8 / 41
山田
しおりを挟む男の年齢は四十を少し越えたくらい。
顔は面長。
何かの拍子で零れ落ちてしまいそうなギョロ目は、若干離れ気味。
口は大きくて、笑うと綺麗な白い歯並びと、ピンク色の歯茎が剥き出しになる。
パドックで入れ込み過ぎている馬を想わせる面相だった。
有名人だと、漫才コンビやすしきよしの謹慎休業していない方に似ている。
「やあ。三祥堂書店の山田さんじゃないですか。こちらこそご無沙汰しています」
見知った顔を認めて、僕は頬を緩める。
「でも先生は止してくださいよ。山田さんの方が一回りも年上なんですから、僕に言
わせれば先に生まれた山田さんの方がよっぽど先生ですよ」
それを聞いた山田は、また歯茎を剥き出しにしてシッシッシと笑った。
「研究室を継いでも、やはり先生呼ばわりされるのはお嫌ですか。変わりませんねえ」
僕は、研究室を任されて学生たちを指導する立場になっても、自分は飽くまで一研
究者にすぎないと考えていた。
だから先生呼ばわりされてもピンとこないのだ。
加えて猫も杓子も先生呼ばわりする昨今の世の中の風潮も気に入らなかった。
代議士も、弁護士も、医師も、誰でも彼でも、みんな先生、先生。
先生という言葉があまりに軽すぎて、僕には、皮肉や、ひやかしに聞こえてしまう。
ニャンコとしか呼ばれていなかった猫を、ニャンコ先生呼ばわりするのも、だから
皮肉なのである。
「しかし、もう大先生付きの書生さんじゃないんだから。先生と呼ばれるのにも慣れ
ないといけませんぜ佐藤先生」
山田にからかわれて、僕は苦笑いするしかなかった。
「シッシッシ、それより今日はお独りですかい」
山田はピンポン玉のような眼で、部屋の奥を覗き込みながら尋ねた。
「今日は、というか。うちの研究室は、まあ、いつもこんな感じですよ。頻繁にやっ
て来るのは猫くらいなもんです」
「大先生の名を冠した由緒ある研究室なのに、随分と閑散としてるんですな」
「そりゃ師匠がいた頃は、他学部からも講義を聴こうと、たくさんの野次馬が押し寄
せて教室に入りきらないほどでしたからね。でも聴講生のほとんどは、吟谷京介とい
う一人のカリスマに興味があっただけで、言語学に興味を持っていたわけじゃなかっ
たんです」
僕が師匠と敬い、山田が大先生と呼ぶ人物こそ、この研究室の初代室長にして、ア
イヌ語研究の草分け的存在。
国内に並ぶ者のない著名な民族言語学者の吟谷京介である。
辞書の編纂者としても知られ、誰もが一度はその名を聞いたことがあるほどの超有
名人だった。
逝去する一年前までは、日本の最高のインテリジェンスの集まるT大と、K大の教
授を兼任していた。
「斯くいう僕も、そんな野次馬の一人でして。もともと民族言語学を志していたわけ
じゃなかったので偉そうなことは言えないんですが。国語学の中でもドマイナーな研
究分野である民族言語学を、あえて専攻したがる学生なんて、もともとそんなにいや
しないんですよ」
僕は、掌を上に向け、肩をすくめて見せた。
「ほう。佐藤先生は、最初から言語学者志望じゃなかったんですか」
山田は、コート掛けに帽子を掛けながら言った。
「もともとは植物学者志望でした。父も祖父も植物学者で、幼い頃から植物学者にな
れと言われ育てられてきました。でも大学に入ってみたら、学生運動に夢中で政治談
議してる連中ばかりで、すっかり周りに感化されてしまって。このまま唯々諾々と、
親に敷かれたレールを走っていて良いのかと疑問を抱くようになったんです」
「若者が、よくこじらせるパターンですな」
「さあ、立ち話もなんですから、こちらへどうぞ」
よくこじらせるパターンのひとことであっさり片付けられてしまった僕は、いった
ん会話を切って部屋中央の応接セットへと山田を促した。
「しかし、ここは変わりばえしませんな」
応接セットの傍までやってきた山田は、ギョロ眼で室内をねめ回した。
「相変わらず古いインクと、カビくさい臭いが充満していて、大先生が御存命だった
頃と、ちっとも変わりゃしない。世の中は日進月歩だというのに、まるでここだけ時
間が止まったようじゃありませんか」
プロペラに茶色い錆の浮いている吊り下げ式扇風機を見上げながら山田が零す。
「師匠の名前で無条件に研究補助金が下りていた頃とは違うんです。大学から回され
る予算は限られているんでね。代替わりしたからと言って模様替えにお金をかけら
れるほど、うちは裕福じゃないんですよ」と僕が説明すると。
「なんとも世知辛い話ですな」
白いレースカヴァーのかかったソファに腰を落ちつけて山田は言った。
「それとインクの臭いが染み付いているのは、商売柄あなたの方じゃないんですか山
田さん」
僕は、山田にお茶を出しつつ、やり返してやった。
「えっ、そんなインクの臭いがしますかね。意外と自分では、自分の臭いに気付かな
いものでして」
山田は、自分の背広の下襟の部分を詰まんで、臭いを嗅ぎだした。
「さっきの話の続きですが、そんな人生の進路に迷っているときに、たまたま聴講し
たのが師匠の講義だったんです」
僕は目を閉じた。
そして丸眼鏡をかけて、ちょび髭を蓄え、教壇に立つ背広姿の老紳士の姿を瞼の裏
に思い浮かべた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
ト・カ・リ・ナ〜時を止めるアイテムを手にしたら気になる彼女と距離が近くなった件〜
遊馬友仁
青春
高校二年生の坂井夏生(さかいなつき)は、十七歳の誕生日に、亡くなった祖父からの贈り物だという不思議な木製のオカリナを譲り受ける。試しに自室で息を吹き込むと、周囲のヒトやモノがすべて動きを止めてしまった!
木製細工の能力に不安を感じながらも、夏生は、その能力の使い途を思いつく……。
「そうだ!教室の前の席に座っている、いつも、マスクを外さない小嶋夏海(こじまなつみ)の素顔を見てやろう」
そうして、自身のアイデアを実行に映した夏生であったがーーーーーー。
天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】
田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。
俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。
「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」
そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。
「あの...相手の人の名前は?」
「...汐崎真凛様...という方ですね」
その名前には心当たりがあった。
天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。
こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語
jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ
★作品はマリーの語り、一人称で進行します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる