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第二章 一人目と二人目
二人目・熊木優太
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ああ、今日も来てしまった、地獄の朝。贖罪の世界で迎える朝は、地上で迎える朝よりずっとわかりにくい。太陽の色に似た何かが太陽にしてはおかしい速度で登ってきたと思えば、もう朝になるのだ。
相変わらずこの世界の時間の流れは慣れないな、と思いながら、谷垣はあくびをひとつ。そんな彼に声をかけるのは贖罪の世界の導き手、リコリスである。
「おはようございます谷垣様。本日も元気に贖罪日和と行きたいところなのですが……」
「贖罪日和ってなんだよ……で、なにかあったのか?」
「今回、貴方様に対して“殺し返し”を行うのは、被害者様当人ではなくご遺族様となります」
「遺族? ……ああ、そういえば被害者本人が成仏してる場合は遺族に権利が行くって最初の説明で聞いたっけな」
そうすると、己が殺害した熊木という男は既に成仏したということになる。
己が行った行為はあまりにも意味不明で唐突で、家族も残していた彼は心残りや未練を抱いたりもしそうだけどな、とぼんやりとした頭で谷垣は考えた。いや、それよりも、だ。
「遺族……ってことは誰が来るんだ? あのおっさん、離婚してたはずだし……まさか娘か?」
「ご明察ですね、谷垣様。血縁者、ということで今回の殺し返しをしていただくお相手は、被害者である熊木様の娘、観月優子様になります」
それを聞いた谷垣は複雑な心境だった。四年前、自分が裁判所で見た熊木の元妻と娘はさめざめと泣いていた。それはもう、この世の終わりが如き泣きっぷり。……母親の方はどこか演技臭かったが。そんなに大切なら、ホームレスになんてしてやるなよ、と嫌悪感を抱いたことだけは、鮮明に覚えていた。
「いやぁ……娘か。……十年前に八歳ってことは、現行法なら成人は一応してるんだな……」
んーそれでもな、と谷垣はなにやら煮え切らない態度を取る。そんな姿を見たリコリスは、どうしたのかと声をかけた。
「いかがなさいましたか谷垣様?」
「いや……怨み買ってそうだなーとか、そうでもないかもなーとか、色々考えてた」
「で、結局どっちなんですか?」
「どっちつかず、だな」
裁判の傍聴席で泣き崩れる母娘の絵面は、マスコミ的にはさぞ美味しかったことだろう。たとえそれが演技での涙だったとしても。
母親はおそらく演技だ。でも、娘はそうでないのなら。あの涙が、もし偽物ではないのなら。
そんなことを考えては、らしくない、とまたボリボリと乱雑に頭を掻いた。そんなことを考えるくらいなら、これから自分の身に起こる出来事に頭を使ったほうがずっといいだろう。
「まあいいや。早いところ終わらせようぜ」
「……? わかりました、本当、前回の“殺し返し”以降、いやに乗り気ですね?」
「だーかーら、俺はさっさとやるべきことやって終わらせたいタイプなんだよ」
またこの手の質問か、と谷垣は至極面倒そうにボリボリと頭をかき乱した。呆れたときや場を仕切り直したいとき、谷垣は頭をかき乱す癖がある。
さっさと終わらせたい、と口では言うものの、谷垣には少しばかりの不安もあった。それは、今回“殺し返し”に参加するのが遺族である、ということ。遺族ということは、本人ではなく遺族に、例の鏡経由で殺されるまでの一部始終を見せることになる。
遺族は、そんなものを見せられて耐えられるのだろうか。もし、きちんと愛していたのならば。殺害された熊木のことを、家族だと認識していたならば。辛い気持ちになるのではないだろうか。そんな、彼らしくもない思案をしていた。
「ちなみに今回のご遺族の方、ノリノリですよ」
「ノリノリなんかい」
心配して損したか? と思いつつも、自分を殺せる! ということでノリノリなのかもしれない、と考えるとあまり笑えそうもない話だ。齢十八にして夢の中で殺人か。しかも本人はノリノリときた。……それもどうなんだ。
「……っていうかさ」
「はい?」
「そういう、あまりにも若いのって呼んで良いわけ? 夢として扱われたとしても、薄れゆく記憶だとしても、殺人だぞ?」
「そうですね」
「そうですねじゃないだろ。……相手がそれを望んでいるならそれでいい、それが地獄の判断なのか?」
「憎しみに、哀しみに、苦しみに……人の感情に年齢など、関係ありませんよ、谷垣様。あまりにも幼い方の場合は選択肢から外しますし、夢から覚めたご本人様の精神状況によっては、ここでの記憶を一時的に封印したりもします」
現在生存している人間を、殺し返しで呼ぶ場合、この世界であったこと一切は“夢”として扱われる。というのは、以前谷垣が暇つぶしにリコリスに投げた質問で知り得た情報だ。それでも、人を殺す夢なんてあまりにも凄惨なのではないか。
そう考えた谷垣はまたも質問を投げかけるも、リコリスは悲しそうに目を伏せて答えた。……と思えば、彼女はパッと花が咲くように表情を変え、今度は冗談を飛ばしてきた。
「まあ、あれですよ。地獄なんていつもそこらへんガバガバでしたし? なんなら賽の河原、なんて話だってあったじゃないですか? そんな感じですよそんな感じ」
「……なんか全部台無しなんだよなあ……ってか賽の河原ってマジであるわけ? 今の御時世、親より先に死ぬなんて全然あると思うけどなあ」
リコリスの話す地獄事情に流されてなあなあになるといういつものパターンだが、谷垣はやはり引っかかっていた。
「……そもそも、最初から“殺し返し”を選んでいるってことは、本人の希望、ってことだよな」
「さようでございますね。……先程ご自身で仰られたとおり、恨みを買ったのでは?」
記憶の片隅にあるのは、泣くのをこらえようにも堪えられずにこちらを睨みつけていた中学生くらいの少女の姿だった。法廷で、谷垣が見た熊木の娘の記憶である。
「はは……どうなんだろうな。ただ、あの鏡」
「“業鏡”ですか?」
「ああ。今回も殺し返しを選んだってことは、アレであの現場を再現して見せるってことだろ?」
「それはもう、ええ、はい。殺し方に、万一間違いでもあってはいけませんので。それが何か?」
「……家族が殺されるのを見るのって、複雑な気持ちだろうなって、そう思っただけだよ」
しかも失血死。血まみれで死んでいく父親の姿と、残した言葉を聞いて、彼女は何を思うのだろうか。どちらにしろ、親のいない自分にはわからないだろうが、と自嘲しながら、谷垣は憂うように目を伏せた。
「……まあ、まあ」
「……なんだよ」
「谷垣様は、意外にも他者を思いやる繊細さをお持ちでいらっしゃるようで……」
「……チッ」
「おっと、これは失言でした」
リコリスが、前々から気になっていた谷垣の態度について言及すると、谷垣はわかりやすく顔を顰めて、舌打ちをした。その様子に、なにやら察したリコリスは「あらやだ、怖い顔ですね」とするりと逃げていった。
「……余計な詮索をしたところで、俺はただの罪人だ。あんた個人の興味で、俺の過去をあれこれ物色される謂れはない。趣味でやってるならやめとけよ。閻魔にクレーム入れるぞ」
「……肝に銘じておきます」
それはそれとして、とリコリスは改めて場を仕切り直す。
「これより“成仏DEATH”改め“贖罪の儀”を執り行いたい……のですが。谷垣様、ご自信のほどは」
「は? なんの自信だよ。殺される自信?」
「それもまあ、必要ですが……“受け止める”自信は……おありですか?」
意味深な言葉を告げるリコリスに谷垣は首を傾げるばかりだったが、そんな谷垣の背後から声が響いた。
「アンタが谷垣敏樹?」
少し低めに響く、気の強そうな女の声。振り向いた谷垣は、その容姿を見て目を丸くした。
「そう、だけど……あんた、まさか熊木のおっさんの娘!?」
「そ! あたし、観月優子。再婚して名字は変わったけど、れっきとした熊木優太の実子で~す」
谷垣が目を丸くした理由は一つ。彼が殺害した熊木という男は、随分と恰幅のいい……つまりは、骨太で少しばかりビール腹なくたびれた男だったのだ。そんな男の血が入っておきながら、こんな華奢でキラキラした女子高生が生まれるものなのか。自分でさえ、最初にその体格に少し驚くほどの大柄な男だったので、ことさら驚いたのだろう。
「……リコリス」
「はい?」
「……本当に大丈夫なんだろうなこれ? 俺は存在自体が健全とは程遠い死刑囚だぞ」
「ここ地獄の存在こそ発禁グロまっしぐらな世界ですし、大丈夫ですよ」
「何も大丈夫じゃねえ……」
谷垣は、噛みしめるように目を瞑る。目の前にいるのは女子高生だ。どこにでもいる、キラキラした女子高生。それが、今から俺を殺そうとしている。漫画でしか見たことないぞこんな展開。
「いいのか? 本当にこれでいいのか? あんたもこれでいいんだな? “殺し返し”でいいんだな?」
「なぁにビビってんの? あたし、別に父親が殺されるところとか、見たところで何も思わんし」
ってか、合法的に人を殺せるならその方が絶対お得じゃね? と優子は語る。まるで、本当に遊園地にでも遊びに来ただけのような軽さで、からからと笑った。
「……」
「……」
「……ちょ、ちょっと、なになに! 二人とも黙っちゃってさ~空気悪ぅ~い」
閉口もするだろう、こんな状況。いつもお喋りなリコリスですら、少しばかり不安そうな面持ちで黙り込んでいる。この子、本当に儀式の場に放り込んで大丈夫なのか?
「……あ、のさぁ、俺が死刑になった理由の一つに」
「知ってるよ。殺し方が残虐だったからって理由もあったんでしょ」
「……ご存知だったのですね」
「把握してなきゃ、こんなとこ来ないって。……あたしは平気だから、そのー……なんだっけ? ナントカ鏡? 見せてよ」
「……いいんだな? 本当に」
「……っあーもう、ウダウダうっさい! そういう男、嫌われるよ? あ、もう将来とかないんだっけ。死んだし」
「よぉしリコリスこいつなら大丈夫だ存分に見せてやれ」
「二人ともまるで子供ですね……はぁ……それではこれより正式に、“贖罪の儀”を執り行います」
二人の幼稚な煽り合いにため息をつきながら、リコリスは正式に贖罪の儀を執り行う、と世界に向けて宣言した。その言葉が贖罪の世界に響くとともに、世界は業鏡の力で一変する。
そこは、鬱蒼とした森の奥だった。明かりも殆ど無いような暗闇ばかりのその場所で、月明かりに照らされながら一人の男が佇んでいた。壊れかけの崖際の手すりに手をかけて、タバコをふかしている様子だった。
「あー……相変わらず人いなくて最高だわここ」
それは、若かりし頃の谷垣敏樹である。タバコの煙をくゆらせ、ぼんやりとした顔で月を見ていた。
この山奥は、めったに人が来ない。正しく言えば、死のうと思う人間しか足を踏み入れない。この山奥にあるとある崖から角度をつけて飛び降りると、警察にも回収が難しい位置に死体が残るのだ。なので、自殺の名所と化している。
警察も警察で件数の多さに辟易したのか、見回りもろくにしやしない。丁度いいところで白骨化して死ねる、と自殺志願者にはもっぱらの評判だ。そして、そんな場所は往々にして“心霊スポット”としても名を馳せる。
「“心霊スポット”? あほくさ……死後もクソもあるかよ……あ? これ俺の写真だし。誰が幽霊だっつーの」
心霊写真と題されてネットの海を彷徨う画質の悪すぎる己の写真を見て、乾いた笑いを溢した。ああ、俺の人生はこれでいいのだろうか。
事務所で殴られる、怯えてやらかしたヤクザを尻目に、俺はその無謀さを褒められる。ヤクザ……というか、裏社会はいい。みんなが自分の利を見て、すべてが打算で、悪意を隠しもせず。なんなら悪ければ悪いほど箔が付く。
そんな場所は谷垣にとって心地良いことに変わりはなかった。けれど、歳を重ねてだんだんと、考えることも増えてきた。
汚い金を得て、汚れた経歴で、裏社会を牛耳って? それで、俺は“幸せ”になれるのだろうか。そもそも、月並みな“幸せ”とは果たして、なんだ?
フゥーッと、ため息とともに煙を吐いた。ああ、静かな場所だここは。空気も澄んでいる。今現在進行形で自分がタバコの煙で汚している以外は。
谷垣は自分で自分に呆れつつ、ふと視線を動かすと、丁度例の崖に佇む小太りのおっさんが見えた。
「ち……ちょっと!」
流石に慌てた谷垣は、タバコを足元に落とし火を消すと、おっさんに大声で声をかけ始めた。
おいおい、またここで死なれちゃ臭くてたまらないだろ。俺の憩いの場を荒らすんじゃねえ。本心としてはそんなものだった。
そんな、邪といえば邪な考えで谷垣はそのおっさんに声をかけた。それが、偶然にも熊木優太だった。
「あんた、まさかまたここで死のうってんじゃないだろうな!」
「え? えっと……自殺の名所って聞いてきたので……」
「なんでだよ! なんで死のうとするんだそこで! 俺で良ければ話聞くぞ! 俺の名は谷垣敏樹、職業ヤの付く自由業!」
「えぇ……!? ぼ、僕は熊木優太……職業はつい最近なくなって……いや……ええ?」
いきなり名乗られたと思えば、職業はヤの付く自由業。その情報量の渋滞具合に困惑しつつも、ふっと笑う熊木。何がおかしいのか、と谷垣がムッとすると、熊木は、なんだか安心した、と笑う。
「いや、いや、ごめん。いやね……君みたいな若い子が、僕みたいに死ぬ順番待ちとかしてたらどうしよう、って思ってね」
でもその職業でその勢いなら心配なさそうだね、と熊木はまた笑った。谷垣は、呆れたようにボリボリと頭をかき乱すと、適当な木の根に腰掛け、新しいタバコに火をつけた。
「ってーか、死ぬのに年齢とか関係ないだろ。死ぬのなんて簡単なことだし、生きたいように生きるし、死にたいように死ぬね、俺は」
まあこんなとこで自殺なんてお断りだけどな、と谷垣は言う。熊木はその言葉に苦笑して、谷垣の傍らの木の根に腰掛けた。
「さすがヤの付く方ですねえ……」
「煽られてる? 褒められてる?」
「褒めてます」
朗らかに笑う熊木は、およそこれから死のうとしている人間だとは思えない、穏やかな表情だった。谷垣の悪ぶった言葉にからからと笑っては、穏やかに笑んでいる。
「……あんたさ、なんで死のうとしてたの」
「いやあ、お恥ずかしいことですが……事業に失敗してしまいまして、破産したんです。……妻と娘とは、別れました。家も差し押さえられちゃったので、二人とは別に生きたほうがいい、と、そう思いまして……」
「じゃ今はホームレスってわけ?」
「そうなりますねえ」
「ふーん……それで、将来を憂いて死のうとした、と」
「いいえ」
滔々と流れるように話をしていた熊木から放たれた明確かつ強い否定に、谷垣は思わず目を丸くした。自分の将来についての不安でないのなら、何が理由だというのか。
「……きっとこれから先、娘は……優子は、親が離婚したことや、父親がホームレスだと知られると、虐げられます」
「そりゃ、まあ……子供なんてそんなもんだろ、残酷だよ。けど、当人たちで乗り越えてくだろ、それくらい」
「でも、僕が自殺したとしたらどうでしょう。それがもし、ニュースにでもなれば。父親は事業に失敗した挙句己で命を絶った馬鹿者で、娘と妻は、そんな馬鹿者に振り回されただけの人間になれますよね」
「……あんた、そんな理由で自分の命、差し出そうとしてんの?」
「ええ。……僕にとっては、何よりも代えがたい、大切な家族だったんです」
物心つく前から施設にいた谷垣には、家族というものをいまいちよく理解できないが故に、家族のためならそこまでする、という熊木の言葉に興味を抱いた。だから、アドバイスをしてやることにした。
「……それならさあ、あの崖はやめたほうがいいぜ。あそこは見つかりたくない人向けだ」
「……? 見つかりたくない人向け、ですか?」
「ああ。そもそも遺体回収も面倒な位置で、警察もろくに見回りしなくなったのがここなんだからな」
警察も薄情なもんだよな、だから死ぬなら別な場所で、目立つように首縊りな。と、谷垣はよりにもよって自殺のアドバイスをしながらタバコの煙を夜空に吐いた。そんな彼を見て、熊木は一瞬呆気にとられ、その次に大笑いしだした。
「あはははは、谷垣さんって面白い人だ」
「な、なにがだよ……こえーよいきなり笑うなよ」
「あはは、すみません、すみません。だって、自殺しようとしてる僕を引き止めたと思ったら、より良い自殺の仕方の提案なんてされるから……」
「なんだよ、引き止めてほしかったなら他あたりな」
「いいえ、谷垣さんは不思議な方だな、と思っただけなんです」
「不思議……?」
「僕の自殺を止めたと思えば、それはただ自分の憩いの場を荒らしてほしくないだけであって」
「うん」
「僕の自殺自体を、止めるわけではない」
「そりゃ、死ぬのはあんたの勝手だからな」
ぶっきらぼうに答える谷垣は、なおも微笑む熊木に嫌気が差していた。なんだ、俺をそんな目で見るな。むしろ、見ないでくれ。
「僕は、そんな姿勢を貫く谷垣さんを見たとき、裏表のない、いい人だなあって思ったんです」
「……は?」
裏表のないいい人だって? 自殺を止めようともせず、殴られている人間を尻目に金を受け取るような、人間として道徳に背いている俺が、このおっさんにとってはいい人?
途端に、谷垣の肌は粟立ち、心臓がドクドクと音を立て始めた。この朗らかな熊木の声が、優しさを見出すその目が。遠い記憶が、谷垣の頭を揺らした。
『君はいい子だよ、谷垣くん』
そう言って頭を撫でてくれた人は誰だったか。ああ、思い出したくもない。俺はいい人じゃない、いい子なんかじゃないんだ。
気が付けば呼吸も荒くなり、締め付けるように頭が痛む。
「た、谷垣さん? だ、大丈夫ですか?」
熊木が声をかけた瞬間、谷垣は衝動的に傍らにあったこぶし大の石を振り上げ、熊木を殴り倒した。頭部を殴られた熊木は、驚きと痛みで放心状態になっていた。
「……えっ? えっ? え?」
「……はぁ、はぁ、……はぁ……」
目の前で倒れ伏す、頭から血を流した熊木。自分がやったのだ、と瞬時に理解する谷垣。落ち着いていく呼吸と、痛みながらも冴えていく頭。
ああ、どうしてしまおうか。
「なんっ……なん、で、谷垣、さん?」
「……は、理由とか、いるかよ」
ヤクザに向かって“いい人”なんて言った自分を恨めよ、と吐き捨てるように谷垣は言う。
ああ、殺せばいいや。殺してしまえ。こんな警察も寄り付かない山奥、丁度いい白骨死体の発見場所もあることだし。転落したように見せかけて殺してしまえばいい。元から自殺するつもりのただのおっさん一人、殺したところでなんてことはない。
「あんた……どうせ死ぬんなら、殺されたっていいよな」
「なんで……? 谷垣さん、どうしてしまったんですか?」
「……俺なんて、元からこうだよ。痛めつけるのが好きなだけ」
実際、それは事実だった。いつのことだったか、初めて半グレの男を刺し殺したとき、切りつけている間の反応はとても楽しかったことを覚えている。
きっと、あの時と同じように痛めつけてしまえば、この頭にこびりつくような靄も晴れるはずだ。
「……だからさ、あんたのこと」
「ひっ……」
「殺してやろうと、思って」
そう言い放った谷垣は、そのまま思いきり倒れ込んでいる熊木の右足首を全力で踏みつける。何度も、何度も、全体重をかけて。やがて、骨が折れた嫌な音が響き、熊木は悲鳴を上げるが、一方の谷垣はニィ、と口の端を歪めた。
「事件性なしの死体より、他殺体のほうがドラマチックだろ? まあ、他殺体だって警察が察するかどうかだけどな」
「そ、……そんな……谷垣、さん」
「いいよなあ、人を殺すのってさ」
その時だけ、俺は悪い子一等賞だ。
「あんたもさ、“一番悪い人間”って言ったら“人を殺す人間”って思うだろ?」
「な、なん……なん、のこと……ですか?」
「俺は今楽しいよ、熊木さん」
這いずる熊木に、わざわざしゃがんで目を合わせる谷垣。その暗い影の落ちた瞳の奥には、伊伏を殺害したときのような爛々とした光が宿っていた。
ふと、ポケットから折りたたみのナイフを取り出したと思うと、谷垣は迷い無く熊木の頸動脈を切った。
「あ゙っ……あっ、あっ……」
「どれくらいで死ぬのかな。失血死は見たことないんだよな。前はいつの間にか死んでたし」
「あっ……うぅ……優子……真由美……ごめ、んな……」
「……? なにそれ、奥さんと娘とか?」
「娘と……妻、です……ああ、……どうか、どこかで、健やかに……」
「……」
自分が死ぬというときに、残される娘と元妻に対して言葉を残すなんて、と谷垣は首を傾げる。家族というのは、そんなに大切に思えるものなのだろうか。
「なあ、おっさん。まだ生きてる?」
「ああ……はい?」
もはや逃げる気など失せているのだろう、ひゅうひゅうと呼吸しながら首からダラダラと血を流し続ける熊木は、話しかけてきた谷垣に朧気な意識で応答した。
「……家族って、そんなに大事?」
きっとこれの答えが、自分の最期の言葉になるだろう。熊木はそう考えた。数秒視線を巡らせ考えたあと、絞り出すように言葉を紡いだ。
「……、命よりも、大切ですよ……僕に、とっては……」
それだけ言って、熊木は何も話さなくなった。事切れた熊木を見る谷垣の表情は、俯いて影になっていて判別ができない。
谷垣は何かをこらえるように一度大きく息を吸うと、熊木の死体を運び、例の崖へと投げ落とした。血は、どこもかしこも念入りに洗い流した。
そうして数年経って発見された熊木の白骨死体は、ホームレスとなった自分を憂いて自殺だと警察は断定した。
皮肉にも、三十四歳の谷垣敏樹の自白証言によりその結論は覆されたわけだが。
息を呑む音が聞こえた。熊木の娘である、観月優子が、震えた声で言葉を放った。
「……これが、あたしの父さんの、殺されるまでの、全部?」
「そうだよ。俺はとにかく衝動的な男でね」
前もああして衝動的に殺してた。悪いことをしたとは思ってるよ? とわざとらしく楽しそうに谷垣は言う。俺はいっつも突然なんだ、スイッチが入るみたいに。
「……なんで、殺したの」
「は?」
「……ぜ、ぜんぜん、直前まで普通に話してたじゃん。……なんで……なんで、父さんを……」
業鏡で見た一部始終があまりにも辛かったのか、優子の手は握り拳を作り、視線は斜め下を向いて、嘘だ、とでも言うように、一度かぶりを振った。
そんな優子に対して、谷垣は目を細めて言った。
「……頭が、痛かったから」
「……は?」
「頭が、痛くてしょうがなかったんで、熊木さんにも頭、痛くなってもらおうと思って」
そしたらさあ、スイッチ入っちゃった。あっけらかんとそう言い放つ谷垣は、へらりと笑った。その瞳には、どこかに、何かに向けた諦めのような何かがあったような気がした。
そんな谷垣に対し、優子は無言のまま谷垣に近付き、徐ろに石を持ち上げたと思うと、彼が熊木を襲ったときのように頭に向かって振り下ろし、勢い良く横から殴り倒した。
「いっ……てぇ」
「……ふ、ふふ……痛い? あたしの父さんの痛み」
「……そうだな。……痛いよ。お前の親父が受けた痛み、クラクラするし、血も結構出て、……ああ、嫌なもんだな。……で、次はどうするんだっけ、お嬢さん?」
あのときの熊木と同じように、頭からダラダラと血を垂れ流しながら、次の行動は何だった? と煽るように優子に問う谷垣。
優子は、悔しそうに下唇を噛みながら、何度も何度も谷垣の右足首を踏み続けた。優子では力が足りないので、何度も、何度も。やがて、嫌な音を立てて谷垣の右足首は潰れた。
「っ……、は、はは、やっと折れたな」
「はぁ……はぁ……ふ、ふふ、いい気味! 頭から血流してさ! 足首もこんな小娘に折られて! 最期には失血死でしょ? ざまあみろっての!」
正直な話、折れるまでの方が痛かったぞ、とぼやきそうになった谷垣だが、優子の様子を見て、言葉を変えた。
「なあ」
「……なによ?」
「“ざまあみろ”って思うくらいなら、お前にとって、俺は憎むべき対象なのか?」
「……は? 何言ってんの? そんなの当たり前……」
「どう思ったんだ、あれを見て」
あれ、というのは、まごうことなく、業鏡で見えた谷垣と熊木の一部始終だろう。最後の最期まで家族を思い続けた熊木の姿も、はっきりとあの鏡は映し出していた。
家族のことを、命よりも大切な存在だと、あんな状況で言える人間はそうそういないのではないか。谷垣はそう思っていた。そして、そんな実の父親の最期を見て、果たして彼女はどう思ったのか。純粋に、谷垣は知りたかった。
「い……、い、今更、なんの話? 命乞いでもする気?」
「この地獄で命乞いなんて意味ないだろ……いてて……ただ、あそこまで自分たちのことを思う父親の姿っていうのは、どう映るのかって、気になったんだ」
俺を殺すのは構わないが、ナイフで切る前に教えてほしい、と谷垣は縋った。初めて見る光景に、優子だけでなく、遠くから見ていたリコリスも目を丸くした。
「……なんで、あんたが殺したのに、そんなこと知りたいのよ」
「……俺は、家族がいなかった、から」
いなかった、というよりは崩壊していた中から助け出されて施設の一員となった谷垣には、“普通の血の繋がった家族”というだけで興味の対象になる。
今回殺し返しに来たのが遺族、というのにも、最初に驚いたとおり、熊木本人が今現在の彼らに納得をして成仏をしたと言うことに他ならず。金持ちと結婚して、悠々と暮らして、わがまま放題に育った娘。そんなものを見て、それでも彼らのその先の幸福を見て、安堵して、彼は成仏したのだろうか。
谷垣には、他人を自分以上に思いやるその感情がわからなかった。生前には、知ろうとさえしなかった。そんな感情を今、谷垣はこの儀式を経て知ろうとしていた。
やがて、口を開いた優子は、涙ぐんでいた。
「……ぱ、」
「……」
「パパ、はっ……! いっ、い、いつも優しく、て……! ママ、も、同じように、優しくて……! そ、それなの、に、」
「……うん」
ぽたりぽたりと、優子の涙が地面に染み込んでいく。谷垣はそれを見ながら、ゆっくりと優子の話に耳を傾けていた。ぐい、と谷垣が己の額を拭った手の甲には、血の跡がべっとりとつくような、そんな状況だというのに、その光景は、まるでカウンセリングか何かのようだった。
「……っじ、事業が、傾き始めたとたん……! ぐすっ……ま、ママ、は、金回りのいい男と、つるむようになって」
「うん……それで、あんたはどうしてほしかった?」
「もっ……もち、ろん、う、浮気とか、やめて、ほしかった、よ? でも、そんなの、い、言え、なくて」
熊木が自殺を図ろうとしていたのはおよそ今から十年前。それより前の優子といえば、八よりもっと幼い子供だ。浮気をやめて、なんて言えるはずがないよな、と谷垣は視線を落とした。
「……浮気ってさ、熊木のおっさんは知ってたの?」
「し、しら、知らないままっ、だと、思う……ぐすっ、それから、パパが、破産、して……す、すぐ、こ、『このままじゃ優子を育てられないから、離婚して』って、……それで、いつの間にか、ああなってて」
「ふーん……“普通の幸せ”っていうのも難しいんだな」
恋愛して、結婚して、子供産んで。それが普通の幸せだと思ってたけど、やっぱり普通に何事もなく育ってる家庭のほうが少ないのかもしれない。
自分や、施設にいた子供たちともまた違う傷を持った優子に、谷垣はそんな奇妙な共感を抱いた。
「……あたしは……あたしは、パパと一緒にいたかったよ」
「……でも、母親についていかなきゃ生きていけなかったのも事実だろ?」
「……それも、そう。……あたしね、結局最後までママに手を引かれてて、パパにも何も言えないまま別れちゃってて」
「へえ。それで心残りってわけだ」
経緯がわかってスッキリしたし、もう首を切ってくれて構わない、とあっさりと首筋を差し出す谷垣。なんなら「ここだよここ」と、煽るように切るべき場所を指差す。
そんな谷垣に対して、優子はどこか柔らかくなった面持ちで質問を投げかけた。
「……谷垣……さん、は、本当に、なんでパパ……父さんを殺したの? あたしには、そんな残虐な人には見えない。今も、あの瞬間も」
「……さあ。そんな気分だった、としか言えないな。何しろかなり前の殺しだし……」
「……教えてくれないんだ。本当のこと」
「……」
優子は、何かを感じ取っているんだろう。谷垣には、そんな気がした。そして、おそらくリコリスにも、もう自分がどんな存在なのか察されているような気がする。
それでも、谷垣はあくまで“悪人”であり、“罪人”である。ゆっくりと谷垣は瞳を閉じる。問いから逃れるように。
「……これが、あたしと谷垣さんが会う最期、でも」
「そうだな、話すことは何もない。俺の殺しに理由という理由もない。……これでこの話は終わりだ」
「……うそつき」
「なんとでもどーぞ」
くい、と谷垣が目を閉じたまま首筋を優子に向けて差し出す。早くしろ、と口パクで伝えてくる。
一瞬迷い、すぐにナイフを構えた優子は、そんな谷垣の首筋を思い切り切った。脈打つように吹き出す血液に、流石にきゃあ、と悲鳴をあげる優子。
「や、やば、血……! え……!」
「お、もいっきり、行ったな……」
失血って本当に頭がクラクラするんだなあ、前回といい今回といい。谷垣はぼんやりとしてきた頭で、抜けていくぬくもりが、まるでそれが命だと言っているように思えた。自分の血にぴちゃりと触れる。
「……人殺しでも、血は赤色なんだよな」
「……ねえ、谷垣さん」
「……なに、最期の罵詈雑言?」
「……パパの最期、見せてくれて、ありがとうございました」
「……は? ……なにいってんの、おまえ……」
クラクラとした頭では上手く言葉も紡げない。それでも谷垣はわかりやすく目を見開き、優子を見上げた。
「おかげで、こうしてパパのこと、ちゃんと知れたから。……殺したことは、もちろん、憎いけど……谷垣さんがもし、今回みたいに殺してなかったら、パパがそれでもあたしたちを愛してたって、最後まで知らないままだったから……」
「……オェ」
「……だ、だからそれだけ、そこんとこだけありがとってこと」
「……おれ、おれいとか、せかいでいちばんきらい……」
「うわ、サイテー血まみれ男……」
やがて眠るように絶命した谷垣に、優子は文字通り最期の言葉をかけた。
「……谷垣さん」
「観月様、谷垣様は既に……」
「わかってる、わかってるよ。……でも、これだけ……この言葉だけ、かけさせて」
すう、と息を吸った優子は、ある一言を谷垣の亡骸に向けて投げかけて、この贖罪の世界をあとにした。
「……なんで、父さんを殺したの?」
相変わらずこの世界の時間の流れは慣れないな、と思いながら、谷垣はあくびをひとつ。そんな彼に声をかけるのは贖罪の世界の導き手、リコリスである。
「おはようございます谷垣様。本日も元気に贖罪日和と行きたいところなのですが……」
「贖罪日和ってなんだよ……で、なにかあったのか?」
「今回、貴方様に対して“殺し返し”を行うのは、被害者様当人ではなくご遺族様となります」
「遺族? ……ああ、そういえば被害者本人が成仏してる場合は遺族に権利が行くって最初の説明で聞いたっけな」
そうすると、己が殺害した熊木という男は既に成仏したということになる。
己が行った行為はあまりにも意味不明で唐突で、家族も残していた彼は心残りや未練を抱いたりもしそうだけどな、とぼんやりとした頭で谷垣は考えた。いや、それよりも、だ。
「遺族……ってことは誰が来るんだ? あのおっさん、離婚してたはずだし……まさか娘か?」
「ご明察ですね、谷垣様。血縁者、ということで今回の殺し返しをしていただくお相手は、被害者である熊木様の娘、観月優子様になります」
それを聞いた谷垣は複雑な心境だった。四年前、自分が裁判所で見た熊木の元妻と娘はさめざめと泣いていた。それはもう、この世の終わりが如き泣きっぷり。……母親の方はどこか演技臭かったが。そんなに大切なら、ホームレスになんてしてやるなよ、と嫌悪感を抱いたことだけは、鮮明に覚えていた。
「いやぁ……娘か。……十年前に八歳ってことは、現行法なら成人は一応してるんだな……」
んーそれでもな、と谷垣はなにやら煮え切らない態度を取る。そんな姿を見たリコリスは、どうしたのかと声をかけた。
「いかがなさいましたか谷垣様?」
「いや……怨み買ってそうだなーとか、そうでもないかもなーとか、色々考えてた」
「で、結局どっちなんですか?」
「どっちつかず、だな」
裁判の傍聴席で泣き崩れる母娘の絵面は、マスコミ的にはさぞ美味しかったことだろう。たとえそれが演技での涙だったとしても。
母親はおそらく演技だ。でも、娘はそうでないのなら。あの涙が、もし偽物ではないのなら。
そんなことを考えては、らしくない、とまたボリボリと乱雑に頭を掻いた。そんなことを考えるくらいなら、これから自分の身に起こる出来事に頭を使ったほうがずっといいだろう。
「まあいいや。早いところ終わらせようぜ」
「……? わかりました、本当、前回の“殺し返し”以降、いやに乗り気ですね?」
「だーかーら、俺はさっさとやるべきことやって終わらせたいタイプなんだよ」
またこの手の質問か、と谷垣は至極面倒そうにボリボリと頭をかき乱した。呆れたときや場を仕切り直したいとき、谷垣は頭をかき乱す癖がある。
さっさと終わらせたい、と口では言うものの、谷垣には少しばかりの不安もあった。それは、今回“殺し返し”に参加するのが遺族である、ということ。遺族ということは、本人ではなく遺族に、例の鏡経由で殺されるまでの一部始終を見せることになる。
遺族は、そんなものを見せられて耐えられるのだろうか。もし、きちんと愛していたのならば。殺害された熊木のことを、家族だと認識していたならば。辛い気持ちになるのではないだろうか。そんな、彼らしくもない思案をしていた。
「ちなみに今回のご遺族の方、ノリノリですよ」
「ノリノリなんかい」
心配して損したか? と思いつつも、自分を殺せる! ということでノリノリなのかもしれない、と考えるとあまり笑えそうもない話だ。齢十八にして夢の中で殺人か。しかも本人はノリノリときた。……それもどうなんだ。
「……っていうかさ」
「はい?」
「そういう、あまりにも若いのって呼んで良いわけ? 夢として扱われたとしても、薄れゆく記憶だとしても、殺人だぞ?」
「そうですね」
「そうですねじゃないだろ。……相手がそれを望んでいるならそれでいい、それが地獄の判断なのか?」
「憎しみに、哀しみに、苦しみに……人の感情に年齢など、関係ありませんよ、谷垣様。あまりにも幼い方の場合は選択肢から外しますし、夢から覚めたご本人様の精神状況によっては、ここでの記憶を一時的に封印したりもします」
現在生存している人間を、殺し返しで呼ぶ場合、この世界であったこと一切は“夢”として扱われる。というのは、以前谷垣が暇つぶしにリコリスに投げた質問で知り得た情報だ。それでも、人を殺す夢なんてあまりにも凄惨なのではないか。
そう考えた谷垣はまたも質問を投げかけるも、リコリスは悲しそうに目を伏せて答えた。……と思えば、彼女はパッと花が咲くように表情を変え、今度は冗談を飛ばしてきた。
「まあ、あれですよ。地獄なんていつもそこらへんガバガバでしたし? なんなら賽の河原、なんて話だってあったじゃないですか? そんな感じですよそんな感じ」
「……なんか全部台無しなんだよなあ……ってか賽の河原ってマジであるわけ? 今の御時世、親より先に死ぬなんて全然あると思うけどなあ」
リコリスの話す地獄事情に流されてなあなあになるといういつものパターンだが、谷垣はやはり引っかかっていた。
「……そもそも、最初から“殺し返し”を選んでいるってことは、本人の希望、ってことだよな」
「さようでございますね。……先程ご自身で仰られたとおり、恨みを買ったのでは?」
記憶の片隅にあるのは、泣くのをこらえようにも堪えられずにこちらを睨みつけていた中学生くらいの少女の姿だった。法廷で、谷垣が見た熊木の娘の記憶である。
「はは……どうなんだろうな。ただ、あの鏡」
「“業鏡”ですか?」
「ああ。今回も殺し返しを選んだってことは、アレであの現場を再現して見せるってことだろ?」
「それはもう、ええ、はい。殺し方に、万一間違いでもあってはいけませんので。それが何か?」
「……家族が殺されるのを見るのって、複雑な気持ちだろうなって、そう思っただけだよ」
しかも失血死。血まみれで死んでいく父親の姿と、残した言葉を聞いて、彼女は何を思うのだろうか。どちらにしろ、親のいない自分にはわからないだろうが、と自嘲しながら、谷垣は憂うように目を伏せた。
「……まあ、まあ」
「……なんだよ」
「谷垣様は、意外にも他者を思いやる繊細さをお持ちでいらっしゃるようで……」
「……チッ」
「おっと、これは失言でした」
リコリスが、前々から気になっていた谷垣の態度について言及すると、谷垣はわかりやすく顔を顰めて、舌打ちをした。その様子に、なにやら察したリコリスは「あらやだ、怖い顔ですね」とするりと逃げていった。
「……余計な詮索をしたところで、俺はただの罪人だ。あんた個人の興味で、俺の過去をあれこれ物色される謂れはない。趣味でやってるならやめとけよ。閻魔にクレーム入れるぞ」
「……肝に銘じておきます」
それはそれとして、とリコリスは改めて場を仕切り直す。
「これより“成仏DEATH”改め“贖罪の儀”を執り行いたい……のですが。谷垣様、ご自信のほどは」
「は? なんの自信だよ。殺される自信?」
「それもまあ、必要ですが……“受け止める”自信は……おありですか?」
意味深な言葉を告げるリコリスに谷垣は首を傾げるばかりだったが、そんな谷垣の背後から声が響いた。
「アンタが谷垣敏樹?」
少し低めに響く、気の強そうな女の声。振り向いた谷垣は、その容姿を見て目を丸くした。
「そう、だけど……あんた、まさか熊木のおっさんの娘!?」
「そ! あたし、観月優子。再婚して名字は変わったけど、れっきとした熊木優太の実子で~す」
谷垣が目を丸くした理由は一つ。彼が殺害した熊木という男は、随分と恰幅のいい……つまりは、骨太で少しばかりビール腹なくたびれた男だったのだ。そんな男の血が入っておきながら、こんな華奢でキラキラした女子高生が生まれるものなのか。自分でさえ、最初にその体格に少し驚くほどの大柄な男だったので、ことさら驚いたのだろう。
「……リコリス」
「はい?」
「……本当に大丈夫なんだろうなこれ? 俺は存在自体が健全とは程遠い死刑囚だぞ」
「ここ地獄の存在こそ発禁グロまっしぐらな世界ですし、大丈夫ですよ」
「何も大丈夫じゃねえ……」
谷垣は、噛みしめるように目を瞑る。目の前にいるのは女子高生だ。どこにでもいる、キラキラした女子高生。それが、今から俺を殺そうとしている。漫画でしか見たことないぞこんな展開。
「いいのか? 本当にこれでいいのか? あんたもこれでいいんだな? “殺し返し”でいいんだな?」
「なぁにビビってんの? あたし、別に父親が殺されるところとか、見たところで何も思わんし」
ってか、合法的に人を殺せるならその方が絶対お得じゃね? と優子は語る。まるで、本当に遊園地にでも遊びに来ただけのような軽さで、からからと笑った。
「……」
「……」
「……ちょ、ちょっと、なになに! 二人とも黙っちゃってさ~空気悪ぅ~い」
閉口もするだろう、こんな状況。いつもお喋りなリコリスですら、少しばかり不安そうな面持ちで黙り込んでいる。この子、本当に儀式の場に放り込んで大丈夫なのか?
「……あ、のさぁ、俺が死刑になった理由の一つに」
「知ってるよ。殺し方が残虐だったからって理由もあったんでしょ」
「……ご存知だったのですね」
「把握してなきゃ、こんなとこ来ないって。……あたしは平気だから、そのー……なんだっけ? ナントカ鏡? 見せてよ」
「……いいんだな? 本当に」
「……っあーもう、ウダウダうっさい! そういう男、嫌われるよ? あ、もう将来とかないんだっけ。死んだし」
「よぉしリコリスこいつなら大丈夫だ存分に見せてやれ」
「二人ともまるで子供ですね……はぁ……それではこれより正式に、“贖罪の儀”を執り行います」
二人の幼稚な煽り合いにため息をつきながら、リコリスは正式に贖罪の儀を執り行う、と世界に向けて宣言した。その言葉が贖罪の世界に響くとともに、世界は業鏡の力で一変する。
そこは、鬱蒼とした森の奥だった。明かりも殆ど無いような暗闇ばかりのその場所で、月明かりに照らされながら一人の男が佇んでいた。壊れかけの崖際の手すりに手をかけて、タバコをふかしている様子だった。
「あー……相変わらず人いなくて最高だわここ」
それは、若かりし頃の谷垣敏樹である。タバコの煙をくゆらせ、ぼんやりとした顔で月を見ていた。
この山奥は、めったに人が来ない。正しく言えば、死のうと思う人間しか足を踏み入れない。この山奥にあるとある崖から角度をつけて飛び降りると、警察にも回収が難しい位置に死体が残るのだ。なので、自殺の名所と化している。
警察も警察で件数の多さに辟易したのか、見回りもろくにしやしない。丁度いいところで白骨化して死ねる、と自殺志願者にはもっぱらの評判だ。そして、そんな場所は往々にして“心霊スポット”としても名を馳せる。
「“心霊スポット”? あほくさ……死後もクソもあるかよ……あ? これ俺の写真だし。誰が幽霊だっつーの」
心霊写真と題されてネットの海を彷徨う画質の悪すぎる己の写真を見て、乾いた笑いを溢した。ああ、俺の人生はこれでいいのだろうか。
事務所で殴られる、怯えてやらかしたヤクザを尻目に、俺はその無謀さを褒められる。ヤクザ……というか、裏社会はいい。みんなが自分の利を見て、すべてが打算で、悪意を隠しもせず。なんなら悪ければ悪いほど箔が付く。
そんな場所は谷垣にとって心地良いことに変わりはなかった。けれど、歳を重ねてだんだんと、考えることも増えてきた。
汚い金を得て、汚れた経歴で、裏社会を牛耳って? それで、俺は“幸せ”になれるのだろうか。そもそも、月並みな“幸せ”とは果たして、なんだ?
フゥーッと、ため息とともに煙を吐いた。ああ、静かな場所だここは。空気も澄んでいる。今現在進行形で自分がタバコの煙で汚している以外は。
谷垣は自分で自分に呆れつつ、ふと視線を動かすと、丁度例の崖に佇む小太りのおっさんが見えた。
「ち……ちょっと!」
流石に慌てた谷垣は、タバコを足元に落とし火を消すと、おっさんに大声で声をかけ始めた。
おいおい、またここで死なれちゃ臭くてたまらないだろ。俺の憩いの場を荒らすんじゃねえ。本心としてはそんなものだった。
そんな、邪といえば邪な考えで谷垣はそのおっさんに声をかけた。それが、偶然にも熊木優太だった。
「あんた、まさかまたここで死のうってんじゃないだろうな!」
「え? えっと……自殺の名所って聞いてきたので……」
「なんでだよ! なんで死のうとするんだそこで! 俺で良ければ話聞くぞ! 俺の名は谷垣敏樹、職業ヤの付く自由業!」
「えぇ……!? ぼ、僕は熊木優太……職業はつい最近なくなって……いや……ええ?」
いきなり名乗られたと思えば、職業はヤの付く自由業。その情報量の渋滞具合に困惑しつつも、ふっと笑う熊木。何がおかしいのか、と谷垣がムッとすると、熊木は、なんだか安心した、と笑う。
「いや、いや、ごめん。いやね……君みたいな若い子が、僕みたいに死ぬ順番待ちとかしてたらどうしよう、って思ってね」
でもその職業でその勢いなら心配なさそうだね、と熊木はまた笑った。谷垣は、呆れたようにボリボリと頭をかき乱すと、適当な木の根に腰掛け、新しいタバコに火をつけた。
「ってーか、死ぬのに年齢とか関係ないだろ。死ぬのなんて簡単なことだし、生きたいように生きるし、死にたいように死ぬね、俺は」
まあこんなとこで自殺なんてお断りだけどな、と谷垣は言う。熊木はその言葉に苦笑して、谷垣の傍らの木の根に腰掛けた。
「さすがヤの付く方ですねえ……」
「煽られてる? 褒められてる?」
「褒めてます」
朗らかに笑う熊木は、およそこれから死のうとしている人間だとは思えない、穏やかな表情だった。谷垣の悪ぶった言葉にからからと笑っては、穏やかに笑んでいる。
「……あんたさ、なんで死のうとしてたの」
「いやあ、お恥ずかしいことですが……事業に失敗してしまいまして、破産したんです。……妻と娘とは、別れました。家も差し押さえられちゃったので、二人とは別に生きたほうがいい、と、そう思いまして……」
「じゃ今はホームレスってわけ?」
「そうなりますねえ」
「ふーん……それで、将来を憂いて死のうとした、と」
「いいえ」
滔々と流れるように話をしていた熊木から放たれた明確かつ強い否定に、谷垣は思わず目を丸くした。自分の将来についての不安でないのなら、何が理由だというのか。
「……きっとこれから先、娘は……優子は、親が離婚したことや、父親がホームレスだと知られると、虐げられます」
「そりゃ、まあ……子供なんてそんなもんだろ、残酷だよ。けど、当人たちで乗り越えてくだろ、それくらい」
「でも、僕が自殺したとしたらどうでしょう。それがもし、ニュースにでもなれば。父親は事業に失敗した挙句己で命を絶った馬鹿者で、娘と妻は、そんな馬鹿者に振り回されただけの人間になれますよね」
「……あんた、そんな理由で自分の命、差し出そうとしてんの?」
「ええ。……僕にとっては、何よりも代えがたい、大切な家族だったんです」
物心つく前から施設にいた谷垣には、家族というものをいまいちよく理解できないが故に、家族のためならそこまでする、という熊木の言葉に興味を抱いた。だから、アドバイスをしてやることにした。
「……それならさあ、あの崖はやめたほうがいいぜ。あそこは見つかりたくない人向けだ」
「……? 見つかりたくない人向け、ですか?」
「ああ。そもそも遺体回収も面倒な位置で、警察もろくに見回りしなくなったのがここなんだからな」
警察も薄情なもんだよな、だから死ぬなら別な場所で、目立つように首縊りな。と、谷垣はよりにもよって自殺のアドバイスをしながらタバコの煙を夜空に吐いた。そんな彼を見て、熊木は一瞬呆気にとられ、その次に大笑いしだした。
「あはははは、谷垣さんって面白い人だ」
「な、なにがだよ……こえーよいきなり笑うなよ」
「あはは、すみません、すみません。だって、自殺しようとしてる僕を引き止めたと思ったら、より良い自殺の仕方の提案なんてされるから……」
「なんだよ、引き止めてほしかったなら他あたりな」
「いいえ、谷垣さんは不思議な方だな、と思っただけなんです」
「不思議……?」
「僕の自殺を止めたと思えば、それはただ自分の憩いの場を荒らしてほしくないだけであって」
「うん」
「僕の自殺自体を、止めるわけではない」
「そりゃ、死ぬのはあんたの勝手だからな」
ぶっきらぼうに答える谷垣は、なおも微笑む熊木に嫌気が差していた。なんだ、俺をそんな目で見るな。むしろ、見ないでくれ。
「僕は、そんな姿勢を貫く谷垣さんを見たとき、裏表のない、いい人だなあって思ったんです」
「……は?」
裏表のないいい人だって? 自殺を止めようともせず、殴られている人間を尻目に金を受け取るような、人間として道徳に背いている俺が、このおっさんにとってはいい人?
途端に、谷垣の肌は粟立ち、心臓がドクドクと音を立て始めた。この朗らかな熊木の声が、優しさを見出すその目が。遠い記憶が、谷垣の頭を揺らした。
『君はいい子だよ、谷垣くん』
そう言って頭を撫でてくれた人は誰だったか。ああ、思い出したくもない。俺はいい人じゃない、いい子なんかじゃないんだ。
気が付けば呼吸も荒くなり、締め付けるように頭が痛む。
「た、谷垣さん? だ、大丈夫ですか?」
熊木が声をかけた瞬間、谷垣は衝動的に傍らにあったこぶし大の石を振り上げ、熊木を殴り倒した。頭部を殴られた熊木は、驚きと痛みで放心状態になっていた。
「……えっ? えっ? え?」
「……はぁ、はぁ、……はぁ……」
目の前で倒れ伏す、頭から血を流した熊木。自分がやったのだ、と瞬時に理解する谷垣。落ち着いていく呼吸と、痛みながらも冴えていく頭。
ああ、どうしてしまおうか。
「なんっ……なん、で、谷垣、さん?」
「……は、理由とか、いるかよ」
ヤクザに向かって“いい人”なんて言った自分を恨めよ、と吐き捨てるように谷垣は言う。
ああ、殺せばいいや。殺してしまえ。こんな警察も寄り付かない山奥、丁度いい白骨死体の発見場所もあることだし。転落したように見せかけて殺してしまえばいい。元から自殺するつもりのただのおっさん一人、殺したところでなんてことはない。
「あんた……どうせ死ぬんなら、殺されたっていいよな」
「なんで……? 谷垣さん、どうしてしまったんですか?」
「……俺なんて、元からこうだよ。痛めつけるのが好きなだけ」
実際、それは事実だった。いつのことだったか、初めて半グレの男を刺し殺したとき、切りつけている間の反応はとても楽しかったことを覚えている。
きっと、あの時と同じように痛めつけてしまえば、この頭にこびりつくような靄も晴れるはずだ。
「……だからさ、あんたのこと」
「ひっ……」
「殺してやろうと、思って」
そう言い放った谷垣は、そのまま思いきり倒れ込んでいる熊木の右足首を全力で踏みつける。何度も、何度も、全体重をかけて。やがて、骨が折れた嫌な音が響き、熊木は悲鳴を上げるが、一方の谷垣はニィ、と口の端を歪めた。
「事件性なしの死体より、他殺体のほうがドラマチックだろ? まあ、他殺体だって警察が察するかどうかだけどな」
「そ、……そんな……谷垣、さん」
「いいよなあ、人を殺すのってさ」
その時だけ、俺は悪い子一等賞だ。
「あんたもさ、“一番悪い人間”って言ったら“人を殺す人間”って思うだろ?」
「な、なん……なん、のこと……ですか?」
「俺は今楽しいよ、熊木さん」
這いずる熊木に、わざわざしゃがんで目を合わせる谷垣。その暗い影の落ちた瞳の奥には、伊伏を殺害したときのような爛々とした光が宿っていた。
ふと、ポケットから折りたたみのナイフを取り出したと思うと、谷垣は迷い無く熊木の頸動脈を切った。
「あ゙っ……あっ、あっ……」
「どれくらいで死ぬのかな。失血死は見たことないんだよな。前はいつの間にか死んでたし」
「あっ……うぅ……優子……真由美……ごめ、んな……」
「……? なにそれ、奥さんと娘とか?」
「娘と……妻、です……ああ、……どうか、どこかで、健やかに……」
「……」
自分が死ぬというときに、残される娘と元妻に対して言葉を残すなんて、と谷垣は首を傾げる。家族というのは、そんなに大切に思えるものなのだろうか。
「なあ、おっさん。まだ生きてる?」
「ああ……はい?」
もはや逃げる気など失せているのだろう、ひゅうひゅうと呼吸しながら首からダラダラと血を流し続ける熊木は、話しかけてきた谷垣に朧気な意識で応答した。
「……家族って、そんなに大事?」
きっとこれの答えが、自分の最期の言葉になるだろう。熊木はそう考えた。数秒視線を巡らせ考えたあと、絞り出すように言葉を紡いだ。
「……、命よりも、大切ですよ……僕に、とっては……」
それだけ言って、熊木は何も話さなくなった。事切れた熊木を見る谷垣の表情は、俯いて影になっていて判別ができない。
谷垣は何かをこらえるように一度大きく息を吸うと、熊木の死体を運び、例の崖へと投げ落とした。血は、どこもかしこも念入りに洗い流した。
そうして数年経って発見された熊木の白骨死体は、ホームレスとなった自分を憂いて自殺だと警察は断定した。
皮肉にも、三十四歳の谷垣敏樹の自白証言によりその結論は覆されたわけだが。
息を呑む音が聞こえた。熊木の娘である、観月優子が、震えた声で言葉を放った。
「……これが、あたしの父さんの、殺されるまでの、全部?」
「そうだよ。俺はとにかく衝動的な男でね」
前もああして衝動的に殺してた。悪いことをしたとは思ってるよ? とわざとらしく楽しそうに谷垣は言う。俺はいっつも突然なんだ、スイッチが入るみたいに。
「……なんで、殺したの」
「は?」
「……ぜ、ぜんぜん、直前まで普通に話してたじゃん。……なんで……なんで、父さんを……」
業鏡で見た一部始終があまりにも辛かったのか、優子の手は握り拳を作り、視線は斜め下を向いて、嘘だ、とでも言うように、一度かぶりを振った。
そんな優子に対して、谷垣は目を細めて言った。
「……頭が、痛かったから」
「……は?」
「頭が、痛くてしょうがなかったんで、熊木さんにも頭、痛くなってもらおうと思って」
そしたらさあ、スイッチ入っちゃった。あっけらかんとそう言い放つ谷垣は、へらりと笑った。その瞳には、どこかに、何かに向けた諦めのような何かがあったような気がした。
そんな谷垣に対し、優子は無言のまま谷垣に近付き、徐ろに石を持ち上げたと思うと、彼が熊木を襲ったときのように頭に向かって振り下ろし、勢い良く横から殴り倒した。
「いっ……てぇ」
「……ふ、ふふ……痛い? あたしの父さんの痛み」
「……そうだな。……痛いよ。お前の親父が受けた痛み、クラクラするし、血も結構出て、……ああ、嫌なもんだな。……で、次はどうするんだっけ、お嬢さん?」
あのときの熊木と同じように、頭からダラダラと血を垂れ流しながら、次の行動は何だった? と煽るように優子に問う谷垣。
優子は、悔しそうに下唇を噛みながら、何度も何度も谷垣の右足首を踏み続けた。優子では力が足りないので、何度も、何度も。やがて、嫌な音を立てて谷垣の右足首は潰れた。
「っ……、は、はは、やっと折れたな」
「はぁ……はぁ……ふ、ふふ、いい気味! 頭から血流してさ! 足首もこんな小娘に折られて! 最期には失血死でしょ? ざまあみろっての!」
正直な話、折れるまでの方が痛かったぞ、とぼやきそうになった谷垣だが、優子の様子を見て、言葉を変えた。
「なあ」
「……なによ?」
「“ざまあみろ”って思うくらいなら、お前にとって、俺は憎むべき対象なのか?」
「……は? 何言ってんの? そんなの当たり前……」
「どう思ったんだ、あれを見て」
あれ、というのは、まごうことなく、業鏡で見えた谷垣と熊木の一部始終だろう。最後の最期まで家族を思い続けた熊木の姿も、はっきりとあの鏡は映し出していた。
家族のことを、命よりも大切な存在だと、あんな状況で言える人間はそうそういないのではないか。谷垣はそう思っていた。そして、そんな実の父親の最期を見て、果たして彼女はどう思ったのか。純粋に、谷垣は知りたかった。
「い……、い、今更、なんの話? 命乞いでもする気?」
「この地獄で命乞いなんて意味ないだろ……いてて……ただ、あそこまで自分たちのことを思う父親の姿っていうのは、どう映るのかって、気になったんだ」
俺を殺すのは構わないが、ナイフで切る前に教えてほしい、と谷垣は縋った。初めて見る光景に、優子だけでなく、遠くから見ていたリコリスも目を丸くした。
「……なんで、あんたが殺したのに、そんなこと知りたいのよ」
「……俺は、家族がいなかった、から」
いなかった、というよりは崩壊していた中から助け出されて施設の一員となった谷垣には、“普通の血の繋がった家族”というだけで興味の対象になる。
今回殺し返しに来たのが遺族、というのにも、最初に驚いたとおり、熊木本人が今現在の彼らに納得をして成仏をしたと言うことに他ならず。金持ちと結婚して、悠々と暮らして、わがまま放題に育った娘。そんなものを見て、それでも彼らのその先の幸福を見て、安堵して、彼は成仏したのだろうか。
谷垣には、他人を自分以上に思いやるその感情がわからなかった。生前には、知ろうとさえしなかった。そんな感情を今、谷垣はこの儀式を経て知ろうとしていた。
やがて、口を開いた優子は、涙ぐんでいた。
「……ぱ、」
「……」
「パパ、はっ……! いっ、い、いつも優しく、て……! ママ、も、同じように、優しくて……! そ、それなの、に、」
「……うん」
ぽたりぽたりと、優子の涙が地面に染み込んでいく。谷垣はそれを見ながら、ゆっくりと優子の話に耳を傾けていた。ぐい、と谷垣が己の額を拭った手の甲には、血の跡がべっとりとつくような、そんな状況だというのに、その光景は、まるでカウンセリングか何かのようだった。
「……っじ、事業が、傾き始めたとたん……! ぐすっ……ま、ママ、は、金回りのいい男と、つるむようになって」
「うん……それで、あんたはどうしてほしかった?」
「もっ……もち、ろん、う、浮気とか、やめて、ほしかった、よ? でも、そんなの、い、言え、なくて」
熊木が自殺を図ろうとしていたのはおよそ今から十年前。それより前の優子といえば、八よりもっと幼い子供だ。浮気をやめて、なんて言えるはずがないよな、と谷垣は視線を落とした。
「……浮気ってさ、熊木のおっさんは知ってたの?」
「し、しら、知らないままっ、だと、思う……ぐすっ、それから、パパが、破産、して……す、すぐ、こ、『このままじゃ優子を育てられないから、離婚して』って、……それで、いつの間にか、ああなってて」
「ふーん……“普通の幸せ”っていうのも難しいんだな」
恋愛して、結婚して、子供産んで。それが普通の幸せだと思ってたけど、やっぱり普通に何事もなく育ってる家庭のほうが少ないのかもしれない。
自分や、施設にいた子供たちともまた違う傷を持った優子に、谷垣はそんな奇妙な共感を抱いた。
「……あたしは……あたしは、パパと一緒にいたかったよ」
「……でも、母親についていかなきゃ生きていけなかったのも事実だろ?」
「……それも、そう。……あたしね、結局最後までママに手を引かれてて、パパにも何も言えないまま別れちゃってて」
「へえ。それで心残りってわけだ」
経緯がわかってスッキリしたし、もう首を切ってくれて構わない、とあっさりと首筋を差し出す谷垣。なんなら「ここだよここ」と、煽るように切るべき場所を指差す。
そんな谷垣に対して、優子はどこか柔らかくなった面持ちで質問を投げかけた。
「……谷垣……さん、は、本当に、なんでパパ……父さんを殺したの? あたしには、そんな残虐な人には見えない。今も、あの瞬間も」
「……さあ。そんな気分だった、としか言えないな。何しろかなり前の殺しだし……」
「……教えてくれないんだ。本当のこと」
「……」
優子は、何かを感じ取っているんだろう。谷垣には、そんな気がした。そして、おそらくリコリスにも、もう自分がどんな存在なのか察されているような気がする。
それでも、谷垣はあくまで“悪人”であり、“罪人”である。ゆっくりと谷垣は瞳を閉じる。問いから逃れるように。
「……これが、あたしと谷垣さんが会う最期、でも」
「そうだな、話すことは何もない。俺の殺しに理由という理由もない。……これでこの話は終わりだ」
「……うそつき」
「なんとでもどーぞ」
くい、と谷垣が目を閉じたまま首筋を優子に向けて差し出す。早くしろ、と口パクで伝えてくる。
一瞬迷い、すぐにナイフを構えた優子は、そんな谷垣の首筋を思い切り切った。脈打つように吹き出す血液に、流石にきゃあ、と悲鳴をあげる優子。
「や、やば、血……! え……!」
「お、もいっきり、行ったな……」
失血って本当に頭がクラクラするんだなあ、前回といい今回といい。谷垣はぼんやりとしてきた頭で、抜けていくぬくもりが、まるでそれが命だと言っているように思えた。自分の血にぴちゃりと触れる。
「……人殺しでも、血は赤色なんだよな」
「……ねえ、谷垣さん」
「……なに、最期の罵詈雑言?」
「……パパの最期、見せてくれて、ありがとうございました」
「……は? ……なにいってんの、おまえ……」
クラクラとした頭では上手く言葉も紡げない。それでも谷垣はわかりやすく目を見開き、優子を見上げた。
「おかげで、こうしてパパのこと、ちゃんと知れたから。……殺したことは、もちろん、憎いけど……谷垣さんがもし、今回みたいに殺してなかったら、パパがそれでもあたしたちを愛してたって、最後まで知らないままだったから……」
「……オェ」
「……だ、だからそれだけ、そこんとこだけありがとってこと」
「……おれ、おれいとか、せかいでいちばんきらい……」
「うわ、サイテー血まみれ男……」
やがて眠るように絶命した谷垣に、優子は文字通り最期の言葉をかけた。
「……谷垣さん」
「観月様、谷垣様は既に……」
「わかってる、わかってるよ。……でも、これだけ……この言葉だけ、かけさせて」
すう、と息を吸った優子は、ある一言を谷垣の亡骸に向けて投げかけて、この贖罪の世界をあとにした。
「……なんで、父さんを殺したの?」
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