運命のひと。ー暗転ー

破落戸

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その女が欲しい。囚人は手を伸ばした。けれど触れることは叶わなかった。自らの手が女を穢してしまう。それが何よりも恐ろしかったから。

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「イヤァ、面倒な役任せてすまねェなぁ。メラニーさんよ」

「今すぐ私の視界から消えてください。目玉が腐り爛れ落ちます。臭います」

「そんなツレねぇこと言うもんじゃねぇや。風呂だって、ちゃあんと入ってるぞォ。ってあれ? 最後に湯に浸かったのいつだったかな。へへっ」

「即刻お引き取りを。臭います」

「まぁまぁ、そう言いなさんな。冗談だよ。最近は若衆とあちこち出向くことが多くなっちまってよォ。無理矢理風呂場にぶちこまれてゴシゴシされてんだわ。どうせなら若くて綺麗なネーチャン達に背中流してほしいよなぁ。ゴツい強面の野郎共相手だと介護されてる気分にならァ」

「……」

「臭いはオヤジ臭だから勘弁してくれや。年食うと男はみーんなこうなんだよ。いやー、俺に娘が居なくて良かったと、つくづく思うね。くせぇって嫌がられたら傷つくなんてもんじゃねぇや。へへっ」

「用が無ければ、私はこれで。務めがありますので」

「おおっと、待った待った!」

「本題に入りませんか」

「ったく、せっかちはいけねぇよぉ? っと、ちょいと失礼」

「禁煙です」

「ンだぁ、喫煙者に優しくねぇなぁ。で、マダムから見て、どうだったのよ」

「才覚は皆無です。見込み無し。普通の人間よりも柔い。そう報告を挙げておきます」

「やっぱりなぁ。他も見て回ったが、ここに落ちてきた奴等は、どいつもこいつも駄目だ。今回もハズレだなぁ。それはそれとして、もうひとり、くっついて来てただろ。そっちについての感想は。どうだった」

「……」

「あれぇ? ツラ見てねぇか? 上背のある、灰色の頭に、血みてぇな赤い目玉が目立つあんちゃんだよ。牙を隠して、ヒトのフリした化け犬なんだが。おっかしいなぁ」

「知っていたんですか」

「んん?」

「アレが此処に居ることを」

「やっぱり会ってるんじゃあねぇか。早くそう言えや。アンタもまどろっこしいなァ。あの岡崎ってェ犬っころ。面白くって仕方無ぇや。心の臓ど真ん中貫かれても死にゃしねぇ。あれじゃあ、脳天に鉄砲玉撃ち込んでもモノともしなさそうだ。そして、あの人間離れした豪腕の腕っ節。鼻も利く。たまンねぇよなぁ。痺れるよ」

「……」

「これまで色んな奴を見てきたが、ありゃあとんでも無ェ逸材だ。千年に一度の……なんつってなァ。へへっ。此処で死なすには、ちと惜しいよなぁ。でも、そうも言ってられんからなぁって、俺は今悩める子羊な訳だよ」

「ラム肉にして差し上げましょうか。何故放置しておいたのです」

「そうじゃあねぇよ。最初は、あのワンコロ、俺んとこが貰い受ける予定だったんだ。あれだけの狂犬とは知らなんだがよ。暫くの間は、うちでシッカリ躾して、人の手で制御出来る様責任持ってキッチリ飼い慣らして、上手くいきゃあ、うちの太刀川と双璧にでもするつもりだったんだよ。それを白鷹……っつうより、あの衣笠の野郎がシャシャリ出て来て、手筈が狂った」

「衣笠南雲……」

「ソ。いやっ、ほんと惜しいことしたなぁ。あんなに良い品物だってんなら、もうちっと粘っておきゃあ良かった。今じゃ、もう懐柔も出来やしねぇ。すっかり女なんてもんに骨抜きにされちまって、尻尾ぶんぶん振っちまってる。本当に鬱陶しいったらありゃあしねぇよ。衣笠にしろ、志紀ちゃんにしろ」

「……」

「や~、それを考えたら、ウチの若大将はよくやってくれた。忌々しい鷹の頚は確実に跳ねてくれた。一番厄介だった目の上の瘤消してくれたからなぁ」

「戯けたことを。飼い慣らせるものですか」

「ん?」

「まして、私達如きが軽々しく触れ、接して良い存在ではない。彼の前で面を上げることですら不敬に値する」

「……そうかねぇ」

「彼を此方に引き渡し、然るべき場所で然るべき待遇を受けて頂くべきだった。それを貴方は、彼が何者であるかを知っても尚、あえて私達に秘匿していた。違いますか」

「……」

「ミスター瀧島。貴方の軽率な行動は謀反と捉えられてもおかしくはない」

「その通りだってぇ言ったら?」

「……正気とは思えませんね」

「へへっ。俺からしてみちゃあ、アンタの方が正気たぁ思えねぁなぁ、メラニーさんよォ。あんたのその盲信と忠誠心、見上げたモンだとは思うが、どうにかした方が良いと思うぞぉ。仕方ねぇっちゃ仕方ねぇが、見てるこっちは憐れで仕方ねぇや」

「余計なお世話です。どういうつもりですか。あの方が気付いておられない筈が無い」

「だろうなぁ。なんなら、これも奴の策略の内で、俺は踊らされてるだけなのかもなぁ」

「……」

「ま、バレてたにしろ無いにしろ、結果は同じだ。俺はもうお役御免だろうよ。近い内に、この時世と一緒に葬られる」

「馬鹿なヒト」

「そりゃあ褒め言葉だなぁ。男なんて、どいつもこいつもカッコつけだよ。どうせいつか散るなら、ド派手に華々しく散りたいじゃあねぇか」

「理解しかねます」

「だからアンタは可哀想な操り人形だってんだよ」

「お好きに仰ってください」

「へへっ。さぁてと、最後のひと仕事だ。足掻くだけ足掻いて、やれるだけのことはやるかねぇ」

「足掻く?」

「なんだよ、その顔は。ええ? 俺がこのままトンズラするとでも思ったのかい」

「……」

「こう見えても、往生際は悪ィほうでなぁ。なぁに、俺が成し遂げられねぇでも、ひとりでも残り滓をのこすことが出来たら上等だ」

「何をなさるおつもりですか」

「戦争」

「……戦争?」

「残念なことによォ、アンタらと違って、俺の同胞は腐ってく一方だ。先の戦争が終わったからって平和惚けしきってる。今まで小競り合いしてきたのとは比べ物にならねぇ化け物共が、俺達の生死を脅かしてるってのによぉ」

「……」

「この日ノ本だけに限った話じゃねぇ。どこの国のお偉いさんも楽観的だ。裏に生きる連中の方がよっぽど扱いやすいったらねぇよ。アンタらって存在に、いいように扱われて、俺達は見えねぇ首輪繋がれてる。このままじゃあ俺達は、死んでもあんたらの奴隷に成り下がっちまう」

「貴方は違うでしょう。こちら側の人間じゃあありませんか」

「へへっ。厄介なことに、それもそれで気に食わねぇのよ。だから、俺がいつまでも寝惚けた面ひっぱたいて起こしてやるんだよ。見てなよ。家畜が一斉、憎悪を奮い立たせて、お前らの喉元に噛みついてやる」

「敵う訳が無いでしょう」

「かもな。生憎と、思惑通りに動かされるってぇのは性に合わないもんでね。いやぁ、適任が見つかって良かった良かった。太刀川がダメだったから、これまでと思ったが、岡崎はこれ以上は無ぇ人材だ」

「……」

「やっぱり、俺達は害虫と変わりゃしねぇなぁ。徹底的に駆除しようが、否が応でもしぶとく生き残っちまう奴ってのはいんのさ。簡単に倒れねぇ、俺ァそういう連中を造っておいたんだ。アンタんとこに一人預けたろ。上海に。とびっきりの奴だ。岡崎のあんちゃんに負けず劣らず頑丈だったろ」

「ミスター瀧島」

「それにしてもよぉ、白鷹の姐さんも、女の身でよくやるもんだわなぁ。衣笠の秘蔵っ子てのはマジだった訳だァ。女なりに頑張ってんじゃあねぇかイ。それも無駄な努力だって言うのによ」

「人間とはそういうものです。理屈ではなく、融通が利かない」

「なんだい。あんたみたいなのが一丁前にニンゲン語りやがって、マァ。情でも芽生えたってのかい」

「……」  

「へへっ、説得力に欠けるったら無ぇや。ア、そうだ。メラニーさん。アンタこそ、もう此処を捨て帰ることになってんだろ。戻ったら倅に伝えといてくれねぇか」

「遺言ですか」

「そんなとこだなぁ」

「聞き入れましょう」

「アイツに企てがバレちまった。俺ぁここで尽きるだろうが、おめぇは仕事真面目に頑張れよって。今まで親らしいことはしてやれなかったんだ。するつもりもなかったが。ま、最期はこういうありきたりな言葉で締めるってぇ方が、父親としての浪漫あるだろうがよ。へへっ」

「支離滅裂です。間接的とはいえ、ご子息をも自らの手にかけることになる様な企てをしていた人物の発言じゃない。軽蔑しか生まれませんよ」

「倅からの評価は、もう落ちるとこまで落ちてるから気にはしねぇよ。そうだそうだ。俺の見届けに人は誰になる? こうなること見越して、もう配置されてんだろ」

「白鷹組に潜ませました」

「白鷹ァ? ええ? えらい姿隠すの上手ェんだなぁ。全然気付かなかったぞ」

「そうでしょうね。本人も気付いてませんから」

「ンン?」

「演技力にそこまでの自信が無いそうで。一時的ですが、記憶に操作を促したと」

「そりゃあ、またご丁寧に。……っと、そろそろ時間かぁ。そんじゃまぁ行くとするかねぇ。朝までに京都に戻らねぇと遅刻しちまう。一応組頭として示しがつかねぇからなぁ、へへっ」

「……」

「っとォ、そうだそうだ。負け犬の遠吠えにしか聞こえねぇかもしれねぇが、これも伝えといてくれや」

「ご子息にですか?」

「いいや?」

「では誰に」

「人間様を舐めんじゃねぇぞ糞餓鬼。ってェ、御主人様に言っといてくれや」








 吸っていい? と尋ねられた。眉を歪めた岡崎さんが私をちらりと見て、彼が何を気にしているのか察する。


「私なら大丈夫です」


 以前のように呼吸を乱すことはなくなったからと岡崎さんに笑って見せると、彼は少し不安そうにしていたが、気分が悪くなったら言えと念を押した。


「それじゃあ遠慮なく」


 真っ赤な唇から吐き出された煙が、パソコンのライトのみで仄かに照らされた宙を揺蕩う。右往左往にずらりと並べられた多くの画面を前に腰掛ける女性は、その数をものともせず、軽快にキーボードを叩き操作していた。


「拠点っつっても、もぬけの殻で、だぁれも使ってないんだけどね。天龍寺」


 エンターキーを叩く。丁度真ん中のモニターに写し出されたのは、私がこの時代にやってきた最初の場所だった。あらゆる角度から撮られた写真に収められた天龍寺は、私がよく知る荘厳とした姿のものではなく、建物として機能しているか判断しかねる程に倒壊寸前のものだった。つまりは、私が最後にあのお寺に赴いたときに見た光景から、なんら変化は無い。


「一応神様絡みのモンだってのに、配慮もなんもないわねぇ~。執拗に焼き尽くしてくれちゃってるわ」

「人が住める状態じゃねぇだろ」

「そうね。再建するにもこれじゃあねぇ。この地は自分達のものだって象徴みたいな意味で、そのまま置いてんじゃないの? モニュメント的な?」

「……」

「天龍寺こそ、こんな伽藍堂だけど、嵐山自体は復興した方よ。天龍が如月とやりあう前……一世を風靡してた時期までは戻せなくとも、一応定住者も出てきたし、お店も出始めた。堅気が買えるもんなんて無いから、観光客が来るまでには至らないけれど」


 マウスを動かし、リゼさんが天龍寺の写真を左上に避けて、右下に嵐山の画像を出して私達に見せた。確かに、最後に訪れたときとは大違いだ。死の匂いが立ち込めていた雰囲気は失せて、ひとが住める環境として整いつつある風景がそこにあった。


「天龍組が収めるシマだもの。名だたる荒くれもの達がここに居を構えてる。とりあえず天龍と手を結んで傘下に入れば、下手に命を狙われることもないからね。その代わり、ショバ代、守料、その他諸々の料は、とんでもない法外な値段ふっかけてるらしいわ」

「そいつらから巻き上げた金で懐潤してるって訳か」

「そゆこと。天龍の上手いとこはここら辺ね。損害をなるべく最小に利益を上げる。そして選りすぐりの有能な人材は勝手に集まってくるから、的確に確保していく」

「天龍が実際に根を下ろしてるのは何処か、割り出せたのか?」

「モチロン。リゼさんを侮るなかれ」


 リゼさんの後ろからモニターを覗きこんで話をしている岡崎さんの二人を、薄暗い部屋に設置されていたソファに座って後ろから見守って話を聞く。居心地はあまり良くない。リゼさんが淹れてくれた紅茶も、時折思い出したタイミングで口にするのみで、とっくに冷めてしまっていた。

 薄透明な茶色の液体が入ったカップから視線を上げると、部屋の隅で、壁に凭れて立っている女性が目に入る。すらりとした姿態に、すっかり窶れた風貌ではあるものの、その顏は整っていて、やはり人の目を引く。


「現在の天龍組の根城は、将軍塚青龍殿。山のテッペンなんて辺鄙なとこだけど、規模もでかいし、何よりもカチコミがあったとしても迎え撃ちやすい。で、第二の拠点が、将軍塚がある山の下にある青蓮院。他の組の出入りを観察してると、会合等々は此処をメインに使ってるみたい」

「どっちかってぇと河原町寄りか? 嵐山が拠点じゃねぇのか」

「そう思わせてるのよ。そこが天龍組の根倉で中心地だってね。さっき言った通り、嵐山は手練手管に長けた連中がウジャウジャ居る。勝手に飛び込んできて勝手に自滅してくれるって訳よ。まさに飛んで火に入る夏の虫」

「で、その虫は俺達ってことか」

「そゆこと。あえて他にも転々と占領してる場所がある。広くばらけさせることで、自らが既に囲い込まれてるってことを悟らせないようにしてる」

「つまり」

「ほいさ」


 ピアノを奏でるかの様にリズミカルにキーを叩き、リゼさんが画面を見ろと私達に促す。京都の地形に、目印である赤丸がいくつも点点と打たれていく。ひとつひとつ数えるには時間を要する数だ。


「これ、ぜーんぶやっこさんの拠点よ」

「……マジデー?」

「絶句モンでしょ。割合ににしたのに、よくここまで持ち直したというか。たいしたもんだわ」

「……」

「京都そのものが天龍組よ。あなや」


 岡崎さんがゴギブリでも見たかの様な顔で、ハァア~アと大きく息を吐き出す。くしゃくしゃに灰色の髪を乱した。リゼさんが食べる? と岡崎さんの口許に、渦巻きが描かれたピンクのペロペロキャンディーを差し出した。岡崎さんは受け取りはしつつも口に入れることなく、手慰みにくるくると指で棒を回した。

 とりあえず、いったん話が落ち着いたのを見計らい、ソファから立ち上がる。その際に、部屋の隅に立つ女性から鋭く刺されんばかりの視線を感じたが、ぐっと耐える。うんうんと頭を悩ませているお二人に近づくと、私に気が付いたリゼさんが椅子をくるりと回転させ、にっこりと笑みながら「どうしたの、遠坂さん」と尋ねた。


「あの……私、別室に居た方がいいんじゃないでしょうか」

「あら? どうして?」

「一応、私、天龍組の」

「太刀川尊嶺のコレだから?」

「え、あ、そう……むぐぅっ!?」

「違ェよ」


 突如口の中に棒付きの飴を強引に突っ込まれる。甘ったるいイチゴとミルクの味が口内に広がった。

 岡崎さんが私を見下ろしながら「ハイ。もっと。あーん」とぐいぐいと奥に突っ込んでくるので、べしべしと腕を叩いて離すよう抗議するも、抜き差ししてくるので上手く喋ることができない。ちょ、まって、口避ける。避けるから。


「お前、マジで頬の伸縮性すごくね。ハムスターじゃん」

「もがっ、おはひゃひひゃ、んぐ」

「……あ、やべ。なんかイケナイ気分になってきたわ。どうしよう」

「てっちゃん。違うってなに? 貴方、ついに恋横慕したの? 手籠めにしたの?」

「それは置いといて」

「あっ、察したわ」

「ヤメロ。その可哀想なものを見る目、ヤメロ。ヤメロ。今の俺にはかなりクるから。泣くぞ」

「やだ……推定三十路の男泣きなんて見苦しいもんは無いわよ」

「うっせ。とにかく違う。志紀はもう刺青野郎のモンじゃない」

「ふーん。そうなの? 遠坂さん。あれだけ、太刀川さん太刀川さん~ってピイピイ鳴いてたのに。愛想尽きちゃったの?」


 違うと首を横に振ろうとするも頭を思い切り掴まれて、何度も何度も岡崎さんの手によって頭が上下に揺れる。私を無理やり頷かせる岡崎さんは、ちっとも私を見ていない。怒ってるのか、それとも拗ねているのか。


「まー、先立たれたと思ってたんなら、しゃあないわよねぇ。ただ、遠坂さんはそのつもりでも、あちらさんはそうは考えてなさそうだけど?」


 やっとの思いで岡崎さんの腕から逃れ、とりあえず口からベチョオとすっかり唾液まみれの飴を出す。飴付きの棒の部分を摘まんで、口の端から垂れた涎を拭う。


「詳しい説明は長くなるから省くけど、貴方達が上海でランデブーしてる間、ほんとスゴかったのよ、彼」

「……」

「遠坂さんを探して三千里って作品、一本作れるんじゃないかしら。貴方達が何処で何してるのか隠匿するのに骨が折れたわ。お蔭で五キロも痩せたのよ~。マ、最後には力叶わずでバレちゃったんだけど」


 まずは日本を固めてからって段階を重視してくれたお蔭で、中国に乗り込むまではしなかったようだけれど、と新しく取り出した煙草にライターで火を付け、リゼさんが咥える。深く煙を堪能してから吐き出し、部屋の隅に居る人物に視線を投げた。


「だからこそ、利用価値が存分にあるんだけど。太刀川尊嶺が一途で良かったわー。ねーシラユキ」


 返事の代わりに床を叩く靴音が近付いてくる。私と真正面に向き合ったシラユキさんに見下ろされる。泥のように深く濁った目をしている。ただでさえ細かったのに、今はもうガリガリと形容してもいい位だ。溌剌としていたシラユキさんの変わり果てた姿に心臓がきりきりと悲鳴を上げる。

 修羅場? 修羅場? と向かい合う私達の周りを、リゼさんがくるくると椅子を動かして、何故か爛々と目を輝かせているのがちょっとよくわからないが、彼女も疲れているのだろう。

 岡崎さんはパソコンがたくさん置かれたデスクに腰を下ろし、私達の様子を黙って見守っていた。

 私の目を、暗く濁った双眼が貫く。紅は塗られなくなり、かさかさと乾燥して、ところどころひび割れを起こしている唇がそっと開かれる動作に、何故か見入ってしまう。


「京都に用があるんでしょう」

「は、はい」

「何故」

「……」

「太刀川尊嶺に会う為?」

「違います」

「……」

「ちがい、ます」


 説得力など皆無かもしれない。でも、本来の目的はちゃんと別にある。かつて、私がずっと揺るぎなく抱えてきた願望。一度は諦めて、打ち捨ててきたもの。

 両手を固く握り、一寸も反らすことなくシラユキさんの目を見つめ返す。ペロペロキャンディーを片手にしていることがひどく間抜けだ。生唾を飲み込み、下唇を噛んで圧に耐える。

 先に目玉を横に動かしたのはシラユキさんの方で、彼女は先程まで私が座っていたソファに腰掛け、私達から完全に視線を外した。長い足を組み、残る片手で頬杖を付いて、目の前にあるテーブルに視線を落とした。

 一時の緊張感から解放されて、小さくゆっくりと、音をさせないように息を吐き出す。


「違うんだったらいいじゃない。とりあえずは。私達の邪魔にはならないでしょう」


 椅子をデスクの方に移動させ、リゼさんが先の短い煙草を灰皿に押し付ける。ジュ、と火が揉み消される音がした。


「遠坂さんにこの話を聞かせてるのはね、貴女にも協力を仰ぎたいからなのよ」

「協力?」

「てっちゃんから聞いたわ。どんな理由があるかまでは教えてくれなかったけど、天龍寺に行きたいんでしょう?」

「あ、は、はい」

「最初は若大将に会いに行く為なのかしらと思ったら、てっちゃんは違うって言うし、遠坂さん本人も否定してるし。半信半疑なところは正直あるけれど、ここはてっちゃんと貴女の人柄を信じましょう」

「それで、その、協力とは」

「リゼ」


 赤い目を細くした岡崎さんが、嗜めるようにリゼさんの名前を呼んだ。リゼさんは肩を竦めて両手をあげた。


「釣り餌になってほしいの」

「餌?」

「そう。太刀川尊嶺を穴蔵から引きずり出す為に」


 にっこりと悪意など感じさせない笑みで、リゼさんはそれを言い放った。


「彼ね、姿どころか、ちっとも尻尾の先も出さないの。以前とうって変わって、表舞台に立つのは瀧島組長殿になった。けれど、太刀川尊嶺の存在感はなおも健在よ。カチコミ等々のドンチャンがある度に、天龍の若大将の名は必ず出てくる。私が考えるに、事の全ての流れを操っている大元は瀧島。けれど、その筋書きを描いてるのは太刀川だと考えてる。これまでの彼のやり方を鑑みてね。わかりやすく言うと、監督は瀧島で、脚本家が太刀川」

「……」

「病で床に臥せってるから表に出られないだけなんじゃないかしら、と私は考えているんだけど。あれほど狡猾で聡明なら、頭だけあれば十分でしょうし、彼が一役買って暗躍してることは確かなのよ」


 淡々すらすらと語られる言葉が、私にしては意外にも、すとんと入ってくる。スポンジが水を吸うのと同じように。


「瀧島ひとりを叩いたところで意味は無いのよ。あの天龍組の要は、瀧島と太刀川のふたり。ひとりを消しても、必ず一方がまた台頭してくる。二人諸共確実に潰さなきゃ、天の龍は易々は地に堕ちてくれない」

「……」

「太刀川を引っ張り出してくれるだけでいい。後は私達が始末をつけるから」

「私に」


 その先が中々口に出せなかった。吐き出せない。会話が止まり、静まり返ってしまう。リゼさんは黙って、私が話し出すのを待ってくれていた。二、三度口を開いては閉じて、躊躇しを繰り返して、喉の奥に重く閉ざされてしまっていたそれを、なんとか舌の上に運ぶ。


「私に……太刀川さんを殺す為の、協力をしろと」


 言ってしまった。ぐつぐつと煮えて沸騰する鍋の蓋を開けてしまった。

 
「小耳には挟んでるでしょうけど、太刀川尊嶺が貴女を探してる。その執心は、もはやこの界隈では周知の事実よ」

「羞恥プレイじゃないですか」

「あっはっは。良い様にされてた貴女はそうかもね。でも、太刀川は開き直ってると思うわよ。ねー、てっちゃん」

「刺青野郎は元々隠してねぇよ。寧ろ見せびらかしてた」

「ソレ、伝わってたの極一部でしょ。殆どは、太刀川のいつもの一時の戯れだって思われてたじゃないの。あんまりにも遠坂さん若かったし、今まで侍らせてたタイプと違ってたから、物珍しくなってただけで。趣向を変えてただの、味変だの、稚児趣味にも目覚めたんじゃないかだのって色々言われてたじゃないの」

「節穴ばっかだなマジで。どう見たって、コイツは自分の雌だって主張する雄のソレだよ」

「いや、ほんとにそこまでわかるの、てっちゃんだけ。同じ穴の貉だからシンパシー感じるやつ。同族意識ってやつ。っていうか、アンタも最初は、どうせただのお遊びだろーって呑気に鼻ほじくってたじゃない」

「……」

「お。一緒にすんなって、もう言わないんだ? あちゃばー」


 肯定も否定もせず、眉間にシワを寄せて、だんまりをきめこんだ岡崎さんに、リゼさんが「いつものお喋りさんはどうした、このこのー!」と思い切り彼の背中を叩いている。

 二人のやりとりを、どこかぼんやりとした心持ちで眺める。なんだかなぁ。なんとなく、こうなるかもって予測はしていたけれど。どうして悪い勘だけはこうも当たるのか。


「貴女に、あれこれどうこうしろと言うつもりはない」


 今まで沈黙を守っていた女性の声が背後から響く。後ろを振り返ると、ソファに足を組んで座ったままでいたシラユキさんが立ち上がって、こちらを見ていた。ゆっくりと、しかし確実に、高過ぎず、けれど低すぎないヒールを鳴らして、感情の乗らない声が降ってきた。


「貴女はただ私達の指示通り、置物として居てくれたらそれでいい」

「置物……」

「天龍組は、貴女の捜索の手をあちこちに伸ばしていたのにも関わらず、今は中断してる。おそらく、遠坂志紀が此所に居ると確信してのこと」


 そのとーり、とリゼさんがシラユキさんのあとに続ける。


「太刀川尊嶺は、私達が遠坂さんを交渉の場に持ち出すだろうことは、とっくに承知の助でしょ。だから、羊が群れの中に自分から飛び込んでくるのを待ってるのよ」

遠坂志紀えものが居れば、太刀川は交渉の場に、必ず応じて、姿を見せる」

「所謂ハニトラってやつよ。若大将の御執心を利用しない手は無い。っていうか、もうそれしか手立てが無いのよね~」


 黙りこくる私に、決定打となる止めを刺したのは、今も私が憧れを捨てきれない女性だった。


「遠坂志紀」

「……」

「手を貸さないのなら、私達は今後、この邸から貴女を一生出さない」


 再びこの地下に幽閉する、と冷淡に言い放たれ、本当に言葉が出なくなった。


「シラユキ!」

「はいはい、てっちゃん。ここはちょーっと黙ってましょうねー」

「……」

「いいから。ね」

 
 シラユキさんの宣言に私よりも先に反応した岡崎さんを、リゼさんが諌める。ぎゅ、とぶら下がっていた両手で拳を握り、シラユキさんを見上げる。


「太刀川が目的でない貴女に、他にどういう事情があるのかは知らない。知る気もない。けれど、貴女も京の都に行きたいんでしょう」

「……」

「目的は違えど、赴く地は同じ。大人しく、今まで通り利用されてくれたら、貴女の願いは果たされる」

「シラユキの提案に乗っておいた方がいいわよ~、遠坂さん。私達は朝には出る。そして、もう此所には誰一人として戻らない。てっちゃんも含めてね。何が言いたいのかわかるでしょ?」


 私に選択肢など最初から無いのだと、そう言いたいのだろう。太刀川さんを、この世から今度こそ消し去る為に、その道標になれと。

 途方もない怒りと虚無感に苛まれて草臥れてしまったシラユキさんの顔を見つめる。

 太刀川さんに安らかな死を迎えさせたくない、そんな情念が滲み出ている。赦せないのだろう。どうしたって、彼に、何としてでも、これまで自分が受けてきた苦痛と嘆きを返さなければ、胸の奥に突き刺さった刺は取れないのかもしれない。無理もない。此所には天龍組に、太刀川さんに奪われてきた人達が多すぎる。喪って、何をどう足掻いたって、取り戻せなくなってしまったひと達が。

 でも、それって、いつ終わるものなんだ。

 互いに討ち合って、傷付け合い続けて、奪い合って、痛い思いをして。どちらか一方が倒れれば、大きく膨らみ続けた意趣遺恨と怨讐は報われるものなのか。積もり積もった恩讐は終止符を打てるもなのか。終わりの見えない疑問が私達のなかで渦巻く。

 伝えるべきは伝えたと、シラユキさんが身を翻して部屋を出ようとする。反射的といってもいい。


「シラユキさん」


 私が名前を呼ぶと、彼女は足を早めた。扉のノブに手をかけて、真っ暗闇の廊下へ片足を出したその細い身体を、足をもつれさせながら追いかけて手を伸ばす。

 
「シラユキさ……」


 差し入れる片腕が無い為、ひらひらと宙にたなびく上着の裾を指先が掠めたところで、ぐんと視界が揺れる。フラッシュバックの様にシラユキさんの後ろ姿が歪んだ。じりじりと焼ける様な映像が浮かぶ。聞こえてくる音も不協和だ。

 シラユキさんが女性の髪を乱暴に鷲掴み、地面に膝をつかせている。すすり泣く声が雑音の中に混じっていた。二人の後ろ姿を見つめていると、シラユキさんが手にした大きな銃を女性の肩口に宛がう。引き金に指が乗っていることに気付いた。銃声音が響いて、視界が赤黒く染まる。床を這いずって痛みにのたうち回る女性の悲鳴は、キンと耳鳴りがして、よく聞こえない。

 呆然と、ただそれを眺めていた私のお腹の奥で何かが暴れる。なんて不快感、噎せ返る様な嫌悪感。じわじわと身体の底から燃え上がるそれは私の歯を食い縛らせ、額に筋を生んだ。

 怒った顔も、慈しみ深く笑う顔も、愛するひとを切なく想う顔も、全てが美しかった女性の声。厳しさの中に優しさを滲ませた、私のもうひとりの母。

 この女性は、シラユキさんは、女将さんを死地へと招き、西園寺さんに手を掛けさせた張本人だ。

 なんてことをしてくれたんだ。女将さんが貴女達に何をしたのか教えてほしい。女将さんから生の一切を永遠に絶ち、奪い取り、あそこまで苦しませたのは、どんな恨みがあってのことなんだ。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。

 どす黒い感情が一気に私を攻めこむ。この女性がしたことを、責めて罵倒したいという気持ちに襲われる。この裾を握り掴んで、叫びたくなる。

 けれど、ここで気付いてしまった。

 私達は、本当に途方もないことをしているのだと。未来永劫続く泥沼に、すぶすぶと身体を浸らせているのだと。今私が感じているこの激情を、この場に居る人達は、シラユキさんは、何度も何度も噛み締めてきた。だからこそ、この闘いに身を投じている。

 それはつまり、どこまでも、不毛なのだ。どれだけ苦しくても悲しくても、悔しくても、耐える誰かが居なければ終わらない。歯を食い縛って、引き摺ってでも歩みを続けてくれるひとが現れないと、連鎖していくのだ。

 誰かが、許さなければならない。

 あと少し手を伸ばせば、そこに居る女将さんが僅かにこちらを見て、綺麗に笑ってみせてくれた気がした。白梅の香りを纏う、優雅で上品な着物姿、ゆっくりと歩いていくその先は光に満ちていて眩しい。遠くの方では、いつもの鉄仮面で、女将さんを待っているひとがいるのが見えた。

 ふたりの姿が遠ざかっていく。完全に見えなくなって、寂しくて悲しい気持ちになって、ぽろ、と生暖かいものが目から溢れるのがわかった。

 突然、ぐいと誰かに腕を引かれ、暖かく力強いものに包まれる。

 はっと正気に戻ったときには岡崎さんの腕の中に居て、庇われているのだと知る。シラユキさんが扉を出たところで、見張りとして待機していた天龍の組員がふたり、私を憎悪を込めた目で睨み、銃口を向けていたから。


「ちょっと、てっちゃん」

「……」

「ソレ、下げて。アンタ達もよ」


 焦った表情のリゼさんが、岡崎さんと組員さんの間に割って入る。岡崎さんと対峙し、銃を構えていた組員のお二人は、怒りの中に怯えを見せた表情で、ぐ、と何かに耐える様にゆっくりと銃を下げた。けれど、岡崎さんはいつの間にか抜刀し、味方に切っ先を向けた刀をすぐに下ろさない。片腕で肩を抱かれ、後ろへと下げられた私は、前方を見つめている岡崎さんの顔は見えない。リゼさんに、仕舞いなさいと再度促され、やっと得物を鞘に納めた。

 一瞬にして、殺伐とし張り詰めた空気に、皆が黙る。シラユキさんは中の様子を一度目で確認したのみで、再び歩みを進め、とうとう行ってしまった。その後を、ふたりの若衆が追いかけていく。

 岡崎さんの腕からも解放され、一度深呼吸する。ごしごしと溢れ出ていた涙を裾で拭き取る。


「てっちゃん、瞳孔開きっぱなし」

「ア?」

「獣じみてるって言ってんのよ。番犬っていうか、もう狂犬みたいだったわよ」

「そ……そんなことねぇもん」

「何がもんよ。可愛くない。しょうがないでしょ。遠坂さんが何かするってこたぁないでしょうけど、あれぐらいの警戒はさせとかなきゃなのよ。念の為」

「……」

「あー、気にしないでね、遠坂さん。シラユキ、今、誰に対してもああやってツンケンしてるの」

「いえ……私こそ、すみません」

「って、え? 泣いてるの? や、やだー、ビックリしちゃった? はい、よちよち~。ごめんなちゃいね~」

「び、ビックリはしましたけど、大丈夫です」


 ほんとぉ~? と疑われる。手の中にある飴の棒をいじりながら、無理やりに口角を上げて軽くヘラリと笑って見せていると、苛立っている様子の岡崎が顔を覗き込んでくる。赤い目がじっと見つめてくるので、リゼさんの手前、流石に気まずさを感じていると、いきなり、あーーと岡崎さんが牙を見せて大きく口を開き、私が持っていた飴にかぶりついた。そのまま岡崎さんにひょいと奪われて、ガジガジと犬歯を見せながら豪快に噛み砕き、胃に収めていく。

 その姿は、イライラ等の悶々を発散しようとして、何かに噛みつく犬そのものだ。やっぱり、このひと、でっかいわんちゃんだ。飴を全て食べ終え、棒を楊枝のように加える岡崎さんが、私の頭をくしゃくしゃに撫でたあと、モニターを見つめて口を開いた。


「前々から天龍と組んでた談合を利用するんだろ」

「そうよ」

「前回から時間が空きすぎてる。疑われるぞ」

「それはそれでいいんじゃない? どうせ向こうには霧江が居るから、こっちの考えは筒抜けでしょうし。これも承知の上で動くしかない」

「アイツ!まだそんなことやってんの。マジで自重しねぇな」

「あの魔女は、もう信用しない方がいいわね。十中八九、天龍というか瀧島と手を組んでる。クロよ」

「ハナからアテにもしてねぇし、信頼なんざ無ぇよ」

「ともかく、細かいことは私達に任せといて。遠坂さんも考える必要は全く無いから。てっちゃんは……」

「なんだよ」

「問題なく勝てそう? ま、心配することないか~。てっちゃんなら全然……いや、でもなぁ」

「誰に」

「誰って。やだ、すっとぼけちゃって。決まってるでしょう。太刀川よ、太刀川」


 ぎくりと身を震わせたのは私だけだ。無意識に、岡崎さんの腰に提げられた、赤い鞘に納められた鹿部さん渾身の刀に視線がいく。私の気持ちを感じ取ったのか、岡崎さんは自分の頭を豪快にかき撫で、刀を隠すように体の向きを変えて、リゼさんのデスクにお行儀悪く腰を下ろした。


「衣笠、朝倉両名を喪った現状の戦力で、天龍の若大将とまともにやりあえるのは、おそらくあんただけよ。てっちゃん」

「買い被りだろ」
 
「あっら~、謙遜を覚えたの? いやいや、冗談じゃなくてね。彼、病に冒されてはいるけど、腕は衰えてないどころか、より強靭になってるって聞くわよ。アイルビーバックしたターミ●ーター状態。完全にタガが外れてるとしか思えない話ばっかり舞い込んでくる。いつぞやの貴方みたいにね」

「頭のネジだけじゃなくて、身体のリミッターも外れたのかよ」

「討ち取りのチャンスだと思ってたけど、そうでもなさそう。むしろ、命尽きる前の獣を相手にすることになっちゃって、一番手が負えない。剣豪と謳われた衣笠組長だって首取られちゃったし、信じられないけど、もしかしたら実力はてっちゃん以上かも」

「……」

「覚えてる? てっちゃん。白鷹に来たときのこと。組長に喧嘩ふっかけて、こてんぱんにされたの。イキッて向かっていったら、組長の初撃で秒で倒されてたの。マジで笑ったわ。いやー、アレはかっこ悪かった」

「うっせ」


 え、岡崎さんが負けた? 初撃って、一発ってことだよね。うそ。ほんとに? どんなにひどい傷を負っても倒れなかった岡崎さんが?

 これまでの戦績を、数度ではあるが見てきたので、俄には信じられない気持ちでいっぱいになる。そして、衣笠さんはそんなにも凄くお強いひとだったのかとも。確かに、太刀川さんとも対等に刃を交わしていたし、迫力もあった。しかし如何せん、岡崎さんの強靭が過ぎる戦闘力と生命力故に、あっさりと打ち倒されるというイメージは湧きづらい。困惑する私を、リゼさんが面白そうに見つめ、カラカラと笑った。


「それからも何度か衣笠組長に勝負挑んだりしてたんだけど、一度も勝ててないのよ。連戦負け。余裕のよっちゃんの組長は、てっちゃん転がしながら、ここがだめ、あそこがああだって、ご丁寧に指導までつけてたからねぇ」

「き、衣笠さんって、本当にお強かったんですね」

「そうよー、だから私も、あのお人の訃報を聞いたときは耳を疑ったの。まさか、そんなことがって」

「……」

「お優しいひとだった。誰に対しても」


 懐かしむ顔をしたリゼさんの横顔は、ひどく寂しそうだった。眼を閉じて、赤い唇に煙草を咥え、煙を愛したあと、「だからこそ」とデスクに座って指のささくれをいじっていた岡崎さんに、リゼさんは言葉を続けた。


「衣笠ですら敵わなかった太刀川に、てっちゃん、太刀打ちできるの? 太刀だけに」

「なんも面白くねーシャレをドヤ顔で口にすんな。山田クン、座布団全部持っていって」

「手厳しい。で、どうなのよ」

「南雲の親父とっつぁんは本気なんざ出しちゃいねぇよ」

「は? あんたも現場見てないでしょうが」

「見てなくたって、聞いた話で、あの狸親父が考えそうなことはわかる。そんな簡単に、あのオッサンが刺青野郎にタマ殺らせる訳ねぇだろ。っていうか、シラユキから聞いてねぇのか」

「何を?」

「そういう手筈だったんだよ。……俺をあそこから出す為に、南雲の親父とっつぁん自分てめぇの首を取らせた」


 全部、衣笠南雲の策の内だ。と淡々と語りながら、無理やり引きちぎったを投げ捨てた。「あ、血ィ出た」と呟く岡崎さんは、あくまでいつも通りだ。リゼさんは動揺し、微かにだが、煙草を持つ手が震えていた。岡崎さんは、リゼさんを見下ろしている。


「時間稼ぎが必要だったらしい。俺がどこに囚われているのか、居場所を割り出すだけの十分な時間が」

「……」

「その間、太刀川を欺ける鉄砲玉が必須だ。それを」

「買って出たのね。衣笠組長は」

「リゼ」

「考案したのはシラユキね。あの子、同意したの?」

「いや、アイツは最後まで反対して考え直せって引き留めたらしい……が、あのオッサンの性格だ。頑なに最後まで意思貫いて、その結果が今此所にある」

「でしょうね。あの子、組長のこと、父親同然に考えてたから。そう、シラユキ。何があっても、そういうことは、ちゃんと、てっちゃんには話すのね」

「……」

「……勝てる見込みはあるって受け取っとくわ。じゃないと組長が報われないし、あのお人の死を無駄にしてほしくない。あ、そうそう。太刀川だけじゃない。厄介なのがもうひとつ」


 カタカタとキーボードを叩くリゼさんが、数枚の写真と文献をモニターに写し出す。写真の方は黒服を着た男性と女性が多数写っていて、皆、瀧島さんを囲んでいる。っていうか、あれ? このひと達。


「な、なんで?」

「おっ、てっちゃんより遠坂さんが先に気づいた? そうよ。太刀川が引き連れてた、あの薄気味悪い連中」

「……何で生きてんだ? 粗方斬ったよね。結構バラバラに刻んだよね、俺。え? マジもんのゾンビだったりする? うそだろ。いや、俺の努力」

「イワンが最後の置き土産に、こいつらのことを洗ってくれたわ」

「言い方言い方。イワン、死んでねぇから。あいつ健在だから」

「以前、太刀川が引き連れてたあの黒服集団は、今は瀧島のところについてる。ひとりを除いてね」

「ひとり?」

「この娘よ」


 リゼさんが新しくデスクトップに表示させた写真には、学生服を着た長い黒髪の女の子が写っていた。派手な耳飾りがよく目立っている。無表情な顔にくっついた切れ長の黒の瞳は、此方をじっと見つめている。そのどんよりとした色には覚えがある。忘れられる筈もない。


「ジェイ・ジェニファー・ジョーンズ。通称3J。若いながらも、天龍入りして、太刀川の直属にある優秀な殺し屋。遠坂さんは面識あるわよね」

「は、はい。……ということは、ジェイさんも」

「生きてるわよ。おそらく、タワーの倒壊から動けなかった太刀川の命をギリギリ拾ったのは、この女の子でしょう。当人も、怪我無しで無事に、とは言えなかったと思うけど」


 真っ先に、安堵する。

 くんくんと小さく鼻を鳴らし、もそもそと慣れない手つきでお握りを手にして食べ、口の端に米粒をひっつけていたジェイさんの姿を思い出す。どんな人物であれ、見知った顔が存命であることに、まずホッとした。

「現在どんな姿をしてるのかは写真が無いからわからないけど。これも昔の引っ張ってきただけだし」


 モニターを指差して説明するリゼさんに、岡崎さんは些か解せぬという顔をしている。
 

「あれだけのドンパチかまして、主戦力がほぼ残ってるじゃねぇか。どうなってんだ。この絶対人類殲滅殺戮系女子は、俺はトドメさしてねぇから置いといて、黒服こいつらに関しては、確実にぐっちゃみそにして黄泉に送ったつもりだったんだけど。どういうことなの。微塵のミンチにしなきゃなの? ハンバーグになって復活してくるだろ、ここまできたら」

「あ~、流石に安心して。黄泉から帰ってきたのは、ほんの数名よ。イワンの調べだと、瀧島を囲んで歩いてる、この五人で全員」

「あ。瀧島の真横に居る奴。俺、この顔は覚えてるわ。刻んだの覚えてるわ」

「ほう」

「いや、待てよ。確か、胴体ほぼ半分にしたぞ、確実に。き●みちゃんにしたよ。満身創痍どころじゃない状態にしたぞ。なんで、こいつケロッとした顔で立って歩いてんの」

「と思ったでしょう? ところがどっこい。タワーが崩れたあと、胴体が千切れる寸前で転がってたのを、辛うじて息があった状態から、自力でちまちま回復したらしいのよね」

「ハァ!?」

「で、天龍組の残党が、瓦礫の山から、損傷して転がってたのを回収。今生き残ってるのは、個体差はあれど、そんな感じの子達よ。流石に、倒壊で粉々になって、ぐちゃぐちゃになったのは駄目だったみたいだけど」


 それはもう、人間の域を脱していないだろうか。信じられない気持ちではあるが、確かに、そのあり得ない事象を、私もこの目で見てしまっている。

 岡崎さんに斬り伏せられ、もう立ち上がらないだろうと思っていた矢先、あちこち損傷しながらも。ゆらゆらと不気味に立ち上がる亡霊の姿。腹部を裂かれ、臓物を垂らしながらも、向かってくるその異形ぶり。なによりも、その傷の治りの早さは、常人よりも頑丈で、回復も復活も早い岡崎さんをも驚かせるものだった。間近で見ていた岡崎さんも、同時にその光景を思い出したらしく、顔を歪めている。


「俺が言うのもなんだけどさぁ。そこまでくると、もう同じ生き物じゃねぇだろ」

「だって、人間じゃないもの」

「は?」

「いや、人間やめたって言い方のほうが正しいか。元人間よ。彼等は、人間と化け物を素材として造り直された、異形のものよ」

「……」

「詳しく説明すると1日以上かかるからしないけど。簡潔に言うなら、人間以上の存在になる為に、遺伝子をイジイジされちゃった連中よ。より強い存在を配下に置きたい。強い人間を創る為には何が必要かって考えて、足りないものを補うのと同じで、強い動物の遺伝子を注入して、無理矢理に組み合わせてたんですって。えげつない話よね~」

「人体実験か」

「そ。いやよねぇ。大昔のドイツを思い出すわ。順応出来なくて、そのまま死んじゃったり、奇形になっちゃったり。非人道ここに際まれりよ。資料見ながら、どんだけオエッてなったか」

「……」

「こんな突拍子も無い、ましてや異種間同士の遺伝子の結合なんて、まず無理な話なのよ。基礎である土台からして壊滅してる。だから、素材は次々にドタバタ死んで死んで死にまくって、いや、もうこれただの虐殺じゃん、屠殺工場じゃん、って記録書が続いてたんだけど、数年かけたある日、なんと成功例が誕生した」


 とは言っても、原型プロトタイプだけど、とリゼさんがモニターに既に表示されていた人物の写真を拡大させた。


「それが、この明らかに闇堕ちしてるベッピンの女子高生」

「ジェイさんが?」

「ええ。この子はね、ええと、ネコ科に属するありとあらゆる動物の遺伝子情報をぶちこまれてる。ライオン、チーターにヤマネコ、ヒョウにその他諸々。遠坂さん、彼女と話したことは?」

「あ、あります」

「警戒心が強いとか、動物的なところはなかった? 本能のままに生きてるって感じがしたとか」

「……」

「あったのね」

「で、でも、今までは失敗続きだったんですよね。どうしてジェイさんは成功したんでしょうか」  

「そうねぇ。彼女のときだけ何か特殊なことをしたと考えるのが妥当でしょうね。改造後の遺伝子情報を見るに、単純に動物だけを注入したとは考えにくい」

「……」

「ジェイって子の他に、別の人間の情報も混ぜられてる」

「別の人間? 誰の」

「わからないわ。けど、恐らくその人物の遺伝子が何らかの作用を促して、彼女の身体に順応させたのかも」

「じゃあ、こいつらも同じ原理で造り変えられてるってことかよ。ったく、マジで七面倒せぇな」

「その子達に組み込まれたのは動物じゃないわよ。獣の遺伝子情報は内包されてなかった」

「じゃあなんだよ」

「貴方よ」

「あ?」

「だから、貴方よ。岡崎徹也」

「……俺?」

「ジェイちゃんは違うけどね。天龍にとっ捕まってたとき、貴方、土師の研究施設に収容されてたでしょ。てっちゃんみたいな面白いビックリ人間は、マッドサイテンティストな土師の格好の餌よ。実験媒体として、あれこれ弄り回されて調べられた筈」

「それはあり得ると思います。土師さん、岡崎さんに興味津々でした」

「でしょうね。そんときに試してみたんじゃない? こいつバカクソ強いし、頑丈だから、いっちょ試してみっかー! 化け物も動物も、そんなたいして変わりゃしないだろー。って、え、あらら? 出来ちゃったわ。完成しちゃったわ、ヤッター! ……ってな感じで」

「いや軽すぎるわ」

「地下の実験室に、チャレンジ精神第一、人間は素材の宝物庫! って経営理念? が飾ってあったくらいだし」

「ハン●バルかよ」

「つまりはね、てっちゃんの血を受け継いだ彼等は、自己修復能力に異常なほどに長けてる。遺伝子に順応すればする程、身体能力も限界突破してるんじゃないかしら。私が推測するに、今残ってるのは、順応に伴って進化もした個体なのかも。やったね、てっちゃん! 家族がふえたね」

「おい、やめろ。……首を確実に落とすか、四肢を全部切断して動けないようにするか。ミンチになるまで刻むしかねぇってことか」

「面倒臭いけど、そうなるわね。しかも、一個体の能力値が、それぞれ非常に高い。一斉にかかってこられたら、もしかしたら太刀川よりも厄介よ」

「そこは何とかするわ。ま、面子の中に一番手こずった野郎が居なくてよかった」

「あら、てっちゃんにそんなこと言わせるなんて。喧嘩したくない個体が居たの?」

「朝倉のオッサン痛め付けた野郎だよ。あれはタイマンでも相手するのは骨が折れる」

「ふぅん。でも此所に居ないってことは、仕留めたてことでしょ」

「いや」

「え?」

「……居ないんならいいんだよ。別に」


 別にいい、と繰り返して言う割には、本人ですら腑に落ちないという顔だ。魚の骨が喉奥に引っ掛かっているときの様な表情の岡崎さんは、それ以上のことを口にすることはなかった。リゼさんとしても、この話に関しては特に深く追及するつもりも無いのか、首を傾げるのみ。

 
「イワンから、どれだけ積まれても白鷹こっちの勝率の方がぐんと低いし、これ以上、このドンパチに関わるのは御免だ、ってな訳で、手を引くって連絡が来たわ」

「賢明だな」

「感心してる場合じゃないわよ。彼が居ると居ないじゃ、その勝率も大分変わってくるっていうのに」
 
「プラスに考えろよ。逆にどんだけ積まれても、イワンはもう天龍にもつくつもりはねぇってことだろ」

「まぁ、そうなんだけど。その分、私が働くしかないわねぇー。スキル手当出るかしら。あ、そうだそうだ。忘れてた」


 デスクの中をゴソゴソとリゼさんが漁る。どこにいったかなァ、とポイポイと出てきたものを千切っては投げ、床の上を散らかしていく。大事な書類等ではないのか、そんなに粗雑に扱って良いものなのか。これ。

 とりあえず落ちてきたものを集めて、ひとつずつ拾い上げていると「あったあったァ」と語尾に音符がついていそうな程上機嫌に、鼻歌まで歌い出したリゼさんがこちらを振り向く。後ろに何かを隠す仕草をしていた。


「てっちゃんてっちゃん。こっちおいで」

「なんだよ」

「いいから。ほいで、ちょっと屈んで。前みたいに、私にちゅうするつもりで、いい感じの斜め角度になってもらえると」

「しねぇよ! いや、違うからね、志紀! 俺はもうしてないから。誰ともしてないから! ……って」


 わたわたと両手を振り、必死の形相で私の方を見ていた岡崎さんの首に、傷ひとつない綺麗な手が回される。瞬きをした瞬間に、ちょっと強引にリゼさんに引き寄せられた岡崎さんの首回りには、黒くガッチリとした革ベルトの様な物が巻き付いていた。それは、誰がどう見ても首輪にしか見えない。かつて私にも付けられていた所有の記。 


「なんだよ、これ」


 岡崎さんが不快感を示しながら、自身に取り付けられたものに触れて、カチャカチャと音を鳴らし、無理に外そうとする。が、リゼさんがやめておけと忠告した。


「だから、なにこれ」

「見たまんまでしょ。あ、リードもあるわよ。つける?」

「いらねぇよ。散歩行かねぇよ。尻尾も振らねぇぞ」

「シラユキから、必ず着けさせろってきつく言われてんのよ。保険ってやつね」

「……」

「あ。察した? いい? てっちゃん。遠坂さんもよく聞いて。今後、遠坂さんを勝手に連れ出そうとしたり、私達の指示・やり方に逆らおうとすれば」


 リゼさんが、ある小型の端末を取り出し、操作する。すると、岡崎さんの首輪の横側面の一部で緑のランプが点滅し、無情なアラーム音が開始する。光と音のテンポが徐々に早まり、嫌な焦燥感に見舞われる。はやく、はやく止めなければ。本能が警告する。身体が弾かれたように動いたのは、殆ど無意識だ。小型の端末を所持しているリゼさんの方向に足が近付く。

 しかし、私にしがみつかれる前に、リゼさんはにっこりと私に笑みながら動作を停止させた。不穏な緑と、朝無理やり叩き起こしてくる目覚まし音とは比べ物にならない不穏な音が止んで、安堵から腰から下の力が抜けて、へなへなと床に崩れ落ちた。ドクドクと心臓が鳴る。このまま爆発四散してしまうんじゃないかと思う位、煩い。


「志紀」


 同じく隣にしゃがみこみ、私の顔を覗き込んできた岡崎さんに抱き起こされる。その太い首に掛けられた輪がひどく恐ろしい。


「って、ありがちな感じに、中に仕込んだ時限装置が作動して、派手に首が吹っ飛ぶ。シラユキ手製のものだから威力は抜群よ」

「末恐ろしいことを楽しそうに言うな」

「アッハッハ。いくら頑丈が取り柄のてっちゃんでも、胴体と脳味噌切り離されちゃあ、流石に御陀仏するでしょ。心臓に穴開けて無事だ
ったってのも相当だけどねー」

「……ま、お咎め無しなんて無いわな。元々、指詰めるだけじゃ済まねぇわなぁとは思ってたから、むしろ千本満足で居ていいのかよって感じだわ」

「五体満足ね。そりゃそうよ。貴重な鉄砲玉減らすだなんて、そんな縛りプレイ、今はやりたくないわ」


 岡崎さんの首のサイズにぴったり合わせて作られた命取りの道具が煩わしいのか、なんとか指を差し込んで岡崎さんが取り去ろうとするが、リゼさんが、それはやめておけと制止する。無理に外そうとすると、もれなくドカンだとウキウキに説明されるも、岡崎さんはいつも通り、のほほんとした呑気な顔で、しかし真剣に「風呂のときどうすんだよ」と真面目に返している。違う。そうじゃないし、そこじゃない。

 命の手綱を握られた岡崎さんは全くの焦りを見せない。本当に自分の状況を理解しているのかと疑いたくなる。岡崎さんと同組織に属するリゼさんも同じくだ。どこまでも温和で、誕生日プレゼントを親戚の子供にあげた大人の表情をしている。

 他愛のない世間話でもしてるみたいだ。なんなんだ、この温度差は。どんどん血の気が引いていく私の方がおかしいのか。まさかそんな。


「むぁっ、待ってください」


 覚束ない足取りで、ふらふらとリゼさんに近付く。顔が青いを通り越して白くなっていると指摘を受ける。しかし、今はそんなことを気にしている場合ではない。


「お、お願いします。岡崎さんにつけたの、取ってあげてください」

「ええ? でもぉ」

「岡崎さんはただ、私がどうしようもない状態で、それをなんとかしようと、あんな風に行動してしまったんです」

「志紀。やめろ。いいから」

「よくない。よくないです。だって」

「気持ちはわからないでもないけど、こればっかりはごめんなさいね。仕方ないのよ。前科アリだから。本当に勝手な行動されちゃ困るのよね」

「だ、だったら、私が付けます。元を辿れば、そもそもの要因は私にあるんです。だから」

「でも、貴方を連れ出すと最終判断をして、決行したのはてっちゃん自身よ。それに、遠坂さんに枷をするよりも、この利かん坊のワンちゃんに首輪繋ぐのが効果覿面なの。色んな意味で、縛りが生まれるからねぇ」


 それでもと続けようとした口が、大きな手によって塞がれる。すぐ後ろから、嗅ぎ慣れた匂いがする。むーむーともがくも、声は籠り、かき消されてしまう。顔を上げると、岡崎さんは黙ったまま、やんわりと笑みを浮かべ、前を見据えている。自分の命が握られているというのに、あまりにも穏やかで。私の方が泣きそうだった。ゆっくりと離れていく手がひどく寂しい。

 罪悪感と虚無感で胸の内がいっぱいいっぱいで、以前の様に俯いてしまった私の頭を、岡崎さんがわしゃわしゃと撫でた。

 怖いほど落ち着いている岡崎さんの様子を見て、リゼさんがアララ? と首を傾げる。そして、じいっと岡崎さんを見つめ、というよりは観察し始める。どんどん至近距離まで詰めてくるリゼさんが、岡崎さんの鼻先にまで接近してきて、ようやっと岡崎さんが、ぎゅむっとリゼさんの横頬に手を添えて、やんわりと顔をずらした。


「なんだよ。そんなにジロジロ見んなよ。見世物じゃねぇぞ。それ以上は料金取るぞ、シャッチョサン」

「いやぁ、もっとギャアギャア噛みついてくると思ってたんだけど」

「あん?」

「貴方、本当にてっちゃん? 少し雰囲気変わったわよね。なんて言ったらいいのかしら。落ち着いたというか、大人びたというか」

「推定三十路に言うことじゃねぇよ」

「褒めてるのよ。驚いた、そんな顔も出来るのね、ってね」


 ちら、と腕時計を確認したリゼさんが「あぁ、もうこんな時間」と声を発した。同時に部屋の扉が開く。入ってきたのは、赤い髪と、爛々とした薄桃色の瞳がどこか艶かしい、フォックスさんだった。彼女は緩く口角を上げた穏和な表情で、私の隣にちょこんと立った。ふんわりと甘い柑橘の香水の匂いがした。


「遠坂さんは部屋で休みなさい。移動で疲れたでしょ。ちょっとしか寝る時間は無いケド。明日も早いし、何とか身体休めとかなきゃ。てっちゃんも、あと少しリゼさんのお話に付き合ったら解放してあげる」
 
「休めっつってもな。俺の部屋っつってもな」  

「ちゃんと別室用意しといたわよ。遠坂さんの隣の部屋」

「……」

「なぁに、その顔。同室にする訳無いでしょ。フォックス。部屋まで案内してあげて」

「はぁい」


 お駄賃よ、とリゼさんが備え付けの小型冷蔵庫から取り出した紙パックの牛乳を、フォックスさんに投げ渡した。フォックスさんはウキウキと早速、パックに付いていたストローを外して、飲み口となる穴に突き刺してちゅーちゅーと飲み始める。肉厚のぷるんとした唇が艶かしい。

 くい、と柔らかい手に繋がれて、後をついていく。引っ張られる形で、ずるずると岡崎さん達から引き離されていく。

 その前に言っておかなければと口が開く。足を止めてくれたフォックスさんにお礼を言って軽く頭を下げた。


「おかざきさん、その」

「んー? 俺が居なくても、ちゃんと寝てろよ。何かあったら、隣の部屋にいっから、安心しろ」

「そうじゃなくて」

「謝んな」

「……」

「お前は自分のことだけ考えてろ。もうこれ以上、他に気ィ回してる余裕は無ぇだろ。自分のこと以外は全部、完全に切り捨てろ。腹括れ。今からでもいい。甘い顔は見せるな。突け込まれる隙を見せるな」

「岡崎さん」

「……俺に対してもだ。お前も十分わかってるだろ」

「……」

「俺はかなり、諦めが悪い」

 
 欲しいものがあるなら、今度こそ自分の手で確実に掴み取れ。金銭のやり取りと同じ。なにかを得る為ならば、多少の損失は覚悟せねばならないのだから。ゆっくりと、ひとつずつ、私に念を押す様だった。

 障害となるものは突き放せ。己の目的だけを見据えろ。でなければ、岡崎さん自身が私の前に立ち塞がる可能性だってあるのだ。そう、他でもない彼自身が困ったように、けれど自嘲するように笑うものだから、私は言葉も出ずに、フォックスさんに手を引かれて、為すがまま、岡崎さんに背中を向けることになった。
 





 

 当たり前のことだが、そう簡単に眠りにつくことなど出来る筈もなく。フォックスさんに案内された部屋のベッドにごろんと寝転び、ところどころ剥がれが目立つ天井を、ぼんやりと見上げる。気分転換に、月を見に散歩でも、なんてことが許される環境な訳もない。

 この部屋は、外側から鍵をかける構造になっていて、内から自由に出入りすることは不可能だ。何よりも、部屋の外には見張りの人も立っている。視線だけを部屋の隅に投げると、無機質な監視カメラが分かりやすく設置されている。なおかつ、両足首には錠付きの枷がつけられ、ベッドの足にくくりつけられている。デジャヴだ。自殺防止だと、にっこりなフォックスさんに、窓ギリギリ、バルコニーには出られない距離に、鎖の長さが調整されている。寒い地下牢に入れられるよりは良待遇だ。ずっといい。

 鞄を引き寄せて中身を探る。荷物確認は受けたものの、たいした物は入っていなかったので、没収されたものは殆ど無い。


「(何の鍵なんだろう)」


 何度目になるかはわからない。オーウェンさんに貰った鍵を天に翳し、あらゆる角度から眺める。色とりどりの硝子が、月明かりによってきらきらと輝く。

 そうして、ぼんやりと用途不明の鍵を観察していると、右隣の部屋、窓際の方から、微かだが話し声が聞こえてくる。この建物は重厚に見えて、やはり歴史ある造りと年季故に、壁は薄く防音性は低いのだろう。ベッドの上で身体を起こし、耳を澄ませる。聞き覚えのある声が、ふたつ。

 肌触りが良いとは決して言えない絨毯に足をつける。ずるずると鎖を引きずって、ベランダの窓に近付き、ほんの少しだけ、僅か数センチ、窓を静かに開ける。先程よりも声が鮮明になる。聞き耳を立てるなんて、無礼千万。お行儀が良くない。しかし、聞くべきだと思った。彼女だけに聞かせ紡がれるだろう、彼の本音を。


「まんまるな月だな。こういうとき、月が綺麗ですねって言うんだっけか。これって誰が言ったんだっけ。なんか矢鱈と古い奴ってことしか覚えてねぇんだけど」

「……」

「うんとかすんとか、何とか言えよ。俺に用があって来たんだろ」


 シラユキ、と岡崎さんの声が聞こえてくる。


「貴方、やる気あるの」

「あるから戻ってきたんだろ」

「嘘言わないで」

「……燃え付き症候群ってやつになってるのは認めるわ」

「今から燃えてもらわないと困る。その頭と同じ、灰になるのは全部終わってからにして」

「辛辣だな」


 カタン、カタンと、何か抜き差しする音が聞こえてくる。シラユキさんから「衣笠の刀を粗末に扱うな」という発言が聞こえてきて、岡崎さんが鞘から刃を出したり戻したりを繰り返している音なのだとわかった。岡崎さんが刀の手入れをするときにしていた動作に合わせて聞いた音と、タイミングも酷似していた。


「馬鹿言え。オッサンの形見だぞ。メッチャ大事にしてるよ。たまに物干し竿にしてたけど」

「……」

「冗談だよ。そんな目で見んなよ。こうしてると、衣笠のオッサンが何か話し掛けてくんねぇかなぁと思ってさ。なんかルー●みたいに、フォース的なモンでテレパスしてくんねぇかなって」

「気が触れた? 刀は喋らない」

「ばっか、お前、知らねーの? 刀には魂が宿るらしいぞ。魂っつーか付喪神? 巷の御嬢さん方の間で流行ってるんだよ。超イケメンなにーちゃんが刀なの」

「衣笠は神じゃない」

「俺は人間とも思ってねーけどな」

「……」

「ってことは、衣笠南雲がすっげぇイケメンになって出てくんのか。うっわー、それ見てぇな。若かりし頃の親父とっつぁんで出てくんのかな。それともめっちゃ美化されてんのか。想像しただけで面白いわ」

「なにがしたいの」

「あ?」

「現実から逃避するようなことをつらつらと並べて、気色が悪い」

「情けねぇ話、頼りてぇのかもな。人生相談したい。あの親父は正論しか吐かねぇだろ。いつだって間違えない。迷いも無い。お前が拠り所にしてたのも、よくわかるわ。やっぱ凄かったんだよな。剣術だけじゃなくて、懐の深さっていうか。見せかけだけの俺とは大違いで、本物だった」

「……」

「期待されてるとこ申し訳ねぇんだけどさぁ、正直に言っていい? メッチャ最低なこと言うよ。マジでふざけんな案件」


 とても静かな夜だ。だから、岡崎さんの吐露は隣の部屋までよく聞こえてきた。




「俺、太刀川の首れる自信、あんまない」




 呼吸が一瞬、止まる。


「徹也」

「今のオフレコでって言いたいとこだけど、マジだから」

「馬鹿を言わないで。実力は拮抗して」

「頭がついていかねぇ時点で、差は出てる。それに、今の太刀川は、俺なんかより全部振り切ってるだろうよ」

「どうして」

「太刀川は、もう志紀しか眼中に無い。しがらみ全部取っ払って、その身ひとつで欲しいものを全力でりに来る」

「……」

「対して俺は、ぬくぬくとした環境で、女の為に足抜けなんて、あまっちょろいもんも考えてた屑野郎でさ」

「本気なの」

「本気だったよ。勿論、衣笠の親父とっつぁんとの契りを破るつもりは無い。納得する形で果たして、それからのつもりだった。何年かかっても、やり遂げようって、柄にもなく、青春真っ盛りの中高生みてぇに将来なんてもん見てた」

「……」
 
「血生臭い世界に、これ以上、志紀に身を置かせたくない。その為には、まず自分から足を洗わないとって、単純思考でさ。人並みの生活ってやつはさせてやれない。でも、少しでも与えてやれたらって」

「ぬけぬけと。夢物語にも程がある」

「それも理解した上での慣れない努力は認めてくんない? イワンが投げてきた無理難題の仕事、なるべく血を流さない様にって加減覚えたり。あとは七面倒くせぇ雑務やったり。堅気の世界に飛び込んで、世間様はどんな職務について、どんなルーティンワークで経済回してんのかって頭に叩き込んでたとこだったんだよ。やっと吸収しやすくなってきたかなってとこで、これだ」

「……」

「ここまでくると怨念だ。赦すわけねぇだろって道塞いでくんのは、やっぱり太刀川アイツなんだよ」

「くだらない」

「……」

「女一人のために全てを無下にするというの。奴等に、あの男に葬られてきた魂が、今度は私達を呪う。遺恨を、怨念を託し、託されることに、何の惑いはない。けれど、誰かが裁ち切らなければならない。私達が、あの外道共を駆逐しなければ、ずっと」

「わかってる。ちゃんと、わかってる。女々しいよなぁ。ほんと、脳内ゴールデン●ンバーだよ、俺」

「……」

「お前さ、香澄って女のこと覚えてる? 志紀のダチの。ほら、海連れてっただろ」

「……」

「てんてんてん乱用しすぎだろ。返事位しろって。まぁいいや。香澄アイツ、なんやかんやあって、あの街を離れることになってさ、その前に、ちょっと二人で駄弁ったんだよ。そんときに一発もらった話は省略としてな」


 掌の跡が残るほど一発が重い奴だったと楽しそうに、懐かしんで岡崎さんが語りだす。


「嫌われても仕方ねぇことばっかしてたし、俺のこと嫌いだって、面と向かってよく言ってきてたんだけさ。その大嫌いな俺相手に、志紀のことを頼むって、香澄の奴、頭下げてきたんだよ。いや、殴った後にそんな畏まられてもって、ちょっと思ったけど」

「……」

「お前も薄々感じちゃいただろうが、あん頃の志紀は、何でもかんでも、香澄ちゃん香澄ちゃんでさ。依存とまではいかねぇけど、端から見りゃ、心の友よ~って綺麗なもんの裏に、どこか依存それに似たものが志紀との間にあるって、香澄本人に、後ろめたそうに言われて」


 だからこそ、ずっと一緒にいてあげることがもう出来ない。ずっと並んで歩いてあげることが、あの子の為になるとは限らないから。そう言われて託されたのだと、知られざる話がそこにはあった。


「切り捨てたい訳じゃない。寂しい思いをさせるに決まってる。でも香澄は、志紀には幸せになってほしいって。言ってることとやってることがで、だったら一緒にいてやれよ。なんで手放すんだって言ったら、あんたほんっっとお子様ね!(裏声)って、年下に呆れ顔で罵られたときのの心境を50文字で述べよだったよ」

「……」

「香澄が正しかった。アイツ、衣笠の親父とっつぁんに会ってたら、お互い、旨い酒が飲める関係になってただろうな」


 カタンと、鞘から刃を引き抜く音が止まる。


「志紀が言うんだ。俺は、いい父親になれるって」


 シラユキさんが鼻で笑う。そういう反応になるよなぁと、岡崎さんが同意した。


「考えても考えても、わからなかった。無理もねぇよ。俺は家族ってもんを知らねぇんだから。それでも、あいつは言うんだよ。いい父親になれるって」


 だから、やってみることにしたんだ、と続けられた声は、切なくなるほどて、子供みたいだった。


「失笑されようが、馬鹿にされようが、俺なりに頑張ってた訳だけど」


 やっぱり駄目だった、と重くて沈み込むような、苦しい言の葉が響く。


「一度手を汚したら、もう戻れない。一度堕ちたら這い上がれない。足抜けなんざ、聞こえが良いだけだ。今まで背負ってきた全部の荷も、贖罪も、下ろせる訳もない。ずっと、死ぬまで、死んでもなお、引きずり続けるもんだ。それを、それを志紀にまで抱えさせたくない。だから、俺は太刀川に敵わない」

「……」

「敵う訳ねぇだろ。太刀川は、自分のところに志紀を引きずり込むのに躊躇はしない。地獄みてぇな場所に志紀を引き摺り回すことになるのも理解してる癖に、それでも、その道を選べるんだよ」


 沈黙が流れる。そして一分ほどが経過して、岡崎さんが発言した。「俺には無理だ」と。


「絶対無理。太刀川とは一生解釈が合う気がしねぇわ。だって俺、志紀の泣いてる顔、見てられねぇもん。たまになら、そそるモンあるけど、四六時中はマジで無理。耐えられない。志紀アイツには、バカみてえに平和な場所で、女捨てた間抜けな顔で、大口開けて旨そうにみたらし団子食っててほしいんだよ」

「……」

「捨て台詞でさ、香澄に言われたんだよね。並大抵の覚悟じゃあ、志紀はモノに出来ないって」

「……」

香澄あいつ、こうなるかもってわかってたんだな。予知能力者かよ。いや、違うか。流石、胸張って、自分こそが志紀の理解者だって言ってただけあるよ。ここまでくると保護者だ」
 
「どうするの」

「んー?」

「太刀川に敵わないのなら。これから」


 貴方も、私達も。絞り出した様な声だ。私も辛うじて聞き取れたが、消え入りそうな、消えてしまいそうな、まるで少女の様な幼さを感じさせる。それに対し、岡崎さんがすぐに応えることはなかった。
 

「俺が、太刀川みてぇに何もかもかなぐり捨てて志紀に絞ることに出来なかった理由は、さっき話したことだけじゃねぇぞ。未練は他にもあった」

「未練?」

「お前らだよ」

「え?」

「だから、お前らだって。あ、言っとくけど、別に衣笠の親父とっつぁんから任された責があるから、とかじゃねーぞ。いや、勿論それもあるけどさ」

「何言って」

「あー、だから、これ以上言わせんなよ。こっ恥ずかしいから」

「……」

「ここまでベラベラベラベラ、恥じらいも外聞も棄てて、くっちゃべったし、この際だから、腹割って全部ぶちまけるわ。俺は元々、一人で行動する方が得意な方なんだよ。一人でドンパチするのが楽ってタイプなひとなの。そういう喧嘩の仕方が、当たり前だったから。俺のやり方じゃ、周りを巻き添えにすることもある。ひとりのが、やっぱやりやすいな、周り邪魔だな、足手纏いだなって思うことも、結構あった。けど」

「徹也」

「志紀だけじゃない。俺はもうとっくに、お前らも大事なんだよ。欠けたら駄目なもんなんだ。特にシラユキ。お前は俺にとって」

「やめて。それ以上言わないで」

「……『岡崎徹也』にとって、守ってやらなくちゃいけねぇ女なんだってことは、昔も今も変わっちゃいねぇよ」

「…………」
 
「安心しろ。何がどうなっても、お前の大事な白鷹かぞくは、俺がこれ以上、無惨に無くさせねぇし、一方的に奪わせたりもしねぇよ。手足が千切れようが、首が飛ぼうが、何度でも噛みついてやる。……つっても、首輪これ()がある限り、結局はお前の指示下でしか動けないけどな。それでも、お前らの意思は俺が守り抜く」

「犠牲は付き物よ。私達も覚悟の上で居る。それに、口では何とでも言える。途中に気が変わって、遠坂志紀を連れ立って、また遠くへ行くことだってあり得る」

「しねぇよ。あいつは、俺が安全な場所に送り届ける」

「京都にそんな場所はない」

「あるんだよ、あいつには。あいつの帰りを待つ家族が居る場所が」

「……」

「疑いたいなら、とことん疑え。それに、俺が裏切ったそのときは、躊躇なくコレ起動させろよ。オモチャじゃねぇんだろ? 何の為についてんだよ」

「遠坂志紀を送る前に、私が装置を起爆させたら、彼女はどうするの。どうするつもりなの」

「俺が一緒に連れていくから、何の未練も残らねぇよ」

「……貴方、さっきまで自分が言ってたこと覚えてる?」

「覚えてるよ。だから、そうならない様に動くんだ」

「……」

「俺にとって都合の良い終わりを掴んでやろうと、その機会を伺ってる腹黒い俺が、俺の肚の中でずっと寛いでる。けどまぁ、とも上手く付き合っていかなくちゃいけない訳で」

「いやに素直ね」

「……」

「気持ち悪い」

「それ、リゼにも言われた」

「拾い食いでもしたの」

「どうしようもなく駄目になるほど惚れた女が大事すぎて、これ以上ない据え膳で尻尾巻いちゃって、寸前で喰いそこねた臆病な男だぞ。拾い食いなんかするかよ。舐めんなよ」

「舐めてないわよ。っていうか情けない」

「あ~~やっぱ食っときゃ良かったな~~。俺の手練手管なテクニックでトロットロに骨抜きにして、手籠めにしときゃ良かったなあ~~。も~、ほんと俺ってこうだよ。いつもこうなんだよ。途中まで何だかんだ上手くルート進んでたのに、ここぞってターニングポイントで選択肢ミスるんだよ。やらかすんだよ。あとちょっとで攻略出来たのに。甘いエンディング見られたのに。大団円ルートその後のイチャラブが見られる2が出る筈だったのに」

「知らないわよ」

「……本筋はどうなっかなぁ」

「どうにかするのよ」


 私達で。その会話を最後に、窓を閉めた。ベッドに戻り、布団に潜り、両足を抱えて、身体を限界まで縮みこませる。目蓋を閉じる。真っ黒な世界が広がって、やがて意識がストンと落ちた。










 カーテンの隙間から差し込む柔い光に身体が覚醒し、自然と瞼が上がる。着替えを終えるのと丁度に、フォックスさんが迎えに来てくれた。庭に連れられると、物騒な装いをした白鷹の人達が既に集まっていた。私達の後にもゾロゾロと館から現れる。

 建物から離れた後方に手を引かれた私は、まだ完全に陽が出ていない薄暗い景色のなか、人の群れの前方で、誰かが炎を纏った松明を掲げているのが見えた。目を凝らす。シラユキさんだった。傍らには、目立つ灰色の頭と、華奢な金髪の女性も見える。

 シラユキさんは、私達が先程まで過ごしていた古びた屋敷に近付き、見上げながら沿って歩く。隣接している書院造の純和風建築の和館の前に立つと、庭にある立派な松の木に火を付けた。

 風もあるせいか、火はあっという間に木を熱し、大きな炎へ成長した。火は木製の家屋にすぐに燃え移り、建物自体を呑み込んでいく。
 
 バキバキという音と共に、建物が崩れ落ちていく。火事といえる状態になるまでに発展するのは、僅かな時間だった。しかし、誰も動きはしない。火を移した当事者であるシラユキさんも、近くに居る岡崎さんも、リゼさんも、組員の人達の誰もが、洋館にまで火の手を伸ばさんとする炎を見ていた。ここで対処しておかねば、全焼は免れないというのに。


「あーあ、本当にやるとはねー。やっぱ肝っ玉が違うわ、シラユキさん」


 隣で同じく炎の渦を眺めていたフォックスさんが、その瞳に緋を宿しながら、あっけらかんとした感想を述べた。


「なんで燃やすんですか」

「この場所は天龍に特定されちゃってるからね。今からやること考えたら、踏み込まれる前に一切の痕跡は絶っておくべきでしょ」

「でも、ここは皆さんの帰る場所だったんじゃ」

「そんな良いものじゃないけど。あー、でも、シラユキさんにとってはそうなのかも」

「え?」

「此処、シラユキさんの生家らしいから」

「……」

「本気で、もう此処に戻るつもり無いんだろうね」


 炎に覆われる建物の前に立つシラユキさんの後ろ姿を見つめる。ひとつに縛られた長い黒髪が風によって揺らめいていた。


「(どんか表情かおをしているんだろう)」


 シラユキさんは微動だにせず、二本の足で地上に立って、崩壊していく我が家を更に飲み込まんとする炎を見つめている。まるで、シラユキさん自身の中にある怒りを体現している様だ。

 悲しみもあれど、うら若き時期に喪ったという家族との思い出が残る場所を、自らの手で焼き付くす。支えなど要らぬ、僅かな名残も残してなるものかと、自らの思い出も微塵も残さず、赤黒く燃える復讐のみに身を投じる、悲しい女性の姿が其所にあった。



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