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仕事依頼
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「僕だって師匠の原稿に手をつけるなんて、畏れ多くて出来ないですよ。僕は師匠の代理をしていた窪岡さんの、そのまた代理なんですから」
僕は、両手を高く上げてお手上げポーズをとった。
「そんなこと言わずに」
基督教徒が懺悔するみたいに、山田が掌を組み合わせ、机越しに僕の方へ身を乗り出してくる。
「泣き落としたって無駄ですよ。だいたい僕みたいな青二才じゃなく、こういう大事を任せられる適任者なら他にもいるでしょう」
「意地悪言わないで下さいよ。大先生の直弟子と呼べる方の多くが、既に鬼籍に入っていることは佐藤先生が一番御存知じゃないですか」
吟谷を師事した者は多いが、実際に直弟子と認められた者は少なく、僕を含めてもわずか五人しかいない。
そのうち一番弟子と、二番弟子は、吟谷よりもずっと前にこの世を去っている。
癌の闘病を押して吟谷の執筆作業を手伝っていた三番弟子の窪岡も急逝した。
存命なのは、僕ともう一人だけだ。
「兄弟子のN大の成田さんがいるでしょう。あの方も立派な方ですよ」
「えーと、それがその――」
山田は歯切れが悪い。
「成田さんは、現在研究の一線から退かれて、N大の付属高校で教鞭をとられているんですが、高校の仕事が忙しいにもかかわらず十一月の三、四、五の三連休を使って北海道へ飛んでくれたんです」
案の定、出版社は、兄弟子の成田にも声をかけていた。
僕は研究者としてはまだまだヒヨッコだ。
師匠どころか、兄弟子たちにも遠く及ばない。
そのことは、自分でもよく判っていた。
だから僕より先に、兄弟子の成田のところへ話を持っていくのは当然といえば当然。
でも正直言うとちょっと凹んだ。
「じゃあ、僕の出る幕はないですね」
面倒ごとから逃れられて、ほっとしたような、がっかりしたような。
僕は複雑な気持ちになった。
「それがそうでもないんですよ佐藤先生」
ねぇねぇちょっと聞いてよ奥さんと、井戸端会議してる主婦みたいに、僕に手を振る山田。
「連休明けても成田さんは音信不通で。成田さんの奥さんにも何の連絡も届いていないそうなんですよ。勤めている高校は無断欠勤しているそうです」
ようするに成田は行方不明ということらしい。
「だったら出版社の方が北海道へ行ったらいいじゃないですか。いや、あなた方が成田さんに頼んだのだから、あなた方こそが行くべきですよ」
どうもこの話は胡散臭いので、僕は山田を、つっけんどんに突き放した。
「それがですね――もう行ったんですよ」
山田は、こめかみの辺りをポリポリ掻く。
「実は成田さんの前に一人、北海道出身の女性編集者を、夏休みに帰省がてら斥候として現地に送り出していたんですがね――」
「まさかその人も戻ってきてないんですか? そりゃもう連続失踪事件じゃないですか。もはや警察の領分ですよ」
「早合点しないでください。行方知れずということではないんです。実は――――」
**************
「――その方は、夏休みに帰省中、実家でお見合いをして結婚。そのまま東京に戻らずに寿退社したと」
山田の説明を受けた僕は、呆れて乾いた笑いが出た。
「だからねえ、私はねえ、ゐの一番に佐藤先生に相談すべきだと大先生の御遺族にも主張したんですよ。だってそうでしょう。佐藤先生は、大先生が認めた最後のお弟子さんで、アイヌユーカラ集概説の共同執筆者なんですから」
拳を大上段に振り上げて力説する山田。
この山田という男は、本当に調子がいい。
それに、山田にそこまで推されると、こっちが気恥ずかしくなる。
「確かに僕は、師匠の執筆活動を手伝って本の共同執筆者として名を連ねましたよ。
でもその手伝いというのは、実際は師匠の小間使いのようなものだったので――」
僕の師匠の吟谷は、齢八十を越えてからも執筆活動に熱心だった。
だがさすがに晩年は、体が不自由になり執筆活動もままならなくなった。
そこで僕が、吟谷宅に上がり込み、吟谷の身の回りのことをする書生の真似事をしていたのである。
「あの本の文章を考えたのだって全部師匠なんですから」
そうなのだ。僕がやったことといえば口述筆記による代筆と、書類の整理くらいなもの。
代筆や、資料整理も、執筆活動の一環といえないことはないのかもしれないが、決して僕は、共同執筆者などという大それたものではなかった。
なのに、どうして僕の名前が、吟谷と並んで共同執筆者として本に載ったのか。
本が出版される前に吟谷は逝去してしまったため、今となってはその理由を確かめようもないが、おそらく身の回りのことを手伝っていたことへのご褒美だったのではないかと僕は考えている。
出来の悪い教え子への、情け心もあったかもしれない。
民族言語学の大御所である吟谷と一緒に本を出したとなれば、僕の名前に大いに箔が付くからだ。
実際吟谷の逝去後、僕は三十代で助教授に取り立てられ、吟谷が遺した研究室も任された。
吟谷の共同執筆者として本に名前が載ったおかげで、僕の将来は開けたのである。
「当時担当編集だったんだから、僕が共同執筆者なんてものではなく、ただの師匠の介添えに過ぎなかったってことは山田さんだって知ってるでしょ」
「そんなこと言わないで。頼れるのは先生だけなんです。先生が引き受けてくれるのなら渡航費から宿泊代まで、諸々の諸経費は全部うちで持ちますから、ね」
「あのね山田さん、お金だけの問題じゃないんですよ。あれ、でもおかしいじゃないですか。どうして手紙がここにあるんです? この手紙は、唯一ウネサワさんにつながる手掛かりのはず。女子編集者さんか、成田さんか知りませんが、当然これを持っ
て北海道へ渡ったはずなのでは」
僕は、手に持った便箋をヒラヒラさせながら山田に訊ねた。
「寿退社したうちの女子編集者は辞表と一緒にこの手紙を送り返してきまして。その後、手紙は成田さんの手に渡ったんですが、成田さんは先方と連絡がとれたそうで。先生充ての手紙はいらなくなったからと北海道へ渡る前に返してきたんですわ」
「何度でも戻ってくる手紙か。なんかいわくつきだな。やはりこれは山田さんに謹んでお返しします」
僕は、薄気味悪くなって便箋を封筒に戻し、山田に突き返した。
しかし山田は、首を振って手紙を受け取ろうとはしない。
「やれやれ。佐藤先生は何も分ってないんですな」
そういうと山田は態度を急変。
肘掛に両腕を広げるようにして、ソファーにもたれかかり、短い脚を見せつけるように足を組む。
「そんな無責任な言い訳が、世間で罷り通ると思ってるんですかい佐藤先生」
とつぜん日活の無国籍映画に出てくるギャングみたいにふるまい始めた山田。
どうやら、僕をなだめすかす作戦は諦めて、脅しつける作戦に切り替えたようだ。
本当に無節操な男である。
「たとえ名義貸しみたいなものだとしても、共同執筆者として名を連ねている以上、佐藤先生だって責任を免れませんぜ」
そういってギョロ目で藪睨みする山田。
山田の呆れた放言に、僕は顎が外れかけた。
「ということでこの件は、全て佐藤先生にお任せしまーーす」
言うなり無責任サラリーマン山田は、すっくと立ち上がる。
「そんな身勝手な。ちょっと待って下さいよ」
そして僕が止めるのも聞かず、そそくさと逃げるように研究室を出て行ってしまっ
た。
僕は、日比谷映画街に置いて行かれた塔子の気持ちが、少しだけわかった気がした。
「弱っちゃったな、こりゃ」
僕は、手元に残った封筒に目を落とした。
「まあ、この案件は、師匠が遣り残した仕事だし、師匠の尻拭いをするのは弟子の役目だしな」
こうして僕は、心ならずもアイヌユーカラ集概説のクレーム対応を引き受けることになったのだった。
僕は、両手を高く上げてお手上げポーズをとった。
「そんなこと言わずに」
基督教徒が懺悔するみたいに、山田が掌を組み合わせ、机越しに僕の方へ身を乗り出してくる。
「泣き落としたって無駄ですよ。だいたい僕みたいな青二才じゃなく、こういう大事を任せられる適任者なら他にもいるでしょう」
「意地悪言わないで下さいよ。大先生の直弟子と呼べる方の多くが、既に鬼籍に入っていることは佐藤先生が一番御存知じゃないですか」
吟谷を師事した者は多いが、実際に直弟子と認められた者は少なく、僕を含めてもわずか五人しかいない。
そのうち一番弟子と、二番弟子は、吟谷よりもずっと前にこの世を去っている。
癌の闘病を押して吟谷の執筆作業を手伝っていた三番弟子の窪岡も急逝した。
存命なのは、僕ともう一人だけだ。
「兄弟子のN大の成田さんがいるでしょう。あの方も立派な方ですよ」
「えーと、それがその――」
山田は歯切れが悪い。
「成田さんは、現在研究の一線から退かれて、N大の付属高校で教鞭をとられているんですが、高校の仕事が忙しいにもかかわらず十一月の三、四、五の三連休を使って北海道へ飛んでくれたんです」
案の定、出版社は、兄弟子の成田にも声をかけていた。
僕は研究者としてはまだまだヒヨッコだ。
師匠どころか、兄弟子たちにも遠く及ばない。
そのことは、自分でもよく判っていた。
だから僕より先に、兄弟子の成田のところへ話を持っていくのは当然といえば当然。
でも正直言うとちょっと凹んだ。
「じゃあ、僕の出る幕はないですね」
面倒ごとから逃れられて、ほっとしたような、がっかりしたような。
僕は複雑な気持ちになった。
「それがそうでもないんですよ佐藤先生」
ねぇねぇちょっと聞いてよ奥さんと、井戸端会議してる主婦みたいに、僕に手を振る山田。
「連休明けても成田さんは音信不通で。成田さんの奥さんにも何の連絡も届いていないそうなんですよ。勤めている高校は無断欠勤しているそうです」
ようするに成田は行方不明ということらしい。
「だったら出版社の方が北海道へ行ったらいいじゃないですか。いや、あなた方が成田さんに頼んだのだから、あなた方こそが行くべきですよ」
どうもこの話は胡散臭いので、僕は山田を、つっけんどんに突き放した。
「それがですね――もう行ったんですよ」
山田は、こめかみの辺りをポリポリ掻く。
「実は成田さんの前に一人、北海道出身の女性編集者を、夏休みに帰省がてら斥候として現地に送り出していたんですがね――」
「まさかその人も戻ってきてないんですか? そりゃもう連続失踪事件じゃないですか。もはや警察の領分ですよ」
「早合点しないでください。行方知れずということではないんです。実は――――」
**************
「――その方は、夏休みに帰省中、実家でお見合いをして結婚。そのまま東京に戻らずに寿退社したと」
山田の説明を受けた僕は、呆れて乾いた笑いが出た。
「だからねえ、私はねえ、ゐの一番に佐藤先生に相談すべきだと大先生の御遺族にも主張したんですよ。だってそうでしょう。佐藤先生は、大先生が認めた最後のお弟子さんで、アイヌユーカラ集概説の共同執筆者なんですから」
拳を大上段に振り上げて力説する山田。
この山田という男は、本当に調子がいい。
それに、山田にそこまで推されると、こっちが気恥ずかしくなる。
「確かに僕は、師匠の執筆活動を手伝って本の共同執筆者として名を連ねましたよ。
でもその手伝いというのは、実際は師匠の小間使いのようなものだったので――」
僕の師匠の吟谷は、齢八十を越えてからも執筆活動に熱心だった。
だがさすがに晩年は、体が不自由になり執筆活動もままならなくなった。
そこで僕が、吟谷宅に上がり込み、吟谷の身の回りのことをする書生の真似事をしていたのである。
「あの本の文章を考えたのだって全部師匠なんですから」
そうなのだ。僕がやったことといえば口述筆記による代筆と、書類の整理くらいなもの。
代筆や、資料整理も、執筆活動の一環といえないことはないのかもしれないが、決して僕は、共同執筆者などという大それたものではなかった。
なのに、どうして僕の名前が、吟谷と並んで共同執筆者として本に載ったのか。
本が出版される前に吟谷は逝去してしまったため、今となってはその理由を確かめようもないが、おそらく身の回りのことを手伝っていたことへのご褒美だったのではないかと僕は考えている。
出来の悪い教え子への、情け心もあったかもしれない。
民族言語学の大御所である吟谷と一緒に本を出したとなれば、僕の名前に大いに箔が付くからだ。
実際吟谷の逝去後、僕は三十代で助教授に取り立てられ、吟谷が遺した研究室も任された。
吟谷の共同執筆者として本に名前が載ったおかげで、僕の将来は開けたのである。
「当時担当編集だったんだから、僕が共同執筆者なんてものではなく、ただの師匠の介添えに過ぎなかったってことは山田さんだって知ってるでしょ」
「そんなこと言わないで。頼れるのは先生だけなんです。先生が引き受けてくれるのなら渡航費から宿泊代まで、諸々の諸経費は全部うちで持ちますから、ね」
「あのね山田さん、お金だけの問題じゃないんですよ。あれ、でもおかしいじゃないですか。どうして手紙がここにあるんです? この手紙は、唯一ウネサワさんにつながる手掛かりのはず。女子編集者さんか、成田さんか知りませんが、当然これを持っ
て北海道へ渡ったはずなのでは」
僕は、手に持った便箋をヒラヒラさせながら山田に訊ねた。
「寿退社したうちの女子編集者は辞表と一緒にこの手紙を送り返してきまして。その後、手紙は成田さんの手に渡ったんですが、成田さんは先方と連絡がとれたそうで。先生充ての手紙はいらなくなったからと北海道へ渡る前に返してきたんですわ」
「何度でも戻ってくる手紙か。なんかいわくつきだな。やはりこれは山田さんに謹んでお返しします」
僕は、薄気味悪くなって便箋を封筒に戻し、山田に突き返した。
しかし山田は、首を振って手紙を受け取ろうとはしない。
「やれやれ。佐藤先生は何も分ってないんですな」
そういうと山田は態度を急変。
肘掛に両腕を広げるようにして、ソファーにもたれかかり、短い脚を見せつけるように足を組む。
「そんな無責任な言い訳が、世間で罷り通ると思ってるんですかい佐藤先生」
とつぜん日活の無国籍映画に出てくるギャングみたいにふるまい始めた山田。
どうやら、僕をなだめすかす作戦は諦めて、脅しつける作戦に切り替えたようだ。
本当に無節操な男である。
「たとえ名義貸しみたいなものだとしても、共同執筆者として名を連ねている以上、佐藤先生だって責任を免れませんぜ」
そういってギョロ目で藪睨みする山田。
山田の呆れた放言に、僕は顎が外れかけた。
「ということでこの件は、全て佐藤先生にお任せしまーーす」
言うなり無責任サラリーマン山田は、すっくと立ち上がる。
「そんな身勝手な。ちょっと待って下さいよ」
そして僕が止めるのも聞かず、そそくさと逃げるように研究室を出て行ってしまっ
た。
僕は、日比谷映画街に置いて行かれた塔子の気持ちが、少しだけわかった気がした。
「弱っちゃったな、こりゃ」
僕は、手元に残った封筒に目を落とした。
「まあ、この案件は、師匠が遣り残した仕事だし、師匠の尻拭いをするのは弟子の役目だしな」
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