していいものなのだろうか。もしも霊感商法だったりしたら、私は犯罪の片棒を担ぐことになってしまう。
「……あんた、今すげー失礼な顔してるからな」
低い声で土屋が言った。
「安心しろよ。うちは詐欺グループとかそんなんじゃねーから。税務署に開業届も出してるし、税金もきちんと納めてるクリーンな事務所だ。公式サイトだってあるし、これでも『こっちの業界』じゃちょっとした有名人なんだぜ、俺」
「……へー」
「なんだその棒読みの『へー』は。……まあいい。要はあんたがバイトする気あるのかどうかってこと。うちの事務所はちょうど女性スタッフを募集してたから、あんたが来てくれれば助かるんだけどね」
少しだけ友好的な声で土屋が言ってくる。けれど私は首を振った。
いくら不運に悩んでいるとはいえ、こんな怪しい店で働こうとは思えない。
「えーっと、大変ありがたいお話なんですが、丁重にお断りさせていただこうかと……」
「あっそ。そんじゃ賭けるか?」
「え?」
土屋は私の背後に目をやり、にやりと笑った。
「あんたが九尾のいたずらに悩まされ続けて、再びこの事務所を訪れるようなことがあれば。……その時は文句を言わずに、最低賃金でここで働け。いいな?」
最低賃金という単語をやたらと強調して土屋が言った。私は頷く。
「わかりました」
「……ずいぶん簡単に承諾するじゃねえか。ほんとにわかってんのか?」
時給は一〇一三円で昇給なしだからな、と念を押してくる土屋に私は再び強く頷く。
――大丈夫。こんな変な事務所、二度と来ない。
土屋の腕時計のアラームが鳴り、『プチカウンセリング』の終わりを告げる。私はさっさと立ち上がった。
「じゃ、ありがとうございました」
また来いよ、などと縁起でもないことを言う土屋に頭を下げた。
そうして事務所の扉を開ければ、窓はあるのにどこか薄暗い廊下が私を出迎えてくれた。
来る時はあんなに不気味に思えた廊下との再会が、こんなに嬉しいものだとは。
私は笑みをこぼし、その場で深呼吸した。左手にトイレの扉があっても、外の空気がやたらと清々しく感じられる。
――狐の話を聞けただけで充分だ。ありがとう、怪しい霊能事務所。
スキップしたくなるような解放感を覚えつつ、階段を下りる。
それからわずか十秒後。
私はすごすごと、事務所に引き返すはめとなった。
「…………は?」
私の姿を確認した土屋の第一声はそれだった。
「は? なんで最速で出戻ってきてんだ? なんか忘れもんか?」
「いやそれが……」
私は首筋――そこにある痣に手をあてながら言う。
「今しがたスキップするように階段を下りていたところ、いきなりバランスを崩しまして……。この事務所のウェルカムボード、また倒しちゃいました……」
土屋があんぐりと口を開ける。私は付け加えるように言った。
「大きなヒビが一本増えてます……」
ついに土屋がふきだして、私は頭を抱えた。
――二度とここに来ない。そう誓った三十秒前の自分が情けなく、悲しかった。
「……あんたさ。さっきの賭けの内容、覚えてるよな?」
笑い声の合間に土屋が言う。私は頷いた。
――再びこの事務所を訪れるようなことがあれば、文句を言わずにここで働くこと。
「で、でも、今のは狐の仕業って決まったわけじゃないですし」
「狐のせいじゃないとも言いきれないだろうが。悪あがきすんな」
土屋にぴしゃりと言われ、私はうなだれた。ここまでくると、返す言葉もない。
「じゃ、明日にでも履歴書持ってきて。ボードの件は見逃してやるから」
見逃してやるとまで言われると、余計に弱みを握られた気分になる。私はついに、弱々しくも頷いてしまった。
私の首肯を見た土屋は、満足げにソファに腰掛ける。そして言った。
「どうやってスタッフを募集しようか悩んでたところだから助かるぜ。……『女心がまるでわかってない』だのなんだの言われながら髪を切るのも、いい加減うんざりしてたしな」
……髪を切る?
「あの、それって」
「あー。あと、言い忘れてたけど」
土屋がぱっと顔を上げた。
「あんたに憑いてる九尾を祓う料金。五百万だからよろしく」
…………。
ごひゃく、まん。
「ごっ、え、はあああ!?」
「うるせえ女だな。うち、『ぼったくりレベルで料金が高い』ってことで有名なんだよ。なんせ一流霊能事務所だからな」
「有名ってそっちの意味で!? ほとんど詐欺じゃないですか!」
大声でツッコミを入れる。けれども意に介する様子も見せず、土屋は言った。
「ま、週四日の六時間勤務で頑張れば、五年くらいで金も貯まるだろ。――あんたが五百万用意できたら、そこにいる九尾は俺が退治してやるよ。あ、さっきも言ったけどうち、全額現金前払いが鉄則だから」
土屋はにやりと笑い、言った。
「自分の不運を変えるためにせいぜい頑張れよ、コノツキ女」
私は土屋を睨んだ。が、土屋は私の視線に構うことなく板ガムを噛み始めた。
――私が土屋と出会ったこと。
これが幸運だったのか不運だったのかは、まだ、わからない。
第二話 隠された本音
「そんじゃ、これ」
土屋霊能事務所でのバイト初日。
所長、土屋鋼より私が仰せつかった仕事は――
「髪切っといて」
いわくつき人形の髪を切る、というものだった。
「……なんで! なんで私が髪を切るんです!?」
「俺よか器用そうだから」
眉間に皺を寄せて土屋が言う。いかにも機嫌の悪そうな顔だが、それが彼のデフォルトらしい。さらに言うなら、冬物のミリタリージャケットも先日見たものとまったく一緒だ。それが事務所の制服だとでもいうのだろうか。
そんな土屋は今現在、文庫本を読むのに夢中である。つまりは明らかに暇そうで、そのくせ働くつもりもなさそうだった。
私は、これと言われた人形に目をやった。
身長は三十センチほど。赤を基調とした花柄の着物をお召しになられた彼女は、いわゆる市松人形というやつらしい。
かわいかったんだろうと思う。
――髪さえ伸びていなければ。
「もとからこんな髪型の人形だった、なんてことありませんよね?」
「もとからそんな髪型の人形が存在するのか?」
淡い期待を抱いて質問したら、冷たい声でそう返された。「いないですよねー」と私はぎこちなく笑い、市松人形の髪へと視線を向ける。
ふくらはぎまで伸びている人形の髪は、誰がどう見ても長すぎるうえ、可哀想なくらいにぼさぼさだった。
――台風の中を一時間歩いた後、手ぐしで数回梳いただけなの。
そう言われれば納得できる酷さだ。さらに、唇の位置まである前髪は「人形の顔がまったく見えない」という最高の恐怖を演出していた。
「髪型は任せる」
話は終わり、といった口調で土屋が言いきった。なんで人形の髪が伸びているのか、どうしてその髪を切らなくてはならないのか。そういった説明は一切ない。
「…………」
市松人形と、その横に置かれたハサミとを交互に見る。伸びた前髪のせいで表情こそ窺えないものの、人形がこう言っている気がした。
髪を切ってほしい――
そうだ。彼女だって、こんなおかしな髪型のまま放置されたくはないだろう。
私は汗ばんだ手でハサミを取り、人形の髪にそっとあてがった。
ちゃんと切ってあげればいい。かわいい髪型にしてあげればいいんだ。
……しかし。
万が一にも失敗したら、私は多分、死ぬ。
「――ぶあっはははははは!」
私がハサミを手に取ってからおよそ三十分後。土屋霊能事務所は笑い声に包まれていた。
「笑い事じゃないです! ど、どうすれば……!」
私はあらゆる角度から市松人形の髪型を確認し、その都度絶望していた。その間ずっと腹を抱えて笑っていた土屋は落ち着くために息を吐き、ちらりと人形を見て、
「ひいーひっひっひっ!」
再び笑い出した。
――髪切っといて。そう言われたいわくつき人形は現在、前も後ろも斜めに切りそろえられた、アバンギャルドな髪型となっていた。
左は短く右は長く。斜めとぱっつんを組み合わせることで、流動的なスタイルを編み出しました。
プロならそう言えるかもしれない。しかしそれをやってしまったのはあくまで素人の私であり、大失敗とも大惨事ともいえる出来栄えとなっていた。
「の、呪われる……っ」
恐怖におののき私は言った。
短くなった前髪から覗く人形の顔は、やはりというかかわいらしく、けれども今は怒り狂っているように見えた。人形の背後に「怨」とか「憎」といった漢字が見える気さえする。
だというのに。
「へーきだよ。どうせまたすぐ伸びるからな」
笑いすぎて浮かんだ涙を拭いながら、土屋がそんなことを言った。私の顔から血の気が引いていく。
「また伸びるからって……それはそれで問題なんじゃないですか?」
「は? なんで?」
「なんでって……。人形の前でこう言うのも恐ろしいんですけど、髪が伸びるってことは呪いの人形なんですよね? 人に不幸をもたらすとかそういうのなんじゃ……」
私の言葉に、土屋は「あー」と伸びた声を出した。かと思えばにんまりと笑い、
「ま、もしもお前がその人形に呪われたりしたら、俺が五十万で祓ってやるから安心しろよ」
まったく安心できないことを言った。
色んな意味で落胆する私をよそに、土屋はうきうきした様子でスマホを取り出す。
「それにしてもこの髪型は画期的だな。面白いからうちのホームページに載せてやろ」
「やめてください! そんなことして心霊写真になったらどうするんですか!」
「そうなったら二度おいしいだろ、霊能事務所的な意味で」
「ば、罰当たり! やだもう、ちょっ、……やめてくださいってば!」
土屋と二人、斬新な髪型をした人形を奪い合う。
そうして私が人形を取り上げ、「もしも本当に呪われちゃったら土屋さんのせいですからね!」と叫んだその時だった。
「あのー……」
いつの間にか入り口に立っていた女性が、遠慮がちに声を出した。
驚きのあまり人形を落としかける私を、土屋がさっとフォローする。その顔からは、さっきまでの笑顔が消えていた。
女性は、私と土屋(と人形)の間に視線をさまよわせながらも、おずおずと話を切り出す。
「お取り込み中失礼します。こちらは土屋霊能事務所さん、ですか?」
「ああ。あんたは?」
「友人にこちらを紹介された者です。ええと、幽霊にまつわることで色々とご相談が」
「ふーん。あんたの近くにいる幽霊を成仏させたいのか?」
「え? あっ、はい。そうなんですけど……」
言い当てられたらしい女性が、困惑しつつも肯定する。土屋は女性の背後をじいっと見つめていたが、やがてその口角を上げた。
「いいねえ、金になるぜ」
そうして意気揚々と応接ソファに腰を下ろした土屋だが、数秒後には苦虫を噛み潰したような顔を私に向けた。
「……おいこら、いつまで面白人形を抱えてるつもりだ。客が来たら茶だろ、茶! わかったらさっさと持ってこい」
「――……なるほど。この『女児』があんたってわけか」
スマホでオカルト掲示板を黙読した土屋は、合点がいったような顔をした。
いつもならこの時点で「怪奇現象だ」とはやしたてられるけれど、土屋にはその気配がない。私はそのことに少し安心した。
「そんで? あんたはこの事件のこと、覚えてんのか?」
「いえ、まったくと言っていいほど。ただ、その後のことはよく覚えてます」
当時のことを思い出して、私は唇を噛んだ。
狐に連れていかれたなんて話、大人はともかく子供たちにとっては盛り上がるのに最適な怪談話だ。当時発行されていたオカルト雑誌にこの事件が取り上げられたこともあり、「狐に連れ去られた少女」の存在はあっという間に田舎町に知れ渡った。
交番で保護されてから数日だけ検査入院した私は、母親ではなく親戚に引き取られることになった。けれど、これもまたオカルトな方向に話を盛られてしまい、「狐憑きの娘を母親が拒絶した」なんて根も葉もない噂が広まった。私はともかく、私を引き取ってくれた親戚からすればいい迷惑だっただろう。
物心がついてからこの事件のことを改めて知った私は、それ以降、狐や誘拐事件に関する話題を避けるようになった。好奇の目を向けられたくなかったし、深く考えるのが恐ろしかったからだ。
そう。だから、私が狐について悩んでいるなんて、仲のいい子ですら知らないはずなのに――
「あんたを誘拐したコンコンってのは、そこにいる狐のことで間違いないだろうな」
土屋は、狐という単語をためらいなく使用した。
「このサイトにも軽く書いてあるけど、神隠しの犯人は狐や天狗が多いんだ。だからあんたを『隠した』犯人が狐だったとしても、俺からすればまったくおかしな話ではない。しかし……ただの狐憑きにしては不可解な点が目立つな」
「不可解な点?」
土屋は私のソファの隣――空きスペースを指さした。
「まず、そこにいる狐のデカさだ。……イタズラ好きで有名なのは『野狐』って種類の狐なんだが、そいつらは本物の狐よりも小柄であることが多い。なのにあんたの連れてる狐は、レトリバーくらいのデカさがある。毛色が金ってのも珍しいし……」
憑いてる年数も長すぎる、と土屋は呟いた。
「あんたの話を聞いてる限り、その狐はかれこれ十五年以上あんたのそばにいることになる。ただの狐にしては長すぎるんだ。――あんたにひどく執着し、交通事故まで起こしかねない悪質な狐となると……」
土屋はおもむろに立ち上がると、ずかずかと私のそばまでやってきた。私は反射的に、土屋から少しでも離れようと身体をのけぞらせる。
けれど土屋はそんな私を見ても躊躇せず、そして一切の断りもなく、私の髪をさっと払いのけた。
「ひっ、ちょ、なにっ……」
エアコンで冷やされた空気が首にあたった気持ち悪さと、初対面の男に髪を触られた不快感に肌が粟立つ。私はいつでも立ち上がれるように身構え、土屋を睨んだ。
けれど土屋は私の視線など気にもせず、晒された私の首筋を――そこにある痣を見ていた。歯型にも見える、奇妙な痣を。
「……やっぱり」
厄介なものでも見たかのように、土屋は顔をしかめた。
「間違いない、『コノツキ』だ」
――コノツキ。
聞き慣れないその単語に、私は首を傾げた。
「な、なんですかその、こ……?」
「コノツキ。『九つ憑き』の略称だ」
髪で痣を隠そうとする私に目を向けたまま、土屋は自分の席についた。
「単なる狐じゃなくて九つ――九尾の狐に呪われている人間のことを、昔からこっちの業界じゃコノツキと呼ぶんだ。……九尾に呪われている人間には、特殊な痣ができる。ちょうどあんたの首筋にある、犬に噛まれたような形の痣がな」
指をさされ、首の痣を押さえる。土屋はわずかに口角を上げた。
感じの悪い人だとは思う。けれど、相談していないにもかかわらず『狐』や『痣』について指摘してきた土屋という男の力を、私は少しずつ信じ始めていた。
……いや、でも。
「どうして一目でわからなかったんですか」
思いついた質問をそのままぶつける。けれど言葉足らずだったと思い、言いなおした。
「九尾の狐って、尻尾が九本ある狐の化け物ですよね? だったら、私に憑いてる狐を一目見れば、九尾だってすぐにわかったはずじゃないですか。なのにどうして首の痣を確認するまで――」
「一本しかないんだよ」
私の言葉を遮って、土屋が言った。
「あんたに憑いてる狐には、尻尾が一本しか残ってない。だから判断しづらかった」
「……尻尾が一本しかないのに、九尾?」
言葉の意味がわからず、私は呟く。土屋はジャケットのポケットに右手を突っ込むと、九枚入りの板ガムを取り出した。
「――ご指摘の通り、九尾の狐というからには通常、尻尾は九本ある」
そう言うと、真新しい板ガムの封を切り、机に並べ始める。ミントの香りがふわりと漂った。
九枚のガムをきれいに並べ終え、土屋は顔を上げる。
「ある日、九尾の狐が誰かを恨み、そして呪ったとする。そいつ――九尾に呪われた人間をAとしようか。九尾に呪われたAは、死ぬまで九尾にイタズラされ、不運なまま一生を終えることとなる。……ここまでは想像つくよな?」
私は頷いた。呪われた人間が不運なまま死んでいくというのは、小説や漫画なんかでもよく見る話だ。
私の反応を見た土屋は、「ここからが九尾の呪いの特殊なところ」と、一枚の板ガムの上に指を載せた。
「不運なまま死んだAの魂だが、よほどのことがない限りは転生することになる」
「転生?」
「輪廻転生ってやつだな。人間や動物の魂ってのは通常、輪廻転生を半永久的に繰り返すものなんだ。だから俺たちには『前世』があるし、『来世』もある。……ただし、ほとんどの生物は前世を覚えちゃいないから、輪廻転生なんて信じない」
それはいいとして、と土屋は机上のガムに目を落とした。
「九尾に呪われた存在――『コノツキ』であるAの魂ももちろん輪廻転生する。ただし、半永久的にじゃない。九尾に呪われると、呪われてから八回しか転生できなくなるんだ」
「八回……」
「そ。これが九尾の呪いの、最も特徴的かつ厄介なところだ」
土屋はそっと、板ガムを一枚手に取った。机の上には八枚のガムが残る。
「コノツキであるAが転生すると、九尾は尻尾を一本失う。代わりに、Aが『どこ』に転生したのか、そのおおまかな位置がわかるようになるんだ。そうして九尾はAを探し出し、またもや不運をもたらし続ける。Aが死ぬまで延々とな」
「それで、Aが死んでまた転生したら……」
「九尾は尻尾を一本失う代わりにAの転生先を知り、死ぬまで追い詰める。これの繰り返しだ」
土屋はそう言うと、並べた板ガムを一枚ずつ手に取っていった。
机上に残るガムは残り七枚、六枚、五枚、四枚……。
「この世に存在する呪いのほとんどは、『死ぬまで祟る』か『末代まで祟る』かのどちらかだ。ひとつの魂を、転生した後も追い続ける呪いなんてそうそう存在しない。……まさしく『死んでも許さない』ってやつだな」
土屋は淡々と説明しながら、ガムを取っていく。
残り三枚、二枚、……一枚。
「コノツキであるAが八回転生すると、九尾の尻尾は残り一本になる。――これが今のあんたの状態だ」
土屋がすっと顔を上げた。
「悪いことをした覚えもないのに九尾に取り憑かれていて、結果、不運な出来事ばかりが続く。……それだけでもウンザリしてるだろうが、今一番まずいのは『九尾の尻尾が残り一本しかない』ってことだ」
「……どういうことですか」
机の上のガムを見ながら私は言った。
土屋が、手に取った八枚のガムを私に見せる。
「コノツキとなった人間は、八回しか転生できないって言っただろ。……あんたはすでに、八回の転生を済ませてる。だから、このまま何もせずに死んだとすると――」
土屋は、机の上に唯一残っていたガムを手に取った。
「次に転生する前に、九尾の尻尾はゼロになる。そうなれば九尾の狐もろとも、あんたの魂は消滅してしまう」
しん、と室内が静まり返った。
私は土屋の手にあるガムを見つめた。非現実な話に頭がふわふわする。
仮に私が「コノツキ」という存在だとして、私に憑いている狐の尻尾が一本しか残っていないのだとしても、今すぐどうにかしなければとは思えなかった。ましてや魂が消滅するなどと言われても、大して危機感を抱けない。
私の心境を見透かしたように、土屋は肩をすくめた。
「ま、魂が消滅するだの来世がないだの説明したところで、いまいちピンとこないだろ。『転生なんてまっぴら御免、消滅するなら超ラッキー!』って考えのやつも結構いるしな」
「はあ……」
「だから、あんたにとって一番の問題は『不運な出来事が続く』ってことだろうな」
土屋は、板ガムを一枚一枚丁寧にパッケージへと戻し始めた。
「さっきも言った通り、九尾の呪いは『呪った相手の魂とともに九尾自身も消滅する』という自己犠牲をともなう。……そこまでして呪った相手の魂を、九尾がそうやすやすと消滅させてくれると思うか?」
私は首を振った。もはや嫌な予感しかない。
土屋は私の嫌な予感を、さらりと口にしてくれた。
「九尾の狐はこれからも、あんたをなぶり続けるだろう。あえて殺さず、延々と。……今日までの不運なんざなんでもなかったと思えるような、生き地獄を味わわせるためにな」
背筋に冷たいものが走り、私はぶるりと身震いした。部屋の温度が急激に下がった気さえする。
土屋は最後のガムをパッケージに戻すと、ジャケットのポケットにねじ込んだ。そして、ゆっくりと顔を上げる。
「……まだ間に合うぜ」
「え?」
「あんたの不遇、俺なら変えることができる」
土屋の表情は自信に満ち溢れていた。私はごくりと喉を鳴らす。
「それって……」
「九尾の狐の呪いは解くことができるんだ。――ただし、強力な呪いだけあって解くのも簡単じゃない。こればっかりはあんた自身の努力も必要になる」
嫌な言葉を聞いた。私はぎこちない笑みを土屋に向ける。
「えーっと、努力っていうのは……」
「『前世を思い出すこと』と『金を用意すること』。あんたがやるべきことはこのふたつだ」
金という言葉にぎくりとする。けれど、腰を浮かしかけた私を引き留めるように、土屋は早口で話し始めた。
「順を追って説明しようか。コノツキから九尾を引き剥がす方法は、『どうして九尾に呪われたのかを思い出し』『九尾に呪われた場所へと赴き』『第三者である霊能者に特殊な経を読んでもらう』という三ステップが必要になる。そして、どのステップも絶対に飛ばせない。――ここまでは理解できるか?」
「……なんとか」
「わかったけれど理解不能って感じの顔してんな。ま、その理由は察するぜ。前世なんて思い出せるのかっていう疑問だろ?」
私は首を縦に振った。まったくもってその通りだ。
輪廻転生というものが本当にあるのだとしても、自分の前世なんて一切記憶にない。むしろ、覚えている人間のほうが少ないだろう。それをどうやって思い出せというのか。
私がそんな疑問を口にする前に、
「楽とは言わないが、前世を思い出す方法ならあるぜ」
土屋がそう言いきった。私は半信半疑のままで問う。
「方法って……?」
「霊感をつけるんだよ」
土屋は即答した。
「前世の記憶をたどるのに、霊感ってのは必要不可欠なんだ。逆に言えばあんたも、霊感さえ上げてやれば前世を思い出せるようになる」
「霊感って……私、そんなの全然ないんですけど」
「知ってる。だからさっきから『つける』『上げる』って言ってんだろ」
土屋は笑い、ソファの背もたれに身体を預けた。そして、指を三本立てる。
「生来霊感のない人間でも、霊感が上がる場合がみっつある。ひとつは幼少期。ふたつは死ぬ直前。――そしてみっつめは、霊能者のそばにいる時だ」
前ふたつは聞いたことがあると思うぜ、と土屋は言った。
「子供の頃は幽霊が見えてたけれど今は見えないって人間は結構多いし、死に際の人間が黒い影や先祖の霊を見るっていうのもよくある話だ。……それじゃあどうして『霊能者のそばにいたから霊感が上がった』という話が出にくいのか。答えは単純。時間がかかるからだ」
「時間……」
「霊能者のそばにいれば数分やそこらで幽霊が見えるようになる。……そんな簡単な話なら、この世に生きる人間全員が『見える』ようになってもおかしくないだろ。――たとえばあんたも、霊能者である俺と出会ってからすでに二十分は経過してる。どうだ? なんか変なもん、見えたり聞こえたりしてるか?」
私は首を振った。聞こえているのは土屋の声だけだし、自分に憑いている狐の姿だって見えやしない。
それが普通、と土屋は言った。
「けれどもしも、俺と一緒に一年間生活したとすれば、あんたにも様々なものが見えるようになるはずだ。……あ、俺、ルームシェアとかそういうのはお断りだから」
私だってお断りだ、と土屋を睨んだ。
「――ただ、仮にあんたが前世を思い出したとしても金の問題が残る」
土屋はそう言うと腕を組んだ。
「あんたが俺に九尾退治を依頼すれば、当然ながら別料金が発生する。が、五百円を出すのも渋る学生が払えるような金額じゃないぜ。なんせ九尾自体が相当厄介な相手だし、あんたの前世まで絡んできてる話だからな」
私は頷いた。そして、今度こそソファから立ち上がろうとする。
――不運をどうにかしたいのは確かだけれど、土屋を雇えるだけのお金などない。五百円で狐の話を聞けただけでも良かったと思うことにしよう。
けれど、腰を上げる私を見て、土屋が「待った」と声をかけた。
「霊感と金。このふたつを同時に解決する方法がある」
「え?」
「あんたがうちで働けばいいんだよ」
「…………は?」
思いがけない言葉に私は唖然とした。自分の顔を指さして、金魚のように口をぱくぱくさせる。
「え、わ、私が? 働く? ここで?」
「そ。ここで俺と一緒に働けば、否が応でもあんたの霊感は上がるはずだ。そうすれば前世を思い出せるだろうし、金も手に入って一石二鳥だろ。――時給は一〇一三円、服装は自由、シフトはあんたの要望に合わせる。悪い条件じゃないと思うぜ」
土屋が頬を引きつらせるようにして笑う。私は困惑した。
時給は東京の最低賃金。けれど「シフトはこちらの要望に合わせてくれる」というのは魅力的だ。ここなら大学からも近いし、かけもちのバイトとしては比較的好条件といえる。
ただ、この事務所は――土屋という目の前の男は、本当に信用していいものなのだろうか。もしも霊感商法だったりしたら、私は犯罪の片棒を担ぐことになってしまう。
「……あんた、今すげー失礼な顔してるからな」
低い声で土屋が言った。
「安心しろよ。うちは詐欺グループとかそんなんじゃねーから。税務署に開業届も出してるし、税金もきちんと納めてるクリーンな事務所だ。公式サイトだってあるし、これでも『こっちの業界』じゃちょっとした有名人なんだぜ、俺」
「……へー」
「なんだその棒読みの『へー』は。……まあいい。要はあんたがバイトする気あるのかどうかってこと。うちの事務所はちょうど女性スタッフを募集してたから、あんたが来てくれれば助かるんだけどね」
少しだけ友好的な声で土屋が言ってくる。けれど私は首を振った。
いくら不運に悩んでいるとはいえ、こんな怪しい店で働こうとは思えない。
「えーっと、大変ありがたいお話なんですが、丁重にお断りさせていただこうかと……」
「あっそ。そんじゃ賭けるか?」
「え?」
土屋は私の背後に目をやり、にやりと笑った。
「あんたが九尾のいたずらに悩まされ続けて、再びこの事務所を訪れるようなことがあれば。……その時は文句を言わずに、最低賃金でここで働け。いいな?」
最低賃金という単語をやたらと強調して土屋が言った。私は頷く。
「わかりました」
「……ずいぶん簡単に承諾するじゃねえか。ほんとにわかってんのか?」
時給は一〇一三円で昇給なしだからな、と念を押してくる土屋に私は再び強く頷く。
――大丈夫。こんな変な事務所、二度と来ない。
土屋の腕時計のアラームが鳴り、『プチカウンセリング』の終わりを告げる。私はさっさと立ち上がった。
「じゃ、ありがとうございました」
また来いよ、などと縁起でもないことを言う土屋に頭を下げた。
そうして事務所の扉を開ければ、窓はあるのにどこか薄暗い廊下が私を出迎えてくれた。
来る時はあんなに不気味に思えた廊下との再会が、こんなに嬉しいものだとは。
私は笑みをこぼし、その場で深呼吸した。左手にトイレの扉があっても、外の空気がやたらと清々しく感じられる。
――狐の話を聞けただけで充分だ。ありがとう、怪しい霊能事務所。
スキップしたくなるような解放感を覚えつつ、階段を下りる。
それからわずか十秒後。
私はすごすごと、事務所に引き返すはめとなった。
「…………は?」
私の姿を確認した土屋の第一声はそれだった。
「は? なんで最速で出戻ってきてんだ? なんか忘れもんか?」
「いやそれが……」
私は首筋――そこにある痣に手をあてながら言う。
「今しがたスキップするように階段を下りていたところ、いきなりバランスを崩しまして……。この事務所のウェルカムボード、また倒しちゃいました……」
土屋があんぐりと口を開ける。私は付け加えるように言った。
「大きなヒビが一本増えてます……」
ついに土屋がふきだして、私は頭を抱えた。
――二度とここに来ない。そう誓った三十秒前の自分が情けなく、悲しかった。
「……あんたさ。さっきの賭けの内容、覚えてるよな?」
笑い声の合間に土屋が言う。私は頷いた。
――再びこの事務所を訪れるようなことがあれば、文句を言わずにここで働くこと。
「で、でも、今のは狐の仕業って決まったわけじゃないですし」
「狐のせいじゃないとも言いきれないだろうが。悪あがきすんな」
土屋にぴしゃりと言われ、私はうなだれた。ここまでくると、返す言葉もない。
「じゃ、明日にでも履歴書持ってきて。ボードの件は見逃してやるから」
見逃してやるとまで言われると、余計に弱みを握られた気分になる。私はついに、弱々しくも頷いてしまった。
私の首肯を見た土屋は、満足げにソファに腰掛ける。そして言った。
「どうやってスタッフを募集しようか悩んでたところだから助かるぜ。……『女心がまるでわかってない』だのなんだの言われながら髪を切るのも、いい加減うんざりしてたしな」
……髪を切る?
「あの、それって」
「あー。あと、言い忘れてたけど」
土屋がぱっと顔を上げた。
「あんたに憑いてる九尾を祓う料金。五百万だからよろしく」
…………。
ごひゃく、まん。
「ごっ、え、はあああ!?」
「うるせえ女だな。うち、『ぼったくりレベルで料金が高い』ってことで有名なんだよ。なんせ一流霊能事務所だからな」
「有名ってそっちの意味で!? ほとんど詐欺じゃないですか!」
大声でツッコミを入れる。けれども意に介する様子も見せず、土屋は言った。
「ま、週四日の六時間勤務で頑張れば、五年くらいで金も貯まるだろ。――あんたが五百万用意できたら、そこにいる九尾は俺が退治してやるよ。あ、さっきも言ったけどうち、全額現金前払いが鉄則だから」
土屋はにやりと笑い、言った。
「自分の不運を変えるためにせいぜい頑張れよ、コノツキ女」
私は土屋を睨んだ。が、土屋は私の視線に構うことなく板ガムを噛み始めた。
――私が土屋と出会ったこと。
これが幸運だったのか不運だったのかは、まだ、わからない。
第二話 隠された本音
「そんじゃ、これ」
土屋霊能事務所でのバイト初日。
所長、土屋鋼より私が仰せつかった仕事は――
「髪切っといて」
いわくつき人形の髪を切る、というものだった。
「……なんで! なんで私が髪を切るんです!?」
「俺よか器用そうだから」
眉間に皺を寄せて土屋が言う。いかにも機嫌の悪そうな顔だが、それが彼のデフォルトらしい。さらに言うなら、冬物のミリタリージャケットも先日見たものとまったく一緒だ。それが事務所の制服だとでもいうのだろうか。
そんな土屋は今現在、文庫本を読むのに夢中である。つまりは明らかに暇そうで、そのくせ働くつもりもなさそうだった。
私は、これと言われた人形に目をやった。
身長は三十センチほど。赤を基調とした花柄の着物をお召しになられた彼女は、いわゆる市松人形というやつらしい。
かわいかったんだろうと思う。
――髪さえ伸びていなければ。
「もとからこんな髪型の人形だった、なんてことありませんよね?」
「もとからそんな髪型の人形が存在するのか?」
淡い期待を抱いて質問したら、冷たい声でそう返された。「いないですよねー」と私はぎこちなく笑い、市松人形の髪へと視線を向ける。
ふくらはぎまで伸びている人形の髪は、誰がどう見ても長すぎるうえ、可哀想なくらいにぼさぼさだった。
――台風の中を一時間歩いた後、手ぐしで数回梳いただけなの。
そう言われれば納得できる酷さだ。さらに、唇の位置まである前髪は「人形の顔がまったく見えない」という最高の恐怖を演出していた。
「髪型は任せる」
話は終わり、といった口調で土屋が言いきった。なんで人形の髪が伸びているのか、どうしてその髪を切らなくてはならないのか。そういった説明は一切ない。
「…………」
市松人形と、その横に置かれたハサミとを交互に見る。伸びた前髪のせいで表情こそ窺えないものの、人形がこう言っている気がした。
髪を切ってほしい――
そうだ。彼女だって、こんなおかしな髪型のまま放置されたくはないだろう。
私は汗ばんだ手でハサミを取り、人形の髪にそっとあてがった。
ちゃんと切ってあげればいい。かわいい髪型にしてあげればいいんだ。
……しかし。
万が一にも失敗したら、私は多分、死ぬ。
「――ぶあっはははははは!」
私がハサミを手に取ってからおよそ三十分後。土屋霊能事務所は笑い声に包まれていた。
「笑い事じゃないです! ど、どうすれば……!」
私はあらゆる角度から市松人形の髪型を確認し、その都度絶望していた。その間ずっと腹を抱えて笑っていた土屋は落ち着くために息を吐き、ちらりと人形を見て、
「ひいーひっひっひっ!」
再び笑い出した。
――髪切っといて。そう言われたいわくつき人形は現在、前も後ろも斜めに切りそろえられた、アバンギャルドな髪型となっていた。
左は短く右は長く。斜めとぱっつんを組み合わせることで、流動的なスタイルを編み出しました。
プロならそう言えるかもしれない。しかしそれをやってしまったのはあくまで素人の私であり、大失敗とも大惨事ともいえる出来栄えとなっていた。
「の、呪われる……っ」
恐怖におののき私は言った。
短くなった前髪から覗く人形の顔は、やはりというかかわいらしく、けれども今は怒り狂っているように見えた。人形の背後に「怨」とか「憎」といった漢字が見える気さえする。
だというのに。
「へーきだよ。どうせまたすぐ伸びるからな」
笑いすぎて浮かんだ涙を拭いながら、土屋がそんなことを言った。私の顔から血の気が引いていく。
「また伸びるからって……それはそれで問題なんじゃないですか?」
「は? なんで?」
「なんでって……。人形の前でこう言うのも恐ろしいんですけど、髪が伸びるってことは呪いの人形なんですよね? 人に不幸をもたらすとかそういうのなんじゃ……」
私の言葉に、土屋は「あー」と伸びた声を出した。かと思えばにんまりと笑い、
「ま、もしもお前がその人形に呪われたりしたら、俺が五十万で祓ってやるから安心しろよ」
まったく安心できないことを言った。
色んな意味で落胆する私をよそに、土屋はうきうきした様子でスマホを取り出す。
「それにしてもこの髪型は画期的だな。面白いからうちのホームページに載せてやろ」
「やめてください! そんなことして心霊写真になったらどうするんですか!」
「そうなったら二度おいしいだろ、霊能事務所的な意味で」
「ば、罰当たり! やだもう、ちょっ、……やめてくださいってば!」
土屋と二人、斬新な髪型をした人形を奪い合う。
そうして私が人形を取り上げ、「もしも本当に呪われちゃったら土屋さんのせいですからね!」と叫んだその時だった。
「あのー……」
いつの間にか入り口に立っていた女性が、遠慮がちに声を出した。
驚きのあまり人形を落としかける私を、土屋がさっとフォローする。その顔からは、さっきまでの笑顔が消えていた。
女性は、私と土屋(と人形)の間に視線をさまよわせながらも、おずおずと話を切り出す。
「お取り込み中失礼します。こちらは土屋霊能事務所さん、ですか?」
「ああ。あんたは?」
「友人にこちらを紹介された者です。ええと、幽霊にまつわることで色々とご相談が」
「ふーん。あんたの近くにいる幽霊を成仏させたいのか?」
「え? あっ、はい。そうなんですけど……」
言い当てられたらしい女性が、困惑しつつも肯定する。土屋は女性の背後をじいっと見つめていたが、やがてその口角を上げた。
「いいねえ、金になるぜ」
そうして意気揚々と応接ソファに腰を下ろした土屋だが、数秒後には苦虫を噛み潰したような顔を私に向けた。
「……おいこら、いつまで面白人形を抱えてるつもりだ。客が来たら茶だろ、茶! わかったらさっさと持ってこい」
応援ありがとうございます!
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