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吟谷京介
しおりを挟む「私は、その頃まだ学生運動の影響を強く受けていて、権威に対して反感を持ってま
したから、お偉い学者様の授業がどれほどのものか見てやろうと野次馬根性で講義を
受けに行ったんです」
「ほほう」
「ところがどうも教壇に立っている人の顔に見覚えがある。実は僕は子供の頃、吉祥
寺の井の頭公園の近くに住んでまして。井の頭公園西側の御殿山という高台の松林に
ハツタケ狩りしにくる人を手伝ってあげたりしてたんです。植物に詳しくないと、ハ
ツタケと毒キノコの区別もつきませんからね。 で、そんなハツタケ狩りしに来た人
の中に師匠がいまして。これは毒キノコだって教えてあげたらスゴク喜んでくれて。
でも気取ったところなんてまったくなかったから、まさかそんなお偉い大学の教授が
井の頭公園にキノコ摘みに来てたなんて思わないじゃないですか」
笑っては失礼と思ったらしく、山田は口を押さえて笑い押し殺していた。
「それでもう師匠に対する反感は消え失せてしまって、素直な気持ちで講義を受ける
ことができました。師匠は、遠くを見つめるような目で僕たち聴講生に語りかけたも
のです。『私は、学生時代にアイヌ語研究にこの身を捧げようと決意しました。どん
なことでもいい。キミたちも自分が一生を捧げられるに価するこれぞというものを見
つけなさい。まだそれを見つけていないなら決して今に安住せず、それを探し続けな
ければなりません。それが生きるということですよ』ってね」
「ロマンチストな大先生らしいお言葉ですな」
「僕にとっては、その言葉がコペ転(コペルニクス的転回)でした。この人の下でな
ら本当に自分のやりたいこと、やるべきことが見つかるかもしれないと考えて講義を
聞き終えたその足で国文学部への学部変更届を大学に提出して師匠に師事しました」
「本当に惜しい人を亡くしましたな」
「そうですね。学生運動さえなければと今でも考えてしまいます」
「大先生も学生運動で人生を狂わされた人間の一人でしたな」
「ええ」と僕は頷いた。
一九六〇年代半ばから七〇年代初頭は、学生たちは勉学よりも政治談議やデモに熱
心な時代だった。
一方大学側は、学生運動を沈静化させようと、学生たちに高圧的な態度をとった。
やがて大学と学生の対立は決定的となり、T大紛争へと突入していくわけだが。
もちろんT大教授だった吟谷も、学生運動と無縁ではいられなかった。
一九六九年(昭和四十四年)、吟谷の研究室は学生たちに占拠されてしまい、貴重
な研究資料や蔵書を焼かれてしまったのだ。
吟谷は、この出来事に大変ショックを受けて、一九七〇年(昭和四十五年)にT大
を退官している。
「T大紛争はかなり酷い有り様だったみたいですね。僕は当時K大で助手をしていま
したから、T大紛争については人づてに聞いただけなんですが、あれ以降、かくしゃ
くとしていた師匠が一気に老けこんでしまわれましたね」
その後、K大でも紛争が起こり、教育の現場に見切りをつけた吟谷は、一九七一年
(昭和四十六年)三月にK大も退官。
本郷の自宅マンションに隠棲して、アイヌ語叙事詩「ユーカラ」のアイヌ語の音と
意味を書き留めた取材ノート「ユーカラノート」を日本語に翻訳・翻刻する作業に集
中するようになった。
吟谷退官後の研究室を引き継いだのは、僕の兄弟子の窪岡逸郎だった。
窪岡は、老齢で記憶も曖昧になってきていた吟谷をサポートするため、ユーカラノ
ートの翻刻作業も手伝っていた。
ところが窪岡は臓腑を患っており、ユーカラノートの翻刻作業半ばで、吟谷よりも
先に急逝してしまう。
そこでピンチヒッターとして急遽しょうへいされたのがK大で吟谷の助手をしてい
た僕だったのだ。
そしてユーカラノートの最終巻は無事脱稿。
吟谷は、それを見届けて同年十一月に亡くなった。
初代研究室長の吟谷と、二代目室長の窪岡の死後、生前の吟谷の口添えもあって僕
は助手から助教授へと昇進。
同時に三代目の吟谷民族言語学研究室室長に就任した。
だが僕には吟谷や窪岡のような実績はない。
僕が研究室長に就任してから、所属していた学生や院生は、みんな去っていってし
まい、残った者はごく僅か。
民族言語学研究室は閑古鳥が鳴いているというわけなのだ。
「師匠も、窪岡さんも、高名な研究者でしたから。いくらK大の生え抜きとはいえ、
僕みたいな若造に研究室を任せてもらえただけで有り難いと思っていますよ。あっ、
これは失敬」
応接机の上を埋め尽くす夥しい本と、資料の束に気づいた僕は、それを胸に抱え、
部屋隅の温水ヒーターの上へと移動させた。
「お構いなく。しかし先生は謙虚ですねえ。それで、その後、彼女さんとは、どうな
ったんですか。研究室に彼女さんまだいるんでしょ?」
山田がお茶を啜りながら、何気ない風に僕に訊いた。
「彼女さん? ……彼女さんですか?」
僕は、思わず山田に二度聞きしていた。
「ほらーっ、ゼミの子と付き合ってたでしょうに」
山田は、昔から研究室に出入りしていたので、僕と塔子が親しくしているところを
見たのだろう。
「山田さん知ってたんですか。でも、あの子とはもうずっと前に別れましたよ。その
後、女っ気はまったくありません」
日比谷の一件以来、塔子とは距離を取るようになり、塔子が卒業して関係はそのま
ま自然消滅した。
「どうして別れたんです。お似合いだったのに」
山田はズケズケ訊いてくる。
結局あれから一度も二人でじっくり話し合っていないので、塔子からしたら、どう
して僕の心が離れたのか分からずじまい。
きっと現在も何が何やらだろう。
だが、キミのことが恐くなってしまい、もはや異性として見ることが出来なくなっ
たなんて言えるはずもない。
他人から不人情な奴と思われたとしても、黙して語らず、墓場まで持って行ったほ
うが良いこともあるのだ。
その後、塔子の消息を知ったのは、吟谷が危篤の折。
同日に起きた渋谷暴動に彼女が加わっていたことを人づてに聞いて決定的に二人の
道が別れたのを知った。
そして僕には、女性恐怖症のトラウマだけが残されたのだった。
「些細なことですよ。些細なことがきっかけで、好きだった人を突然嫌いになるなん
ていうのはよくある話でしょう」
僕は山田に対して差し障りのない答えを返した。
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