死神伯爵と望まれぬ娘

枢木ひなこ

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「じゃあ、修理費と止水栓の部品費用を加えて、56ユーロね。」
「はい、ありがとうございます。」

小太りの修理業者が気だるげにアイリーンを振り返る。必要以上に施された修理と、規定より高い金額になんの疑問も持たないアイリーンは、屋敷用の財布を取り出してそこから2枚の紙幣を取り出した。

「へい、確かに。」

某日午後16時。
アイリーンはシャントニー夫人の言いつけ通り、屋敷の留守を守っていた。そしてこの日は夫人から仰せつかっていた、キッチンの修理業者が屋敷に訪ねに来る日だった。

がちゃがちゃと耳心地の悪い音を散々鳴らせた後、修理業者の男は紙幣を受け取ると満足げに帰っていった。今日は一日男の話相手をすることで終わってしまった。

アイリーンは修理業者を見送ったあと、ホッと一息つき、ここ数日読み進めている本を開いて、続きを読もうとソファに腰掛けた。本の表紙はひどく痛んでいるが、アイリーンはそれすらも愛おしげに撫でる。

彼女は読書が大好きだった。
屋敷の使用人になってから、こうしてゆったりと本を手に取る機会がなかったため、束の間の幸せを噛み締めるように、ここ数日の間読書に耽っていたのだ。

ソファにゆったりとした姿勢になり、カップに入れた紅茶を一口飲む。広い屋敷にぽつんと一人でいることは寂しかったが、夫人や義姉妹達がいないことはアイリーンにとって心の休まる不思議な一時だった。

集中して本を読み進めていると、日が傾き始め、屋敷内が暗くなり始めたことに気づく。
明かりを点けようとアイリーンがソファから立ち上がった時だった。
軽やかなチャイムの音と、そのあとにコンコン、と玄関扉を叩く音がした。

「…? 誰かしら」

修理業者以外に訪問があることなど夫人からは聞いていなかった。
アイリーンは不思議に思って玄関扉の覗き穴から外を覗く。

そこには見慣れた郵便配達員の姿があった。
彼はこの地方の配達員で、週に2日ほど屋敷まで配達物を届けてくれる青年だ。

しかし彼は昨日郵便物を届けてくれたばかりだ。連日の訪問にアイリーンは首を傾げた。

「はい。フィンさん、どうされたの?」
「あぁ、アイリーンさん。良かった、シャントニー夫人から急ぎの便りを預かりました。」
「まぁ、奥様から?」

差し出された質の良い便箋を受け取り、アイリーンはその場で封を開けた。
便箋には育ちの出た美しい文字で、こう記されていた。

『アイリーン
仕立て屋トランセルにドレスを出しているから、今日中に取りに行ってちょうだい。絶対に今日中に受け取ること。』

記されていた言葉は、それだけだった。

「いけない。早く向かわなくちゃ間に合わないわ。」

アイリーンは屋敷の時計をちらりと見たあと、急いで便箋をしまい身支度のために屋敷に戻ろうとする。
すると配達員のフィンがアイリーンに声をかけた。

「なんて書かれていたの?」
「奥様から、仕立て屋トランセルにドレスを出しているから今日中に受け取って欲しいと伝達が。あそこは19時には閉まってしまうから、早く向かわないと間に合わないの。」

アイリーンは早口でそう捲し立てる。引き留められている時間さえもったいない。
フィンはそれを聞くと大きなため息をついて、「あの意地悪ババア...」と呟いた。

「え?」
「配達がどれだけ早くても15時を過ぎるのはあの人だって知ってるでしょ。それを今日中に受け取れだなんて、意地が悪いにもほどがあるよ。」

苛立ったようにそう言うフィンに、アイリーンは困った顔で見つめることしかできない。
そんな様子の彼女を見てフィンはもう一度大きなため息を吐いた後、口を開いた。

「駅の大通りまで馬車で送っていくよ。町の辻馬車に乗っていくんでしょ?歩いて行くよりその方が早い。」
「え?でもフィンさん、まだ配達物があるんでしょう。」
「なに、おやっさんにこの便りを最優先でって言われたんだ。もう配達時間なんか全部狂っちゃったし、今更どうってことないよ。」

フィンは軽い調子でそう言った。
アイリーンは変わらず断ろうと口を開いたが、もう一度時計に目を向けて、ここは彼の提案にありがたく甘えることにした。

アイリーンはフィンに少しだけ待つように伝えて、大急ぎで支度をする。
外出用のメイド服に着替え、ボウシを深く被ると、手持ちの鞄を持って屋敷を飛び出した。

「お待たせしました。」

アイリーンはフィンが開けてくれた馬車に飛び乗り、手持ち鞄をぎゅっと抱きかかえた。

仕立て屋トリンラルはここから馬車で2時間もかかるほど遠い地にある。
時刻は17時を回ろうとしていた。早く向かわなければ。

「フィンさん。良ければ少し急いでいただける?」
「へへ。お安い御用だよ!」

アイリーンの言葉にフィンは鼻を鳴らせて、ポスト馬車を荒く走らせた。

彼の熱い運転のおかげで、アイリーンは随分早く駅前の大通りに辿り着くことができた。通りにずらりと並ぶ辻馬車を見つけて、アイリーンはちょんと馬車から降りた後、フィンに深くお辞儀をして走り出した。

彼女はすぐに一番近くの路端で客を待っている辻馬車の馭者に声をかける。

「もし。ストルク街へ行きたいのですが。」
「ストルク街?お嬢さん一人でかい。」

鼻の赤い馭者がアイリーンを頭の上から足の先まで眺めながらそう言った。

「はい。今までも何度か一人で行ったことはあります。」
「そりゃあたまげた。あんな都に一人でねぇ。」

二輪馬車の扉を開けながら馭者は言う。

「まあ、何処へ行こうと客さんであることに変わりない。さぁ乗りな、お嬢さん。」

こじんまりとした馬車に身を乗せ、腰を下ろすとアイリーンは走ったせいで乱れていた給仕服を整えた。するとすぐに馬車が走り出す。窓からこちらに手を振るフィンの姿が見え、アイリーンはぺこりと深く頭を下げた。

顔を上げるともうフィンの姿は見えなくなっており、アイリーンは姿勢を正しながら変わる変わる景色をぼんやりと見つめ、がたごとと揺れる馬車に身を委ねた。



「お嬢さん、着いたよ。」

外の景色を見つめていれば、ストルク街へ着くのはあっという間だった。
アイリーンは馬車を降りると、御者に料金を支払う。

「夜の街は陽気で賑やかだが危ねぇヤツもたくさんいる。お嬢さん、くれぐれも気をつけな。」
「お気遣いありがとうございます。」

馬車が去っていくのを見送ると、アイリーンは胸いっぱいに空気を吸った。ストルク街はシャントニー家の屋敷がある町よりも随分都会の地である。空気は汚れていたが、賑やかな雰囲気がアイリーンは好きだった。

「もうずいぶん暗いわ。急がないとお店が閉まっちゃう。」
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