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日比谷騒乱
しおりを挟む店を出ると、辺りはとっぷりと暮れ、通りには街灯が燈っていた。
あれだけいた人の群れは何処へ行ったのか。
波が引くように消え失せて、遠くまで通りを見通せるようになっていた。
ところが開いているのデパートやブランドショップは数えるほどで、シャッターが閉まっている店が多い。
「今日は月曜でデパートは休業日だったか。にしても、まだ宵の口なのにショーウィンドウまで閉められてしまって。これじゃウィンドウショッピングも出来やしないじゃないか」
普通の町の商店街ならば夕方で店を閉めてしまうのもわかるのだが、夜の街銀座でこの時間帯にシャッター商店街みたいになっているのはかなり異常だった。
「仕方ない。もう帰ろうか」
塔子も、僕に同意して頷く。
「私は、少し歩いて日比谷駅から帰るわ。渋谷へ戻るよりもそっちの方が早いから」
「女性の夜の独り歩きは危ないよ。駅まで送るよ」
僕らは中央通りの散策を諦め、帰路につくことにした。
銀座四丁目交差点まで戻ってくると、先ほど通ったときとは打って変わって華やかな蛍光色のネオンに彩られていた。
ビル全体が淡い緑に染まったおなじみ和光の時計台。
銀座三愛の光の柱のてっぺんに燦然と輝く三菱マーク。
森永ロゴの回る地球儀。
空に浮かぶ巨大なペコちゃんの顔。
さしづめアジアのラスベガスといった趣だ。
ネオン広告に目を奪われつつ、僕らは交差点を曲がり晴海通りへと入った。
晴海通りは、晴海から銀座、有楽町を経由して日比谷まで行く道路。
四丁目交差点から北へ向えば日比谷交差点に辿り着く。
湾岸と都心のビジネス街をつなぐ幹線道路なので交通量も多く、道路を丸目のヘッドライトが次々に走り抜けていく。
車種は、角ばったデザインの2ドアクーペや、4ドアセダンが目立つが、まだ不二家のカーチョコみたいな丸っこい軽もがんばって走っていた。
時折それらに混じって白と黒の車体が見え隠れするのが、ちょっと不穏だった。
「けっこう警察車輌も出てるな。やっぱりこの近くで、何か大きな事故とか、イベントごとでもあったかな」
車の流れを横目に見ながら、僕が独りでごちていると。
「反戦デー……」と塔子がポツリと呟いた。
「えっ、いま何て言ったの?」
僕は思わず立ち止まり、塔子の肩を鷲掴みにした。
点滅するネオンに照らされて、彼女の脅えた顔が、緑になったり、赤になったりしていた。
「きょ、今日は国際反戦デーだって。喫茶店で後ろの席に座っていた人が言ってたの」
一九六六年から国際反戦デーという記念日が制定され、毎年日比谷公園では反戦デモが行われるようになっていて、反戦デー前後は過激派の活動が活発化する。
警察も、銀座の街の人も、それを知っているから警戒していたのだろう。
「そうか。それでか」
僕は、すべて合点がいった。
同時に、百軒店のときのような嫌な感覚を覚えた。
だがこれは予感や、直感の類ではなく、いま目の前にある危機だっだ。
研究室にひき籠もらず、ニュースをこまめにチェックしていれば気付けていたであろう目に見える大きな地雷だ。
そもそも新聞の映画欄で異邦人の上映館を調べたときに、どうしてこんな大きなニュースを見落としたのか。
「チッ」
僕の舌打ちを聞いた塔子が下を向く。
「ああ、ごめんよ。塔子さんに怒っているんじゃないんだ。無能な自分に怒っているんだよ。むしろ反戦デーのことを教えてくれた塔子さんには感謝しているくらいさ」
塔子は、世情に疎いというか、興味がないタイプなので、彼女を責めるのはお角違いなのは僕だって理解している。
僕は塔子を安心させようとハンチングに手を置き、優しく頭を撫でると、彼女は再び顔を上げてニコリとした。
そのときの僕は、なんとかこの笑顔だけは守りたいと強く願っていた。
「ともかく面倒ごとに巻き込まれる前に急いで帰ろう」
言うやいなや、僕は彼女の手を引っ張って早足で歩き出した。
やがて右手にはローマの円形劇場みたいな円筒形の建物が見えてきた。
有名な日本劇場。通称・日劇である。
日劇を通り越し、有楽町駅前のガード下を潜る。
でも今日はいつもいる屋台の姿は見かけなかった。
ガードを越えて左手に見えてきたのが、東宝系の映画館や劇場がひしめく東宝日比谷映画街。
外から見る限り映画館や劇場に変わった様子はなく、通常営業しているようだった。
映画街の華やかな看板や、デカデカと文字が踊る幟が目に付くが、僕らにはそれらをゆっくり鑑賞している余裕はなかった。
やがて目の前の空間が大きく開け、その向うに皇居の黒い影らしきものが見えた。
なんとか日比谷交差点まで辿り着き、ホッとしたのも束の間。
「ちょっと待って塔子さん」
僕は、雑踏音の中に連続するクラクションや、怒声など、異音が混じっていることに気付き、前方に見える地下鉄日比谷駅入口に無防備に近づいて行こうとしていた塔子を制止した。
間髪入れず聞こえてきたのは、くぐもった拡声器の声。
『下がりなさい! もっと下がりなさい!』
目を凝らして彼方の日比谷交差点をよく見ると、既に交差点内では、ジェラルミン盾を構えた全身青づくめの百人規模の警察機動隊員と、その数倍はいそうな安全メットに、ゲバ棒を持ち、手拭いで口もとを覆ったデモ隊が睨み合っていた。
「着くのが遅すぎたみたいだな。やれやれ、こりゃ面倒なことになったぞ」
デモ隊は、機動隊に押し出される格好で晴海通りに侵入。
僕らの方に向かって後退ってきた。
「こりゃマズい。もっと下がろう」
僕は、デモ隊と機動隊に目を奪われている塔子を促して、有楽町方面へさらに後退。
デモ隊は、距離をとって睨み合うのに焦れてきたか。
レンガ敷きの歩道を掘り返し、投石を開始。
さらに鉄砲玉の何人かがデモ集団から飛び出し、投石をガードしているジェラルミン盾で形成された壁に向かって、沢村忠ばりの真空飛び膝蹴りをかます。
しかし、あえなく盾の壁に跳ね返されてしまい、地面にどうっと転がったところを機動隊員に取り囲まれて寄ってたかって叩かれる。
その様子を見ていたデモ隊は、仲間を助けようと一斉に突撃を開始。
僕らの目の前で数百人規模の人間が入り乱れての大乱闘が始まった。
そこへ新橋方面から突如現れたデモ隊の増援が加わり、事態はさらに混沌としていく。
これは後になって知ったことなのだが――。
僕らが喫茶店で映画談義に花を咲かせていた頃には、日比谷公園に集まったのとは別の連中が、既に六本木の防衛庁と、霞ヶ関の国会議事堂で機動隊と衝突。
丸太を抱えて突撃を敢行し、門の突破を試みるも、放水に阻まれて失敗。
日比谷方面へと敗走して来ていたのだった。
敗兵を加えても、所詮デモ隊は烏合の衆。
鎮圧のプロである機動隊員と正面からまともにぶつかっては敵うはずもなく。
やがて総崩れになったデモ隊は、ひとりずつ着実に各個撃破されていった。
引き倒される者。
組み伏せられる者。
殴打される者。
揉みくちゃにされる者。
機動隊員に連行されていく者。
また蹴散らされたデモ隊の一部は、逃走を図って僕らのいる方へもワラワラと蜘蛛の子を散らすように逃げてきた。
すると僕らと同じ遠巻きに固唾を呑んで様子を見守っていた野次馬のひとりが、おもむろに足元に落ちていたレンガを拾った。
そして逃げるデモ隊に追をいすがる機動隊員目掛けてレンガ片を投げつけたのだ。
レンガ片は機動隊員の頭部を覆う防石面に直撃。
被弾した機動隊員は、のけぞり後方にぶっ倒れる。
それを見ていた他の野次馬たちも、手に手にレンガを持って投石を開始。
もはや状況は、機動隊対デモ隊ではなく、機動隊対群集の様相を呈し始めていた。
そしていつの間にか僕の傍らの少女も、その花びらのような小さな手にレンガの欠片を握っていたのだった。
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