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1巻
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初夏だし冷たいお茶がいいかと思いきや、事務所にはその準備が一切なかった。
仕方なくメラミン製の湯呑みに熱い緑茶を注ぎ、土屋たちのもとへと戻る。その間も二人は話し続けていて、小声で喋る女性客の自己紹介を、私はほとんど聞き取れなかった。
「なるほど、ポルターガイストか」
ようやく聞こえたのは土屋のこの、不穏な一言だ。
――ポルターガイストって、勝手にものが動く現象……だったっけ。
私は中身をこぼさないよう注意しながら、女性の前に湯呑みを置こうとした。すると、女性がすかさず湯呑みに手を伸ばす。
「ありがとう」
彼女の言葉とともに、甘い香りがふわりと漂う。恐らく手首に香水をつけているのだろう。同性でもどきりとする芳香に私は緊張し、危うく彼女の全身にお茶をかけそうになった。
女性はお茶を受け取るとひとくち飲んで、おいしい、と微笑んだ。それを淹れた私に向かってだ。
――綺麗。いい人。モテそう。
私の乏しい語彙力が、一斉に彼女を褒めたたえた。ゆるく巻かれたミディアムヘアも、カーキ色のフレアスカートも、美麗な彼女によく似合っている。
――土屋と同じで二十代半ばくらいかな。
そこまで考えてから思い至る。
これだけ綺麗な人が目の前にいるんだ、土屋は鼻の下を伸ばしているかもしれない。
私はお茶を置くふりをして、土屋の顔を覗き見た。
……いつも通りの小難しい、不機嫌そうな表情だ。
「んで? 皿やクッションが動くようになったのはいつ頃からだ?」
「一か月くらい前からです。ただ、その前から不思議なことが続いていて」
「たとえば?」
「誰もいない部屋から物音がしたり、金縛りにあったり。あとは、電気が勝手についたり消えたり……」
「典型的な心霊現象だな」
土屋はそう言ってお茶をすすった。当然、「おいしい」などという気の利いた言葉はない。むしろ眉間の皺がより一層深く刻まれたので、熱かったか渋かったかのどちらかだろう。
土屋は湯呑みを置き、女性客を見据えて言った。
「そんで。あんたの身近で起きているおかしな現象を解決するために俺のところに来たわけだな?」
「はい。ただ、できればその……問題を起こしている幽霊とお話できたらいいなと思って」
「話? どういうことだ」
「心霊現象を起こしているのは、夫の仕業だと思うんです」
女性がゆるく微笑む。土屋は露骨に眉をひそめた。
「夫は半年前に不運な事故で亡くなったんですが……彼がいなくなって一か月経った頃から、不思議な現象が次々と起きるようになったんです。ですから、これは夫のせいなんじゃないかなって」
「…………」
「私たち、結婚してからは一年と少ししか一緒に過ごせませんでした。ですからきっと、私に言いたいことが彼にはたくさんあると思うんです。生前は食いしん坊でしたから、これを供えてほしいなんて要望ばっかりかもしれませんけど」
なにかを思い出したのか、女性がふっと笑った。けれどその目は潤んでいて、今にも涙が落ちそうだ。
私は二人の会話を遮り、テーブルの上のボックスティッシュを彼女に差し出す。ありがとう、と言ってくれる彼女はやっぱり綺麗だった。
「――ですから、まずは夫の霊とお話しして、それから成仏させていただきたいと思っているんです。あの、こういうのって可能なんでしょうか」
「まあね。ただ、うちの料金システムは知ってるよな?」
「料金は全額現金で前払い、という件ですか? 足りるかはわかりませんけど、できるだけ持ってきました。ええと……」
女性がレザーのバッグを漁り始める。すると、テーブルから小さな物音がした。
「え?」
私と女性が同時に声を出す。彼女は、自分のせいで机上のなにかが動いたのだと思ったらしい。けれどそうじゃなかった。
女性の前にある湯呑みが、ひとりでに震え出したのだ。
土屋の湯呑みも動いていれば地震を疑っただろう。けれど、違う。女性に出した湯呑みだけが、カタカタと音を立てているのだ。
私と女性は呆然として、小さく動く湯呑みを眺めた。
湯呑みはものの数秒で動かなくなった。それからしばらく沈黙したのち、
「種も仕掛けもございません。なんなら調べてくれてもいいぜ」
ふざけた口調で土屋が言った。
「これぞまさしくってくらいのポルターガイストだったな。今みたいな現象が家でも起こってんのか?」
「はい。こういうことがわりと頻繁に……」
「ふーん、なるほどね」
土屋は女性の背後に目を向けた。
私には壁しか見えない。けれど土屋は確実に、そこにいる何かを見つめていた。
「……確認させてもらうけど」
土屋がゆっくりと口を開く。
「依頼の内容は『ポルターガイストを起こしている幽霊と会話すること』と、『その幽霊を成仏させること』。報酬は、こちらが提示した金額を全額現金で前払い。これでいいんだな?」
「はい。あ、でも、もしもお金が足りなかったらその時は――」
「安心しな。多分足りるから」
報酬はこんだけ。
土屋はそう言って人差し指を立てた。それを見た女性が、バッグから銀行の封筒を取り出す。そこから厚さ一センチほどの札束が土屋の前に置かれ、私は息を呑んだ。
百万円。浄霊の相場がそんなに高いなんて。
――かと思いきや。
「なんか早とちりしてないか? 俺が請求したのは、それの十分の一だ」
土屋は面倒くさそうに札束を手に取り、十枚数えて引き抜いてから、残りを女性に返却した。女性は肩透かしをくらったような顔で、土屋のことを見ている。
「あの、でも」
「ここを紹介したっていうあんたのお友達が、浄霊代は百万っつってたのか? うちの事務所は、浄霊だといくらとか、そういう決め方はしてないんだ。悪霊か、怨霊か、浮遊霊か、地縛霊か。幽霊の状態によって金額も変わるってわけ」
「それじゃあ……」
「あんたのお友達が頼んできた幽霊はよっぽど悪質だった。けれど今回、あんたが依頼してきた幽霊はそうでもない。だから九十万円の差が出る。そこまでおかしな話でもないだろ」
土屋は解説しながら紙幣の枚数を数え直し、さらには私に「十枚あるか数えといて」と手渡してきた。妙なところでしっかりしている。妙なところというか金銭面というか。
女性は土屋から返された札束を手に取ろうともせず、「それじゃあやっぱり」と感極まった様子で言った。
「悪霊なんかじゃないんですね。夫の幽霊はずっと、私のことを見守ってくれていたんですね……」
「それなんだけどさ」
土屋は緩慢な動作でぼりぼりと頭をかく。
そして、目元を拭っている女性に向かって無遠慮に言い放った。
「旦那の幽霊なんて見当たらないから」
「え……?」
「あんたのそばで心霊現象を起こしてる幽霊は、女だっつってんだよ」
それを聞いた瞬間、女性はほんの一瞬だけ顔をこわばらせた。
「――ちなみに、さっき湯呑みを揺らしたのも女の幽霊だからな」
土屋は遠慮なくそう言うと、自身の湯呑みを手に取った。女性は無言のまま、自分の前にある湯呑みを凝視している。
「だからあんたの依頼を受ける場合、旦那の霊じゃなくて女の霊を浄霊することになる。それでもいいなら俺は受けるぜ。旦那の霊じゃないと納得いかないっていうなら他をあたってくれ。さっきの十万は返すからな」
言うべきことを言い終えた土屋は、残っていたお茶を一気に飲み干した。息を吐き、テーブルの上に湯呑みを置く。メラミン特有の軽い音がした。
「……あの」
しばらく黙っていた女性が、深刻な表情で口を開いた。膝の上に置いた手をきつく握りしめ、意を決したように土屋に訊ねる。
「私に憑いている、湯呑みを動かした幽霊って……どんな人なんですか?」
「お、興味ある?」
土屋がにやりと笑う。まあ、と女性は曖昧な返事をした。
「んー、そうだなあ」
土屋は女性の背後にある壁を眺め、なにかを観察してから言う。
「体型は細身だな、むしろ痩せすぎ。髪の長さは鎖骨あたりまであって、内巻きになってる。色白で幸薄そう……って言ったら失礼だろうけど、そうとしか言えねえ顔。あと、口元にほくろがある」
土屋の言葉に女性が顔を曇らせていく。けれど彼女の後ろばかりを見ている土屋は、その変化に気づいていない。土屋は壁に目を向けたまま、私たちには見えない幽霊の特徴を、次々と羅列していった。
「年齢は三十手前くらい。服装はオフホワイトのセーターに、ベージュのスカート。アクセサリーはなし、靴も履いてない。死んだのは冬だろうな。この感じだと死因はたぶん――」
「自殺」
土屋からの情報を黙って聞いていた女性がぼそりと呟いた。土屋は、視線を壁から女性へと移す。女性の身体はかすかに震えていた。
「この幽霊に覚えがあるんだな?」
「それは……」
女性は目を伏せ、か細い声で、けれどもはっきりとこう言った。
「その人は、私の姉です」
姉はとてもいい人でした――静かな声で、女性は語りだした。
「真面目で、優しくて、しっかりしていて。勉強も運動もできる、まさに自慢の姉でした。けれど……きっと真面目すぎたんだと思います」
女性の目から涙が零れた。
そんな彼女を見ているだけでオロオロとする私とは対照的に、土屋はまったく動じていない。
幽霊の話とはすなわち死者の話だ。だから、相手が突然泣き出すことにも土屋は慣れているのかもしれない。
女性の話は続いた。
大学卒業後、就職してから徐々に、お姉さんの表情が暗くなっていったこと。責任感の強さから、残業や徹夜をしてでも仕事を完遂させようとしていたこと。
「眠れない生活が続いて、病院で薬も貰っていました。……けれど姉は、私たち家族に愚痴のひとつもこぼさなかったんです。大丈夫、平気だからって、いっつもそればっかり――」
舌打ちが聞こえた。
私と女性はぎょっとして、音のした方へと目を向ける。
舌打ちをした本人――土屋は自覚がなかったらしく、私たちの視線に気づいてようやく「なんでもない」とだけ言った。その声は硬く、平坦だった。
「……悪い、話が途切れたな。それで? あんたのお姉さんは仕事が原因で徐々に思い詰めていったのか」
土屋に言われ、女性は首肯した。
「仕事は三年程度で辞めて、それからはずっと自宅療養をしていました。……そんな時でも、姉は私に優しくしてくれたんです。大学は楽しいか、無理をしていないかといつも訊いてくれました。自殺を選ぶくらいにつらい思いをしていたのは姉のはずなのに、……っ」
女性がまたもや涙声になり始めた。
――本当に素敵なお姉さんだったんだろうな。
目頭を押さえる女性を見て、私もティッシュが欲しくなった。とはいえ、土屋と女性の間にあるティッシュに私が手を伸ばすわけにもいかない。私は斜め上を向き、涙をこらえようとした。その時だった。
――……て………………し、…………。
高音の、ざらりとしたノイズのような声が聞こえた。
声のした方へと反射的に目を向ける。
女性客の背後――土屋がずっと見ていた場所だ。
「どうした?」
私の挙動に気づいた土屋が訊ねてくる。私は「いえ」と首を振った。女性の手前、変な声が聞こえたなどと言いだすのも気が引ける。
「ええと、ちょっと……」
「幽霊の声でも聞こえたのか?」
土屋からの質問に顔がこわばる。これでは、そうだと言ってしまったようなものだ。
土屋は私の顔を興味深そうに見つめ、「ふうん」とだけ呟いた。それがどういう意味なのかはわからない。
「あの……姉がなにか言っているんですか?」
女性が不安げに、私と土屋に訊ねてきた。
幽霊の主張をきちんと聞き取れなかった私は、返答に窮して土屋を見る。
土屋はなにも、返さなかった。
「もしかして姉は、私のことをすごく心配してるんじゃ……。いえ、きっとそうです。ポルターガイストが起こったのだって、夫が死んだあとでしたから。あれは姉が、私を慰めに来てくれていたんですよね?」
土屋はこれにも返事をしなかったけれど、女性はそれを良いように解釈したらしい。
もう平気よ、と見えない存在に向かって言った。
「私はもう大丈夫だから、お姉ちゃんは成仏してね。このまま現世をさまよい続けるなんて、あまりに可哀想だわ」
ね? と諭すように女性が言う。そして、
「土屋さん。どうか一刻も早く、姉の霊を成仏させてあげてください」
しっかりとした口調で土屋にそう頼んだ。
彼女は、旦那の霊でなくとも浄霊を依頼したいと言っているのだ。土屋からすれば十万円の収入が確定したことになる。
なのに、土屋の表情は明るくなかった。
「……そんじゃあ最終確認だ。『今すぐあんたの姉を成仏させる』、依頼はこれでいいんだな?」
「はい。どうかよろしくお願いします」
「わかった。――おい」
土屋がふいに、私に向かって手のひらを差し出した。
「さっき渡した十万から二万抜いてよこせ」
「へ?」
「さっさとしろ」
土屋に睨まれ、私は慌てて二万円を引き抜いた。土屋はそれを受け取ると、テーブルの上にぱさりと置く。
「報酬額が変わった。八万でいい」
「え……どういうことですか」
「さっきと依頼内容が違うだろ。だから十万だと多いんだよ」
ぶっきらぼうに土屋が言う。女性は首を傾げた。
「ええと……旦那の霊を成仏させるなら十万だけれど、姉の霊なら八万でいい、ということですか?」
「違う」
笑顔も作らず土屋は言った。
「あんたは、心霊現象が旦那の仕業だと考えてた時は『幽霊と会話すること』と『成仏させること』を俺に依頼した。なのに、霊の正体が姉だとわかった途端、依頼の内容を『成仏』のみに切り替えた。……姉の霊と話したいなんて一言も言わなかっただろ? だから二万を返却したんだよ」
「え? …………あ」
声を漏らしたのは私だった。しまった、と自分の口を押さえる。
女性は驚愕に目を見開いて土屋を見ていた。自覚していなかったことを言われたというよりも、隠していたことを言い当てられたかのような形相だ。
「そ、それは……」
呻くように女性が呟く。「なんだ?」と土屋は笑った。
「姉ともお話ししたいですぅ、なんて今さら言うつもりか? そうなったら報酬は十万円に戻すぜ。それに俺は、『あんたの話にあわせた美談』を作り上げるつもりもない。お姉さんの言葉をそのままお伝えするけど、それでもいいのか?」
お姉さんの言葉を、そのまま?
私は女性を見た。彼女は爪を噛み、貧乏ゆすりまでしている。先刻まで纏っていた「いい人そうな空気」はそこに微塵も感じられなかった。
――……か………………て。
彼女の背後から聞こえる、不気味なノイズも止まらない。
――この人はなにかを隠してる?
私の中で、みるみるうちに女性の印象が変わっていく。それを食い止めるように、土屋がぱんと手をたたいた。
「ってことで、お姉さんの霊を成仏させる方向で話を進めさせてもらうけど」
土屋はそこまで言うと少しだけ身を乗り出し、女性に顔を近づけた。そして、とっておきの話をする子供のような顔で囁く。
「ヒトの霊を成仏させるには、『キーワード』が必要になる」
「キーワード……?」
女性が繰り返す。土屋は頷いた。
「簡単に言えばその幽霊の『本音』だな。――ヒトの霊が現世に縛られたまま成仏できないのは、誰にも言えなかった一言を、あるいは死後誰かに伝えたくなった一言を、心のうちに抱えているからだ。その言葉を言えない間、幽霊は現世に縛られたままになる」
――か…………て……………………して。
「つまり俺の仕事は、幽霊から『キーワード』を聞きだしてやること。――そうすることで初めて、幽霊は無事に成仏できるってわけ」
――えし、………………かえ………………て。
耳鳴りのようなノイズが大きくなっていく。不安になった私は二人を見た。けれど、土屋も女性も、耳鳴りを気にしているそぶりは見せない。
まさか、この声が聞こえているのは私だけなのだろうか。
私がそんな恐怖を感じ始めた時――
「……ああそうだ。ところでさ」
土屋がふと、思いついたように言った。
「さっき、あんたの旦那が事故で亡くなったって話が出たよな。具体的にはどんな事故だったんだ?」
唐突な質問に、私は違和感を覚えた。
神妙な面持ちで土屋の話を聞いていた女性も、拍子抜けしたような顔をしている。
「……姉の霊を成仏させるというお話でしたよね? どうして夫のことを訊くんですか」
「悪い、ちょっと気になっただけなんだ。『不運な事故』ってどんなだったのかと思ってさ。ただの野次馬根性だよ」
野次馬という言葉に女性は少しむっとしたようだ。けれどすぐにその表情を改め、当時のことを話し始めた。
「夫が亡くなったのは今から半年前なんですが……二人で出かけている時、強風にあおられた鉄骨が頭上から落ちてきたんです。……夫は私を庇ってくれました。けれど、そのせいであの人は――」
――え……て…………て……か………………して。
彼女の声と耳障りなノイズが重なる。片耳にだけイヤホンを差しているような気持ち悪さに、私は顔をしかめた。
「夫のおかげで私は無傷でした。けれど彼は……即死でした……」
女性は息を吐き、鼻をすすった。そんな女性を見て、「大変な事故だったんだな」と土屋がわざとらしく眉を下げる。
そして、少し声を大きくしてこう言った。
「『いい夫婦』だったのに気の毒だなあ」
――ちがう。
先程までのノイズとは比べものにならないくらい、はっきりと声が聞こえた。
私は悲鳴を上げないように口を押さえ、自分の周囲に視線を巡らせた。その声があまりにも明瞭に聞こえたので、今度こそ何かが『見える』と思ったからだ。
けれど、室内には私たち三人の他に誰もいなかった。
「……ああ、でも」
女性の後ろに目を向けたまま、土屋は言う。
「その事故の時、あんたを守ってくれたのは旦那さんだけじゃないんだぜ」
「え?」
「お姉さんの幽霊だよ。彼女もあんたを庇ってくれたんだ」
――ちがう。
誰かがまた、強く否定した。
土屋にはこの声が聞こえていないのだろうか。そんな心配をする私をよそに、土屋は笑みを浮かべて女性の背後を指さした。
「そこにいるお姉さんはな、あんたのことが大好きだったんだよ。だから今でも守護霊として、あんたの後ろにいるんだ。かわいい妹が心配だからってさ」
――ちがう。
大きくなっていく声に耐えきれず、私はついに両耳を塞いだ。それでも、脳内に直接入り込んでくるかのようにその声は消えない。
――ちがう。ちがう。ちがう。
「そうですか。姉が……」
目に涙を浮かべて女性が言う。
――ちがう。
目には見えない誰かが言った。
「姉が、私をずっと守っていてくれたなんて」
――ちがう。ちがう。ちがう。
「それじゃあ私が今生きているのは、夫と姉のおかげなんですね。あの事故の日、姉は――」
『あなたを殺したかったのよ』
ここにはいない女の声が、室内に響いた。
女性が目を見張る。そしてこわごわと、声のした方――自分の背後へと顔を向けた。
そこには誰もいなかった。私から見ても、誰もいない。
けれど、
「――ようやく聞こえたか。あんたのお姉さんの『本音』がさ」
土屋はくつくつと笑っていた。
まるで、初めからすべてを予期していたかのように。
「……どういう、ことですか」
「幽霊ってのは面白いもんでな。怒らせれば怒らせるほど本音を言うし、霊感のないやつにもその声が聞こえるようになるんだ。……悪かったなあ、挑発して。あんたの声を妹さんにも聞かせてやりたいと思ったもんでね」
前半は女性に、後半は女性の背後に向かって土屋が言った。そして、いまだ動転している女性に笑いかける。
「さて、ここからは俺も本音で話をさせてもらうけど。……あんた、俺のこと馬鹿にしてんの? それとも物事をいちいち美化するタイプ?」
「な、なに言って――」
「幽霊を成仏させるには、本音を聞きだす必要があるって言ったよな? つまり霊能者は、幽霊と会話できて当然なんだよ。あんたが嘘をついたところで、後ろにいる幽霊がすべて教えてくれるってわけ。――あんたがお姉さんの彼氏を略奪して結婚したことも、そのせいでお姉さんが自殺したことも。お姉さんの遺体を発見したあんたが、自分に都合の悪いことばかりが書かれた遺書を燃やしちまったこともな」
なのにあんたは、と呆れるように土屋は肩をすくめた。
「お姉さんが『仕事のせいで』鬱になって自殺して、挙句『姉が私のことを心配してるんだわ』ときた。……心配なのはあんたの脳みその作りだよ。よくもまあそんな適当に物事を書き換えられるもんだ」
顔をゆがめて土屋が笑った。女性の顔がどんどん青ざめていく。
――かえ……て。
女性の顔色が青くなればなるほど、ノイズはクリアになっていった。
「あんたにたぶらかされた男のほうも、自業自得だと俺は思うけどさあ……」
土屋はそう前置きしてから、女性の背後をちらりと見た。
「お姉さんとしては、己の幸せをすべて奪った妹のことが許せなかったみたいだな。だから、鉄骨を落下させてあんたを殺そうとした。……なのにそれはよりにもよって、自分の大好きな男に当たってしまった」
――……かえして。
ようやく聞こえたその声に、私はぞっとした。
――かえして。あのひとを。
かえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえして。
「……俺がただ『見える』だけの霊能力者で、あんたの語るお美しい姉妹愛を信じるとでも思ってたのか? ずいぶんと見くびられたもんだな」
くっくっ、と土屋が笑う。
女性は俯いたまま、顔を上げようとしない。
「この際はっきり言うけどさ。俺嫌いなんだよね、あんたみたいな女。なんかあるとすぐに――」
「なによ」
土屋に言われっぱなしだった女性がぽつりと声を漏らす。その声音は、怒気を含んだものだった。
「私のなにが悪いって言うの?」
女性はそう言うと、鋭い眼光で土屋を睨んだ。
「私は別に、あの人に自殺を強要したわけじゃないわ。勝手に死んだのはあっちでしょ? 私が責められるいわれなんてない。――男に捨てられてしまったのはあの人の努力不足。なのに私を殺そうとするなんて、逆恨みもいいところだわ」
かえして、という声が大きくなる。経験したことのない不協和音に私は顔をゆがめた。
「それにあの人は、……お姉ちゃんはなんでも持ってたの。勉強はもちろん運動もできて、大人からはちやほやされて、年下からは頼られて! 私はなにも持ってなかったのに、そんなの不公平じゃない!」
我を忘れたように女性が叫喚する。土屋は面倒くさそうに頭をかいた。
初夏だし冷たいお茶がいいかと思いきや、事務所にはその準備が一切なかった。
仕方なくメラミン製の湯呑みに熱い緑茶を注ぎ、土屋たちのもとへと戻る。その間も二人は話し続けていて、小声で喋る女性客の自己紹介を、私はほとんど聞き取れなかった。
「なるほど、ポルターガイストか」
ようやく聞こえたのは土屋のこの、不穏な一言だ。
――ポルターガイストって、勝手にものが動く現象……だったっけ。
私は中身をこぼさないよう注意しながら、女性の前に湯呑みを置こうとした。すると、女性がすかさず湯呑みに手を伸ばす。
「ありがとう」
彼女の言葉とともに、甘い香りがふわりと漂う。恐らく手首に香水をつけているのだろう。同性でもどきりとする芳香に私は緊張し、危うく彼女の全身にお茶をかけそうになった。
女性はお茶を受け取るとひとくち飲んで、おいしい、と微笑んだ。それを淹れた私に向かってだ。
――綺麗。いい人。モテそう。
私の乏しい語彙力が、一斉に彼女を褒めたたえた。ゆるく巻かれたミディアムヘアも、カーキ色のフレアスカートも、美麗な彼女によく似合っている。
――土屋と同じで二十代半ばくらいかな。
そこまで考えてから思い至る。
これだけ綺麗な人が目の前にいるんだ、土屋は鼻の下を伸ばしているかもしれない。
私はお茶を置くふりをして、土屋の顔を覗き見た。
……いつも通りの小難しい、不機嫌そうな表情だ。
「んで? 皿やクッションが動くようになったのはいつ頃からだ?」
「一か月くらい前からです。ただ、その前から不思議なことが続いていて」
「たとえば?」
「誰もいない部屋から物音がしたり、金縛りにあったり。あとは、電気が勝手についたり消えたり……」
「典型的な心霊現象だな」
土屋はそう言ってお茶をすすった。当然、「おいしい」などという気の利いた言葉はない。むしろ眉間の皺がより一層深く刻まれたので、熱かったか渋かったかのどちらかだろう。
土屋は湯呑みを置き、女性客を見据えて言った。
「そんで。あんたの身近で起きているおかしな現象を解決するために俺のところに来たわけだな?」
「はい。ただ、できればその……問題を起こしている幽霊とお話できたらいいなと思って」
「話? どういうことだ」
「心霊現象を起こしているのは、夫の仕業だと思うんです」
女性がゆるく微笑む。土屋は露骨に眉をひそめた。
「夫は半年前に不運な事故で亡くなったんですが……彼がいなくなって一か月経った頃から、不思議な現象が次々と起きるようになったんです。ですから、これは夫のせいなんじゃないかなって」
「…………」
「私たち、結婚してからは一年と少ししか一緒に過ごせませんでした。ですからきっと、私に言いたいことが彼にはたくさんあると思うんです。生前は食いしん坊でしたから、これを供えてほしいなんて要望ばっかりかもしれませんけど」
なにかを思い出したのか、女性がふっと笑った。けれどその目は潤んでいて、今にも涙が落ちそうだ。
私は二人の会話を遮り、テーブルの上のボックスティッシュを彼女に差し出す。ありがとう、と言ってくれる彼女はやっぱり綺麗だった。
「――ですから、まずは夫の霊とお話しして、それから成仏させていただきたいと思っているんです。あの、こういうのって可能なんでしょうか」
「まあね。ただ、うちの料金システムは知ってるよな?」
「料金は全額現金で前払い、という件ですか? 足りるかはわかりませんけど、できるだけ持ってきました。ええと……」
女性がレザーのバッグを漁り始める。すると、テーブルから小さな物音がした。
「え?」
私と女性が同時に声を出す。彼女は、自分のせいで机上のなにかが動いたのだと思ったらしい。けれどそうじゃなかった。
女性の前にある湯呑みが、ひとりでに震え出したのだ。
土屋の湯呑みも動いていれば地震を疑っただろう。けれど、違う。女性に出した湯呑みだけが、カタカタと音を立てているのだ。
私と女性は呆然として、小さく動く湯呑みを眺めた。
湯呑みはものの数秒で動かなくなった。それからしばらく沈黙したのち、
「種も仕掛けもございません。なんなら調べてくれてもいいぜ」
ふざけた口調で土屋が言った。
「これぞまさしくってくらいのポルターガイストだったな。今みたいな現象が家でも起こってんのか?」
「はい。こういうことがわりと頻繁に……」
「ふーん、なるほどね」
土屋は女性の背後に目を向けた。
私には壁しか見えない。けれど土屋は確実に、そこにいる何かを見つめていた。
「……確認させてもらうけど」
土屋がゆっくりと口を開く。
「依頼の内容は『ポルターガイストを起こしている幽霊と会話すること』と、『その幽霊を成仏させること』。報酬は、こちらが提示した金額を全額現金で前払い。これでいいんだな?」
「はい。あ、でも、もしもお金が足りなかったらその時は――」
「安心しな。多分足りるから」
報酬はこんだけ。
土屋はそう言って人差し指を立てた。それを見た女性が、バッグから銀行の封筒を取り出す。そこから厚さ一センチほどの札束が土屋の前に置かれ、私は息を呑んだ。
百万円。浄霊の相場がそんなに高いなんて。
――かと思いきや。
「なんか早とちりしてないか? 俺が請求したのは、それの十分の一だ」
土屋は面倒くさそうに札束を手に取り、十枚数えて引き抜いてから、残りを女性に返却した。女性は肩透かしをくらったような顔で、土屋のことを見ている。
「あの、でも」
「ここを紹介したっていうあんたのお友達が、浄霊代は百万っつってたのか? うちの事務所は、浄霊だといくらとか、そういう決め方はしてないんだ。悪霊か、怨霊か、浮遊霊か、地縛霊か。幽霊の状態によって金額も変わるってわけ」
「それじゃあ……」
「あんたのお友達が頼んできた幽霊はよっぽど悪質だった。けれど今回、あんたが依頼してきた幽霊はそうでもない。だから九十万円の差が出る。そこまでおかしな話でもないだろ」
土屋は解説しながら紙幣の枚数を数え直し、さらには私に「十枚あるか数えといて」と手渡してきた。妙なところでしっかりしている。妙なところというか金銭面というか。
女性は土屋から返された札束を手に取ろうともせず、「それじゃあやっぱり」と感極まった様子で言った。
「悪霊なんかじゃないんですね。夫の幽霊はずっと、私のことを見守ってくれていたんですね……」
「それなんだけどさ」
土屋は緩慢な動作でぼりぼりと頭をかく。
そして、目元を拭っている女性に向かって無遠慮に言い放った。
「旦那の幽霊なんて見当たらないから」
「え……?」
「あんたのそばで心霊現象を起こしてる幽霊は、女だっつってんだよ」
それを聞いた瞬間、女性はほんの一瞬だけ顔をこわばらせた。
「――ちなみに、さっき湯呑みを揺らしたのも女の幽霊だからな」
土屋は遠慮なくそう言うと、自身の湯呑みを手に取った。女性は無言のまま、自分の前にある湯呑みを凝視している。
「だからあんたの依頼を受ける場合、旦那の霊じゃなくて女の霊を浄霊することになる。それでもいいなら俺は受けるぜ。旦那の霊じゃないと納得いかないっていうなら他をあたってくれ。さっきの十万は返すからな」
言うべきことを言い終えた土屋は、残っていたお茶を一気に飲み干した。息を吐き、テーブルの上に湯呑みを置く。メラミン特有の軽い音がした。
「……あの」
しばらく黙っていた女性が、深刻な表情で口を開いた。膝の上に置いた手をきつく握りしめ、意を決したように土屋に訊ねる。
「私に憑いている、湯呑みを動かした幽霊って……どんな人なんですか?」
「お、興味ある?」
土屋がにやりと笑う。まあ、と女性は曖昧な返事をした。
「んー、そうだなあ」
土屋は女性の背後にある壁を眺め、なにかを観察してから言う。
「体型は細身だな、むしろ痩せすぎ。髪の長さは鎖骨あたりまであって、内巻きになってる。色白で幸薄そう……って言ったら失礼だろうけど、そうとしか言えねえ顔。あと、口元にほくろがある」
土屋の言葉に女性が顔を曇らせていく。けれど彼女の後ろばかりを見ている土屋は、その変化に気づいていない。土屋は壁に目を向けたまま、私たちには見えない幽霊の特徴を、次々と羅列していった。
「年齢は三十手前くらい。服装はオフホワイトのセーターに、ベージュのスカート。アクセサリーはなし、靴も履いてない。死んだのは冬だろうな。この感じだと死因はたぶん――」
「自殺」
土屋からの情報を黙って聞いていた女性がぼそりと呟いた。土屋は、視線を壁から女性へと移す。女性の身体はかすかに震えていた。
「この幽霊に覚えがあるんだな?」
「それは……」
女性は目を伏せ、か細い声で、けれどもはっきりとこう言った。
「その人は、私の姉です」
姉はとてもいい人でした――静かな声で、女性は語りだした。
「真面目で、優しくて、しっかりしていて。勉強も運動もできる、まさに自慢の姉でした。けれど……きっと真面目すぎたんだと思います」
女性の目から涙が零れた。
そんな彼女を見ているだけでオロオロとする私とは対照的に、土屋はまったく動じていない。
幽霊の話とはすなわち死者の話だ。だから、相手が突然泣き出すことにも土屋は慣れているのかもしれない。
女性の話は続いた。
大学卒業後、就職してから徐々に、お姉さんの表情が暗くなっていったこと。責任感の強さから、残業や徹夜をしてでも仕事を完遂させようとしていたこと。
「眠れない生活が続いて、病院で薬も貰っていました。……けれど姉は、私たち家族に愚痴のひとつもこぼさなかったんです。大丈夫、平気だからって、いっつもそればっかり――」
舌打ちが聞こえた。
私と女性はぎょっとして、音のした方へと目を向ける。
舌打ちをした本人――土屋は自覚がなかったらしく、私たちの視線に気づいてようやく「なんでもない」とだけ言った。その声は硬く、平坦だった。
「……悪い、話が途切れたな。それで? あんたのお姉さんは仕事が原因で徐々に思い詰めていったのか」
土屋に言われ、女性は首肯した。
「仕事は三年程度で辞めて、それからはずっと自宅療養をしていました。……そんな時でも、姉は私に優しくしてくれたんです。大学は楽しいか、無理をしていないかといつも訊いてくれました。自殺を選ぶくらいにつらい思いをしていたのは姉のはずなのに、……っ」
女性がまたもや涙声になり始めた。
――本当に素敵なお姉さんだったんだろうな。
目頭を押さえる女性を見て、私もティッシュが欲しくなった。とはいえ、土屋と女性の間にあるティッシュに私が手を伸ばすわけにもいかない。私は斜め上を向き、涙をこらえようとした。その時だった。
――……て………………し、…………。
高音の、ざらりとしたノイズのような声が聞こえた。
声のした方へと反射的に目を向ける。
女性客の背後――土屋がずっと見ていた場所だ。
「どうした?」
私の挙動に気づいた土屋が訊ねてくる。私は「いえ」と首を振った。女性の手前、変な声が聞こえたなどと言いだすのも気が引ける。
「ええと、ちょっと……」
「幽霊の声でも聞こえたのか?」
土屋からの質問に顔がこわばる。これでは、そうだと言ってしまったようなものだ。
土屋は私の顔を興味深そうに見つめ、「ふうん」とだけ呟いた。それがどういう意味なのかはわからない。
「あの……姉がなにか言っているんですか?」
女性が不安げに、私と土屋に訊ねてきた。
幽霊の主張をきちんと聞き取れなかった私は、返答に窮して土屋を見る。
土屋はなにも、返さなかった。
「もしかして姉は、私のことをすごく心配してるんじゃ……。いえ、きっとそうです。ポルターガイストが起こったのだって、夫が死んだあとでしたから。あれは姉が、私を慰めに来てくれていたんですよね?」
土屋はこれにも返事をしなかったけれど、女性はそれを良いように解釈したらしい。
もう平気よ、と見えない存在に向かって言った。
「私はもう大丈夫だから、お姉ちゃんは成仏してね。このまま現世をさまよい続けるなんて、あまりに可哀想だわ」
ね? と諭すように女性が言う。そして、
「土屋さん。どうか一刻も早く、姉の霊を成仏させてあげてください」
しっかりとした口調で土屋にそう頼んだ。
彼女は、旦那の霊でなくとも浄霊を依頼したいと言っているのだ。土屋からすれば十万円の収入が確定したことになる。
なのに、土屋の表情は明るくなかった。
「……そんじゃあ最終確認だ。『今すぐあんたの姉を成仏させる』、依頼はこれでいいんだな?」
「はい。どうかよろしくお願いします」
「わかった。――おい」
土屋がふいに、私に向かって手のひらを差し出した。
「さっき渡した十万から二万抜いてよこせ」
「へ?」
「さっさとしろ」
土屋に睨まれ、私は慌てて二万円を引き抜いた。土屋はそれを受け取ると、テーブルの上にぱさりと置く。
「報酬額が変わった。八万でいい」
「え……どういうことですか」
「さっきと依頼内容が違うだろ。だから十万だと多いんだよ」
ぶっきらぼうに土屋が言う。女性は首を傾げた。
「ええと……旦那の霊を成仏させるなら十万だけれど、姉の霊なら八万でいい、ということですか?」
「違う」
笑顔も作らず土屋は言った。
「あんたは、心霊現象が旦那の仕業だと考えてた時は『幽霊と会話すること』と『成仏させること』を俺に依頼した。なのに、霊の正体が姉だとわかった途端、依頼の内容を『成仏』のみに切り替えた。……姉の霊と話したいなんて一言も言わなかっただろ? だから二万を返却したんだよ」
「え? …………あ」
声を漏らしたのは私だった。しまった、と自分の口を押さえる。
女性は驚愕に目を見開いて土屋を見ていた。自覚していなかったことを言われたというよりも、隠していたことを言い当てられたかのような形相だ。
「そ、それは……」
呻くように女性が呟く。「なんだ?」と土屋は笑った。
「姉ともお話ししたいですぅ、なんて今さら言うつもりか? そうなったら報酬は十万円に戻すぜ。それに俺は、『あんたの話にあわせた美談』を作り上げるつもりもない。お姉さんの言葉をそのままお伝えするけど、それでもいいのか?」
お姉さんの言葉を、そのまま?
私は女性を見た。彼女は爪を噛み、貧乏ゆすりまでしている。先刻まで纏っていた「いい人そうな空気」はそこに微塵も感じられなかった。
――……か………………て。
彼女の背後から聞こえる、不気味なノイズも止まらない。
――この人はなにかを隠してる?
私の中で、みるみるうちに女性の印象が変わっていく。それを食い止めるように、土屋がぱんと手をたたいた。
「ってことで、お姉さんの霊を成仏させる方向で話を進めさせてもらうけど」
土屋はそこまで言うと少しだけ身を乗り出し、女性に顔を近づけた。そして、とっておきの話をする子供のような顔で囁く。
「ヒトの霊を成仏させるには、『キーワード』が必要になる」
「キーワード……?」
女性が繰り返す。土屋は頷いた。
「簡単に言えばその幽霊の『本音』だな。――ヒトの霊が現世に縛られたまま成仏できないのは、誰にも言えなかった一言を、あるいは死後誰かに伝えたくなった一言を、心のうちに抱えているからだ。その言葉を言えない間、幽霊は現世に縛られたままになる」
――か…………て……………………して。
「つまり俺の仕事は、幽霊から『キーワード』を聞きだしてやること。――そうすることで初めて、幽霊は無事に成仏できるってわけ」
――えし、………………かえ………………て。
耳鳴りのようなノイズが大きくなっていく。不安になった私は二人を見た。けれど、土屋も女性も、耳鳴りを気にしているそぶりは見せない。
まさか、この声が聞こえているのは私だけなのだろうか。
私がそんな恐怖を感じ始めた時――
「……ああそうだ。ところでさ」
土屋がふと、思いついたように言った。
「さっき、あんたの旦那が事故で亡くなったって話が出たよな。具体的にはどんな事故だったんだ?」
唐突な質問に、私は違和感を覚えた。
神妙な面持ちで土屋の話を聞いていた女性も、拍子抜けしたような顔をしている。
「……姉の霊を成仏させるというお話でしたよね? どうして夫のことを訊くんですか」
「悪い、ちょっと気になっただけなんだ。『不運な事故』ってどんなだったのかと思ってさ。ただの野次馬根性だよ」
野次馬という言葉に女性は少しむっとしたようだ。けれどすぐにその表情を改め、当時のことを話し始めた。
「夫が亡くなったのは今から半年前なんですが……二人で出かけている時、強風にあおられた鉄骨が頭上から落ちてきたんです。……夫は私を庇ってくれました。けれど、そのせいであの人は――」
――え……て…………て……か………………して。
彼女の声と耳障りなノイズが重なる。片耳にだけイヤホンを差しているような気持ち悪さに、私は顔をしかめた。
「夫のおかげで私は無傷でした。けれど彼は……即死でした……」
女性は息を吐き、鼻をすすった。そんな女性を見て、「大変な事故だったんだな」と土屋がわざとらしく眉を下げる。
そして、少し声を大きくしてこう言った。
「『いい夫婦』だったのに気の毒だなあ」
――ちがう。
先程までのノイズとは比べものにならないくらい、はっきりと声が聞こえた。
私は悲鳴を上げないように口を押さえ、自分の周囲に視線を巡らせた。その声があまりにも明瞭に聞こえたので、今度こそ何かが『見える』と思ったからだ。
けれど、室内には私たち三人の他に誰もいなかった。
「……ああ、でも」
女性の後ろに目を向けたまま、土屋は言う。
「その事故の時、あんたを守ってくれたのは旦那さんだけじゃないんだぜ」
「え?」
「お姉さんの幽霊だよ。彼女もあんたを庇ってくれたんだ」
――ちがう。
誰かがまた、強く否定した。
土屋にはこの声が聞こえていないのだろうか。そんな心配をする私をよそに、土屋は笑みを浮かべて女性の背後を指さした。
「そこにいるお姉さんはな、あんたのことが大好きだったんだよ。だから今でも守護霊として、あんたの後ろにいるんだ。かわいい妹が心配だからってさ」
――ちがう。
大きくなっていく声に耐えきれず、私はついに両耳を塞いだ。それでも、脳内に直接入り込んでくるかのようにその声は消えない。
――ちがう。ちがう。ちがう。
「そうですか。姉が……」
目に涙を浮かべて女性が言う。
――ちがう。
目には見えない誰かが言った。
「姉が、私をずっと守っていてくれたなんて」
――ちがう。ちがう。ちがう。
「それじゃあ私が今生きているのは、夫と姉のおかげなんですね。あの事故の日、姉は――」
『あなたを殺したかったのよ』
ここにはいない女の声が、室内に響いた。
女性が目を見張る。そしてこわごわと、声のした方――自分の背後へと顔を向けた。
そこには誰もいなかった。私から見ても、誰もいない。
けれど、
「――ようやく聞こえたか。あんたのお姉さんの『本音』がさ」
土屋はくつくつと笑っていた。
まるで、初めからすべてを予期していたかのように。
「……どういう、ことですか」
「幽霊ってのは面白いもんでな。怒らせれば怒らせるほど本音を言うし、霊感のないやつにもその声が聞こえるようになるんだ。……悪かったなあ、挑発して。あんたの声を妹さんにも聞かせてやりたいと思ったもんでね」
前半は女性に、後半は女性の背後に向かって土屋が言った。そして、いまだ動転している女性に笑いかける。
「さて、ここからは俺も本音で話をさせてもらうけど。……あんた、俺のこと馬鹿にしてんの? それとも物事をいちいち美化するタイプ?」
「な、なに言って――」
「幽霊を成仏させるには、本音を聞きだす必要があるって言ったよな? つまり霊能者は、幽霊と会話できて当然なんだよ。あんたが嘘をついたところで、後ろにいる幽霊がすべて教えてくれるってわけ。――あんたがお姉さんの彼氏を略奪して結婚したことも、そのせいでお姉さんが自殺したことも。お姉さんの遺体を発見したあんたが、自分に都合の悪いことばかりが書かれた遺書を燃やしちまったこともな」
なのにあんたは、と呆れるように土屋は肩をすくめた。
「お姉さんが『仕事のせいで』鬱になって自殺して、挙句『姉が私のことを心配してるんだわ』ときた。……心配なのはあんたの脳みその作りだよ。よくもまあそんな適当に物事を書き換えられるもんだ」
顔をゆがめて土屋が笑った。女性の顔がどんどん青ざめていく。
――かえ……て。
女性の顔色が青くなればなるほど、ノイズはクリアになっていった。
「あんたにたぶらかされた男のほうも、自業自得だと俺は思うけどさあ……」
土屋はそう前置きしてから、女性の背後をちらりと見た。
「お姉さんとしては、己の幸せをすべて奪った妹のことが許せなかったみたいだな。だから、鉄骨を落下させてあんたを殺そうとした。……なのにそれはよりにもよって、自分の大好きな男に当たってしまった」
――……かえして。
ようやく聞こえたその声に、私はぞっとした。
――かえして。あのひとを。
かえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえしてかえして。
「……俺がただ『見える』だけの霊能力者で、あんたの語るお美しい姉妹愛を信じるとでも思ってたのか? ずいぶんと見くびられたもんだな」
くっくっ、と土屋が笑う。
女性は俯いたまま、顔を上げようとしない。
「この際はっきり言うけどさ。俺嫌いなんだよね、あんたみたいな女。なんかあるとすぐに――」
「なによ」
土屋に言われっぱなしだった女性がぽつりと声を漏らす。その声音は、怒気を含んだものだった。
「私のなにが悪いって言うの?」
女性はそう言うと、鋭い眼光で土屋を睨んだ。
「私は別に、あの人に自殺を強要したわけじゃないわ。勝手に死んだのはあっちでしょ? 私が責められるいわれなんてない。――男に捨てられてしまったのはあの人の努力不足。なのに私を殺そうとするなんて、逆恨みもいいところだわ」
かえして、という声が大きくなる。経験したことのない不協和音に私は顔をゆがめた。
「それにあの人は、……お姉ちゃんはなんでも持ってたの。勉強はもちろん運動もできて、大人からはちやほやされて、年下からは頼られて! 私はなにも持ってなかったのに、そんなの不公平じゃない!」
我を忘れたように女性が叫喚する。土屋は面倒くさそうに頭をかいた。
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