7 / 41
吟谷民族言語学研究室
しおりを挟む渋谷駅東口を出て西麻布方面へ、首都高渋谷三号線を横目に見つつ六本木通りを
一〇分ほど歩き、Q国大使館手前の三叉路を右折。
暫く行くとK大学の渋谷キャンパスに辿り着く。
キャンパス正門を入って右手にある鎮守の森を通り越し、
森に隠れるようにして建つのが鉄筋コンクリートの本校舎。
そしてその西隣りに増築された別館三階に置かれていたのが国文科・吟谷民族言語
学研究室である。
その研究室に一通の手紙が持ち込まれたのは一九七二年の十一月半ばのことだった。
研究室は二十平米ほどの奥まった縦長の空間。
入口ドアは北側で、窓は南側に面していた。
床は寄木張りのフローリング。
天井と壁は漆喰。
漆喰は日焼けしないので、南向きの日当たりの良い部屋でも、建築当時の白さを保
ち続けていた。
その日は朝から気持ちの良い小春日和で、窓際の漆喰壁は、差し込んだ陽射しを反
射して白く光っていた。
だが天井に取り付けられたシーリングファンは、永年陽射しに曝され続けて劣化を
免れられず、鉄製のプロペラは、表面の塗膜が剥がれて茶色く変色。
この部屋が何度も何度も季節を越えてきたことを如実に表わしていた。
室内にはドアから窓に向って三台の机が並べられ、ドアに近い方から研究員用の長
机。
部屋中央が応接セット。
一番窓際は、窓を背にする形でマホガニー製の両袖机と、皮張りの肘掛椅子が置か
れていた。
両袖机はヴィクトリア調の装飾が施され、これだけ機能美優先の他の調度品とは趣
が異なる。
どうしてかというと、これらだけ大学の備品ではなく、退官した前々任者・吟谷京
介教授の私品であり置き土産――いや形見分けというべきか――だったからである。
壁際は、書棚、標本棚、温水ヒーターが、ひしめき合い、棚に収まりきらない蔵書
はところかまわず積まれ、室内は雑然としている感は否めなかった。
そんな雑然とした部屋で独りきり。
僕は、両袖机に向かい、椅子に腰掛け、机上に山積みになった冊子を一冊一冊を手
に取ってページをペラペラめくっていた。
研究室の散らかりようが目に余るようになってきたので、場所塞ぎだったバックナ
ンバーを処分しようと読み返していたのだ。
僕は、未読の雑誌の束と並べて、目を通した雑誌を積み上げてツインタワーを築き
上げると、ひとつ伸びをして背もたれに寄りかかった。
だが、すぐに表情筋を顰めて背もたれから背中を離した。
直射日光を浴び、蓄熱していた背もたれは、異様に熱を帯びていたのだ。
暑さに耐えかねた僕は、堪らずテラードジャケットを脱いでYシャツ姿になり、ネ
クタイを緩めた。
さらに襟元をくつろげようと空を仰いだ僕の眼に、天井に吊り下げられた扇風機の
巨きなプロペラが映ったが、扇風機のスイッチを入れようとはせず、替わりに背後の
窓を開け放つ。
窓は網戸が付いておらず、クリーム色のカーテンだけが屋内と外界を隔てる曖昧な
境界線だ。
だが折角開けたカーテンはピクリとも動かない。
「小春日和というよりも、残暑が戻ってきたみたいだ。こりゃまた光化学スモッグ警
報が出そうだな」
僕はぼやきながら、額に浮いた玉の汗を、二の腕までめくり上げた袖で拭った。
「暑くてやってらんないよ。いったん飯にするか」
ところが正午を過ぎると風向きが変わったのか。
カーテンが海月の足のようにゆらゆら揺らめき出した。
入ってくる空気は涼しくなり、殺人的な太陽光線は秋めいた柔らかい日差しに変わ
った。
でも秋の柔らかい日差しは、まどろみの罠。
腹の膨れた僕には効果覿面で、だんだん学会誌のページをめくる手は止まりがちに
なり、壁掛け時計が午後二時を回る頃には、程よい硬さのシートに身を落ち着けて船
を漕ぎ出していた。
だが晩秋の夏日は、一日の中の寒暖差が大きい。
日が傾くにつれ気温はどんどん急降下。
周囲が橙色に染まる頃には、大気には冷たい剃刀の鋭さが潜み始めた。
それでも僕は起きようとはしない。
太腿の上に墨を垂らしたような黒色の電気アンカが置かれていたからである。
アンカを包むボア生地のアンカ袋は、黒一色ではなく、アクセントとして赤ライン
が入っていた。
と突然、電気アンカがチリンと涼やかな音を鳴らして躰をもたげた。
「どうしたニャンコ先生」
僕が声を上げると、アンカのような物体――鈴付きの赤い首輪をした黒猫は、机上
に飛び乗り、ピィンと耳を立てて入口のドアのほうを凝視した。
それから窓のサッシに飛び移り、入ってきたときと同じように風のようにカーテン
の向うへ去っていった。
ニャンコ先生は研究室の居候猫。
僕よりも先にこの研究室に居ついていて前々任者の吟谷に大変可愛がられていた。
校舎に隣接する鎮守の森の杉の木によじ登り、校舎のひさしに飛び移って、三階に
ある研究室までやってくる。
吟谷が退官し研究室を去ってから、しばらく姿を見せなかったが、僕が三代目室長
に就任してからはまた日を置かず訪れるようになった。
首輪をしているところを見ると近所の飼い猫らしいが、飼い主は不明。
名前も不明。
そのためニャンコ先生にはこれという呼び名がなく、吟谷はただニャンコとだけ呼
んでいた。
ニャンコ先生と呼び出したのは僕である。
なにしろニャンコ先生は、吟谷京介無き現在、研究室最古参の古顔。
窓を閉めていると、コツコツと窓を叩いて、さっさと開けろと催促してくる。
まあ、ニャンコ先生は、僕の命の恩人なわけだし、光化学スモッグ警報が出やすい
夏場なぞは、人道的というか、猫道的な問題で締め出すわけにもいかないのだが。
研究室に入れたら入れたで、見ている研究資料の上にこれみよがしに寝転がって仕
事の邪魔をするし、研究室ではここの主のように我が物顔でふるまっている。
そのふてぶてしい態度から、僕は、愛と、敬意と、皮肉を込めて、ニャンコ先生と
呼んでいるわけである。
ニャンコ先生の出て行った窓を閉め、ニャンコ先生が見ていた部屋の入口に眼を移
すと。
宵闇の蒼に染まる部屋のドアの擦りガラスに、何者かの頭部らしき影が映っていた。
ニャンコ先生は研究室一の古顔なので、牢名主みたいな顔をして学生ばかりか、僕
のことまで見下している。
だから大学関係者が訪れたくらいでは動じないはずなのだが。
「ということは来客か」
ノック音がした後、僕が「はい」と返事する間もなくノブが回った。
「失礼しますよ」
僕は慌てて壁の照明スイッチを押す。
チカチカと点灯管が閃く中、ドアから姿を見せたのは中折帽を被り、紺のスリーピ
ースを纏った人物。
その人物は、部屋へ入ってくるなり帽子を取って、ぴっちり七三に分けた頭を垂れ
た。
「どーも、ご無沙汰してます。佐藤先生」
そして体を起こすと同時にニカッと満面の笑みを浮かべた。
0
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ト・カ・リ・ナ〜時を止めるアイテムを手にしたら気になる彼女と距離が近くなった件〜
遊馬友仁
青春
高校二年生の坂井夏生(さかいなつき)は、十七歳の誕生日に、亡くなった祖父からの贈り物だという不思議な木製のオカリナを譲り受ける。試しに自室で息を吹き込むと、周囲のヒトやモノがすべて動きを止めてしまった!
木製細工の能力に不安を感じながらも、夏生は、その能力の使い途を思いつく……。
「そうだ!教室の前の席に座っている、いつも、マスクを外さない小嶋夏海(こじまなつみ)の素顔を見てやろう」
そうして、自身のアイデアを実行に映した夏生であったがーーーーーー。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語
jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ
★作品はマリーの語り、一人称で進行します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる

