死神伯爵と望まれぬ娘

枢木ひなこ

文字の大きさ
2 / 4

お使い

しおりを挟む
「じゃあ、修理費と止水栓の部品費用を加えて、56ユーロね。」
「はい、ありがとうございます。」

小太りの修理業者が気だるげにアイリーンを振り返る。必要以上に施された修理と、規定より高い金額になんの疑問も持たないアイリーンは、屋敷用の財布を取り出してそこから2枚の紙幣を取り出した。

「へい、確かに。」

某日午後16時。
アイリーンはシャントニー夫人の言いつけ通り、屋敷の留守を守っていた。そしてこの日は夫人から仰せつかっていた、キッチンの修理業者が屋敷に訪ねに来る日だった。

がちゃがちゃと耳心地の悪い音を散々鳴らせた後、修理業者の男は紙幣を受け取ると満足げに帰っていった。今日は一日男の話相手をすることで終わってしまった。

アイリーンは修理業者を見送ったあと、ホッと一息つき、ここ数日読み進めている本を開いて、続きを読もうとソファに腰掛けた。本の表紙はひどく痛んでいるが、アイリーンはそれすらも愛おしげに撫でる。

彼女は読書が大好きだった。
屋敷の使用人になってから、こうしてゆったりと本を手に取る機会がなかったため、束の間の幸せを噛み締めるように、ここ数日の間読書に耽っていたのだ。

ソファにゆったりとした姿勢になり、カップに入れた紅茶を一口飲む。広い屋敷にぽつんと一人でいることは寂しかったが、夫人や義姉妹達がいないことはアイリーンにとって心の休まる不思議な一時だった。

集中して本を読み進めていると、日が傾き始め、屋敷内が暗くなり始めたことに気づく。
明かりを点けようとアイリーンがソファから立ち上がった時だった。
軽やかなチャイムの音と、そのあとにコンコン、と玄関扉を叩く音がした。

「…? 誰かしら」

修理業者以外に訪問があることなど夫人からは聞いていなかった。
アイリーンは不思議に思って玄関扉の覗き穴から外を覗く。

そこには見慣れた郵便配達員の姿があった。
彼はこの地方の配達員で、週に2日ほど屋敷まで配達物を届けてくれる青年だ。

しかし彼は昨日郵便物を届けてくれたばかりだ。連日の訪問にアイリーンは首を傾げた。

「はい。フィンさん、どうされたの?」
「あぁ、アイリーンさん。良かった、シャントニー夫人から急ぎの便りを預かりました。」
「まぁ、奥様から?」

差し出された質の良い便箋を受け取り、アイリーンはその場で封を開けた。
便箋には育ちの出た美しい文字で、こう記されていた。

『アイリーン
仕立て屋トランセルにドレスを出しているから、今日中に取りに行ってちょうだい。絶対に今日中に受け取ること。』

記されていた言葉は、それだけだった。

「いけない。早く向かわなくちゃ間に合わないわ。」

アイリーンは屋敷の時計をちらりと見たあと、急いで便箋をしまい身支度のために屋敷に戻ろうとする。
すると配達員のフィンがアイリーンに声をかけた。

「なんて書かれていたの?」
「奥様から、仕立て屋トランセルにドレスを出しているから今日中に受け取って欲しいと伝達が。あそこは19時には閉まってしまうから、早く向かわないと間に合わないの。」

アイリーンは早口でそう捲し立てる。引き留められている時間さえもったいない。
フィンはそれを聞くと大きなため息をついて、「あの意地悪ババア...」と呟いた。

「え?」
「配達がどれだけ早くても15時を過ぎるのはあの人だって知ってるでしょ。それを今日中に受け取れだなんて、意地が悪いにもほどがあるよ。」

苛立ったようにそう言うフィンに、アイリーンは困った顔で見つめることしかできない。
そんな様子の彼女を見てフィンはもう一度大きなため息を吐いた後、口を開いた。

「駅の大通りまで馬車で送っていくよ。町の辻馬車に乗っていくんでしょ?歩いて行くよりその方が早い。」
「え?でもフィンさん、まだ配達物があるんでしょう。」
「なに、おやっさんにこの便りを最優先でって言われたんだ。もう配達時間なんか全部狂っちゃったし、今更どうってことないよ。」

フィンは軽い調子でそう言った。
アイリーンは変わらず断ろうと口を開いたが、もう一度時計に目を向けて、ここは彼の提案にありがたく甘えることにした。

アイリーンはフィンに少しだけ待つように伝えて、大急ぎで支度をする。
外出用のメイド服に着替え、ボウシを深く被ると、手持ちの鞄を持って屋敷を飛び出した。

「お待たせしました。」

アイリーンはフィンが開けてくれた馬車に飛び乗り、手持ち鞄をぎゅっと抱きかかえた。

仕立て屋トリンラルはここから馬車で2時間もかかるほど遠い地にある。
時刻は17時を回ろうとしていた。早く向かわなければ。

「フィンさん。良ければ少し急いでいただける?」
「へへ。お安い御用だよ!」

アイリーンの言葉にフィンは鼻を鳴らせて、ポスト馬車を荒く走らせた。

彼の熱い運転のおかげで、アイリーンは随分早く駅前の大通りに辿り着くことができた。通りにずらりと並ぶ辻馬車を見つけて、アイリーンはちょんと馬車から降りた後、フィンに深くお辞儀をして走り出した。

彼女はすぐに一番近くの路端で客を待っている辻馬車の馭者に声をかける。

「もし。ストルク街へ行きたいのですが。」
「ストルク街?お嬢さん一人でかい。」

鼻の赤い馭者がアイリーンを頭の上から足の先まで眺めながらそう言った。

「はい。今までも何度か一人で行ったことはあります。」
「そりゃあたまげた。あんな都に一人でねぇ。」

二輪馬車の扉を開けながら馭者は言う。

「まあ、何処へ行こうと客さんであることに変わりない。さぁ乗りな、お嬢さん。」

こじんまりとした馬車に身を乗せ、腰を下ろすとアイリーンは走ったせいで乱れていた給仕服を整えた。するとすぐに馬車が走り出す。窓からこちらに手を振るフィンの姿が見え、アイリーンはぺこりと深く頭を下げた。

顔を上げるともうフィンの姿は見えなくなっており、アイリーンは姿勢を正しながら変わる変わる景色をぼんやりと見つめ、がたごとと揺れる馬車に身を委ねた。



「お嬢さん、着いたよ。」

外の景色を見つめていれば、ストルク街へ着くのはあっという間だった。
アイリーンは馬車を降りると、御者に料金を支払う。

「夜の街は陽気で賑やかだが危ねぇヤツもたくさんいる。お嬢さん、くれぐれも気をつけな。」
「お気遣いありがとうございます。」

馬車が去っていくのを見送ると、アイリーンは胸いっぱいに空気を吸った。ストルク街はシャントニー家の屋敷がある町よりも随分都会の地である。空気は汚れていたが、賑やかな雰囲気がアイリーンは好きだった。

「もうずいぶん暗いわ。急がないとお店が閉まっちゃう。」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

完結 愚王の側妃として嫁ぐはずの姉が逃げました

らむ
恋愛
とある国に食欲に色欲に娯楽に遊び呆け果てには金にもがめついと噂の、見た目も醜い王がいる。 そんな愚王の側妃として嫁ぐのは姉のはずだったのに、失踪したために代わりに嫁ぐことになった妹の私。 しかしいざ対面してみると、なんだか噂とは違うような… 完結決定済み

結婚したけど夫の不倫が発覚して兄に相談した。相手は親友で2児の母に慰謝料を請求した。

佐藤 美奈
恋愛
伯爵令嬢のアメリアは幼馴染のジェームズと結婚して公爵夫人になった。 結婚して半年が経過したよく晴れたある日、アメリアはジェームズとのすれ違いの生活に悩んでいた。そんな時、机の脇に置き忘れたような手紙を発見して中身を確かめた。 アメリアは手紙を読んで衝撃を受けた。夫のジェームズは不倫をしていた。しかも相手はアメリアの親しい友人のエリー。彼女は既婚者で2児の母でもある。ジェームズの不倫相手は他にもいました。 アメリアは信頼する兄のニコラスの元を訪ね相談して意見を求めた。

幼馴染が熱を出した? どうせいつもの仮病でしょう?【完結】

小平ニコ
恋愛
「パメラが熱を出したから、今日は約束の場所に行けなくなった。今度埋め合わせするから許してくれ」 ジョセフはそう言って、婚約者である私とのデートをキャンセルした。……いったいこれで、何度目のドタキャンだろう。彼はいつも、体の弱い幼馴染――パメラを優先し、私をないがしろにする。『埋め合わせするから』というのも、口だけだ。 きっと私のことを、適当に謝っておけば何でも許してくれる、甘い女だと思っているのだろう。 いい加減うんざりした私は、ジョセフとの婚約関係を終わらせることにした。パメラは嬉しそうに笑っていたが、ジョセフは大いにショックを受けている。……それはそうでしょうね。私のお父様からの援助がなければ、ジョセフの家は、貴族らしい、ぜいたくな暮らしを続けることはできないのだから。

婚約破棄したら食べられました(物理)

かぜかおる
恋愛
人族のリサは竜種のアレンに出会った時からいい匂いがするから食べたいと言われ続けている。 婚約者もいるから無理と言い続けるも、アレンもしつこく食べたいと言ってくる。 そんな日々が日常と化していたある日 リサは婚約者から婚約破棄を突きつけられる グロは無し

悪役令嬢(濡れ衣)は怒ったお兄ちゃんが一番怖い

下菊みこと
恋愛
お兄ちゃん大暴走。 小説家になろう様でも投稿しています。

今さら泣きついても遅いので、どうかお静かに。

有賀冬馬
恋愛
「平民のくせに」「トロくて邪魔だ」──そう言われ続けてきた王宮の雑用係。地味で目立たない私のことなんて、誰も気にかけなかった。 特に伯爵令嬢のルナは、私の幸せを邪魔することばかり考えていた。 けれど、ある夜、怪我をした青年を助けたことで、私の運命は大きく動き出す。 彼の正体は、なんとこの国の若き国王陛下! 「君は私の光だ」と、陛下は私を誰よりも大切にしてくれる。 私を虐げ、利用した貴族たちは、今、悔し涙を流している。

【書籍化】番の身代わり婚約者を辞めることにしたら、冷酷な龍神王太子の様子がおかしくなりました

降魔 鬼灯
恋愛
 コミカライズ化決定しました。 ユリアンナは王太子ルードヴィッヒの婚約者。  幼い頃は仲良しの2人だったのに、最近では全く会話がない。  月一度の砂時計で時間を計られた義務の様なお茶会もルードヴィッヒはこちらを睨みつけるだけで、なんの会話もない。    お茶会が終わったあとに義務的に届く手紙や花束。義務的に届くドレスやアクセサリー。    しまいには「ずっと番と一緒にいたい」なんて言葉も聞いてしまって。 よし分かった、もう無理、婚約破棄しよう! 誤解から婚約破棄を申し出て自制していた番を怒らせ、執着溺愛のブーメランを食らうユリアンナの運命は? 全十話。一日2回更新 完結済  コミカライズ化に伴いタイトルを『憂鬱なお茶会〜殿下、お茶会を止めて番探しをされては?え?義務?彼女は自分が殿下の番であることを知らない。溺愛まであと半年〜』から『番の身代わり婚約者を辞めることにしたら、冷酷な龍神王太子の様子がおかしくなりました』に変更しています。

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

処理中です...