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そもそも三千年、白髪三千丈
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「まあ、俺には関係ない話なんですがね」
ナイフとフォークを構えながら、ピートは冷たく言った。
彼は王室の雇い人ではあるのだが、人類の常識など超越した存在なのだから。
老マティアスは片眉をあげたが、それについては何も言わなかった。
「ただね……収穫祭の儀礼について、相談が回ってきているんですよ。俺も、収穫祭には、儀礼官の監督として参加することになりそうで」
「今からか?」
「恩寵(リードオブ)の姫(ミディアム)は三人一組でしょう。そのうち二人が交代になったので、その関係者である俺に、儀礼監督をするようにと……ちょっとめんどくさいですね」
「そんなことを言うもんじゃない。仕事をめんどくさいと思うと、本当にめんどくさくなるぞ」
老マティアスは流石にたしなめた。
ピートは素直に頭を下げた。
「俺も百年間王室の雇い人をしてますから、収穫祭の儀礼にはそこそこ通じています。しかし、こう急な話ですと、準備も大変で。昔から、こんなことはよくあったんですか?」
「そりゃあ、三千年の間、毎年のように収穫はあるんだから収穫祭もあった。そうなると、前例がないなんて事は一つもない。何の問題もないんだから、仕事は謙虚に取り組みなさい」
「そりゃ……そうですね」
ピートは軽く肩を竦めた。
「しかしまあ、確かに、フローレンス姫の霊素障害は深刻なレベルだ。大聖堂を破壊したという話は俺も、聞いた。ピエトロが心配する気持ちは分かる」
食事をしながら、二人は、収穫祭における珍しい儀礼やエピソードについて、いくつか話し合った。
「霊素障害と言えば、広い意味で、ドラモンド王室全体が、霊素障害だと考える事も出来る」
老マティアスは、サーモンステーキに舌鼓を打ちながらそう言った。
「何故?」
「霊素が標準よりも遥かに大きい、魔力も多い、それ故に人に馴染めない人間が、霊素障害と呼ばれる。王室は、”たまたま”、大当たりを出して選ばれたので、今の暮らしが出来るが、一度、王室という地位を失えば、恐らく障害を持つ人間の家系と言われるようになるだろう。本人達もそれは分かっているから、フローレンス姫の対策に苦悩しているように……感じられる」
「しかし、現時点では、障害と言うようには捉えられていません。王室は、権威と権力の源です」
「障害と言う言葉が当たらないならば、霊素異常、そういう表現になる。表現は変わっても、意味は同じだ」
「なるほど……」
ピートは深く頷いた。
恐らく、魔族に対抗しうる魔力と霊素を持っている家系は、クインドルガにおいてはドラモンド王室以外ありえない。それぐらいのパワーを持っているからこその王室である。しかし、それが、正負を逆転させたらどうなるか……。
ピートは軽く眉間に皺を寄せた。
魔族に行われているレッテルと迫害が、王室に向けられる事だってあるわけだ。
「ドラモンド王室の創世神話を知っているか?」
「勿論」
それは、神話と名付けられるように、遥か三千年の昔にさかのぼる出来事だ。
大聖堂のテキストにも描かれ、さらには童話や絵本となり、数ある小説の題材としても行かされている創世神話。
それは、概略だけ述べればこういう話になる。テキストには、もっと威厳の満ちた力あふれる言葉で、長々しく書かれているが。
原初(はじめ)に、海があった。
母なる女神マリーベルと、その息子光(ライエル)は、その始まりの混沌の海から、数ある生命と人類を作り出した。
そして、溢れる生物たちのために、クインドルガという大地を与える。
クインドルガは”強き女王”という意味であり、偉大なるマリーベルと光(ライエル)に祝福を与えられた土地であった。
クインドルガは創世の時代は豊な湿地帯であった。混沌の海から生まれた葦の原、世界の中心にあり、滾々と水の湧く大地。
そこに、ライエルは母神に命じられ、大勢の仲間を従えて、クインドルガの大地に降りた。最初に道が八ツ又に別れる道に、上空の楽園と、下方のクインドルガを光明で照らす不思議な精霊がいた。
そこで母神マリーベルは、ライエルのために、巫女であるレイナスを呼び、相手が何者か尋ねるように命じた。
それは、道別れの案内を申し出た、土地の精霊サウロスであった。
こののち、母神マリーベルは息子ライエルのために、五つの技能者集団の祖を与えた。
その上で、さらに、マリーベルの母神としての証である三つの宝、宝珠、宝剣、宝鏡を与えた。
そして、マリーベルの楽園における功臣の三博士も与えた。
母神は、宝鏡を自分の似姿と例え、三博士の助言をよく聞くようにとライエルに言い含めた。
ライエルと三博士は、大聖堂の東の塔に祀られ、技能者集団は西の塔に祀られる事となった。
それとは別に、マリーベルの神殿や聖堂は、クインドルガのあらゆる土地に建てられ、その似姿として宝鏡が祀られることとなった。
ここにてライエルは水と風と土の豊饒に満ちたクインドルガへと、天空の雲を清き風とともに押し分けて降臨した。
その時、虹の橋がかかり、皆が聖なる所作を取った。
そうして、クインドルガの霊峰、アダルブレヒトへと降りたったのである。
その際に、日光と月光が、ライエルのために聖なる狩人の衣装を纏い、精霊サウロスとともに先導を行った。
いずれも軍事の六衛府の祖先となる英雄達である。
地上、クインドルガに到着したライエルとその仲間達は、母から与えられたかしこき言葉で
「原初の海辺に近く、いずれ朝の輝きと夕の照らす光に満ちる、まことに最上の大地である」
そう言祝ぎて、地上の根まで宮柱を打ち立て、天の楽園まで見渡せるような、壮麗な宮殿を作った。
「ライエルは、その後、降臨した英雄の中でも特別魔力に優れたドラモンドの祖、ジェイムズを選んで王者とした。ドラモンド王家のジェイムズ一世は、この祝福された”強き(クイン)女王(ドルガ)”を襲撃した闇の魔物達を光の力で討ち払い、領土を拡張して母神マリーベルの威信を示そうとした……と、言われてますね」
ピートは物語の先をそう告げた。
「そしてライエルは”天の花嫁”を、クインドルガで選ぼうとした。……と言われるが、神学では光(ライエル)の妻は決定していない。クインドルガ中に、”天の花嫁”を選ぶ儀礼(イベント)は残っているにも関わらず」
ナイフをペーパーの上に置きながら、老マティアスは言葉をついだ。
「知っての通り、クインドルガにおける主食は麦と芋だ。特に、麦は酒(ビール)にもなるため、重要な食物だ。その麦の収穫の時期、六月に、六月の花嫁、花婿のための儀礼が行われる……これは非常にシンボリックな話でもある」
「はい」
ピートは自分も軽くナプキンで口元を拭いながら答えた。
「俺も知ってます。六月の花嫁、花婿は、または六月の女王、王と呼ばれ、その年ごとに、町や村など、それぞれの自治体から選ばれる。天の花嫁になる少女は大体十二歳ぐらいで当然処女だ。そして真っ白な花嫁衣装をまとって、頭には花冠をかぶり、光(ライエル)同じく花嫁衣装に着飾った、七歳ぐらいの女の子を連れて、村中の家に収穫祭の訪れを告げる。この七歳ぐらいの女の子は、光(ライエル)の化身で眷属とされる日光と月光を思わせるシンボルを身につける。そしてこの女の子達は春を告げる聖歌を歌って村の家を一つ一つ訪問する。これが、クインドルガの基本的な”六月の花嫁”ですね」
ピートの説明は的を射ていたため、老マティアスは満足そうだった。
アメリアの内部に潜む、山口彩芽だったら聞いた事があるかもしれない。元々クインドルガは”憧れのクインドルガ”というゲーム世界だったはずなのだから、現代日本人が想定する近代ヨーロッパの影響を色濃く受けている世界観を持っている。数々の神話や民話も、現代日本の乙女ゲームによくあるようなごった煮状態だ。
しかし、”ここはゲーム世界ですよ”というお約束を、登場人物が知っているとは限らない。
本来ならば、ヨーロッパの五月柱(マイバウム)や、五月一日(マイターク)と呼ばれる行事が、このクインドルガというゲーム世界では、”天の花嫁”や”六月女王”といっった行事に変更されている。
作品中で花嫁衣装と表現されているのは、三月の花(メルツェン)と呼ばれる事もある。
五月はヨーロッパにおいては祝福の月であり、聖母(マリア)の月と称される事もある。五月は五月祭、生命の祭であるのだ。
といっても、山口彩芽(アメリア)だって、専門は悪役令嬢小説であるわけで、民俗学的な詳細を全て把握しているわけではなかった。ただ、ゲーム世界を楽しむ要素として色々な聞きかじりは知っている。
そして、作中の登場人物であるピートと老マティアスはそんな内情は知らず、ただ、魔族の酒場でのんびりと酒を飲んでいた。
そして老マティアスは荘厳な聖歌の一節を歌った。それは雅やかな古語であり、現代人には発音が難しいかもしれなかった。
「聖歌で祝福された家は、特別なパンや乳製品、卵、果物、お菓子などを花嫁に贈る。それを受け取った天の花嫁達は、両手の鈴を打ち鳴らし、感謝のダンスを踊る。これもまたその家を繁栄させるための祝福だ。……それこそ、神代の”前”からある行事さ」
老マティアスは遠い記憶を振り返っている様子である。
”天の花嫁”は三人一組だが、その後ろには、コーラス隊やブラスバンド、白い花を巻く娘たち、着飾った男女の若者達などが、行列を作って続いて歩くのだ。それは、長年の間変わらない光景であった。
「何か秘密がありそうですね」
面白そうな知識の匂いを嗅ぎ取って、ピートがそそのかすような声を立てた。
はははと笑うと老マティアスは、ビールをうまそうに味わって飲む。
「ピエトロも大体気付いているとは思うが、闇の魔物とは、クインドルガの先住者の事だ。すなわち、我々魔族の事でしかない」
「……やはり」
ピートは意外な感じは受けなかった。
王室学院で研究に携わるようになってから、様々な資料に触れ、自分なりに考えをまとめていたのだ。
「新しい訪問者である人類は、肉体は弱いが非常に頭がいい。その上、繁殖力は我々魔族の十倍はあるだろう。そして、一致団結で協力すると、考えられないようなエネルギーを発揮する。だから、そのエネルギーの方向性をコントロールするために、神の教え、そして王家や聖堂といったシステムが必要だったんだろうな」
人類とは異種族である老賢者はそのように考察し、唯我独尊個人主義のピートはそれに対して頷いた。
「もちろん、愛とかルールとかを保つ事は、我々魔族にとっても大事な事だ。人類の言う神の教えを遵守することは、むしろ歓迎する。だが、それ、違う種族の文化を、こちらに押しつけられても困ってしまうんだ。我々には我々の文化や教訓があるわけで」
「そのとおりですね」
ピートはまた肩を竦めてから、頷いた。
「爆発的に増え続ける人類に対して、棲み分けすることによる共存共栄、ルールの並立を作るために、随分と長い年月がかかったんだ。本当に苦労したし、苦労から万田事はなかなか貴重な経験だ。我々魔族にも、神というか、道徳規範はしっかりあるんだ。それにしても近頃の若いもんは……」
老マティアスは軽く、それこそ神代の時代から伝わる「近頃の若いもんは」のグチを吐いた。
それについてはピートは大人しく聞き手に回った。
それから、あれこれと取り混ぜて話した。
「天の花嫁に対して少年達のグループが練り歩く事もある。特に昔は珍しくはなかった。中心になる年長の少年だけが、真っ黒な服を着て、顔を墨で真っ黒に塗る。さらに、頭には真っ黒な山高帽。体中に縄をぐるぐる巻き付けて、腰には重いチェーンを巻いて長く引きずって、手にはオークの木の棒を握る。これは、夏の象徴である天の花嫁に対して、【冬】を示しているんだ」
「ふむ。すると、冬の少年達は、どんな聖歌を唱えるんですか?」
「鋭いな。……確かに。この少年達は、別の箇所からスタートして家々を訪問し、夏を祝福する聖句を唱えて回るんだ」
「夏と、冬……」
ピートは何事か考え込んでいるようだった。
「そして、儀礼の締めくくりに、夏の花嫁と、冬の少年は、示し合わせた場所で、決着をつけることになる。その場所は、大抵、小高い丘の広場だ。真っ黒な冬の少年は、オークを真っ直ぐに立てて、広場の中心に立つ。これを、夏の花嫁……”天の花嫁”に奪われないようにするんだよ。”天の花嫁”の少女は、身形などにはなりふり構わず、冬の少年の隙をついてオークを狙う。手に汗握る攻防が続く。この勝負で、オークの若葉の生えた枝を三本折り取ると、”天の花嫁”の勝ちなんだな」
そこまで話して老マティアスはビールで喉を潤し、またうまそうにキノコのサラダを頬張った。
ピートは年長者の前で行儀良くサーモンステーキを綺麗に切り取って食べ、今までの話を脳の中でよく考えて整理している。
ピートもいくらか知っている事がある。老マティアスの話では、オークの若枝が取り上げられているが、初夏のこの祭における若枝は、樫(オーク)とは限らず、白樺や樅が窓に金糸銀糸や紅白のリボンで飾られている事も多いのだ。
これは、祝福の月を迎えるための大事な準備で、若枝はマイエンと呼ばれる。
若者が好意を寄せる娘に贈るもので、特別に良い意味合いがこめられて、リボンが結ばれる事が多い。
(で、その、若枝を、娘が折り取ってしまうということは、魔道心理学的にイメージすると、その好意を受け入れますよ、ということに……強引過ぎだろうか……このイベントの象徴する意味は、そんな単純な事なんだろうか……?)
「これは、初夏における一大イベント。村中の老若男女の声援を受けながら、【夏】と【冬】争いが続くが、せいぜい15分から20分といったところだ。最後には三本目の枝が折られて、少女達が歓声をあげ、終了。冬と夏の争いは終わり、夏が無事に勝利して、季節が変わる」
「……つまり、マティアス様は、【夏】が人間で、【冬】は我々魔族だと仰りたいのですか?」
ピートが真面目な顔でそう尋ねると、老マティアスはおかしそうに笑い出した。
「おいおい、待ちなさい、ピエトロ。人間には女性しかいない訳ではないし、魔族には男性しかいない訳ではない。これは、季節は巡る、時は流れる、そういう儀礼でしかないんだ。そういう考えで言うのなら、人間には人間の、魔族には魔族の役割があり、協力の仕方があると、そういう教えとも受け取れるな」
「……はい」
「東洋の国にも似たような儀礼がある。山には山の神、里には里の神がいるとされているが、これがまた面白い事に、季節ごとの儀礼をこなしていくと、ちょうど一年交替で、山の神は里の神になり、里の神は山の神になる。ローテーションを組んでいるんだ。考えようによっては、自然と人類が平和に繁栄させていくという仕事を、シフトを組んで行っているとも言えるんだ」
「なるほど」
ピートは納得して微笑んだ。
老マティアスもそれを見て微笑んだ。
「後は、この、”天の花嫁”とは何者なのか……ということになるが、当然ながら、天の楽園に住まう女王、マリーベルだと答えるのが無難である。そのため、”天の女王、収穫の六月の女王”マリーベルを言祝ぐ聖句や聖歌は、ちまたにあふれかえっている。それは、人間達にとっては宝のような文化だ。大切にするのは当然だ」
老マティアスがそう話すと、ピートも全く異論はなかった。
「そうですね。魔族である私ですら、六月の女王マリーベルの歌はいくつか知っています。天上の楽園で最も美しき、幸福の女性、マリーベル……そのビジュアルもイメージも、私にとってもどこか懐かしさを覚える優美さですね」
老マティアスは誰でも知っているような聖歌をまた一節歌うと、ゆっくりと良い声で話し始めた。
「その母神マリーベルのイメージは、我々魔族の規範となる女性、フレイアによく似ているよ」
「言われてみれば」
魔族には魔族の神話がある。神話というよりも、行動規範の指針となるお伽話や童話である。その中で最も良く登場する美女が、フレイアであった。
「フレイアの夫は天の王と言われるヴォーダンだ。我々魔族も、かつては、収穫の実りの季節には、フレイアとヴォーダンの聖婚を、演劇で真似をして、さらにダンスや宴会などで祝ったものだ。最近のクエンティンでは廃れたようだが、田舎では今でも魔族達の間に伝わっているようだな……」
「本当ですか。私も、一度ぐらいは見て見たいな」
老マティアスは懐かしそうに目を細めた。
ウォーダンが嵐を呼ぶ雄の風、フレイアがゆるやかな雌の風。速すぎる突風が、優しい弱い風を連れて行くために後戻りすると、旋風が起こるのだと、そんな迷信が古い魔族の間では信じられていた。
魔族の間では、森羅万象は男性的要素と女性的要素で起こるとされているのだ。
彼らの言語には明確に男性名詞と女性名詞が分かれており、男神と女神は常にペアになっている。
故に、彼らにとっても主食である、麦の受粉も、男女両性によって行われるとされていた。
祝福の月における、天の王ヴォーダンと、美女フレイアの結婚によって、世界には花が咲き、実りが結ばれ、季節が巡り時が流れていくのである。
「マリーベルとフレイアの共通点はさらにあるんだ。それは”普遍的な母性”ということあだ。誰もが懐かしく思い出すような、優美な母親のイメージ……それが天上に祀られ神格化されると、どうしても似通ってくるのだろう。マリーベルもフレイアも、天上の薔薇、六月の女王と、全く美しい言葉で飾られている。人類にとってマリーベルは”神の花嫁”、”天上の薔薇”。だが、我々にとって母神的な性格を持つフレイアもまた、”森の薔薇”、”森の花嫁”といった呼称を持っている」
ピートはじっと耳を澄まして話に聞き入っている。老マティアスは良い声で流れるように語り続けた。
「我々魔族の故郷である、真っ暗な森の長い長い冬、その眠りから目覚めた花嫁が、隣で眠っている花婿をそっと揺り起こす。すると、花婿は、死から甦り、救われる……そんな普遍的なイメージが、魔族のどの部族にもあるんだよ」
そこでピートが口を開いた。
「魔道心理学で言うところの、人の心の奥に住む完璧なアニマ、そのイメージが、人類にとっては母神マリーベル、我々にとってはフレイア、そして両者にはどうしても同じ共通点が見られてしまうということですね」
「まとめると、そうなるな」
ピートの理解の早さに老マティアスは満足しているようだった。
彩芽(アメリア)は多少知っている事がある。ヨーロッパにおいては、ルネサンス以前は、聖母マリアもかなり大地母的な性格が強く、農民を中心に信仰されていたということ。その母アンナも大地母的と言え、そのアポクリファの聖家族像には緑のマントとが描かれる事がある。緑のマントは、大地の豊饒の象徴だ。
大地の恩寵に対して母なる存在のイメージを重ねるのは、古今東西、そんなに変わらないということであろうか。
「王室の話に戻ると、王室の女性、今ならば王妃アイラが、アニマであるマリーベルとイメージを重ね、人々の心を導く役割を果たしている。いずれは、フローレンス姫が、その役割を代行することになるだろう。これも考えてみると、面白い。フローレンス姫はお姫様、即ち”ロマンチックなアニマ”だな。そして、夫の妹という複雑な立場の彼女を庇護して導く王妃アイラは”霊のアニマ”、そして悲劇に見舞われながらも王室の事を考えて受け入れ、相談役になっている王太后ジェシカは”叡智のアニマ”ということになる。時が進めば、アイラはジェシカになって叡智を受け継ぎ、フローレンス姫は王妃アイラの大役をこなして霊のアニマとなる。これもまた、一つの真実なのかもしれない」
老マティアスの解釈に対して、ピートはもう一度考えて見た。
母なる神のイメージと、叡智のアニマ。
どこかで重なってくるような気がする。
同時に、クインドルガの王室は、人々が古来より希求する、そうした母なる(父なる)イメージを、生涯において名優のごとく演じ続けなければならないのだ。
決して安穏として出来る仕事ではない。
「その通りだと思います……。そうなると余計に、霊のアニマの役割を果たして、このクインドルガを導く女性が、フロリーストームという障害、じゃない、霊素異常か。それを持っているということは、いずれ大変な混乱の種になるでしょう……そして、今となっては人類と共存共栄する道を選んだ我々魔族にとっても、それは、言ってはなんだが面白くはない話です」
「その通り」
皺深い顔にちょっとした悩みを浮かべて老マティアスは頷いた。
「霊素研究がもう少し進めば……」
ピートは舌打ちしたい気持ちを抑えながら、サーモンステーキを切り分ける作業に入った。
鉄板は熱々に温められていたため、ステーキはまだ温かかった。絶妙の塩加減で焼かれたサーモンは口の中で旨い肉汁をジュワっと迸らせる。マスタードをつけて食べると味に深みが出て、舌の上から幸福感が広がる。そのせいか、難しい話をしていても、ちっとも気分は落ちこまなかった。
知らないうちに運ばれてきた温かいスープの方は、恐らく厨房の残り野菜だろう、様々な代表的な野菜が実に小さく刻み込まれ、それを出汁のきいたスープで煮込んで、卵を落とし込んでいた。
こちらは実に懐かしい優しい味わいで、ふっと、老マティアスでさえ瞼の母を思い出したぐらいだった。
「霊素研究という課題については、私もいくらか知っているが、王室の機密情報に触れるような事はしたくないんだな」
老マティアスの方も、なかなか複雑な立場である。
二人は食事に舌鼓を打ちながら、角度を様々に変えながらこの問題をつつき回した。
そのうち、ピートが口を割った。
「そういえば、例のトラブルメーカーの、グランドン姉妹が、フローレンス姫について、色々やらかし始めているんですよ」
「ほう。あのじゃじゃ馬二人が。どれ、話してごらんなさい」
老マティアスは即座に興味を持った。ピートに若い頃から色々話を聞かされていたため、他人のような気がしなかったのである。
※本文中の資料として、古事記の天孫降臨と、ゲルマン民族の”天の花嫁”の行事を借りました。
参考文献:ヨーロッパの神と祭(植田重雄)
ヨーロッパの祭と伝承(植田重雄)
ナイフとフォークを構えながら、ピートは冷たく言った。
彼は王室の雇い人ではあるのだが、人類の常識など超越した存在なのだから。
老マティアスは片眉をあげたが、それについては何も言わなかった。
「ただね……収穫祭の儀礼について、相談が回ってきているんですよ。俺も、収穫祭には、儀礼官の監督として参加することになりそうで」
「今からか?」
「恩寵(リードオブ)の姫(ミディアム)は三人一組でしょう。そのうち二人が交代になったので、その関係者である俺に、儀礼監督をするようにと……ちょっとめんどくさいですね」
「そんなことを言うもんじゃない。仕事をめんどくさいと思うと、本当にめんどくさくなるぞ」
老マティアスは流石にたしなめた。
ピートは素直に頭を下げた。
「俺も百年間王室の雇い人をしてますから、収穫祭の儀礼にはそこそこ通じています。しかし、こう急な話ですと、準備も大変で。昔から、こんなことはよくあったんですか?」
「そりゃあ、三千年の間、毎年のように収穫はあるんだから収穫祭もあった。そうなると、前例がないなんて事は一つもない。何の問題もないんだから、仕事は謙虚に取り組みなさい」
「そりゃ……そうですね」
ピートは軽く肩を竦めた。
「しかしまあ、確かに、フローレンス姫の霊素障害は深刻なレベルだ。大聖堂を破壊したという話は俺も、聞いた。ピエトロが心配する気持ちは分かる」
食事をしながら、二人は、収穫祭における珍しい儀礼やエピソードについて、いくつか話し合った。
「霊素障害と言えば、広い意味で、ドラモンド王室全体が、霊素障害だと考える事も出来る」
老マティアスは、サーモンステーキに舌鼓を打ちながらそう言った。
「何故?」
「霊素が標準よりも遥かに大きい、魔力も多い、それ故に人に馴染めない人間が、霊素障害と呼ばれる。王室は、”たまたま”、大当たりを出して選ばれたので、今の暮らしが出来るが、一度、王室という地位を失えば、恐らく障害を持つ人間の家系と言われるようになるだろう。本人達もそれは分かっているから、フローレンス姫の対策に苦悩しているように……感じられる」
「しかし、現時点では、障害と言うようには捉えられていません。王室は、権威と権力の源です」
「障害と言う言葉が当たらないならば、霊素異常、そういう表現になる。表現は変わっても、意味は同じだ」
「なるほど……」
ピートは深く頷いた。
恐らく、魔族に対抗しうる魔力と霊素を持っている家系は、クインドルガにおいてはドラモンド王室以外ありえない。それぐらいのパワーを持っているからこその王室である。しかし、それが、正負を逆転させたらどうなるか……。
ピートは軽く眉間に皺を寄せた。
魔族に行われているレッテルと迫害が、王室に向けられる事だってあるわけだ。
「ドラモンド王室の創世神話を知っているか?」
「勿論」
それは、神話と名付けられるように、遥か三千年の昔にさかのぼる出来事だ。
大聖堂のテキストにも描かれ、さらには童話や絵本となり、数ある小説の題材としても行かされている創世神話。
それは、概略だけ述べればこういう話になる。テキストには、もっと威厳の満ちた力あふれる言葉で、長々しく書かれているが。
原初(はじめ)に、海があった。
母なる女神マリーベルと、その息子光(ライエル)は、その始まりの混沌の海から、数ある生命と人類を作り出した。
そして、溢れる生物たちのために、クインドルガという大地を与える。
クインドルガは”強き女王”という意味であり、偉大なるマリーベルと光(ライエル)に祝福を与えられた土地であった。
クインドルガは創世の時代は豊な湿地帯であった。混沌の海から生まれた葦の原、世界の中心にあり、滾々と水の湧く大地。
そこに、ライエルは母神に命じられ、大勢の仲間を従えて、クインドルガの大地に降りた。最初に道が八ツ又に別れる道に、上空の楽園と、下方のクインドルガを光明で照らす不思議な精霊がいた。
そこで母神マリーベルは、ライエルのために、巫女であるレイナスを呼び、相手が何者か尋ねるように命じた。
それは、道別れの案内を申し出た、土地の精霊サウロスであった。
こののち、母神マリーベルは息子ライエルのために、五つの技能者集団の祖を与えた。
その上で、さらに、マリーベルの母神としての証である三つの宝、宝珠、宝剣、宝鏡を与えた。
そして、マリーベルの楽園における功臣の三博士も与えた。
母神は、宝鏡を自分の似姿と例え、三博士の助言をよく聞くようにとライエルに言い含めた。
ライエルと三博士は、大聖堂の東の塔に祀られ、技能者集団は西の塔に祀られる事となった。
それとは別に、マリーベルの神殿や聖堂は、クインドルガのあらゆる土地に建てられ、その似姿として宝鏡が祀られることとなった。
ここにてライエルは水と風と土の豊饒に満ちたクインドルガへと、天空の雲を清き風とともに押し分けて降臨した。
その時、虹の橋がかかり、皆が聖なる所作を取った。
そうして、クインドルガの霊峰、アダルブレヒトへと降りたったのである。
その際に、日光と月光が、ライエルのために聖なる狩人の衣装を纏い、精霊サウロスとともに先導を行った。
いずれも軍事の六衛府の祖先となる英雄達である。
地上、クインドルガに到着したライエルとその仲間達は、母から与えられたかしこき言葉で
「原初の海辺に近く、いずれ朝の輝きと夕の照らす光に満ちる、まことに最上の大地である」
そう言祝ぎて、地上の根まで宮柱を打ち立て、天の楽園まで見渡せるような、壮麗な宮殿を作った。
「ライエルは、その後、降臨した英雄の中でも特別魔力に優れたドラモンドの祖、ジェイムズを選んで王者とした。ドラモンド王家のジェイムズ一世は、この祝福された”強き(クイン)女王(ドルガ)”を襲撃した闇の魔物達を光の力で討ち払い、領土を拡張して母神マリーベルの威信を示そうとした……と、言われてますね」
ピートは物語の先をそう告げた。
「そしてライエルは”天の花嫁”を、クインドルガで選ぼうとした。……と言われるが、神学では光(ライエル)の妻は決定していない。クインドルガ中に、”天の花嫁”を選ぶ儀礼(イベント)は残っているにも関わらず」
ナイフをペーパーの上に置きながら、老マティアスは言葉をついだ。
「知っての通り、クインドルガにおける主食は麦と芋だ。特に、麦は酒(ビール)にもなるため、重要な食物だ。その麦の収穫の時期、六月に、六月の花嫁、花婿のための儀礼が行われる……これは非常にシンボリックな話でもある」
「はい」
ピートは自分も軽くナプキンで口元を拭いながら答えた。
「俺も知ってます。六月の花嫁、花婿は、または六月の女王、王と呼ばれ、その年ごとに、町や村など、それぞれの自治体から選ばれる。天の花嫁になる少女は大体十二歳ぐらいで当然処女だ。そして真っ白な花嫁衣装をまとって、頭には花冠をかぶり、光(ライエル)同じく花嫁衣装に着飾った、七歳ぐらいの女の子を連れて、村中の家に収穫祭の訪れを告げる。この七歳ぐらいの女の子は、光(ライエル)の化身で眷属とされる日光と月光を思わせるシンボルを身につける。そしてこの女の子達は春を告げる聖歌を歌って村の家を一つ一つ訪問する。これが、クインドルガの基本的な”六月の花嫁”ですね」
ピートの説明は的を射ていたため、老マティアスは満足そうだった。
アメリアの内部に潜む、山口彩芽だったら聞いた事があるかもしれない。元々クインドルガは”憧れのクインドルガ”というゲーム世界だったはずなのだから、現代日本人が想定する近代ヨーロッパの影響を色濃く受けている世界観を持っている。数々の神話や民話も、現代日本の乙女ゲームによくあるようなごった煮状態だ。
しかし、”ここはゲーム世界ですよ”というお約束を、登場人物が知っているとは限らない。
本来ならば、ヨーロッパの五月柱(マイバウム)や、五月一日(マイターク)と呼ばれる行事が、このクインドルガというゲーム世界では、”天の花嫁”や”六月女王”といっった行事に変更されている。
作品中で花嫁衣装と表現されているのは、三月の花(メルツェン)と呼ばれる事もある。
五月はヨーロッパにおいては祝福の月であり、聖母(マリア)の月と称される事もある。五月は五月祭、生命の祭であるのだ。
といっても、山口彩芽(アメリア)だって、専門は悪役令嬢小説であるわけで、民俗学的な詳細を全て把握しているわけではなかった。ただ、ゲーム世界を楽しむ要素として色々な聞きかじりは知っている。
そして、作中の登場人物であるピートと老マティアスはそんな内情は知らず、ただ、魔族の酒場でのんびりと酒を飲んでいた。
そして老マティアスは荘厳な聖歌の一節を歌った。それは雅やかな古語であり、現代人には発音が難しいかもしれなかった。
「聖歌で祝福された家は、特別なパンや乳製品、卵、果物、お菓子などを花嫁に贈る。それを受け取った天の花嫁達は、両手の鈴を打ち鳴らし、感謝のダンスを踊る。これもまたその家を繁栄させるための祝福だ。……それこそ、神代の”前”からある行事さ」
老マティアスは遠い記憶を振り返っている様子である。
”天の花嫁”は三人一組だが、その後ろには、コーラス隊やブラスバンド、白い花を巻く娘たち、着飾った男女の若者達などが、行列を作って続いて歩くのだ。それは、長年の間変わらない光景であった。
「何か秘密がありそうですね」
面白そうな知識の匂いを嗅ぎ取って、ピートがそそのかすような声を立てた。
はははと笑うと老マティアスは、ビールをうまそうに味わって飲む。
「ピエトロも大体気付いているとは思うが、闇の魔物とは、クインドルガの先住者の事だ。すなわち、我々魔族の事でしかない」
「……やはり」
ピートは意外な感じは受けなかった。
王室学院で研究に携わるようになってから、様々な資料に触れ、自分なりに考えをまとめていたのだ。
「新しい訪問者である人類は、肉体は弱いが非常に頭がいい。その上、繁殖力は我々魔族の十倍はあるだろう。そして、一致団結で協力すると、考えられないようなエネルギーを発揮する。だから、そのエネルギーの方向性をコントロールするために、神の教え、そして王家や聖堂といったシステムが必要だったんだろうな」
人類とは異種族である老賢者はそのように考察し、唯我独尊個人主義のピートはそれに対して頷いた。
「もちろん、愛とかルールとかを保つ事は、我々魔族にとっても大事な事だ。人類の言う神の教えを遵守することは、むしろ歓迎する。だが、それ、違う種族の文化を、こちらに押しつけられても困ってしまうんだ。我々には我々の文化や教訓があるわけで」
「そのとおりですね」
ピートはまた肩を竦めてから、頷いた。
「爆発的に増え続ける人類に対して、棲み分けすることによる共存共栄、ルールの並立を作るために、随分と長い年月がかかったんだ。本当に苦労したし、苦労から万田事はなかなか貴重な経験だ。我々魔族にも、神というか、道徳規範はしっかりあるんだ。それにしても近頃の若いもんは……」
老マティアスは軽く、それこそ神代の時代から伝わる「近頃の若いもんは」のグチを吐いた。
それについてはピートは大人しく聞き手に回った。
それから、あれこれと取り混ぜて話した。
「天の花嫁に対して少年達のグループが練り歩く事もある。特に昔は珍しくはなかった。中心になる年長の少年だけが、真っ黒な服を着て、顔を墨で真っ黒に塗る。さらに、頭には真っ黒な山高帽。体中に縄をぐるぐる巻き付けて、腰には重いチェーンを巻いて長く引きずって、手にはオークの木の棒を握る。これは、夏の象徴である天の花嫁に対して、【冬】を示しているんだ」
「ふむ。すると、冬の少年達は、どんな聖歌を唱えるんですか?」
「鋭いな。……確かに。この少年達は、別の箇所からスタートして家々を訪問し、夏を祝福する聖句を唱えて回るんだ」
「夏と、冬……」
ピートは何事か考え込んでいるようだった。
「そして、儀礼の締めくくりに、夏の花嫁と、冬の少年は、示し合わせた場所で、決着をつけることになる。その場所は、大抵、小高い丘の広場だ。真っ黒な冬の少年は、オークを真っ直ぐに立てて、広場の中心に立つ。これを、夏の花嫁……”天の花嫁”に奪われないようにするんだよ。”天の花嫁”の少女は、身形などにはなりふり構わず、冬の少年の隙をついてオークを狙う。手に汗握る攻防が続く。この勝負で、オークの若葉の生えた枝を三本折り取ると、”天の花嫁”の勝ちなんだな」
そこまで話して老マティアスはビールで喉を潤し、またうまそうにキノコのサラダを頬張った。
ピートは年長者の前で行儀良くサーモンステーキを綺麗に切り取って食べ、今までの話を脳の中でよく考えて整理している。
ピートもいくらか知っている事がある。老マティアスの話では、オークの若枝が取り上げられているが、初夏のこの祭における若枝は、樫(オーク)とは限らず、白樺や樅が窓に金糸銀糸や紅白のリボンで飾られている事も多いのだ。
これは、祝福の月を迎えるための大事な準備で、若枝はマイエンと呼ばれる。
若者が好意を寄せる娘に贈るもので、特別に良い意味合いがこめられて、リボンが結ばれる事が多い。
(で、その、若枝を、娘が折り取ってしまうということは、魔道心理学的にイメージすると、その好意を受け入れますよ、ということに……強引過ぎだろうか……このイベントの象徴する意味は、そんな単純な事なんだろうか……?)
「これは、初夏における一大イベント。村中の老若男女の声援を受けながら、【夏】と【冬】争いが続くが、せいぜい15分から20分といったところだ。最後には三本目の枝が折られて、少女達が歓声をあげ、終了。冬と夏の争いは終わり、夏が無事に勝利して、季節が変わる」
「……つまり、マティアス様は、【夏】が人間で、【冬】は我々魔族だと仰りたいのですか?」
ピートが真面目な顔でそう尋ねると、老マティアスはおかしそうに笑い出した。
「おいおい、待ちなさい、ピエトロ。人間には女性しかいない訳ではないし、魔族には男性しかいない訳ではない。これは、季節は巡る、時は流れる、そういう儀礼でしかないんだ。そういう考えで言うのなら、人間には人間の、魔族には魔族の役割があり、協力の仕方があると、そういう教えとも受け取れるな」
「……はい」
「東洋の国にも似たような儀礼がある。山には山の神、里には里の神がいるとされているが、これがまた面白い事に、季節ごとの儀礼をこなしていくと、ちょうど一年交替で、山の神は里の神になり、里の神は山の神になる。ローテーションを組んでいるんだ。考えようによっては、自然と人類が平和に繁栄させていくという仕事を、シフトを組んで行っているとも言えるんだ」
「なるほど」
ピートは納得して微笑んだ。
老マティアスもそれを見て微笑んだ。
「後は、この、”天の花嫁”とは何者なのか……ということになるが、当然ながら、天の楽園に住まう女王、マリーベルだと答えるのが無難である。そのため、”天の女王、収穫の六月の女王”マリーベルを言祝ぐ聖句や聖歌は、ちまたにあふれかえっている。それは、人間達にとっては宝のような文化だ。大切にするのは当然だ」
老マティアスがそう話すと、ピートも全く異論はなかった。
「そうですね。魔族である私ですら、六月の女王マリーベルの歌はいくつか知っています。天上の楽園で最も美しき、幸福の女性、マリーベル……そのビジュアルもイメージも、私にとってもどこか懐かしさを覚える優美さですね」
老マティアスは誰でも知っているような聖歌をまた一節歌うと、ゆっくりと良い声で話し始めた。
「その母神マリーベルのイメージは、我々魔族の規範となる女性、フレイアによく似ているよ」
「言われてみれば」
魔族には魔族の神話がある。神話というよりも、行動規範の指針となるお伽話や童話である。その中で最も良く登場する美女が、フレイアであった。
「フレイアの夫は天の王と言われるヴォーダンだ。我々魔族も、かつては、収穫の実りの季節には、フレイアとヴォーダンの聖婚を、演劇で真似をして、さらにダンスや宴会などで祝ったものだ。最近のクエンティンでは廃れたようだが、田舎では今でも魔族達の間に伝わっているようだな……」
「本当ですか。私も、一度ぐらいは見て見たいな」
老マティアスは懐かしそうに目を細めた。
ウォーダンが嵐を呼ぶ雄の風、フレイアがゆるやかな雌の風。速すぎる突風が、優しい弱い風を連れて行くために後戻りすると、旋風が起こるのだと、そんな迷信が古い魔族の間では信じられていた。
魔族の間では、森羅万象は男性的要素と女性的要素で起こるとされているのだ。
彼らの言語には明確に男性名詞と女性名詞が分かれており、男神と女神は常にペアになっている。
故に、彼らにとっても主食である、麦の受粉も、男女両性によって行われるとされていた。
祝福の月における、天の王ヴォーダンと、美女フレイアの結婚によって、世界には花が咲き、実りが結ばれ、季節が巡り時が流れていくのである。
「マリーベルとフレイアの共通点はさらにあるんだ。それは”普遍的な母性”ということあだ。誰もが懐かしく思い出すような、優美な母親のイメージ……それが天上に祀られ神格化されると、どうしても似通ってくるのだろう。マリーベルもフレイアも、天上の薔薇、六月の女王と、全く美しい言葉で飾られている。人類にとってマリーベルは”神の花嫁”、”天上の薔薇”。だが、我々にとって母神的な性格を持つフレイアもまた、”森の薔薇”、”森の花嫁”といった呼称を持っている」
ピートはじっと耳を澄まして話に聞き入っている。老マティアスは良い声で流れるように語り続けた。
「我々魔族の故郷である、真っ暗な森の長い長い冬、その眠りから目覚めた花嫁が、隣で眠っている花婿をそっと揺り起こす。すると、花婿は、死から甦り、救われる……そんな普遍的なイメージが、魔族のどの部族にもあるんだよ」
そこでピートが口を開いた。
「魔道心理学で言うところの、人の心の奥に住む完璧なアニマ、そのイメージが、人類にとっては母神マリーベル、我々にとってはフレイア、そして両者にはどうしても同じ共通点が見られてしまうということですね」
「まとめると、そうなるな」
ピートの理解の早さに老マティアスは満足しているようだった。
彩芽(アメリア)は多少知っている事がある。ヨーロッパにおいては、ルネサンス以前は、聖母マリアもかなり大地母的な性格が強く、農民を中心に信仰されていたということ。その母アンナも大地母的と言え、そのアポクリファの聖家族像には緑のマントとが描かれる事がある。緑のマントは、大地の豊饒の象徴だ。
大地の恩寵に対して母なる存在のイメージを重ねるのは、古今東西、そんなに変わらないということであろうか。
「王室の話に戻ると、王室の女性、今ならば王妃アイラが、アニマであるマリーベルとイメージを重ね、人々の心を導く役割を果たしている。いずれは、フローレンス姫が、その役割を代行することになるだろう。これも考えてみると、面白い。フローレンス姫はお姫様、即ち”ロマンチックなアニマ”だな。そして、夫の妹という複雑な立場の彼女を庇護して導く王妃アイラは”霊のアニマ”、そして悲劇に見舞われながらも王室の事を考えて受け入れ、相談役になっている王太后ジェシカは”叡智のアニマ”ということになる。時が進めば、アイラはジェシカになって叡智を受け継ぎ、フローレンス姫は王妃アイラの大役をこなして霊のアニマとなる。これもまた、一つの真実なのかもしれない」
老マティアスの解釈に対して、ピートはもう一度考えて見た。
母なる神のイメージと、叡智のアニマ。
どこかで重なってくるような気がする。
同時に、クインドルガの王室は、人々が古来より希求する、そうした母なる(父なる)イメージを、生涯において名優のごとく演じ続けなければならないのだ。
決して安穏として出来る仕事ではない。
「その通りだと思います……。そうなると余計に、霊のアニマの役割を果たして、このクインドルガを導く女性が、フロリーストームという障害、じゃない、霊素異常か。それを持っているということは、いずれ大変な混乱の種になるでしょう……そして、今となっては人類と共存共栄する道を選んだ我々魔族にとっても、それは、言ってはなんだが面白くはない話です」
「その通り」
皺深い顔にちょっとした悩みを浮かべて老マティアスは頷いた。
「霊素研究がもう少し進めば……」
ピートは舌打ちしたい気持ちを抑えながら、サーモンステーキを切り分ける作業に入った。
鉄板は熱々に温められていたため、ステーキはまだ温かかった。絶妙の塩加減で焼かれたサーモンは口の中で旨い肉汁をジュワっと迸らせる。マスタードをつけて食べると味に深みが出て、舌の上から幸福感が広がる。そのせいか、難しい話をしていても、ちっとも気分は落ちこまなかった。
知らないうちに運ばれてきた温かいスープの方は、恐らく厨房の残り野菜だろう、様々な代表的な野菜が実に小さく刻み込まれ、それを出汁のきいたスープで煮込んで、卵を落とし込んでいた。
こちらは実に懐かしい優しい味わいで、ふっと、老マティアスでさえ瞼の母を思い出したぐらいだった。
「霊素研究という課題については、私もいくらか知っているが、王室の機密情報に触れるような事はしたくないんだな」
老マティアスの方も、なかなか複雑な立場である。
二人は食事に舌鼓を打ちながら、角度を様々に変えながらこの問題をつつき回した。
そのうち、ピートが口を割った。
「そういえば、例のトラブルメーカーの、グランドン姉妹が、フローレンス姫について、色々やらかし始めているんですよ」
「ほう。あのじゃじゃ馬二人が。どれ、話してごらんなさい」
老マティアスは即座に興味を持った。ピートに若い頃から色々話を聞かされていたため、他人のような気がしなかったのである。
※本文中の資料として、古事記の天孫降臨と、ゲルマン民族の”天の花嫁”の行事を借りました。
参考文献:ヨーロッパの神と祭(植田重雄)
ヨーロッパの祭と伝承(植田重雄)
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