媛神様の結ぶ町

ながい としゆき

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 私は朝食を食べ終えた後、光恵さんとの恋の駆け引きに忙しい皓太を旅館に残して、町中に出た。
 空を見上げると、数週間ぶりに大きな雲が空をいっぱいに覆っており、どうやら一雨きそうな雰囲気だ。傘を取りに旅館に戻ろうか躊躇している時に、通りにあるスーパーから私を呼ぶ声が聞こえた。
「お嬢さん、すぐに雨が落ちてくるから、中に入りなさい。ザーッとくるから、濡れちゃうよ」
と、八十~九十歳代じゃないかと思われるお婆さんが手招きしている。
 私は招かれるまま店の中に入った。すると、一分も経たないうちに、ポツポツと雨が落ち始め、すぐにシャワーのような雨に変わった。
「お婆さん、凄いですね。どうしてわかったんですか?」
「なんもさ。空気の匂い嗅いだだけだ。そしたら、いつ、どんな雨が降るかだいたいわかるからさ」
と、平然と言う。
「私も雨きそうだなとは思ったけど、こんなに早く降るとは思いませんでした。ありがとうございます。おかげさまで濡れなくてすみました」
私はお婆さんにお礼を言って頭を下げた。
「なんもさ。最近、雨降ってなかったから、ちょっと長いかもね。まぁ、一~二時間くらいは続くだろうから、そこのイスに座って止むまでゆっくりしていったらいい」
と、レジ横にあるイスを指した。
「お仕事のお邪魔じゃないですか?」
「この雨だもの、しばらくは誰も来ないよ」
と笑いながら、飲み物のコーナーから缶ジュースを二本持ってきて、私に一本渡すと、自らも缶を開けて飲みだした。
「私のオゴリだ」
と、優しく笑う。
 店頭の大きなガラスからは通りが見渡せる。何気なく見ていると、傘を差しながら仕事場に向かう人達が、水を撥ねながら足早に通り過ぎて行く。でも、どこか嬉しそうに見えるのは、数週間ぶりの雨だからだろう。
 私はお婆さんの方へ向き直り、
「ひょっとして、お婆さんも変身しているんですか?」
と聞いた。
「いやいや、私は正真正銘の人間さ。動物が変身している者じゃないよ」
と両手を前に出して振っている。
「さっき空気の匂いを嗅げば、いつどんな雨が降るかわかるって・・・」
「そりゃあ、この年までここで暮らしていればだいたいわかるさ。畑にいる時も家にいる時も、昔から空を見て、ここの空気を吸って生きてきたからねぇ。私の母さんやお姑さんたちはもっと先のことまでわかったもんさ」
「凄いですね・・・」
「凄くなんかないよ。自然と一緒に生きていれば、コレが普通さ。都会では自然少ないから、わからないのかもね」
と笑う。
「気象予報士はいますけど、それでもこんなに当たることはないかも」
「この町は、昔っから動物達と仲良く暮らしていたから、特に自然の動きがわかるのかもしれないね」
「十三年くらい前からって町長が言ってましたけど。違うんですか?」
「それは町全体で始めた年ってことじゃろ。学校作って、変身した動物達と町おこしを始めたのはその頃さ。でも、私らは子供ん時からキツネやタヌキ達と山や川で遊んでたからね」
この話は初めてだ。
「キツネやタヌキって、その頃から変身して遊んでたんですか?」
「そうだよ。じゃないと一緒に遊べないもんね」
「私、初めて聞きました」
「そうだろねぇ。町長さんの年の頃にはキツネもタヌキも、もう町へ遊びに来なくなってたからねぇ」
 かける言葉が見つからず、ただ見つめている私に、お婆さんは語り始めた。
「山の動物はみんな菊理媛神様の御家来様といってね、昔は人間からも大切にされていたのさ。菊理媛神様は山の神様で、この町の神社のご神体様だ。『白山さん』っていう人もおるね。私のばあ様が若かった時は、よく山に行者さん達が修行をしに来ていたって話だ。だから、山の奥深くに入って行くと、行者さん達が修行していた滝や籠るためのお堂の跡が今でも残っているらしいよ。私ら山の傍で暮らしてるから、崩れたり木が良くなかったりしたら暮らしていけない。だから、菊理媛神様の御家来様達を怒らせないようにって言われてきたんだ。猟をする時だって、ちゃんと神社へ行って神主さんに『食べる分だけ御家来様を狩らせてくれ』ってお祈りしてもらってから山に入ってたよ。戴くのは変身できない動物達だけだ。そして、無事に獲物が獲れたら『ありがとうございました』って、天へ御霊を感謝の気持ちと共に神様のところへ送るお祭りしてからみんなで戴いたもんだよ。たとえ変身できない動物達だって大切な命を戴くことに変わりはないからね。そういうことを当時の人間達はちゃんとわかっていたんだ。そして、子供らは遊ぶ時に山に向かって大きな声で『ホ・ホーッ』って呼ぶんだ。そしたら人間の格好をした動物達が遊びに来るんだ。人間になれない動物達も時々一緒に出てきていたっけねぇ。あの時はホント楽しかったねぇ。よく神社の境内で一緒にかくれんぼや鞠つきをしたもんさ」
「じゃあ、この町での取り組みの下地は昔からあったんですね」
お婆さんは小さくうなずきながら、また話し始めた。
「でもね、戦争になった頃からみんな自分や家族の事しか考えられなくなってしまってね。その頃は、ここら辺も大変だったから、無理ないけどね。みんな生きるのに必死だったからね。その頃から猟をする時も、誰も菊理媛神様にお伺いしないで山に入るようになっちゃってね。いつの間にか気持ちが遠く離れてしまってたね」
 お婆さんは、通りに降る雨を見つめながら、子供の頃の自分達を見ているようすだった。そして、
「あの日もこんな雨の日だったねぇ・・・」
ポツリポツリと語りだした。

 ───
 あれは確か私が十歳の時のことだったよ。今思うと戦争で日本が厳しい状況だったんだねぇ。
 私の家ではクマという黒猫を飼っていたんだ。猫にクマって名前付けるのはおかしいと思うかもしれないけど、向かいに住んでた前田さん家の虎猫はトラって名前だったし、菅原さん家の茶色い猫はシカだったから、その時は当たり前の名前だったんだと思うよ。
 そのクマを飼っているってことで、
「お国が大変な時に動物を飼うのは贅沢だ」
「猫鍋にして食ってしまうべ」
などと周りから非難されてね。食べる物がロクにない時代で、みんながひもじい思いをしていたからね。
 私らだって裕福だったわけじゃない。自分達の食べる物少なくしてクマに食べさせてたんだ。そうやって、家族のみんなが可愛がっていたんだけど、いよいよ手放すより他なくなってしまったんだ。
 大本営はラヂオで日本軍の活躍を華々しく伝えて国民を鼓舞していたけど、私らの生活は苦しくなるばかりでね。
 私らの身近では、まずお寺のお堂の鐘が取り外された。鉄は飛行機や軍艦にも使うし兵隊さんのヘルメットや鉄砲の弾になるからと持って行かれてしまった。『神国日本』と言っておきながら、神社やお寺からも金目の物をどんどん持って行ってねぇ。これじゃぁ、神様も仏様もお怒りになって、見放されてしまっても仕方ないよねぇ。家でも生活に必要な鍋以外の金属は軍に献上しなければならなかった。
 食べる物だってそうだ。『お国のために頑張っている兵隊さんにしっかり肉を食って戦争に勝ってもらうため』って言っては生きている動物達を捕まえては献上していたから、山にも動物達がいなくなってしまっていたし、周りの家からも犬やら猫やらがだんだんいなくなってきてしまった。そうしないと人間が生きていけなかったんだ。しなびた野菜や腐りかけた物やカビの生えた物も洗って食べた。腹空かして死ぬより、腹壊したって、ちょっとでも腹に入れて飢えを満たして死んだ方が良いってみんな本気で思っていたんだよ。それくらいひもじかったのさ。そういう時代だった。
 そうしているうちに、周りにいる動物はクマだけになってしまった。家族みんながいよいよクマを献上しなければならないということは分かっていた。
 でもね、私はクマが鍋にされるのだけは絶対に嫌だった。考えるのも嫌だった。それでザーザーと雨が降っていたけれど、その日の夜中にクマを両手で抱いて家を出て行ったんだ。家を出てすぐに身体中ビショビショになったけど、濡れるのは全然平気だった。それよりもクマの命がなくなってしまうことの方が私には耐えられなかったからね。
 父さんも母さんも私がクマを連れて逃げたのを知っていたと思うけど、黙っていてくれた。みんな同ンなじ気持ちだったんだよ。たぶんね。
 私は神社まで一目散に走って行った。そして山に向かって
「ホ・ホーッ」
って動物達を呼んだんだ。最初のうちはなかなか誰も出て来てくれなかった。雨の降る音以外に音は何にも聞こえてこなかった。
 無理もないよねぇ。その時の私ら人間は、『生きるため』だとか『兵隊さんのため』だとか『お国のため』だとか言って、山にズカズカと入って行っては、動物達を片っ端から獲ったり、山菜や木の実を根こそぎ採ってたんだから。それでも私は泣きながら何度も何度も必死で
「ホ・ホーッ」
って呼んだ。ずぶ濡れになりながらね。
 どのくらい時間が経ったか、何回呼んだかわからなかったけど、しばらくして女の子に変身したキツネが山から出て来てくれた。私と一番仲の良かった七葉(たなは)ちゃんって言う名前のキツネだ。七葉ちゃんは、私に人間のその頃の山での悪事の様子を話してくれた。まだ幼い動物や妊娠している動物まで殺して連れて行ったんだと。人間も家族がボロボロだったけど、動物達も次々に狩られて、人間以上に傷ついていてボロボロになっていたんだ。
 七葉ちゃんの話を聞いて私は国を呪ったし、戦争を呪った。
 人間達だけでなく、この国に生きている者達みんなに我慢をさせて、不幸にさせてしまって、それで勝ったところで何の得になるんだろうってね。一体誰のための、何のための戦争なんだろうってね。そう思うと心の中に怒りがだんだん大きくなってきたんだ。
 遺骨や遺品があればまだ良い。ほとんどの家には戦死を知らせる手紙が届くだけで、何にも残りゃしない。報告が届いた家の周りではすすり泣きの嗚咽が一晩中聞こえたもんさ。そして次の日になったら
「父は、夫は、息子は、お国のために立派な最後を遂げられて、家族としてこんなに嬉しいことはない。誇りに思う。バンザイ!」
と言いながら笑顔で生きていかなければいけなかった。ホント声をあげて泣くことも許されなかった時代だったんだよ。
 文句のひとつも言おうもんなら、周りの人達から『非国民だ』とか『みんなが大変な時に何だ』とか言われて村八分にされたり、通報されて憲兵さんに連れて行かれたりして大変になるから、みんな黙って我慢していた。心の中では大泣きしながらね。
「こんな状態で戦争に勝ったとして、それで神様は平気なの?幸せなの?満足なの?」
って、何回も何回も神様を呪った。別に神様のせいではないんだけれど、悲しみや怒りを誰かにぶつけたかったんだね。その頃の天皇陛下は『現人神』って言ってね、この世にお姿を現した神様だった。でも、天皇陛下には何にも言えんかったから、自分達の身近にあった神社に気持ちをぶつけやすかったんだろうね。
 私はクマのことを話して七葉ちゃんに託そうとした。七葉ちゃんは私の話、ほとんどが戦争への恨み言だったけどね、七葉ちゃんも人間に対して色々言いたいことはあったんだと思うけど、私が話し終わるまで黙って聞いていてくれた。そして、
「私も家族の面倒を見なきゃならない立場だ。クマを預かっても飢えたら食ってしまうかもしれんよ」
って言う。けど、そうするより仕方なかった。私は
「兵隊さんや人間の大人達に食べられるよりも、七葉ちゃん達に食べられる方がクマは幸せだと思う」
って答えたけど、どこかで七葉ちゃんはそんなことしないで面倒みてくれるって思ってたんだから、考えると卑怯だよねぇ。七葉ちゃんはそんなこと百も承知だったと思う。それでも七葉ちゃんはジィーッと私の目を見て
「わかった」
ってクマを抱いて山に戻って行った。
 次の日、大人達が家に来た時にクマがいなくなっていたもんだから、みんな怒ってね。
「猫をどこへやった!」
って、父さんを外に連れ出してみんなで袋叩きにしたんだ。みんな腹へってひもじくってイライラしてたんだよ。普段は優しかったおじさんも凄い顔して怒っていたからね。
 窓の陰から外を窺っていた私は、その時事の重大さに初めて気付いた。私はクマがいなくなれば、それでこの話は終わると思っていたけど、クマの命だけでなくて、私ら家族の命も危なかったんだってね。
 クマを七葉ちゃんに預けたことは、その時も全然後悔してはいなかったし、それが正しい選択だったって思っていたけれど、父さんが袋叩きにされるのは考えていなかった。そして、父さんの後は・・・って考えると怖くて怖くて窓の下で泣きながら震えていた。
 父さんはみんなに殴られたり蹴られたりされながらも
「知らん。朝起きてみたらどこかへいなくなっていた」
って言っていたけど、誰にも信じてもらえなくってね。
「嘘つくな!どこへやった!」
「自分達だけでこっそり食っちまったんじゃないんか!みんなが大変な時に何だ!」
って、何度も何度もみんなが父さんを殴った。
 それでも父さんはジッと耐えていて、黙って殴られているんだ。
 私は耐えられなくなって、私がクマを逃がしたことを話そうと思って外へ出て行こうとしたけど、祖母さんと母さんに止められて家の中で父さんが殴られている音を声を殺して泣きながら聞いてることしかできなかった。私の心も痛かったけど、父さんはもっと痛かっただろうし、悔しかっただろうね。外の音が止んで一時間くらいたってから、父さんは顔をボンボンに腫らして口から血ィ流していてね。一人で歩けないくらいボロボロに疲れていて、母さんに支えられながら家の中に入ってきた。そして私に
「クマのことはもう済んだから大丈夫だ」
って泣いている私らを抱き寄せて頭を撫でてくれた。
 そんなことがあってから、まもなく父さんに召集令状が届いて、戦地に出発することになった。私には兄さんが二人いたけど、どちらも戦争に召集されていてね。父さんも出兵することになって、いよいよ男手は一歳の弟だけになってしまった。それでも文句言うことは許されなくって、近所の同じ境遇の人達と女手だけで畑仕事やら灯火管制のもとでの防空訓練やらを頑張っていたんだよ。
 それから一年くらいして戦争が終わった。みんなラヂオの前に座って玉音放送を聞いて泣いていたけど、私はホッとした気持ちの方が正直大きかった。
 七葉ちゃんに会ってから、山の動物達のことが心配で心配でたまらなかったからね。これで動物達も安心して暮らせるって思ってね。
 でも、それからもしばらくはひもじさが続いてね。父さんと兄さん達は、結局戦地から生きて帰って来られなかったし、祖母さんと母さんと一歳の弟背負って一日中畑仕事しなきゃならなくって、遊ぶヒマなんて誰もなかった。
 生活がようやく落ち着いてきたのはそれから三年くらい経ってからだったかねぇ。
 その年のお祭りで神社に行った時、御神木の側に七葉ちゃんがいてね。おいでおいでって手招きしてるから行ってみると、少し大きくなったクマを抱いている。
「もう食べられる心配なくなったべ」
と言って私に抱かせてくれた。そして、
「私らは二つ向こうの深い山の奥に移ることになった。あそこなら猟師も来ないし、木の実や山菜もいっぱいあるから安心して暮らせる。けど、クマにとっては厳しい場所になるだろうから一緒に行けない。クマに話すと琴美ちゃん、私のことだよ。琴美ちゃん家に帰りたいって言う。だから、お前が連れて行け。そしてクマの残りの命を幸せに過ごさせてやれ」
って言うんだ。
 私はまた涙が溢れてきてね、何度も何度も七葉ちゃんにお礼を言った。七葉ちゃんはニッコリ笑うと
「クマ、食わんかったぞ」
って山に戻って行った。それっきり七葉ちゃんには会っていないし、他の動物の変身した姿も見なくなっちまった。私もそうだけど、誰も山に向かって
「ホ・ホーッ」
って呼ばなくなったしね。
 それから五年くらいクマは生きたかねぇ。クマは死ぬまで週に四日は山に入って行って、山鳥や山菜や木の実を咥えて来たんだ。七葉ちゃん、ちゃんと躾けしてくれたんだね。家族にとっても、それ、スッゴク助かったんだよぉ。ホントに。
 ある時なんか、私を案内するように何度も何度も振り返って、私がついて来ているのを確認しながら山に向かって行った。そしたら、両手に抱えきれないくらいの栗やら松茸やらが入り口の木の根元に置いてあった。自分だけでは持って帰れないから、私を案内してくれたんだね。そんなことが一月に二~三回はあったよ。
 本当に利口な猫だったねぇ。自分の家だけでは食べきれないからって、周りにおすそ分けしたのがこの店の始まりさ。だから、この店はクマの形見でもあるのさ。
 クマが死んだ時は家族みんなが泣いた。最後の一ヵ月は眠っていることが多くなって、足取りもヨロヨロしていて辛そうだった。それでも山に行きたがる時があってね。そんな時は私が抱っこして神社の山に連れて行ったんだ。そしたらヨロヨロって山の奥に入って、三十分くらいしたら私のところに戻って来てね、ジッと見つめるんだ。私が傍に行くと、そこに手提げ袋がいっぱいになるくらいの山菜や木の実が置いてあるんだ。私はクマに
「ありがとう」
って泣きながら手提げ袋に詰めていた。でも、
「もう無理に木の実を集めなくてもいいよ」
とは言えなかった。言ってもクマは止めなかっただろうし、クマも山へ行く理由があった方が少しでも長く生きてくれるんじゃないかって思っていたしね。
 みんなクマの死期が近いことをわかっていた。だから
「一人で寂しく逝くんじゃないよ。お前は私達の家族なんだから、逝く時はみんなに囲まれて逝かなきゃダメだよ」
って全員がクマに声かけていたんだ。それにもちゃんとクマは応えてくれてね、秋のお彼岸のお中日の夕方、店を閉めて夕食を食べにみんなが茶の間に集まっていた時に、家族に見守られながら私の腕の中で眠るように息を引き取ったんだ。今でもその時のクマのぬくもりは忘れずにしっかりと残ってるよ。私の心と身体にね。
 その時分は世の中が景気良くなってきていて、私らの店も軌道にのってきて、それで大きくしようかって話が出ていた時だった。生活も前よりはずいぶんと楽になっていてね。まるで私らの生活に不安がなくなるのを見届けてから逝ったような感じだったねぇ。
 だから、クマの亡骸はクマがよく木の実を採りに行っていた神社の裏山に埋めたんだ。そして七葉ちゃんが来たらわかるように、ちゃんと『クマの墓』って板に書いて建てたよ。
 私も足腰弱くなってしまってね、もう随分と行ってないから、雨風に晒されたままだし、手入れもしていないから、もう板は腐ってしまってどこにあったかわからなくなってるんだろうけどね。私のムネん中にちゃんとクマがいるし、お墓もあの時のまんま建っているからさ。いつも心の中で手ぇ合わしてるんだよぉ。クマも山での七葉ちゃん達との生活を忘れられなかったんだろうね。きっと幸せだったんだと思うよ。
 ───

 私は流れる涙を拭いもせずに聞いていたことに気付いて慌ててハンカチで拭いた。お婆さんの目からも涙が溢れていた。お婆さんは涙を首にかけているタオルで拭いながら話しを続けた。
「戦争はダメだね。世の中だけでなくて、私ら人間や動物達の生活だけでなく、心まで平気で荒らして、傷つけてしまうんだからね。身体の傷は時間が経てば治ることもあるけどさ、心の傷は一生塞がることはない。みんな色んな気持ちで傷に蓋をして治ったことにしているけど、どっかで死んでいった人達に対して『生きていて申し訳ない』って思って生活しているんだ。戦争に行かなかった女の私らでさえそう思っているんだから、戦地から生きて帰ってきた兵隊さんらはなおさらその気持ちが強かったと思うよ。本当に戦争はいけないね」
 お婆さんはおそらく戦争で亡くなった父や兄達のことを思い出しているのだろう。うつむき加減の横顔に寂しさの雫が頬を伝っている。
「日本が戦争に負けて進駐軍が入ってきた時、アメリカの兵隊さんが私らと同ンなじ人間だったことに、私、ビックリしてね。それまで『鬼畜米英』って言われていたから、鬼やバケモノみたいに残酷で恐ろしい顔をしているんだって思っていたんだ。防空訓練で大人の人が描いたアメリカ兵は角があって赤くて恐ろしい顔をしていたから、それがアメリカ兵なんだって本気で思っていたからね。でも、私らと同ンなじ人間だったってわかった時にね、髪や肌の色や言葉が違っても同ンなじ人間同士なのに、何で殺し合わなければならなかったんだろうって、本当に胸が締め付けられて悲しくなったよ。この人達の誰かが私の父さんや兄さん達の命を奪ったんだと思うと、なおさらにね。私らもそうだったかもしれないけど、きっと戦争が敵味方関係なく人間を鬼やバケモノにしてしまうんだろうね。恨みや怒りは人を変えるし、心の目を曇らせてしまう。戦争ってそういうものなんだと思う。私らは死んでいった人の分まで精一杯前を向いて生きていかなければならないんだ。だから生きている私らがいつまでも戦争を引きずっていたら、戦争の犠牲となって死んでいった人達に申し訳ないと思う。恨みや怒りを忘れろって言っているんじゃないよ。忘れようったってそう簡単に忘れられるモノじゃないし、忘れるなんて無理に決まってるんだから。それよりも同じ過ちを繰り返さないために、大切なモノに目を向けていかなければならないんだ。恨みや怒りを力いっぱい握り締めていたら、いつまでたっても戦争は終わらないからね。でも、戦争はダメだってみんな知っているのに、何で今も争いが無くならないんだろうね」
溜め息をつくお婆さんの皺が一層深くなり、悲しさが伝わってくる。
「今でもテレビなんか観てて時々思うんだけどね、あの戦争で日本は負けてしまったけど、私ら日本人は悪だったから負けたんだろうかってね。アメリカや連合軍は正義だから勝ったんだろうかってね。私は違うと思う。勝ったから正義、負けたから悪なんかではない。正義とか悪とか、正しい歴史観とか間違った歴史認識だとか言われてるけど、それは勝った者の後付けの言い訳だってね。私ら日本には私らなりの言い分があったし、それが正しいと信じて戦っていたんだ。中国や朝鮮を統治してその国の人達を苦しめた日本が正義であるわけがないし、原爆を落としてたくさんの日本人の命を奪ったアメリカが正義であるわけがない。戦争だからって人を殺して良いということにはならないんだ。敵だって私らと同じ人間なんだからね。人殺しはどう言い訳したって人殺しだ。人間が死んで喜ぶ正義なんて良いわけないじゃないか。ねぇ。生きて戦地から戻った隣のおじさんは、戦闘中だったから仕方がなかったとはいえ敵兵を殺したことを死ぬまで悔やんでいたし、戦争の亡霊に苦しんでいたよ。だからね、戦争には初めから正義なんかないんだよ。勝っても負けても家族には悲しみしか残らない戦争なんてもうたくさんだよ。まして動物達にとってはイイ迷惑でしかないんだから。学のない私らにだってそんなことわかるのに、頭の良い人達には何でそれがわからないんだろうね」
お婆さんは缶ジュースを一口含んで喉を潤し、大きなため息をついた。そして、私の方を見てニッコリ笑うと、
「けどね、今は嬉しいよ。またこうして動物達とお喋りしたりできるからね。町長さん、イイ事したね。反対する者も最初のうちはいたけど、菊理媛神様の優しさなんだろうね。この町に住む私達をお見捨てになさらずに救ってくださったよ。ありがたい、ありがたい」
と、神社の方に向かって手を合わせた。
 お婆さんとの時間は、ゆっくりと流れていた気がするが、時計を見るとあっという間に二時間が過ぎようとしていた。通りの雨も小降りになってきている。おそらくもうじき止むだろう。
 私は、お婆さんにお礼を言って、スーパーを後にした。
椅子に座りっぱなしだったので、少し痛みのあるお尻周辺を屈伸してほぐしながら、ゆるい上り坂になっている通りを上った。
 歩くって以外と気持ち良い。神社に向かう私を、雨上がりの空気が山の木々の匂いに溶けて心地良く包んでくれた。
「虹だ・・・」
上り坂を見上げると、午前の陽を受けて神社の裏山から天に向かって緩やかにスロープを描きながら虹が架かっていた。
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