昭和レトロな歴史&怪奇ミステリー 凶刀エピタム

かものすけ

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鬼女

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「塔子さん?」

 大きく振りかぶり、助走をつけてレンガを投げる塔子。

 僕は、塔子の意外な行動に、呆気にとられた。
 幸か不幸か塔子はノーコンだったので、投げたレンガはあらぬ方向へ飛んで行き、コンクリート道路に砕けて散った。
 だが塔子は、めげずにレンガ片を拾う。
 いったい、いま何が起こっているのか。
 僕は訳がわからず、しばらく混乱していたが、ハッと我に返り、再びレンガ片を投げつけようとしている華奢な手首を掴んだ。

「キシャーーーーッ! 放せ! 邪魔するな!」

 僕の腕の中で、夜行性の獣のように眼を爛々と輝かせ、眉間と鼻に皺を寄せ、乱杭歯を剝き出しにして唸る形相は、まるで伝説の鬼。
 僕は本気で噛みつかれるかと思った。

 普段がシマエナガみたいなカワイらしい容姿なだけに、落差が大きく、僕が受けた衝撃もまた大きかった。
 まさか塔子の中に、これほどの獣性が秘められていたなんて。

 群衆の熱狂の中にいると、人は誰でも知性を低下させると、群集心理の権威は言ったが。
 だとすれば、この極限的状況と、群集心理が、塔子の抑圧されていた感情を爆発させたのか。
 僕は、暴れる塔子を、無理やりこちらへ振り向かせた。

「なにやってんの塔子!」
 
 僕は、塔子の面前で口角泡を飛ばし怒鳴りつけた。
 その衝撃で、憑き物が落ちたか。
 ビクンと体を震わせ、持っていたレンガを取り落とす塔子。
 
 僕と塔子が言い争っている間にも、混乱を収拾しようと、機動隊員が催涙ガス弾をつるべ打つ。

「ここにいちゃいけない。 逃げないと――」

 僕は、塔子の手を引いて逃げようとするが。

「きーひっひっひっ。どうして逃げなきゃいけないの。こんなに楽しいのに」

 塔子は、頬を紅潮させ、声を弾ませて言った。
 まだ塔子の憑き物は落ちていないようだった。

 辺りには幾条もの白い煙が立ち昇り、やがて交差点一帯は白い煙に包まれた。

 仕方なく僕は、一方の手の袖口で目鼻口を覆い、もう一方の手で抵抗する塔子の手首を無理やり引っ張って車道を挟んだ向こうの東宝日比谷映画街に向って走り出した。
 そしてブルーシートに覆われた建設中の東宝ツインタワービルの昏い建設現場に飛び込んだ。
 建設現場に燈火はなく、ブルーシートを透過してくる街灯の光だけが頼りだった。

 外から聞こえ続ける怒号や悲鳴に耳をそばだてて、僕がまんじりともせず息を殺していると。

「興奮しちゃったね」

 急に塔子が、顔を近づけてきて耳元で囁き、僕の耳の後ろにキスをした。
 驚いた僕は、体をビクリと震わせた。
 また塔子の様子がおかしい。
 これがいわゆる吊り橋効果というヤツなのか。
 彼女と深い関係になるなら絶好の機会に違いない。
 でも昂揚している塔子とは正反対に、僕の心は冷めきっていた。

 「このままここにいたら追っ手に見つかってしまうかもしれない。もっと奥へ移動しよう」

 僕は、しだれかかってきた塔子の体を軽く突き放すと、ぶっきらぼうな口調で言った。

「ちょっ、ちょっと、痛い」

 そして塔子の非難の声にかまわず、建設現場の奥へと引っ張っていく。
 
 縫うように鉄柱の間を通り抜け、バラックみたいな倉庫の中も抜けて、映画街の路地裏に出た。

「ここまで来れば大丈夫だろう」

「痛いってば。もういい加減にして!」

 裏路地へ出るなり、塔子は僕の手を乱暴に振り払った。
 どうやら正気に戻ったようだった。

「どうしてあんなことしたの。君は、サルトル派じゃなくカミュ派だったろ」

 僕は塔子に正対して尋ねた。
 ただし互いに目を逸らして視線は合わせなかった。

 フランス文学に詳しい者ならば、知らぬ者のないカミュ=サルトル論争というのがある。
 一貫してコミュニスト側に立ち、カミュをブルジョワ側の人間だと批難したサルトルと、共産主義革命に疑義を唱えるカミュの間で繰り広げられた論戦のことだ。
 結局二人は、この論戦がきっかけで絶縁してしまった。

 異邦人について熱っぽく語っていたことから、当然僕は、塔子がカミュと同じく暴力革命に疑義を唱える立場だと思っていたのだ。

「――女の子だろうと関係なく叩かれていたし、見て見ぬ振りは出来なかったでしょう」

「本当にそれだけ?」

「…………」

 あの暴力に酔いしれる鬼のような表情を見た後では、塔子が社会弱者のために戦っていたなんて到底信じられなかった。
 もはや僕には、塔子のことが理解らなくて、自分とは別種の生き物のように見えていた。

「そうか。じゃあサヨナラ。たぶん機動隊の追っ手は巻けただろうし、駅はすぐそこだから。騒ぎが治まったら独りでも帰れるでしょ。気を付けて帰って」

 僕はそれだけ言うと、手をカーディガンのポッケに突っ込み、塔子に背を向けた。

「あ、ちょっと――」

 塔子はまだ何か言いたげだったが、僕はもう振り返らなかった。
 
 僕は、恩師と出会うまでは、むしろ学生運動側に同情的だったし、たとえイデオロギーが違っても男女は付き合えると思っていた。
 だからカミュがどうの、サルトルがどうのという話は、ただの別れるためのこじつけだ。
 本当は、塔子のあまりの豹変ぶりにビビッってしまっていたのである。
 塔子と向き合っても、鬼の形相をした塔子の顔ばかり浮かんでくるからだ。
 もう僕には、塔子の顔を正視することは出来なくなっていた。

 これが僕が、四年前に日比谷で経験した悪夢の全容だ。
 後にこの同時多発暴動が起こった日は、主たる騒乱が新宿で起こったため、新宿騒乱と呼ばれるようになった。 

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