12 / 14
第三章 三人目と四人目と五人目
五人目・佐々木千成
しおりを挟む
「さあ、今日も殺し返し、張り切って行きましょう!」
「ただ殺されるだけのことを張り切る必要があるのか……?」
「ちなみに、今回殺し返しをなさるのはご遺族様になります」
「遺族……?」
今回の殺人ってなんだっけ、と思い返す谷垣。しばらくして合点がいくと、谷垣は心底意外そうな顔をしてぼやいた。
「ならあの爺さん、成仏したのか……」
「“あの爺さん”というのは……谷垣様が最後に殺害された“佐々木千成”様のことでしょうか?」
「ああ。山菜採りの最中突然俺に襲われて、さぞかし恨んでると思いきや……意外なもんだな」
それで、遺族ってのは? とリコリスに問う谷垣。遺族と言っても、法廷で何度か見かけたことがあるのは妻のおばあさんだけだったような記憶がある。姿を見せなかっただけで、息子や娘がいるのだろうか。
「奥様の、佐々木智世子様ですよ」
「……マジか」
その名前を聞いた瞬間、一瞬だけ視線を彷徨わせ、動揺の色を見せた谷垣に、リコリスは疑問符を浮かべた。
「……何か、意外なことでもあるのですか?」
「……いや……考えてみりゃそりゃそうか、そうだよな……」
何がどうでも、自分は人殺しであるわけで。当人にとって“佐々木千成”は大切な人物だった、ということなんだろう。
モヤモヤとした感情を抱えながら、それは自分のエゴだと割り切ろうとする谷垣。そんな中、ゆったりとした所作で佐々木智世子が贖罪の世界に姿を現した。
「あらあら、本当にあなた……」
「あー……婆さん、久しぶり」
智世子は谷垣を見た瞬間あらまあ、と軽いため息をつき、谷垣も谷垣で居心地の悪そうな深いため息をついた。
「……随分と意味深なため息をつきますね……」
「……なんの探りだよ。俺は加害者で婆さんは被害者遺族。それだけの関係だ」
「……なんだか寂しいわねぇ、こんな場所で出会うなんて」
「……俺は人を殺したんだから当たり前だろ」
ぶっきらぼうに返す谷垣の姿は、伊野田に対する態度と少しばかり似通っていた。智世子はそんな谷垣に怯むでもなく、おっとりと、自分のペースで話を続ける。
「ただ、……ええ、こんな場所でも、最期に会えてよかったわ」
「……最期?」
「私ね、もうすぐ死ぬのよ」
「……は?」
穏やかに微笑みながら、自分が病で余命宣告をされたことを話す智世子。だから、最期を迎える前に一目会えたら、と思ったの、と続ける。その表情には、およそ殺意と呼べるものは感じられなかった。
「……先に、業鏡を使わせていただいても?」
「ああ……ええ、私はその上で、会いに来ましたから」
「おい待てよ、最期ってどういう……」
困惑し続ける谷垣を他所に、リコリスの言葉で業鏡が佐々木千成を殺害した現場を再現し始める。その光景は、とある廃墟に谷垣が佇む姿から始まった。
「……あーあ、組織の金に手を付けるなんてしなきゃよかったな。めんどくせえ」
ぼんやりと、誰に聞かせるでもなくひとりごちる谷垣。その目には、僅かながら何かに対する失望の色が見えた。
「……結局、なんも楽しくなかったな、俺の人生」
ギャンブルも女も、豪勢な食事も、この金でできることは何でもやった。それでも満たされない自分は、やはり異常なんだろうか。
己の異常性に気付き始めていたこの頃の谷垣は、自分が異常ではないことを知って安心するためにありとあらゆる「人が楽しいと思えること」……つまり、娯楽に手を出していた。それでもやはり、彼の空虚な心が満たされることはなかった。
「……飯でも買いにいくか」
念の為に、と厚着をして顔を隠すようにして外へ出ると、近所に住む品のいい老婆が声をかけてきた。
「あら、こんにちは」
「……どうも」
「そういえば今朝、卵焼きを作ったのよ。もしよければ貰ってくれないかしら?」
「……ありがとう、ございます」
老婆の名は、佐々木智世子。しっかりとした作りの邸宅に住んでいるくせに、この近くの廃墟を拠点とし始めてからは、顔を合わせるたびに何かと世話を焼いてくる老婆だった。
谷垣は、この老婆の作る料理の味は嫌いではなかった。不思議と懐かしささえ覚えるくらいだった。そっと差し出された紙袋を受け取ると、谷垣はぺこ、と頭を下げた。
「ここ最近、夜は冷え込むからねぇ。ちゃんと食べて、風邪なんか引かないようにしてね」
「……ども、です」
谷垣と智世子は、こうして時折会っては一方的に世話を焼かれる、そんな関係だった。そんなある日の晩、谷垣は智世子の家から何かが割れる音と怒号を聞いた。それも、その晩が初めてではなかった。
「お前は何度言えばわかるんだ! まったく使えない嫁だよ本当に!」
「ごめんなさい……! ごめんなさいあなた、頼むから落ち着いて……!」
「俺は落ち着いている! 触るんじゃないこの役立たずが!」
「きゃっ……!」
カーテンの隙間から垣間見えたのは、ふうふうと息を荒らげる老人と、突き飛ばされたときに痛めたのか、腰を擦る智世子の姿だった。……日頃から服の間などからアザが見え隠れしていたのは谷垣も知っていた。その光景を見た谷垣はやはりか、と顔を顰めた。
夫からの家庭内暴力。それも、何年続いているのかもわからない。周囲は助ける気などさらさらないのだろう。谷垣が近所の廃墟に来てしばらく経つが、何度もこのような騒ぎは見かけた。外にだって声は届いているはずだが、警察が来たようなことは一度もない。
薄情なものだ、と谷垣は思った。
「……」
「……何だその目は! 俺が悪いとでも言うのか!」
「違う! 違うわ! なんでもない、なんでもないの……」
夫の一挙一動に怯えては縮こまる智世子を見ているうち、谷垣はふと奏多のことを思い出していた。本当に、腐った人間というものは案外どこにでもいるものだ。……自分も含めて。
谷垣がいつ立ち去ろうか逡巡しているうち、佐々木夫妻の会話が漏れ聞こえて来た。
「……とにかく、明日俺は山菜採りに裏山へ行くからな。山菜料理の準備をしておけよ!」
「……わかりました」
どうやら、夫は明日山菜採りに裏山へ行くらしい。それだけ聞くと、谷垣は根城にしている廃墟の方へと立ち去った。
「よしよし、ここにもたくさんあるな!」
「……」
正直言うと、気まぐれだった。最後くらい“好きなように”させたっていいのではないか。そんな心持ちだった、というだけ。そして、そのターゲットが運悪くも。
「……っ!? なんだ、貴様!」
「“隣人”ですよぉ。はじめましてー」
佐々木千成になった、というだけの、ことだ。
「何なんだお前は! ここは俺の土地だぞ!」
「そうですね。それが何か?」
「警察に電話してやるからな! そうすればお前など……っが!?」
「……うるっせぇんだよ毎晩毎晩よォ!!」
谷垣はこれまでの鬱憤をすべてぶつけるかのように、老体に容赦なく蹴りを浴びせる。他には誰もいない、私有地の山の中。これ以上なく、犯行には誂え向きの、ちょうどいい場所だった。
「あ、がっ……な、なにを……」
「毎っ晩、毎っ晩、聞こえてくるんだよ! お前が自分の家内を打つ音だの何だの! うるさくてうるさくて仕方ねぇ!!」
蹴りを受けた腹を抱えて蹲る佐々木千成に対し、谷垣はギラついた瞳で尚も言葉を続けた。
「けっ、警察に……」
「自分が他の人間を蹴るのは良くても、他人が自分を蹴るのは許しませんってか? 都合が良すぎんだろうがよクソジジイ! ああ!?」
「がはっ……!」
蹲っている千成に、更に罵倒と暴力を浴びせる谷垣。千成はやがて暴力に耐えかねて、すがりつくように命乞いを始めた。
「謝る、それについては心から謝罪する。そ、それで、な、何がほしいんだ? 金か?」
「……はぁ?」
「自分で言うのもなんだが私は資産家でね、か、金ならいくらでも……」
「そんななんの役にも立たねえ紙切れ要らねえよ」
谷垣はそう冷たく言い放つと、足にすがりつく千成を事も無げに振り払った。彼にとって何一つを満たすことのない金など無意味であり、ただ必要なのは殺意の発散先であった。
「俺はただ……あんたに腹が立ってるだけだ」
それだけ言うと、谷垣は無情にも足を振り上げた。
それから続いた暴力の嵐は、見るに耐えないものだった。まるで、これまで己が働いた暴力を自分の身体で受けてみろと言わんばかりの苛烈さで、谷垣はその間終始無言であった。
「……」
「……おーい爺さん? 死んだか? ……死んだな?」
やがてピクリとも動かなくなったその老体を、事切れたかどうか確認するように足で動かす。その体はぐにゃりと曲がったまま力を失っており、もはやただの肉の塊となっていた。
それを確認した谷垣は、ふぅ、とため息をつくと、自分の携帯電話に手を伸ばした。そして、意外な番号にダイヤルしだした。
「もしもし? 警察?」
「はい、警察です。事件ですか? 事故ですか?」
「事件でーす。俺、たった今人を殺しました」
これが、谷垣敏樹という連続殺人鬼の電撃逮捕のきっかけである、一本の通報であった。
業鏡は、電話の向こうから聞こえてくる困惑した警察官の「……はい?」という声を最後に、ぷつりと途切れた。
「……」
「……」
業鏡による再現が終わった頃、二人の間に流れるのは重い沈黙だった。当たり前だ、夫を殺された女と、殺した男。その胸に渦巻くのはさぞや複雑な感情だろう。そんな中、先に口を開いたのは智世子の方だった。
「……ごめんなさいねぇ」
「……え?」
「あなたにこんなことをさせてしまって……」
「……は、まるで俺が善意で動いたみたいな言い方やめてくれないか婆さん」
相も変わらず自嘲するように、皮肉的に笑う谷垣。それでも智世子は、悲しげな笑みをその顔に浮かべたままだった。
「……私ね、あのひとが殺されたとき、たしかに“悲しい”って思ったわ」
「……」
「けど、それと同時に“これでやっと”って思ったのよ」
智世子は笑むように細めていた目をゆっくりと開けると、後悔を孕んだような悲しげな微笑みを口許に浮かべた。
「あなたが知っていたように、私はあのひとに暴行を受けてた。……三十年近くかしらね」
「……よくもまあ離婚しなかったな」
「あの頃は子供もいたから……それでも、本当は離婚したかったわ、自由になりたかった……」
それでもあのひとが怖くて一歩進めなかったのは、やっぱり私の弱さよね、と智世子は呆れたように笑う。
「私、最低かもしれないけれど……あのひとが殺されたと聞いたとき、安心したわ。……心の底から。やっと、これでやっと、って」
「……旦那が殺されたのに、か」
「暴力を受けるたび、“もう殺すか殺されるか”だ、って思ってたから、私」
「それを俺が、偶然どうにかしちまったってわけだ」
気まぐれに手を出した相手が、まさか三十年近く身内に暴行を働いていた最悪な相手だったとは。さすがの谷垣でもここまでは考えが至っていなかった。何もかもとは言わないが、まぐれもまぐれだった。
ただ、悲鳴を聞いて、あの現場を見て、胸糞の悪い男だと思っただけ。
「……私ね、あなたを“赦す”わ……谷垣敏樹さん」
「……はぁ? 正気か? 殺したのは確かなんだぞ!?」
「ふふ、私ね……不思議な話なんだけれど、あのとき“先の人生”をもらったような気持ちになったの。これでようやく、あのひとのいない人生を歩めるんだ、って……」
「……随分と、自分勝手な理由で赦すんだな?」
「おかげさまで、私はあのひとの暴力じゃなく、病で死ぬのよ。こんなことある? あの頃の私じゃ考えられなかったわ」
穏やかに微笑む智世子の意思は、もう既に固まっているようだった。谷垣はまたも深く深くため息をつくと、呆然と視線を彷徨わせた。
「あんたがそんなだから、あのクソ旦那も成仏したってわけか……」
「ふふ、いい気味だ、って今の私なら笑ってやるわ」
「あんた意外と逞しいのな……女ってこえーわ」
そうよ、女って怖いの、といたずらっぽく笑う智世子は、清々しい面持ちだった。見守るリコリスもどこか共感するところがあったのか、ニコニコとした笑顔を見せていた。
「……それで、最期に俺に会って言いたいことでもあったから、“殺し返し”を悩むような素振りまでしてここに来た、ってことで合ってるのか?」
「そうよ、女はみんな女優なの」
「……っはー……肩肘張って損した」
「うふふ……改めて、私に“先の人生”をありがとう、谷垣さん」
「俺は……礼を言われることなんてなにもしてない。結果的にそうなったってだけだろ」
戸惑う谷垣を他所に、言いたいことを言えてスッキリした、とでも言わんばかりの表情をした智世子。その体は、少しずつこの世界から消えていこうとしていた。
「……は……、お、おい! なんか透けてるけど!?」
「現実の世界でお亡くなりになられたようですね……贖罪の世界でも判決は今しがた出ましたので、このまま天国へと呼ばれているようです」
「おいおいおい婆さん! 急展開すぎるって!」
「最期にもう一度言っておくわ、忘れないように……私に、大切な“先の人生”をありがとう、谷垣さん」
マイペースな老婆は、最後の最期まで笑顔をたたえたまま、私はこの人生に後悔はないわ、と満面の笑みで消えた。
「……先の、人生を……」
「……赦される、ということも、先の人生を得ることと近いかもしれませんね」
「また、俺は“赦された”……」
噛み締めるように谷垣はそう言うと、何かを思案するように地面を見つめ始めた。そんな谷垣を他所に、リコリスがぱん、と手を叩く。
「さあ、これで貴方様の贖罪はすべて終了となります。今後どうするのか、はすべて貴方様次第となります。明日が期日となりますので、それまでに天国へ逝き成仏するかそれ以外かを決めてください!」
「期日短っっ! お前ら短気すぎない?」
「短気なのは私ども使者ではなく閻魔様ですよ! まったくやれやれです……上司がせかせかしているとこっちまで嫌な心持ちになりますよね」
「いや知らねーよ愚痴をこぼすなよ……とりあえずはまあ、考えてはみるさ」
普通はここで成仏を選んで次の生を待つんだろうな、とぼんやり考える傍ら、谷垣は未だ頭の隅に燻っているとある考えに、はぁ、とため息をついた。
「ただ殺されるだけのことを張り切る必要があるのか……?」
「ちなみに、今回殺し返しをなさるのはご遺族様になります」
「遺族……?」
今回の殺人ってなんだっけ、と思い返す谷垣。しばらくして合点がいくと、谷垣は心底意外そうな顔をしてぼやいた。
「ならあの爺さん、成仏したのか……」
「“あの爺さん”というのは……谷垣様が最後に殺害された“佐々木千成”様のことでしょうか?」
「ああ。山菜採りの最中突然俺に襲われて、さぞかし恨んでると思いきや……意外なもんだな」
それで、遺族ってのは? とリコリスに問う谷垣。遺族と言っても、法廷で何度か見かけたことがあるのは妻のおばあさんだけだったような記憶がある。姿を見せなかっただけで、息子や娘がいるのだろうか。
「奥様の、佐々木智世子様ですよ」
「……マジか」
その名前を聞いた瞬間、一瞬だけ視線を彷徨わせ、動揺の色を見せた谷垣に、リコリスは疑問符を浮かべた。
「……何か、意外なことでもあるのですか?」
「……いや……考えてみりゃそりゃそうか、そうだよな……」
何がどうでも、自分は人殺しであるわけで。当人にとって“佐々木千成”は大切な人物だった、ということなんだろう。
モヤモヤとした感情を抱えながら、それは自分のエゴだと割り切ろうとする谷垣。そんな中、ゆったりとした所作で佐々木智世子が贖罪の世界に姿を現した。
「あらあら、本当にあなた……」
「あー……婆さん、久しぶり」
智世子は谷垣を見た瞬間あらまあ、と軽いため息をつき、谷垣も谷垣で居心地の悪そうな深いため息をついた。
「……随分と意味深なため息をつきますね……」
「……なんの探りだよ。俺は加害者で婆さんは被害者遺族。それだけの関係だ」
「……なんだか寂しいわねぇ、こんな場所で出会うなんて」
「……俺は人を殺したんだから当たり前だろ」
ぶっきらぼうに返す谷垣の姿は、伊野田に対する態度と少しばかり似通っていた。智世子はそんな谷垣に怯むでもなく、おっとりと、自分のペースで話を続ける。
「ただ、……ええ、こんな場所でも、最期に会えてよかったわ」
「……最期?」
「私ね、もうすぐ死ぬのよ」
「……は?」
穏やかに微笑みながら、自分が病で余命宣告をされたことを話す智世子。だから、最期を迎える前に一目会えたら、と思ったの、と続ける。その表情には、およそ殺意と呼べるものは感じられなかった。
「……先に、業鏡を使わせていただいても?」
「ああ……ええ、私はその上で、会いに来ましたから」
「おい待てよ、最期ってどういう……」
困惑し続ける谷垣を他所に、リコリスの言葉で業鏡が佐々木千成を殺害した現場を再現し始める。その光景は、とある廃墟に谷垣が佇む姿から始まった。
「……あーあ、組織の金に手を付けるなんてしなきゃよかったな。めんどくせえ」
ぼんやりと、誰に聞かせるでもなくひとりごちる谷垣。その目には、僅かながら何かに対する失望の色が見えた。
「……結局、なんも楽しくなかったな、俺の人生」
ギャンブルも女も、豪勢な食事も、この金でできることは何でもやった。それでも満たされない自分は、やはり異常なんだろうか。
己の異常性に気付き始めていたこの頃の谷垣は、自分が異常ではないことを知って安心するためにありとあらゆる「人が楽しいと思えること」……つまり、娯楽に手を出していた。それでもやはり、彼の空虚な心が満たされることはなかった。
「……飯でも買いにいくか」
念の為に、と厚着をして顔を隠すようにして外へ出ると、近所に住む品のいい老婆が声をかけてきた。
「あら、こんにちは」
「……どうも」
「そういえば今朝、卵焼きを作ったのよ。もしよければ貰ってくれないかしら?」
「……ありがとう、ございます」
老婆の名は、佐々木智世子。しっかりとした作りの邸宅に住んでいるくせに、この近くの廃墟を拠点とし始めてからは、顔を合わせるたびに何かと世話を焼いてくる老婆だった。
谷垣は、この老婆の作る料理の味は嫌いではなかった。不思議と懐かしささえ覚えるくらいだった。そっと差し出された紙袋を受け取ると、谷垣はぺこ、と頭を下げた。
「ここ最近、夜は冷え込むからねぇ。ちゃんと食べて、風邪なんか引かないようにしてね」
「……ども、です」
谷垣と智世子は、こうして時折会っては一方的に世話を焼かれる、そんな関係だった。そんなある日の晩、谷垣は智世子の家から何かが割れる音と怒号を聞いた。それも、その晩が初めてではなかった。
「お前は何度言えばわかるんだ! まったく使えない嫁だよ本当に!」
「ごめんなさい……! ごめんなさいあなた、頼むから落ち着いて……!」
「俺は落ち着いている! 触るんじゃないこの役立たずが!」
「きゃっ……!」
カーテンの隙間から垣間見えたのは、ふうふうと息を荒らげる老人と、突き飛ばされたときに痛めたのか、腰を擦る智世子の姿だった。……日頃から服の間などからアザが見え隠れしていたのは谷垣も知っていた。その光景を見た谷垣はやはりか、と顔を顰めた。
夫からの家庭内暴力。それも、何年続いているのかもわからない。周囲は助ける気などさらさらないのだろう。谷垣が近所の廃墟に来てしばらく経つが、何度もこのような騒ぎは見かけた。外にだって声は届いているはずだが、警察が来たようなことは一度もない。
薄情なものだ、と谷垣は思った。
「……」
「……何だその目は! 俺が悪いとでも言うのか!」
「違う! 違うわ! なんでもない、なんでもないの……」
夫の一挙一動に怯えては縮こまる智世子を見ているうち、谷垣はふと奏多のことを思い出していた。本当に、腐った人間というものは案外どこにでもいるものだ。……自分も含めて。
谷垣がいつ立ち去ろうか逡巡しているうち、佐々木夫妻の会話が漏れ聞こえて来た。
「……とにかく、明日俺は山菜採りに裏山へ行くからな。山菜料理の準備をしておけよ!」
「……わかりました」
どうやら、夫は明日山菜採りに裏山へ行くらしい。それだけ聞くと、谷垣は根城にしている廃墟の方へと立ち去った。
「よしよし、ここにもたくさんあるな!」
「……」
正直言うと、気まぐれだった。最後くらい“好きなように”させたっていいのではないか。そんな心持ちだった、というだけ。そして、そのターゲットが運悪くも。
「……っ!? なんだ、貴様!」
「“隣人”ですよぉ。はじめましてー」
佐々木千成になった、というだけの、ことだ。
「何なんだお前は! ここは俺の土地だぞ!」
「そうですね。それが何か?」
「警察に電話してやるからな! そうすればお前など……っが!?」
「……うるっせぇんだよ毎晩毎晩よォ!!」
谷垣はこれまでの鬱憤をすべてぶつけるかのように、老体に容赦なく蹴りを浴びせる。他には誰もいない、私有地の山の中。これ以上なく、犯行には誂え向きの、ちょうどいい場所だった。
「あ、がっ……な、なにを……」
「毎っ晩、毎っ晩、聞こえてくるんだよ! お前が自分の家内を打つ音だの何だの! うるさくてうるさくて仕方ねぇ!!」
蹴りを受けた腹を抱えて蹲る佐々木千成に対し、谷垣はギラついた瞳で尚も言葉を続けた。
「けっ、警察に……」
「自分が他の人間を蹴るのは良くても、他人が自分を蹴るのは許しませんってか? 都合が良すぎんだろうがよクソジジイ! ああ!?」
「がはっ……!」
蹲っている千成に、更に罵倒と暴力を浴びせる谷垣。千成はやがて暴力に耐えかねて、すがりつくように命乞いを始めた。
「謝る、それについては心から謝罪する。そ、それで、な、何がほしいんだ? 金か?」
「……はぁ?」
「自分で言うのもなんだが私は資産家でね、か、金ならいくらでも……」
「そんななんの役にも立たねえ紙切れ要らねえよ」
谷垣はそう冷たく言い放つと、足にすがりつく千成を事も無げに振り払った。彼にとって何一つを満たすことのない金など無意味であり、ただ必要なのは殺意の発散先であった。
「俺はただ……あんたに腹が立ってるだけだ」
それだけ言うと、谷垣は無情にも足を振り上げた。
それから続いた暴力の嵐は、見るに耐えないものだった。まるで、これまで己が働いた暴力を自分の身体で受けてみろと言わんばかりの苛烈さで、谷垣はその間終始無言であった。
「……」
「……おーい爺さん? 死んだか? ……死んだな?」
やがてピクリとも動かなくなったその老体を、事切れたかどうか確認するように足で動かす。その体はぐにゃりと曲がったまま力を失っており、もはやただの肉の塊となっていた。
それを確認した谷垣は、ふぅ、とため息をつくと、自分の携帯電話に手を伸ばした。そして、意外な番号にダイヤルしだした。
「もしもし? 警察?」
「はい、警察です。事件ですか? 事故ですか?」
「事件でーす。俺、たった今人を殺しました」
これが、谷垣敏樹という連続殺人鬼の電撃逮捕のきっかけである、一本の通報であった。
業鏡は、電話の向こうから聞こえてくる困惑した警察官の「……はい?」という声を最後に、ぷつりと途切れた。
「……」
「……」
業鏡による再現が終わった頃、二人の間に流れるのは重い沈黙だった。当たり前だ、夫を殺された女と、殺した男。その胸に渦巻くのはさぞや複雑な感情だろう。そんな中、先に口を開いたのは智世子の方だった。
「……ごめんなさいねぇ」
「……え?」
「あなたにこんなことをさせてしまって……」
「……は、まるで俺が善意で動いたみたいな言い方やめてくれないか婆さん」
相も変わらず自嘲するように、皮肉的に笑う谷垣。それでも智世子は、悲しげな笑みをその顔に浮かべたままだった。
「……私ね、あのひとが殺されたとき、たしかに“悲しい”って思ったわ」
「……」
「けど、それと同時に“これでやっと”って思ったのよ」
智世子は笑むように細めていた目をゆっくりと開けると、後悔を孕んだような悲しげな微笑みを口許に浮かべた。
「あなたが知っていたように、私はあのひとに暴行を受けてた。……三十年近くかしらね」
「……よくもまあ離婚しなかったな」
「あの頃は子供もいたから……それでも、本当は離婚したかったわ、自由になりたかった……」
それでもあのひとが怖くて一歩進めなかったのは、やっぱり私の弱さよね、と智世子は呆れたように笑う。
「私、最低かもしれないけれど……あのひとが殺されたと聞いたとき、安心したわ。……心の底から。やっと、これでやっと、って」
「……旦那が殺されたのに、か」
「暴力を受けるたび、“もう殺すか殺されるか”だ、って思ってたから、私」
「それを俺が、偶然どうにかしちまったってわけだ」
気まぐれに手を出した相手が、まさか三十年近く身内に暴行を働いていた最悪な相手だったとは。さすがの谷垣でもここまでは考えが至っていなかった。何もかもとは言わないが、まぐれもまぐれだった。
ただ、悲鳴を聞いて、あの現場を見て、胸糞の悪い男だと思っただけ。
「……私ね、あなたを“赦す”わ……谷垣敏樹さん」
「……はぁ? 正気か? 殺したのは確かなんだぞ!?」
「ふふ、私ね……不思議な話なんだけれど、あのとき“先の人生”をもらったような気持ちになったの。これでようやく、あのひとのいない人生を歩めるんだ、って……」
「……随分と、自分勝手な理由で赦すんだな?」
「おかげさまで、私はあのひとの暴力じゃなく、病で死ぬのよ。こんなことある? あの頃の私じゃ考えられなかったわ」
穏やかに微笑む智世子の意思は、もう既に固まっているようだった。谷垣はまたも深く深くため息をつくと、呆然と視線を彷徨わせた。
「あんたがそんなだから、あのクソ旦那も成仏したってわけか……」
「ふふ、いい気味だ、って今の私なら笑ってやるわ」
「あんた意外と逞しいのな……女ってこえーわ」
そうよ、女って怖いの、といたずらっぽく笑う智世子は、清々しい面持ちだった。見守るリコリスもどこか共感するところがあったのか、ニコニコとした笑顔を見せていた。
「……それで、最期に俺に会って言いたいことでもあったから、“殺し返し”を悩むような素振りまでしてここに来た、ってことで合ってるのか?」
「そうよ、女はみんな女優なの」
「……っはー……肩肘張って損した」
「うふふ……改めて、私に“先の人生”をありがとう、谷垣さん」
「俺は……礼を言われることなんてなにもしてない。結果的にそうなったってだけだろ」
戸惑う谷垣を他所に、言いたいことを言えてスッキリした、とでも言わんばかりの表情をした智世子。その体は、少しずつこの世界から消えていこうとしていた。
「……は……、お、おい! なんか透けてるけど!?」
「現実の世界でお亡くなりになられたようですね……贖罪の世界でも判決は今しがた出ましたので、このまま天国へと呼ばれているようです」
「おいおいおい婆さん! 急展開すぎるって!」
「最期にもう一度言っておくわ、忘れないように……私に、大切な“先の人生”をありがとう、谷垣さん」
マイペースな老婆は、最後の最期まで笑顔をたたえたまま、私はこの人生に後悔はないわ、と満面の笑みで消えた。
「……先の、人生を……」
「……赦される、ということも、先の人生を得ることと近いかもしれませんね」
「また、俺は“赦された”……」
噛み締めるように谷垣はそう言うと、何かを思案するように地面を見つめ始めた。そんな谷垣を他所に、リコリスがぱん、と手を叩く。
「さあ、これで貴方様の贖罪はすべて終了となります。今後どうするのか、はすべて貴方様次第となります。明日が期日となりますので、それまでに天国へ逝き成仏するかそれ以外かを決めてください!」
「期日短っっ! お前ら短気すぎない?」
「短気なのは私ども使者ではなく閻魔様ですよ! まったくやれやれです……上司がせかせかしているとこっちまで嫌な心持ちになりますよね」
「いや知らねーよ愚痴をこぼすなよ……とりあえずはまあ、考えてはみるさ」
普通はここで成仏を選んで次の生を待つんだろうな、とぼんやり考える傍ら、谷垣は未だ頭の隅に燻っているとある考えに、はぁ、とため息をついた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる