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星に煙がかからないように
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星の瞬きは過去を見せている。
例えば夏の大三角の一角は、十年も前に生まれた星の光だ。彼らは未来の僕らを見て、僕らは過去の中に彼らを見ていた。遠い目をした檜垣さんはきっと、星の光にあてられて古い追想の中にいる。
「見たことねぇか?」
「まあ、見たことはないですね」
「なら吸ってみな。ちとキツイがな」
檜垣さんは星に煙のかからないように、ゆっくりと煙を溶かす。夜の湿気に紛れた紫煙が、星の隙間を縫うように消えていく。
僕も彼を真似て、ゆっくりと火をつけた。一口目を吸い込む。肺よりも浅い器官のところで、刺すような痛みがあった。
「キツイです。それに臭い」
「そりゃ黒タバコだからな。お前らみてぇなガキの吸う小便とは訳が違うのよ」
口元だけで笑いながら、檜垣さんは煙を溶かす。
「そいつの吸えねぇうちは、粋がるのも大概でやめとけ。間接であれ直接であれ、人死に関わるにゃ早すぎる」
何度も煙に眉根を寄せながら、檜垣さんの話を聞き流すフリをする。そして一つの単語を拾って、僕は言った。
「僕は殺ってませんよ」
「動揺もせず言われてもよ。不気味なだけだぜ」
足元にこぼしたため息を踏みしめて、檜垣さんが浅く笑う。
唇から離した吸口を弾いて、灰を落とす。
「あの嬢ちゃんも殺すか?」
「だから、殺してませんって」
「人殺しなんだろ? お前ら二人とも」
そこまで聞いていたのか。あるいは最初から、全て知っているのか。
どちらにしても質の悪い話だ。僕は吹かした煙で星を隠して、吐き気を紛らわす。
綺麗なだけのものは苦手だ。その裏にどれだけの汚いものを隠していても見えなくて、まるで釣り合いが取れていないように思えるから。
「とても抽象的な比喩表現ですよ。どちらとも、直接人を殺したわけじゃありません」
「あぁ知ってるとも。嬢ちゃんは、たしか心中で一人逃げちまったんだっけか?」
僕は乱暴に灰を弾き、フィルターを咥えて煙を吸う。
体の底で煮えたぎるような熱が渦巻いていた。煙に溶かした吐き気が腹の底から滲みだしているようだった。
気分が悪い。この狸親父は僕が今日初めて知ったことを、先回りして知っている。
そして子供をあやすような惚けた口調で、「こう言うオチだろ? まだ裏はあるんだぜ」と嘲って見せる。
考えれば考えるほど、悩んでいる自分が馬鹿らしくなって。その分やりようのない怒りが、言葉に乗ってあふれ出す。
「アンタは、アンタは全部知ってたっていうのか。あの子のことを、最初から」
「はっ、どうだかなぁ」
咥えタバコと唇の隙間から煙を吐いて、檜垣さんが笑う。
「まるで自分が、全部知ってるみてぇな言い方じゃないの」
「まだ知らないことかあるって言うんですか」
「あぁもちろん。肝心なところが抜けてやがるぜ、お前ぇさんは」
これ以上、氷雨の身の上に何かがあったとして。そんなの、何かに呪われているのと同じじゃないか。
食い下がろうとして、けれど正しい言葉は見つからなくて。僕は早いペースでジタンを吹かす。のうが重く、沈むような気分になっていく。
「氷雨のこと、もっと知りたいですよ。知れることなら」
「知ってどうすんだよ。やっと現実と両立できるようになった嬢ちゃんを、また過去に引きずり戻すか?」
「わかってますよ。エゴだってことぐらい。でも、」
その先の言葉は決まっていた。
でも、とっさに喉を出なかった。
──好きなんだから、仕方ないじゃないですか
それだけのことなのだ。今までは誰にでも手渡してきた言葉なのだ。
けれど今になって、言葉にしてしまうのがどうしようもなく怖い。心臓が夜逃げの準備でもしているかのように、静かに高鳴っていた。
「でも、なんだよ」
夜を見上げた檜垣さんが、チラリと横目で僕を見る。
「相変わらず、意地汚い追求をしますね。お巡りさん」
「よせやい、おっちゃん今は非番だから。こりゃ単なる好奇心だよ」
「余計に質が悪いです」
舌打ちと一緒に吐き捨てると、檜垣さんは楽しそうにクックと笑いを含ませた。
「実際、好きなんだろ? 嬢ちゃんにほの字って訳だ」
「オヤジ臭い言い方だなぁ」
答えを明言するつもりはなかった。
きっと定義で言えば、氷雨に向けた感情は間違いなく恋なのだろう。言葉にして伝えられたら、気持ちが楽になるのだろう。けれどこの感情を表すのには、どんな言葉も間違えているような気がした。
締め付けるような胸の鼓動は、いよいよ誤魔化しきれなくなっていた。
例えば夏の大三角の一角は、十年も前に生まれた星の光だ。彼らは未来の僕らを見て、僕らは過去の中に彼らを見ていた。遠い目をした檜垣さんはきっと、星の光にあてられて古い追想の中にいる。
「見たことねぇか?」
「まあ、見たことはないですね」
「なら吸ってみな。ちとキツイがな」
檜垣さんは星に煙のかからないように、ゆっくりと煙を溶かす。夜の湿気に紛れた紫煙が、星の隙間を縫うように消えていく。
僕も彼を真似て、ゆっくりと火をつけた。一口目を吸い込む。肺よりも浅い器官のところで、刺すような痛みがあった。
「キツイです。それに臭い」
「そりゃ黒タバコだからな。お前らみてぇなガキの吸う小便とは訳が違うのよ」
口元だけで笑いながら、檜垣さんは煙を溶かす。
「そいつの吸えねぇうちは、粋がるのも大概でやめとけ。間接であれ直接であれ、人死に関わるにゃ早すぎる」
何度も煙に眉根を寄せながら、檜垣さんの話を聞き流すフリをする。そして一つの単語を拾って、僕は言った。
「僕は殺ってませんよ」
「動揺もせず言われてもよ。不気味なだけだぜ」
足元にこぼしたため息を踏みしめて、檜垣さんが浅く笑う。
唇から離した吸口を弾いて、灰を落とす。
「あの嬢ちゃんも殺すか?」
「だから、殺してませんって」
「人殺しなんだろ? お前ら二人とも」
そこまで聞いていたのか。あるいは最初から、全て知っているのか。
どちらにしても質の悪い話だ。僕は吹かした煙で星を隠して、吐き気を紛らわす。
綺麗なだけのものは苦手だ。その裏にどれだけの汚いものを隠していても見えなくて、まるで釣り合いが取れていないように思えるから。
「とても抽象的な比喩表現ですよ。どちらとも、直接人を殺したわけじゃありません」
「あぁ知ってるとも。嬢ちゃんは、たしか心中で一人逃げちまったんだっけか?」
僕は乱暴に灰を弾き、フィルターを咥えて煙を吸う。
体の底で煮えたぎるような熱が渦巻いていた。煙に溶かした吐き気が腹の底から滲みだしているようだった。
気分が悪い。この狸親父は僕が今日初めて知ったことを、先回りして知っている。
そして子供をあやすような惚けた口調で、「こう言うオチだろ? まだ裏はあるんだぜ」と嘲って見せる。
考えれば考えるほど、悩んでいる自分が馬鹿らしくなって。その分やりようのない怒りが、言葉に乗ってあふれ出す。
「アンタは、アンタは全部知ってたっていうのか。あの子のことを、最初から」
「はっ、どうだかなぁ」
咥えタバコと唇の隙間から煙を吐いて、檜垣さんが笑う。
「まるで自分が、全部知ってるみてぇな言い方じゃないの」
「まだ知らないことかあるって言うんですか」
「あぁもちろん。肝心なところが抜けてやがるぜ、お前ぇさんは」
これ以上、氷雨の身の上に何かがあったとして。そんなの、何かに呪われているのと同じじゃないか。
食い下がろうとして、けれど正しい言葉は見つからなくて。僕は早いペースでジタンを吹かす。のうが重く、沈むような気分になっていく。
「氷雨のこと、もっと知りたいですよ。知れることなら」
「知ってどうすんだよ。やっと現実と両立できるようになった嬢ちゃんを、また過去に引きずり戻すか?」
「わかってますよ。エゴだってことぐらい。でも、」
その先の言葉は決まっていた。
でも、とっさに喉を出なかった。
──好きなんだから、仕方ないじゃないですか
それだけのことなのだ。今までは誰にでも手渡してきた言葉なのだ。
けれど今になって、言葉にしてしまうのがどうしようもなく怖い。心臓が夜逃げの準備でもしているかのように、静かに高鳴っていた。
「でも、なんだよ」
夜を見上げた檜垣さんが、チラリと横目で僕を見る。
「相変わらず、意地汚い追求をしますね。お巡りさん」
「よせやい、おっちゃん今は非番だから。こりゃ単なる好奇心だよ」
「余計に質が悪いです」
舌打ちと一緒に吐き捨てると、檜垣さんは楽しそうにクックと笑いを含ませた。
「実際、好きなんだろ? 嬢ちゃんにほの字って訳だ」
「オヤジ臭い言い方だなぁ」
答えを明言するつもりはなかった。
きっと定義で言えば、氷雨に向けた感情は間違いなく恋なのだろう。言葉にして伝えられたら、気持ちが楽になるのだろう。けれどこの感情を表すのには、どんな言葉も間違えているような気がした。
締め付けるような胸の鼓動は、いよいよ誤魔化しきれなくなっていた。
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