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卒業

75話 MV制作①

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 それから数日が経ち『PHANTOM CALLINNG』のMV撮影当日になった。

「大丈夫、藍。眠くない?」

「眠いのは眠いですけど……それより緊張の方がヤバいです……」

 時刻はまだ早朝の5時だった。スタジオに集合したメンバーも皆流石に眠そうだった。
 今回の『PHANTOM CALLINNG』のMV撮影日は今日しかスケジュールが割り当てられていない。何が何でも今日中に撮影を終えなければならないのだ。
 メンバー皆明日は別の仕事の予定が詰まっており、一堂に会せるのは今日しかないからだ。だからこうしてまだ日の昇り切る前のこの時間に集合しているのだ。

 ちなみにMVの撮影は1日ないし2日といった短期間で行われることがほとんどである。数多くいるメンバーのスケジュールを合わせるのが難しいというのも一つだが、ロケ地やスタジオの都合、監督やスタッフの都合を合わせられるのも短期間しかないからだ。
 短期間の撮影のためトラブルのたぐいの話は際限がない。
 事前のイメージでは快晴のシーンだったものが、当日の天候が悪くそのシーンに合わせていったらMV全体のイメージがガラリと変わってしまった……なんていう話も聞いたことがある。
 その他にも、ふざけて言ったアドリブの台詞がそのまま採用されたり、という話も聞いたことがあるし、ダンスシーンをよくよく注意して見たらズレていた・振りが全然違っていた、なんていうのはかなり頻繁にあることだ。
 しかし不思議とそういったシーンの方がファンの人の心を掴んだりするものだ。



「大津監督、入られます!!!」

 1人の男性スタッフの大声が響くと現場には一斉に緊張が走った。
 メンバーたちも眠たげだった眼を見開き、声のした方向に注目する。
 やがて1人の小柄な男性がひょこひょこと歩いてきた。

「おはようございます!」「おはようございます!」「おはようございます!」

 スタッフの声につられるようにメンバーたちも挨拶をする。

「や、皆さんおはようございます。朝早くからごめんねぇ、監督の大津です。よろしくお願いします」

「「「よろしくお願いします!!!」」」

 登場したのは大津晶おおつあきら監督。
 元々は映画監督である。数々の輝かしい受賞歴を持っておりその実績は巨匠と呼ぶに相応しい存在だ。
 御年は70近いそうだが現在も映画を製作中とのことで、その創作意欲はまだまだ衰えることを知らない。
 滝本篤先生とは古くから親交があり、そうした縁で今回のMVの製作を手掛けることになったそうだ。

「え~と……小平さん、小平藍さんはいらっしゃるかな?」

「は、はい!」

 監督の呼び掛けに藍が手を挙げる。

「ああ、小平さん。少し前にもお会いしたねぇ……。今日はよろしくお願いしますね。貴方には事前に説明しなければならないことが幾つかあるので、ちょっと良いかな?……他の皆さんへの説明は彼が担当しますのでね」

 藍と監督は机のある別の場所に行き、監督の持参してきたパソコンで映像を確認し始めた。
 一方私たち「その他組」には監督の隣にいた若い男が軽く頭を下げた。監督の助手をしている人物のようだ。



 今回のMVは大まかに言って二部構成になるということは事前に伝えられていた。
 センターである藍を主役にしたドラマパートと、全体のダンスシーンを映したパートとである。
 こうした二部構成自体は割とオーソドックスなパターンなのだが、ドラマパートといえど大抵はある程度メンバー全員を満遍なく出演させるような演出にする。アイドルのMVとしてはそれが自然だろう。今回のようにここまで主役1人に焦点を当てて撮影されることは珍しい。

「…………というわけでして、まずはこちらのダンスシーンの撮影から始まると思います。監督は皆さんの表情にこだわって撮りたいと言っていましたが、あまり意識し過ぎるのも好ましくないそうですので……皆さんはダンスに集中していただければと思います」

 助手の人の短い説明の内にも監督の少し複雑なこだわりが見えるような気がした。今のところの大津監督は穏やかな好好爺という印象だが、独特の強い世界観を持っていることは間違いない。
 監督は高名な映画監督であるが、一方の私たちはほとんどが演技に関しては素人だ。出来ることと言えば全力で踊ることしかない。
 振り付けに関しては事前に振り付け師の方が考えたものが映像で届けられていた。時間があまりなかったのでまだ振り入れは完璧とは言えないが、そこは歴戦のWISHの選抜メンバーたちだ。何度か踊っていればすぐに形になるだろう。振り付け師の先生は現場にも来てくれているから、曖昧なところや習性が必要な所に関してはその場で対応することが可能だ。

 こうしてダンスシーンの撮影が始まった。





「は~い、では一旦休憩に入ります。再開は30分後を予定しております!」

 助手の人が再び声を張り上げた。
 時刻はもう午後の5時に近くなっていた。早朝に集合したわけだが打ち合わせやセッティングに時間がかかり、実際の撮影は昼頃から始まった。
 それでもすでに数時間踊っているわけだが、未だ監督のオッケーは出ない。

「麻衣さんもこれで最後の撮影になるんだね……」

 休憩の会話の口火を切ったのはキャプテンの高島彩里たかしまさいりだった。

「ああ、そう言えばそうでしたね。すっかり忘れてました」

 カラカラと笑い、相槌を打ったのは舞奈だった。
 まったくもう!舞奈ったら、こんな時でも強がっちゃって!本当は私が卒業するのが寂しくてたまらないクセに!
 ……え?今日会ってから何時間も一緒にいたけど、ガチでそのことについては何も言われなかったのですけど……。まさか忘れてたわけじゃないよね?
 
 舞奈の一言をきっかけに、他のメンバーも私の卒業に関して何だかんだ言い出した。もしかして本当に私の卒業のことなど忘れていたのかもしれない。
 ……まあ、それは良い傾向だとも思う。……ホントのホントに皆が忘れてたんならちょっと寂しいけど……。
 まあともかく、今はそれだけ集中せざるを得ない状況だということだ。私自身も自分の卒業のことなど忘れて目前のダンスにだけ集中していた。今まであまり踊ったことのない種類のダンスだけに、経験の少ない私にはとても難しく感じられた。だが踊れば踊るだけ理解が深まり自分が上達していくのが感じられて、楽しくもなってきていたところだ。
 色々と仕事の経験が増えてくると、どんな仕事もある程度はこなせるようになってしまう。もちろん慣れてゆくことが悪いわけではないが、アイドルならば一つ一つのことに新鮮な気持ちで取り組む姿を見たいと思うファンの人は多いだろう。

 ふと見ると、藍の表情が目に入った。
 皆に合わせてこの場ではにこやかな表情を作っているが、その眼の奥は明らかに不安の色が潜んでいた。

(……ま、ムリもないか……)

 全体のダンスシーンを撮り終えてから藍は1人でドラマシーンを撮影しなければならない。それなのにまだダンスシーンすらも撮り終えていないのだ。
 そして何よりドラマシーンに関しては、メンバーに見せるための映像を一度撮っていたが、その時の藍は小田嶋麻衣だった頃の記憶を取り戻す以前の彼女だったのだ。その時と同じような感覚で演じることは難しいだろう。藍が不安になるのも当然の状況だった。

「は~い、ではそろそろ撮影の方再開したいと思いますので、メンバーの皆さん準備の方をお願いいたしま~す!」

 例の監督の助手の若い男性が再び声を張り上げた。


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