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第十三話「訓練と教官役の苦労について」

第三師団式教育

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 第八師団が持つグラウンドは、都市部に立地するにも関わらず、かなりの面積を誇っていた。中央ではAMWが取っ組み合いをしても問題ないほどの広さ、と言えばわかり易いだろうか。日本広しと言えど、これだけの施設を持っている駐屯地は中々無かった。

 勿論、走るために整備された外周部分も、一周するだけでもそれなりの距離があり、ランニングなどには打って付けの場所である。幅は十メートルほどある、徒競走のトラックのようになっている路上を、十八人の女子と女性が走っていた。

 今にも死にそうな形相で、誰もが青色吐息であった。

 ***

 早速、罰則として腕立てをやらせようとした清水を制して「それよりも早く訓練に入りたいのですが、よろしいでしょうか」と言った比乃を、菊池は「いい人だぁ!」と感激の目で見ていたのだが、次に放った一言で、その評価は逆転することになる。

「腕立てなんか生ぬるいですから、とりあえず実践と行きましょう」

「……え?」

「機士は一に体力、二に技量、三四がなくて五に根性です。今からその一と五が足りているか、テストします。駆け足よーい」

 言いながら、どこからか取り出した棒……丸めた新聞紙を手に持つと、それを思い切り地面に叩きつけた。

「始め!」

 叫んで、地獄の始まりを告げた。準備運動をする暇もなければ、戸惑っている暇もない。新聞紙で引っ叩かれながら、全員慌てて走り始めた。それから数時間、突然始められた持久走に困惑する暇もなく、追い立てられるように始まったマラソン。

 普段行う持久走……適当に手を抜いたり、談笑しながら行っていたそれとは、桁違いの過酷さだった。

   *   *   *

「さ、三曹達……もう反対側にいるんだけど」

 菊池が、レーンの反対側を悠々と走っている三人の教官を指差しそうとするが、その腕は上に上がらずに斜め下を向いてぷらぷらとしている。
 走り方も、ほとんど腕が上がっておらず、倒れそうになるのを無理やり脚を前に出して走っているという、ゾンビのような動きであった。

「口聞いてないで走れ……追いつかれたらまた蹴り入れられっぞ……」

 普段通りに手を抜いて走っていたら、尻に思い切り蹴りを貰った鈴木が、歯を食いしばって脚を動かす。帽子で頭を叩かれるとは訳が違う、怒声混じりのキックは余程痛かったらしい。その形相は必死だ。

「貴方達……情けない……ですよ……」

 一番前を走りながらも、ヒューヒューと息を上げている斎藤が、途切れ途切れに強がるように言う。教育生たちを追い立ててから、自分たちのペースで走り始めた三人に食いつこうとした気概はどこへ言ったのか、今では、せめて後ろの集団に抜かれないように走るのがやっとであった。

 他の面々も「も……無理……」「お家帰りたい……」など、口が聞ければマシな方で、殆どは酸素を求めて鯉のように口を開きながら、死にそうな顔でなんとか走っている。

 しかし止まることも、手を抜くことも許されなかった。
 何故ならば、少し前までは自分たちの前方を走っていた三人が、手に得物――丸めた新聞紙を持って、時折こちらを見ては、ぶんぶんと素振りをしているのだ。女教隊の面々は、棒状にした紙の破壊力を、生まれて初めて思い知った。

 その三人の教官のフォームは、背筋をぴんと伸ばし、手足をリズムよく動かす綺麗なものだった。その姿はアスリートのようにも見えて、もし状況が違えば、菊池たちは感嘆の声を上げていただろう。

 もっとも、時折こちらを指差しては大声で、この距離では聞こえるか聞こえないかのだが「真面目に走れ!」などと怒鳴りつけてくるその姿は、先ほどまで抱いていた可愛い上官のイメージなどこれっぽっちも残っておらず、正に地獄の鬼軍曹なのだが

 それが聞こえた訓練生達は「ひぃぃ」と少しでもペースを上げようと必死になる。少しでも手を抜いた素振りを見せたり、脚を止めよう物なら、あれで素肌を引っ叩くか、尻を思い切り蹴飛ばされ、倒れたら起き上がって再び歩き出すまで、丁寧口調で散々罵倒される。

 その余りの厳しさに、何人かはもう泣きながら走っているが、だからと言って手心が加えられることは一切ない。

 気付けに使われる得物も凶悪だった……たかが丸めた新聞紙と侮るなかれ、首筋や手首など、肌が露出しているところを正確に打ち据えられると、思わず悲鳴が出るほどには痛い。しかも痕は残らないので尚更性質が悪い。

 それを良い事に、あの三人は遠慮容赦なく引っ叩いてくるのだ。

 走り始めてすぐのとき、まだ余裕があった菊池がご自慢の「体罰なんてひどい!  上に言い付けますよ!」という決まり文句を口にしたが、三人の代表格である比乃は真顔のままでこう返した。

「どうぞご自由に、好きな所に告げ口なりなんなりしてください。そんなことしても手を緩める気は全くないので」

 そう言ってのけてから、呆然とする菊池の尻を蹴り飛ばし、基礎体力訓練、俗に言うマラソンに戻した。それ以降、三人に対して直接、何かを言う者はいなくなった。何か言う余裕なんてないし、下手なことを言って、ペナルティでも課せられたら死んでしまうと、全員の意見が一致したからだ。

「ひぃ……ひぃ……」

「み、水……」

 そんなやりとりがあったことが、今では彼方遠くの記憶に感じられる。意識が朦朧としてきていた。限界は近い……自分達は今、何キロ走ったか、終わりまでは後何キロあるのだろうか。

「誰よ……基礎体力訓練が……楽だって言ったの……」

 誰かが呟いた言葉に、不満を紡いでいた皆が無言になる。全員、思っていたのだ。パイロットである機士候補である自分たちが、体力をつける為の訓練をやらされても、そんなに厳しい物ではないはずであると、実際、これまでがそうであったように。

 それがまさか、こんな地獄のような物になろうとは――

 朝から始まった十キロ走、残る道のりは丁度五キロ。
 また後ろから、悪魔が三人、追いついてくる。
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