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離さない譲らない赦さない
しおりを挟む「太刀川はくれてやる。煮るなり焼くなり、好きにしな」
ホラ、こちらに材料を並べておくから自由に調理なさい。ぽんとまな板の上に置かれた、素材と刃物。戸惑わない筈が無い。無理矢理包丁を持たされたシラユキさんが、柄を握る手にグググと力を込めている。今にも振り下ろさんばかりの手を必死に抑えつけているのが、横から伝わってくる。
「太刀川尊嶺は」
「ンン?」
「御組の、次期組長として挙げる為に、若頭としての地位を授けたのではなかったのですか」
「あぁ。そのつもりで、俺もこの世界のイロハを直々に叩き込んだ……ったんだがよぉ」
空になったお猪口が膳の上に置かれる。瀧島さんがふぅと大きく息をつき、胡座をかいた膝に両手を乗せる。お酒が若干回ったのか、ほんのりと頬と鼻頭が赤くなっている。
「あいつぁ、もう駄目だ。あんたも小耳にゃ挟んでんだろ。どうしようもならねぇガタが来始めちまってる」
「……」
「崩れるのはもう少し先の話だろと思っちゃいたんだが、予想してたより、ずっと長くは保たなかったなァ。マ、元々不良品を承知で身請けしたんだ。そこに文句垂れる筋は無ぇよ」
「先は短しと知っていて尚、今も動かせているのか」
「蛹みてぇに布団被って寝っ転がって、大人しくおっ死ぬのを待てる野郎だと思うかい?」
ぐしゃぐしゃに潰れた箱の中から取り出した煙草を咥えると、後ろに控えていた男性の一人が瀧島さんの煙草にライターの火を付けた。白い煙がゆっくりと吐き出し、試す様な眼差しをシラユキさんに向ける。一連の仕草は、自らを育ての親の様に形容したのも頷ける位、太刀川さんのものと似通っていた。
「こうして亡骸になる一歩寸前でも、身を粉にして役に立ってくれる。拾ってやった価値はあった。俺の為じゃあねぇだろうが」
ちらりと瀧島さんの目が、一瞬だけ私に向けられた。
「動機なんざ、どうだっていい。値段以上の良い買い物はした。けどなぁ、近いうちに使い物にならなくなるとわかってりゃあ、いつまでもおまんま食わせて置いとくメリットもどこにもねぇ。なら、どうする。もっと有益に考えりゃあいい」
「使い捨てか」
「オイオイ。この界隈で頭務める以上、何千と居る若衆食わせてやる為の生計立てなきゃなんねぇんだ。その中の一人が、病だろうが、怪我だろうが負おうが、いちいち可哀想だなんだのと尊んでられやしねぇよ。道端に転がる死に損ないの石ころに心を砕いてる様な人間に、大義が成し遂げられるか? 常識だろぉ?」
「外道が」
「若いねぇ。そこんとこは岡崎のあんちゃんの方が話がわかりそうだ」
「……」
「一晩で四千万だ」
ふぅと煙を吐き出して、瀧島さんが何らかの数字を提示する。怪訝な顔をしていた私を見て、クスクスと小さく笑ったのは霧江さんだ。嫌な予感がする。戦慄と形容するのがきっと近しい。皮膚の上を何かが這うような、ざわざわとした悪寒が走る。シラユキさんも眉を潜め、瀧島さんの意図が掴めぬことを無言で訴える。
困惑する私達の様子にカカカと愉快に笑い声をあげた瀧島さんは、煙草を咥え、まるでクイズ番組の正解を言い渡す気軽さだった。
「野郎屋で陰間してたアイツが、一晩で稼いでた金だ」
かげま。以前にも聞いたことがある。言葉の意味がわからず女将さんに尋ねると、太刀川さんの口から直接語られるまでは知らないでいてあげてくれとお願いされ、頷いた。太刀川さんもいずれ話すと言ってくれたから、いつまでも待とうと思っていた。なのに。
「綺麗な面してるからなぁ。アレの相場は桁違いの値つけられててよぉ。そんじょそこらの安女郎とは訳が違う。床を共にするにゃあ、それなりの大金を用意しないと叶いやしねぇ」
まさに高嶺の花だ、と瀧島さんが続けると、揶揄する下衆たらしい厭な嘲笑がいくつも聞こえてくる。私の大事なひとを嘲るものに間違いなかった。
「野郎にとことん入れ込んで、誑かされ、あるいは躾られ、懐柔しようとして、逆に首に縄を繋がれたのもいる。アイツの色を知り、すっかり味をしめて、毎晩毎晩足繁く通って金を落とし続けて、自爆の道を進んだ財閥の御令嬢なんてのも居た。笑い話だ。自分の持ち金も資産もぜぇんぶ尽きて、最後にゃ自分の身体を売って金を作ってまで、太刀川に抱かれに行ってたってんだ。破滅の女、なんて言って揶揄する声があってなぁ。この女ってのは、どっちのことを指してると思う?」
挑戦的な眼差しで、シラユキさんと私を見据えてくる。
「すっかり太刀川にお熱になって、逆上せあがって骨抜きにされた資産家で、あの野郎を伴侶に据えたいなんてトチ狂ったアホまで居た。大勢な。頭に血を上らせた資産家同士が、野郎を巡って喧嘩する姿は滑稽ったらねぇ。結局両者共に破産する始末だ。な、笑えるだろう」
「瀧島組長」
「まだまだ面白い話はあるぜ、柊さんよォ。太刀川の野郎を水揚げしてやるのに、俺がどれだけ注ぎ込んでやったか」
「……」
「つまりなんだ。奴は衆道にも精通してる。男の悦ばせ方も、勿論、女相手にも。そんじょそこらの売女より、よぉく仕込まれてんだ。白鷹の中で奴に燻ってる奴らが居るなら、憂さ晴らしに好きに使わしゃいい。後ろに関しちゃあ、ブランクってやつがあるかもしんねぇが、なぁにヤってる内にすぐ思い出すさ」
身体を売らせて荒稼ぎするも良し。舞踊も嗜んでいたから、接待にも使えるぞ、とまるで営業マンの様に、瀧島さんがセールスポイントをつらつらと述べていく。
太刀川さんが頑なに私に隠そうとしていた秘密が、彼の思いを無視して、どんどんと暴かれていく。こんな、最低な形で。
胸のずっと奥が燃えるように熱くて、嫌な音を立て続けている。痛いほどに軋んで、呼吸が荒くなる。
よっこいしょういち、と気怠げに腰を上げた瀧島さんが、裸足で畳を叩き、ゆらゆらと歩み寄ってくる様は、とても不気味だ。
「良かったなぁ。家族を殺した男に一矢報いるってぇ悲願が叶うぞ」
私達の前に立つ瀧島さんと目を合わせることなく、鋭い眼差しで、前だけを一心に直視しているシラユキさんの考えが読めない。けれど、甘い毒を含んだ瀧島さんの誘惑に、ピクリとその指先が動いたのを見逃さなかった。それは瀧島さんも同じで、反応を見せたシラユキさんにニタリと笑みを深くした。
「近くで見ると、本当に別嬪だなァ。片端なのが悔やまれる」
屈んで、その凛とした顔を覗き込み、と心の底から残念そうに呟いた。
例えるなら蛇だ。あるいは怪物か。この林檎をお食べなさいと惑わし、魅力に溢れるその果実を、口許に押し付けてくる。
「殺すだけじゃあ物足りねぇだろ。自分が受けた責め苦を、アイツにも味わせたいって思うだろう」
「……」
「死んだらそれで終わりだぞ? 一思いに命奪るよりも、太刀川が最も血反吐吐きたくなるやり方で、屈辱と恥辱を与えて、いっそ殺してくれって野郎に吐かせる位、存分に痛め付けてから嬲り殺す方が、あんたの気も晴れるんじゃねぇのかい」
「お前には関係ない」
「死ぬまで、床の間で腰を振らせてみるのも一興だ。大金も入るし、一石二鳥。幸い、伝染るこたぁねぇ病だからな」
シラユキさんの目の前に腰を下ろした怪物は、長い舌を出して、獲物を長い胴体で絡み取ろうとしていた。ふぅ、と煙をシラユキさんの顔に向けて吹いた瀧島さんが、今にもぶつかりそうな距離で、美しい女性への誘惑を続ける。とてつもない不快感が喉の奥から込み上げてくる。
「シケた面だなぁ」
「……」
「さっきからなんだあ、柊さんよォ。アイツの肩持つような物言いと態度だ。一度ウンと頷きゃあ、ずぅっと抱え込んできた悔恨も、怨念も、雪辱も晴れるってぇのに、まるでやる気が感じられねぇ。……木偶の坊が」
短くなった煙草が、不躾にシラユキさんの膳の上に押し付けられる。火が消えたそれは、ぐりぐりと押し付けられ、潰れた。
「それとも、なんだ。今の話を聞いて、復讐心を捨てたか。どこぞの聖母みてぇに御許しになられたのか? 慈悲深いこったなぁ」
「違う」
「だったら、つまんねぇ同情でもしたかい。憐れみを覚えたか」
「……」
「やっぱり、女は女だな。人情ってやつを捨てきれねぇで、ツメが甘い。くだらねぇ」
あ、いたい。と思った。固くおにぎりを作っていた手をそっと開いてみる。握りすぎて、掌の肉に爪が食い込んでいたらしい。爪の中には血が滲み、皮膚についた爪痕部分は肉が裂けており、見ているだけでイタタタとなる。紙で指を裂くよりずっと痛い。比べ物にならない。でも、それ以上に、泣きたくなるぐらいに痛いのは。
「仏になったアンタの家族は泣いてるだろうよ」
シラユキさんの目が大きく見開かれ、そして揺れた。今度は、誰が見てもわかりやすく、はっきりと、動揺という情を示した彼女に、瀧島さんは笑みを深めて、責め苦を与えていく。
やめてよ。それ以上はやめてあげて。シラユキさんにとって、恐らく一番柔らくて、一番触れられたくないところ。そこに不躾に足を踏み入れるのは、と叫ぶ私の声が瀧島さんに届く筈も無いし、届いたところで、この非道い人が受け入れてくれる訳もなかった。
「だって、そうだろう。自分らの仇討ちも出来ねぇ。無惨に散っていった組員達の苦渋も、悔恨も、晴らしてやれねぇ」
「……」
「ここぞという判断も、何が自分達にとって有益になるのか、将来を見据えて推し測ることもままならねぇ」
シラユキさんの手が小さく震えていた。猛毒を食らい、侵されている。
「こんな親不孝物の出来損ないの娘がテメェの餓鬼だってんなら、俺なら恥ずかしくって世に出せやしねぇ。足を引っ張ることしか出来ねぇんなら、どこかそこら辺の山に捨てた方が、組員ひとりぶんの食い扶持を増やせるってもんだ」
な、シラユキさんよォ。と、うって変わってわざとらしい、いやに優しげなトーンに切り替えられた声が彼女の頭を撫でた。
「そうはなりたくねぇだろ。川の向こうで手ェ振ってくれてる家族に、失望もさせたくねぇだろう? 墓前に、吉報を捧げてやりてぇだろ。楽にしてやりてぇだろ。自分自身も」
す、と差し出された右手は、年齢相応に皺があって、所々古傷が残っている。対して、シラユキさんの膝に置かれた左手は細く、肌は傷ひとつなく真っ白で、まともに食事を摂っていない為に、ほんのりと骨が浮き出て、弱々しい女性のものだった。
「これまでのことは綺麗サッパリ水に流して、手と手を取り合おうじゃねぇか。これ以上、家族を喪うのは御免だろ」
「……」
「太刀川の首は、その杯にしようや」
薄ら笑いを浮かべて残酷極まりないことを言い切ったこの男性に、一気に沸き上がったこの感情はなんと呼ぶべきなのだろうか。
プツンと、頭の奥で、これまで長い間ずっと固く結ばれていた紐が、遂に切れた音がした。パンツの紐が破れた音ではない。決して。
「あらあら」
淑やかな感嘆は霧江さんのものだった。鈴の鳴る様な綺麗な声が遠く歪んで聞こえる。頭に血が上りすぎて脳味噌が沸騰しているのか、上手く鼓膜が機能していない。やっちまいましたねぇと、どこか遠くから私に囁きかける声の主は私自身かもしれない。
じっと黙って大人しくしていた小娘の唐突なやらかし(では済まない)に呆然としていた人達が、霧江さんの一声に気を取り戻し、ハッとする。威勢良く身を乗り上げ、今にも私に襲いかからんと、それぞれが所持しているご自慢の道具を掲げて、ギャアギャアと口汚く罵り、威嚇してくる。しかし、それらも、瀧島さんだけをクリアに映し出した私の視界の隅でぼやけて見えるだけだから、実際あまり怖くない。
「おんどれぇ、クソアマァ! 親分に何してくれとんのじゃゴルァ!」
「ブチ犯されてぇのか!」
「瀧島サン! オイ、誰か拭くモンさっさと持ってこいや! はよ動かんかい!」
隣に座していたシラユキさんから、強い視線をひしひしと感じる。据え置き箪笥の如く大人しくしていろと言われていたのに、馬鹿娘の仕出かしに呆れ果てているのか、それとも驚愕で目を丸くしているのか。どちらかは分からない。
勢いが良すぎたせいで、自分の手にも付着した水が掌の傷口に入り込み、朱色の水滴がポタポタと落ちる。滲みて痛い。けど、そんなことは、もうどうでも良かった。怖いとか、殺されるかもとか、そんな感情を押し退けてでも、小指を落とされる以上のことになってもいいと私自身が優先したのは、お腹の奥からぐつぐつと煮え繰り返り、遂に沸点を越えて爆発してしまった、激流の感情だった。
膳の上にあったグラスの中に入っていた水を頭から思い切り被った瀧島さんは、何の感情も読めない目をしている。片膝を立てて、空になったコップの口を瀧島さんに傾け、血管が浮き出るほど強く握る、無礼千万な小娘を見上げていた。
へぇ、と感慨深く呟くと、消えていた薄笑いは、深みのあるものに変化した。
「今のは瀧島さんが悪いわ」
舞妓さんが大慌てで持ってきた手拭いを受け取った霧江さんが、優雅な動作で瀧島さんの傍に寄り、とんとんと頬辺りについた水滴を拭った。
「あれだけのことを言われたら、お優しくていらっしゃる遠坂さんでも堪忍袋の緒が切れるというものよ」
「なんだぁ。庇ってくれねぇのかい。冷てぇなぁ。水も、霧江ちゃんも」
「頭を冷やせってことなんでしょう。ねぇ、そうなんでしょう。遠坂さん」
返事は出来なかった。硬直して動かない身体は、一瞬たりともこの男から目を反らすなと、瞳孔を開き、限界まで目を凝らせ、と脳が伝達している。
ゴリィ、と冷たく固いものが乱暴に顳顬に当てられた。同時に控えていたフォックスさんが
俊敏に、太腿のベルトに装着していた銃を、私の横に立つ男性に向けたことが、誰かの怒鳴り声でわかった。ぐりぐりと銃口を埋め込むように押し付けられ、物騒な脅しの言葉を掛けられている気がするが、細かい内容はてんで頭に入ってこない。のだが、私が意識を一転集中していた人物の発声だけは、すんなりと聞き取ることが出来た。
「オイ」
「へ、へい」
「誰が銃向けろっつったぁ?」
「えっ、し、しかし、親父さん」
「下げろ」
「あ」
「二度も言わせんじゃねぇや」
その女のドタマに当ててる道具下げろっつってんだよと繰り返され、場がしんと静まり返る。一気に空気が重くなり、油断したら押し潰されそうになる。頭に突き付けられていた銃口が離れていく。先程の威勢はどこへやら、相手の息をヒュッと詰まらせる外見とは裏腹に、か細く震えた「すいやせん」という声が耳に届く。
あとはもう、瀧島さんと私との一騎討ちだ。どちらかが目をそらしたら負けという、とてもシンプルなにらめっこ。完全に拭き取られることのなかった瀧島さんの顎に伝った水滴が、ぴちょぴちょと下に落ちている。不思議と、私を見つめる、品を定める様な瀧島さんの眼差しは
、どこか慎重に思えるのは何故だろうか。
「イイ面構えになったじゃあねぇか。志紀ちゃん」
ぐつぐつと火にかけすぎたお鍋の具がお腹の中で煮詰まって、火傷しそうなぐらい熱い。目の奥は、チリチリと焼けつくようにひりついている。呼吸の仕方も下手になった。何かを叫びたくなるのを我慢する口内は、歯がひび割れてしまうんじゃないかという強さで噛み締めずにはいられない。ゆっくりと、フーフーと息をする。
瀧島さんがリミットブレイク状態の私と同じ位置になる様に、ゆっくりと身を乗り上げ、真正面から、こちらの眼球を覗き込んで来る。太刀川さんを彷彿とさせる、うっすらとした笑み、そして感情を籠らせた目の色をしていた。
「いいねぇ。やぁっと俺好みの目付きになってくれたよ」
「……」
「跳ねっ返りの、極道の女の目だ」
そう言って、再び腰をその場に落ち着かせ、瀧島さんは新しい煙草を取り出していたが、煙草までも水を被ってしまっていたらしく、「湿気ちゃってるよ」とからからと笑っていた。
片膝を立てたまま息を止めていた私の気を落ち着かせようとしたのか、瀧島さんの横についていた霧江さんが、私の肩に白魚の如く真っ白な手を伸ばしてくるのが視界の端に移る。しかし、その細すぎる華奢な手首を掴み、静止させた者が居た。
緩慢な動きで、頭を横に動かす。私に触れようとした霧江さんの手首を、シラユキさんがぎゅうと左手で捉えている。霧江さんの紫水晶の瞳と、シラユキさんの黒瑪瑙がぶつかる。シラユキさんは表情無く、対して霧江さんは口元に弧を描いて見つめ合っている。いや、睨み合っていた。バチバチと二人の間に雷の様なものが見えるのは幻覚だろうか。
「女のマウント取りってのは怖ぇなぁ。なぁ、志紀ちゃん」
返事は出来なかった。
霧江さんが手を引く仕草を見せると、シラユキさんが彼女を解放する。にこりとシラユキさんに笑いかける霧江さんだが、心からの笑みではない。氷の冷たさを感じた。
幻想的な美しさを兼ね備えた女性の代わりに、私の肩に手を添え、握り締めたままだったグラスをそっと取り上げたのは、シラユキさんだった。
ドッドッと忙しなくリズムを刻む心の臓。理性を取り戻した途端これだ。自分が何を仕出かしたのか唐突に理解すると、すぐに焦躁し、風邪を引いたときに似た悪寒に見舞われる。でも、あそこで動かなかったら、私は人として終わると、一生モノの後悔をすることになると思った。
ブルブルと未だバイブレーションが収まらない手は恐怖によるものなのか、それとも。
硬直し、呆然として発声出来ない私の代わりに、シラユキさんが頭を下げた。
「瀧島組長殿。失礼しました。非礼をお詫び申し上げます」
「あぁ、気にすんな。お陰で、ちょおっと酔いも冷めた。へへっ」
「……先程の話ですが」
「ンン?」
「貴殿らと手を組むには、あまりにも、これまでの犠牲が多すぎた。それらに目を瞑ることは無理難題と言える。彼等に顔向けも出来なくなる」
「……」
「加えて勘違いしないで頂きたいのが……私が心から滅さんと常々考えるのは、太刀川尊嶺に対してだけじゃない。それは」
「全部だろ? 俺も含めて」
「……」
「へへっ。わかってるよ。わかりきってる。俺がどれだけの命を頂戴して、似た類の怨念を押し付けられてきたと思ってんだ」
「……瀧島組長」
「なぁ、柊さんよぉ。アンタはまだ若い。若いからこそ理解に苦しむだろうが、亡者共を尊んで機会を打ち捨てようなんざ、不毛極まりねぇんだよ。この世界の組織の頭に立つってんなら、消えていった魂のことを、いちいち深く捉えるんじゃねぇ。そんなもんは、ガッコウの道徳の授業でしか役に立ちゃしねぇ。奴等はもう土に帰った死人だ。何をしようが、手向けになんざなりゃしねぇよ。おっ死んだ連中をいつまでも引き摺り続けてどうする。奴等は何をくれる。士気か? 周りからの同情か?」
「……」
「そんな形の無い陳腐なもんにしがみついてる様じゃあ、いつまでも前にゃ進めねぇ。生きてる人間を導く立場にもなれやしねぇよ。資格だって無ぇ」
さっき、シラユキさんに言っていたこととは真逆だ。それはもう清々しい程に開き直っている。弁明するでもなく、本人もそのことには気付いている様だ。
きっと、瀧島さんにとっては、これが本心なのだろう。繕うこともせず、「腹を割って話そう!」と某笑い袋Dの様に言えば聞こえがいいが、人を掌でコロコロする為に、自身の言動を以てして、相手に手応え有か無しかの反応を窺いつつ、次のカードをすぐに切っていく。だからこそ恐ろしい。情緒不安定にも見えるし、腹が黒く、意地悪い。
けれど、何もかも捨てて行かなければ前進出来はしないと豪語し、シラユキさんを説き伏せようとする瀧島さんは、誰にとっても酷なことを言っている筈なのに、どこか寂寥を覚える。その面影に、私の想い人が重なったことが何よりも私を驚かせた。
「マァ、とりあえず、場所変えて、今後についてもう少し駄弁るとしようや」
「……」
「へへっ。安心してくれていいよ。もう意地の悪い言葉で詰めたりはしねぇから。また濡れ鼠にされるのは流石に御免だしなぁ」
名前を呼ばれ、ビクリと体が跳ねる。未だにまるくなるを発動中の私は、小さく首を動かすのでいっぱいいっぱいだ。先程とは打って変わって、瀧島さんの目に険は感じられず、むしろ道端で見つけた震える小動物に、脅えなくていい、と声掛けする慈愛が感じられた。睨めっこしていたときの鋭さとのギャップに、ぽかんとしている私への声も柔らかい。
「風の噂で聞いたよ。志紀ちゃん、麻雀出来んだって? 場所変えんなら、俺の馴染みの雀荘でも行って、ひと遊びしねぇか。丁度四人揃ってるしなぁ」
「……」
「にしても、本当に意外だよなァ。誰かに教えてもらったの?」
「お、おじいちゃ……祖父に」
感覚を掴む為に、最初はポ●モンポンジャンから入ったと、混乱から凄まじく、瀧島さんにとってはどうでもいいだろう情報まで付け加えてしまう。鼻で笑われるか、へぇボタンを一回押すだけで流されるかと思えば、そうではなく、「ポケ●ンかぁ。俺はギャ●ドスが特に好きだったなぁ」としみじみと懐かしんでいる。知ってるのか、ポケ●ン。
「柊さんも、場所移して構わねぇだろ? 決まりだな。おいちゃんも着替えるから。オイ、俺の替えの服……し●むらで、スウェットかなんか、とにかくキッチリしてないの用意してくれや」
「へ、へい」
部下の男性の一人に用意してくれと指示する瀧島さんをよそに、シラユキさんが後ろに居るフォックスさんに視線をやると、四つん這いになったフォックスさんが、ワインレッドの髪を揺らしながらシラユキさんの口元に耳を近付けた。何か言伝てられたらしいフォックスさんは甘ったるい声で「はぁい」と語尾にハートがついていそうな返事をし、ゆっくりと立ち上がる。
「さ、いこ。志紀ちゃん」
「え」
「お着替え。しきちゃんも袖口濡れちゃったでしょ。さっきので」
ちょん、と自身の手首辺りを指すフォックスさんに、身に纏っている着物を確認する。飛び散った水滴が跳ねて、所々染みが出来てしまっていた。全身の血が凍る。ど、どうしよう。これ、見るからに大切に保存されてたお着物なのに。は、はやくお手入れしなければ!
使命感から急に腰を上げると、不安定な体勢で居た為に、ふらついたところをフォックスさんに支えられる。
「一旦失礼します」
私の代わりに、フォックスさんが場に声を上げて、ふらついた足取りの私の背中を支えて導く。退出する前に、若干振り返る。シラユキさんの後ろ姿と、そして先程のシラユキさんとフォックスさんのやりとりと同じく、焦燥を見せる若い衆のひとりに、何事か耳打ちされている瀧島さんの姿が見えた。
「ふぅん。こりゃあまた……予想より随分思い切ったことをしてくれるじゃねぇか。古い戦でも参考したか。え? 柊さんよ」
パタンと襖が閉じられた後、水のたまった鹿威しが落ちる音が聞こえた。私の鼓膜に入ってきたのは、それが最後。
「一家心中。カミカゼか。鷹の名を持つお前さんらに似合いだな」
残された彼等が一体何を話していたのか、シラユキさんの胸の内を把握し、ほくそ笑む瀧島さんに対し、様々な情が入り雑じった歪んだ微笑を彼女が返していたことを私は知らない。これから起こりうることを、シラユキさんが天龍組に仕掛けたことを想定するのは、私のオツムでは不可能だった。
瀧島さんの言葉に詰られていたシラユキさんをあのまま一人残してしまったことが気になって仕方ない。
「しきちゃん。こっち」
ぐるぐる悶々と、いろんな事を考えながら廊下を渡る途中、くいと腰を引かれ、静かに道すがらの和室に引き擦り込まれる。入室したのは客室用ではない、従業員のみが立ち入る小部屋だった。入用のものが棚の中に積まれている。
私達の他に誰も居ないとわかると、風船から空気が抜ける様に、一気に全身が脱力した。へなへなと座り込んでしまう。
後悔はしていない。していないけれども、とんでもないことをやらかしてしまった。渇き始めている両手を、信じられない心持ちで眺めた。
フォックスさんが片耳に手を当て、何やらぶつぶつと独り言を話し始めた。話の内容から、リゼさんと連絡を取り合っているらしい。
「だぁいじょうだってぇ。確かにちょっと迷ってたっぽいけど、シラユキさんウンとは言ってないし。っていうか正直、瀧島の提案って悪い話じゃないよね。太刀川もくれるらしいし、確実に一人をまず潰せるって確約される上に、皆の憂さも晴らせて一石二鳥じゃない? 相手の口車に乗ってあげるのも個人的にはいいんじゃないかな~なんて……ウソウソ。やだ、そんな怒んないでよ、リゼさん。冗談だって~」
あははと笑いながら「そんじゃまぁ、一応手筈通りには動くけど……」とフォックスさんの薄桃色の瞳が私を映す。
「わかりやすく餌ぶら下げても、顔出してくんないパターンになっちゃったねぇ」
その餌たる私が聞きたい。太刀川さんを引き摺り出す為に駆り出された訳だが、私はどうなるのか。
「仕方ないね。腹決めなきゃだなぁ」
通話相手に呟く表情は笑ってはいるけれど、ほんの僅かな諦めを滲ませている。ゾク、と悪寒が背筋を撫でた。やめてよ。私、嫌な予感に限って当たるんだってば。そんな顔しないで。ねぇ。
「行こっか、志紀ちゃん」
「行くって……え、あの、でも私、まだ着替えが」
「必要ないない。ホラ急ご」
「あっ、え、ちょ」
「はいはい。出発おしんこー!」
「きゅうりのぬかづけー! じゃなくて」
はい、よいしょー、とフォックスさんに両手を取られ、へたりこんでいた私の身体を引き上げようとしてくれた。が、少しだけこちら側に腕を押し戻した私に、肉厚でぷるるんとしたフォックスさんの唇が、う? の形になって首を傾げた。
「なんで? 行きたいって言ってたでしょ。天龍寺。ちゃんと送ってってあげるから」
「え?」
「え」
「えっ」
「え? なに? 天龍寺じゃなかったっけ?」
「い、いえ。そうなんですけど。私の役割は」
「もう済んだでしょ。天龍の若大将はホイホイされてくんなかったから、不発に終わったけど」
「でも、その、私、交渉の材料に。それについても、今から詳しく話し合うって」
「シラユキさんは、ハナからしきちゃんのことを天龍に渡すつもりなんか無いと思うよ」
「……」
「太刀川は来ない。のこのこ尻尾出してくれたんなら、白鷹にとっても一番良い筋が渡れただろうけど、相手はあの泣く子も黙る若頭様だし、そう簡単には乗ってはくれないだろうってことは、私達も勿論想定済み。どっちっていうと、このケースが正規ルートだったりする訳で」
「どうなるんですか?」
「ん?」
「太刀川さんを、瀧島さん共々まとめて討つことが白鷹の皆さんにとっての最適だったなら、この状況下で、フォックスさん達は、どう動くことになるんですか」
「ん~……」
「……」
「ここからのことは、しきちゃんには関係無いし、気にしないでいいよ。聞いてて気持ちのイイ話にはなんないだろうし」
「フォックスさ……っえ……う、うわ!? わわっ」
「おっと」
背後から焦燥感と書かれた看板を持った私がダッシュで追い掛けてくる。捕まりたくないからその先を聞いておこうとしたのに、突然に地鳴りがした。
ここから少し距離の有る場所で花火が打ち上げられたか、雷が落ちたのか、とんでもない規模の爆発でもあったのか、轟音が響き渡った。大きく揺れた地面に安定した姿勢を取れず、ゆらゆらと尻餅をつきそうになった私の身体を抱き止めてくれたのはフォックスさんだった。
「じ、地震?」
「ありゃま。予定より、いやに早いなぁ。何かあったな」
「何かって」
「そんじゃま~、ここも危なくなるし、行こっか。たらたらしてたら移動が難しくなる。おんぶしたげよっか」
「フォックスさん。お願いします。ちょっとだけでいいから、説明を」
「してあげてる暇は、そんな無いんだよね。とりあえず、岡崎さんと一回落ち合って……」
フォックスさんの淡い桃色の瞳孔が開かれる。狐の様に髪の毛を逆立てている風に見えるのは気のせいじゃない。その変化に、え?
と首を傾げる前に、良い匂いのするふわふわとした肉体に真正面から抱き着かれ、先に顔が熱くなるが、それもすぐに冷めることになる。ぎゅうと腕の中に囲われ、顔面がマシュマロみたいな柔らかさのお胸に沈められたのは良いが、後頭部は固い床に思い切りごっつんこし、前後で相対する感覚に脳がパニックを起こす。凄まじく後頭部が痛い。たん瘤出来るかも。もはやタックルだ。
押し倒された私の全身は、外敵から守るようにしてフォックスさんの身体に覆われる。実際、その意図はあったのだ。
私達が居る部屋の扉を、何発もの銃弾が襲った。硝煙と部屋のあちこちが弾丸に砕かれ、パラパラと細かい埃や瓦礫などが宙を漂う。戦争映画かよ、と突っ込みたくなる位に遠慮がない銃撃音が、鼓膜を打ち破ろうとしている。あのまま突っ立っていたら蜂の巣になっていた。なんてこった。言葉も出ない。
暫くして衝撃音が止む。ほんの少しだけ顔を上げたフォックスさんが周囲を確認すると、すぐに起き上がり、私の身も起こして、倒れていた大きな棚の後ろに身を潜めさせた。そのときに見えた障子は、猫ちゃんもドン引きするくらい風穴だらけで、完全に御臨終されている。
その穴の向こうでは、男女問わない悲鳴が聞こえて、何者かが数名、物騒な武器をカチャカチャと鳴らしながら(弾を詰め直している風に見えたのは気のせいだと思いたい)歩いてくるのが若干見えてしまったから絶望感しかない。
「なるほどね。リゼさん。実力行使で獲りにきたっぽいよ」
『らしいわね。そっちに黒いのが男女で二人向かってる。遠坂さん、大丈夫? 怪我は?』
「は、はい。フォックスさんが助けてくれたので」
『良かった』
「ん~? まっく●くろすけは岡崎サン担当じゃなかったっけ。岡崎サン、何してんだか」
『さっきから、てっちゃんに呼び掛けてるけど、ノイズばっかりで応答が無いのよ。位置情報もずっと同じ位置で掴めなくなった。何かあったと考えるのが妥当ね』
「岡崎サンのことだからヤられてるってことは無いとして……それ、通信機落としてんじゃない?」
『え゛』
「……」
『ま、まさかぁ~。無いでしょ、流石に……子供じゃないんだから』
太腿のベルトに括りつけていた銃を二つ取り出して、迫り来る相手を陰からフォックスさんが警戒する。ほんの少し顔を出して様子を伺うと、その少しの隙すらも見逃すことなく、またもや弾が撃ち込まれる。うわっと小さく抑えた悲鳴を上げて耳を塞ぐ私とは別に、とんでもない反射神経で顔を引っ込めたフォックスさんの表情は焦ることなく飄々としている。なんなら鼻唄でも歌い出しそうな余裕っぷりだ。すぐそこまで近付いてきた2つ分の足音が、冥土から私達二人の魂を頂戴しにやってきた死神にすら思えてくる。
「とにかく、まぁ。とりあえず、こっちを片付けなきゃかな」
銃を手に飛び出そうと身を乗り出したフォックスさんの意図を察した。腕を慌てて掴んで引き留める。きょとんとした顔をするフォックスさんに「なに?」と尋ねられるが、こっちの台詞である。
「ひっ、一人じゃ危ないですよ! 相手は二人です。逃げる方向で考えましょう! 命は大事にしましょう!」
「私もそうしたいのは山々なんだけど、出入口塞がれちゃってるからな~」
「じゃあ、窓から!」
唯一残された脱出経路を振り返るが、先ほどの銃撃で穴だらけになった大振りの置物やら棚に積まれていた荷やらが積み重なって、窓部分をキッチリ塞いでしまっていた。いや、絶望。
アウアウと、ぼの●の状態になり、宙にみょみょみょーんと特有の効果音と焦りの滴を撒き散らす私に、フォックスさんが何を思ったのか、銃を持ったままの手で、器用に私の頬をふにっとつまんだ。
「おお、噂通り、やわらかーい」
感想を述べられるが、そんな悠長なことを言っている場合ではない。
「ふぉ、ふぉっくすさ、あの」
「しきちゃん」
「ふぁ、ふぁい」
「庇護対象が心掛けるべきで一番大事なのはさ、しゃしゃり出ないことだと私は思うんだよね」
「ご、ごめんなさい……」
「あぁ、でも、さっきのは別」
「?」
「しきちゃんが瀧島に水ぶっかけてやったの。あれは見てて、私もほんとスカッとしたから。スッキリボール投げてあげる」
「あ、いや、でも」
「けど、今は冷静に。身の程を弁えて、黙って見てて。何があっても、何を見ても、動かない、飛び出さない、手を出さない。大人しく此処に居る。待ってる。しきちゃんは何も出来ないんだから」
「……」
「いいね?」
「はい……」
「いい子いい子~。聞き分けの良い子、私大好き。なでなでしてあげる~」
「……」
「大丈夫だよ。そんな顔しないでって」
「……本当に?」
「ほんとほんと。岡崎サンと比べるもんじゃないけど、私もそこそこ出来るからさ」
途端、再び私達が隠れている棚壁に連弾が襲う。フォックスさんが胸元から取り出したものについていた杭を歯を使って抜き取り、枷の外れたそれを、そのまま壁の向こうに投げた。コロン、と転がる音がしたと思えば、爆音と共に爆発し、部屋が揺れる。白い煙が、其ほど広くはない室内に充満した。
咳き込み、何とか開けた視界は煙で真っ白だ。キーンと耳鳴りがして、プールの水が入ったときと同じ曇った感じがする。目の前で座り込んでいたフォックスさんは忽然と居なくなっていて、ほんの少しだけ顔を出して、バリケードの向こうを確認する。
発砲の火花が、白煙のなかで踊っていた。よく見えはしないけれど、赤みのある髪がちらちらと映る。耳はまだダメージを受けているものの、幾分がマシになった靄に慣れてきた目に、ヒトの形がハッキリと見えた。
相手は二人。黒装束の男性はフォックスさんに拳や足を繰り出すなどの肉弾戦を仕掛けている。フォックスさんは軽やかな動きで相手の動きを流して、時に仕返しをする。けれど、フォックスさんが対処しなければならないのは、男性だけでなく、もうひとつ、そう遠くはない距離から飛んで来る弾丸だ。
連れ合いの女性は、少し離れたところで大振りの銃を構えている。先程、私達に弾丸の雨を降らせたのは、このひとだろう。あの女性からの射撃をかわしながら(マトリッ●スかなと思った)の接近戦の相手は、フォックスさんには分が悪く、時折男性からの拳激や足蹴を避けきれず、その身体に受けてしまう。
加えて、黒装束の人達は、なんら弾を気にする素振りを見せないのが末恐ろしい。当たれば致命傷だろう飛翔物を、全くもって避けようとしていない。先程から何発もフォックスさんを狙う筈の流れ弾を食らって、その衝撃に身を揺らして血を吹き出しているのに、痛みを感じてないのか、表情はちっとも変わらない。発砲者も、弾が味方に当たろうがお構い無しだ。仲間意識が無いのか。
止血もせずに暴れているから、相手の流している血の量は夥しい。普通なら、もう動けなくなって倒れるか、とっくに亡くなっている。疑問に思ったところで、リゼさんの話が甦る。そうだ、この人たちは岡崎さんの。
飛んだり、跳ねたり、フォックスさんに、重力というものは存在するのだろうか。彼女の身のこなしは、名の通り狐だ。
そんな中でも、さっき発生したものと同じ地鳴りが起こる。揺れが大きい。一瞬身体がGを忘れたかと思った。その衝撃を利用して、フォックスさんがまるでトランポリンの動きで後ろ回転をする。そのときの蹴りが相手の顎下を直撃したが、男性も服の袖中に潜ませていた仕込みナイフをフォックスさんに投げる。右横からの弾丸、真正面からの刃物同時には流石に対処が間に合わずフォックスさんの右の二の腕に弾が一発、そしてナイフが左肩に刺さってしまった。血の気が引くどころではない。フォックスさんのところに飛び出そうになったが、彼女に言われたことを頭のなかで反復し、なんとか抑えた。
信じろ。大丈夫。フォックスさんもそう言ってた。ここにいなきゃ邪魔になる。私はただの足手纏いにしかならない。今はとにかく抑えるんだ。呪詛の様に、何度も何度も何度も繰り返し、自分に言い聞かせる。
フォックスさんが後方転回からの着地のタイミングで、彼女が男性から一旦距離をとったこと、そして何故この部屋にやってきたのかの意味を知る。
フォックスさんは倒れていた鏡台の引き出しの中から、そこに何があるかわかっていたみたいに取り出したものを足元に落とした。ボールに似たものを狙撃主が居る方向に蹴りつけ、その球体に、これまで持っているだけだった銃を向けた。
「目を塞いで!」
慌てて両手で目を覆うと、何かを撃ち落とす音と同時に、閉じた掌の隙間から眩しい光が僅かに漏れた。
ゆっくりと手を退けると、そこには光に目をやられて動きが止まっていた男性に、フォックスさんが一気に迫っていた。右肩に刺さっていた刃物を潔く抜くと、血がブシュッと空中を舞った。フォックスさんが彼の胸ぐらに到達したときにはもう遅い。下から迫ってきた刃物は男性の顎を貫き、口内から赤く染まる刃を、天に向けて生むこととなった。柄の先端に掌底を当て、更に上へ上へ押し込まれる。男性の口からゴボリと塊となった血が吐き出された。フォックスさんが左手に構えていた拳銃から、キッチリ6発、男性の腹部に連続して撃ち込もうとした。
しかし、彼等もまた岡崎さんの強靭な血肉を受け継いだ存在だ。やはり簡単には倒れてはくれない。
お腹に弾を入れられながらも、胸元にあるフォックスさんの頭を鷲掴み、何度も何度も殴り付けている。よく見ると、男性の手は銀色に光る硬度のある金属の様な何かが装着されていると気付いた。頭蓋を殴る音が余りにも痛々しくて、目も耳も背けたくなる。ガチガチと歯が鳴る。
頭から血を流し、顔面が真っ赤になったフォックスさんは、男性の顎に刺していた刀身を一気に抜くと、返すと言わんばかりに今度は男性の顳顬に向けて刺して、ぐりぐりと抉った。ぐるんと男性の目玉が白目を剥いて一周する。中身の脳味噌がぐちゃぐちゃにかき混ぜられて、身体が痙攣している。
フォックスさんは、そのままの勢いで男性を地面に転がし、喉仏のある首に足を乗せた。体重をかけた御足の下でゴキンと嫌な音が鳴る。女王様でも、もう少し手加減はするだろう。グロい。無意識に自分の喉を押さえていた。
たらりと血の滴る赤髪をふぅとかき上げ、顔についた血を拭うフォックスさんを休ませてなるものかと、残りひとりの女性が縦横無尽に弾丸を乱射する。まだ閃光のダメージがあるらしく、片手は両目を押さえていたのが辛うじて見えた。無茶苦茶だ。私が隠れる棚にも衝撃が走る。そ、そろそろ壊れそう。棚のライフはもう残り僅かだ。
「(フォックスさんは)」
無差別に飛んで来る弾にビビり散らかし、当たりませんように神様仏様女神様、と祈りながら恐る恐る確認する。フォックスさんは今しがた打ち倒した男性を肉壁にして弾を防いでいた。
数打ちゃ当たるを実践し続けた女性の銃は、当然弾切れを起こす。視力は完全とは言えないが、戻りつつあるのだろう。新たに弾を補填する姿に惑いは消えていた。しかし、すばしっこいフォックスさんがその隙を逃すことなく、壁にしていた男性を投げ捨てて、ベルトにかけていたピストルを取り出し、何発も何発も、女性の額に的確に命中させながら接近を仕掛ける。
弾を食らった衝撃が彼女の身体を襲い、真っ赤な液体を撒き散らす。ついに至近距離に迫ったフォックスさんに彼女も応戦しようとするが、フォックスさんの方が一歩早かった。
充填された銃を突き付けようとした女性の両肩に手を突き、新体操の競技ばりのアクロバティックな動きでフォックスさんの両足が天に向く。体重をかけられた女性がバランスを保てず、よろめくその後ろに着地したフォックスさんの両手が後ろから彼女の首を捕まえ、滑らかな動作で相手の頭を一回転させた。無理な方向に動かされた首の骨の音が響く。だらんと垂れた頭はもう動くことは出来ず、機能もしないだろう。
力を失い、床に伏せた身体の傍らに落とされた重力のありそうな銃を拾い上げ、フォックスさんが横を通る。足が進む先は、最初に命を頂戴した男性のところで、信じられないことに、横たわる身体はまだウネウネと手足を動かし、起き上がろうとしていた。例えるなら、そう、ひっくり返ってしまった、だんご虫。あれだけの致命傷を負ってもなお、まだ闘おうとしている。常軌を逸している。
四肢をばたつかせる男性の上に跨がって立つフォックスさんが、銃口を、もう抵抗も出来ない男性の顔に向けた。
まって、と叫ぶ前に花火が爆裂する。一切の遠慮、躊躇もなく、先程の持ち手と同じ手腕で乱射される弾丸。撃ち込まれる顔から、ぐちゃぐちゃと飛び散っているのは血と肉片。原型を失っていく顔の形は、人間とは呼びがたいものになっている。神経が途切れて飛び出た目玉がころころ床を転がる。鼻は木っ端微塵に潰れ、はて、彼の口はどこにあっただろうか。顔面が抉られていく様子から、口を押さえ、固く目を閉じて顔を背ける。見ていられない。
踞る私の前に屈む人の気配がする。怖々と顔を上げると、顔中についている血やレバー的なアレや、その他諸々を拭いながら、フォックスさんが私の顔を覗き込んでいる。
「しきちゃん、終わったよ」
「ひゃ、ひゃい」
「はは。なにそれ。怪我とかしてない?」
「わ、わた、わたしは、だいじょ、それより、しっ、しけ、しけちゅ、しけつを」
「あぁ、これ。へーきへーき。見た目程たいしたもんじゃないから」
「でも」
「それよか、しきちゃんのが落ち着こうね。はい、深呼吸。ひっひっふぅ~」
真似してと促され、フォックスさんの呼吸を真似る。何度か繰り返していく内に、動揺で混乱していた身体が、徐々に落ち着きを取り戻していく。
正常な状態になりつつある私が、もうひとりでも息が吸えると判断したフォックスさんは、耳に嵌め込んだ機器に手を当てる。短いノイズがかかりながらも聞き慣れた大人の女性の声が私にも聞こえてくる。
『二人とも無事?』
「とりあえずは。完全に息の根止めはしたけど、やっぱり生命力が尋常じゃないや。ゴキブリ並み。流石岡崎サンって言ったらいいのかな。また起き上がってくるかも。早いとこ移動するよ」
『……ね。そ……方がいいわ』
「岡崎サンとは連絡取れた?」
『いいえ。何か……あっ……のかもしれない』
「死んじゃいないだろうけど。こっちは予定通り、追っ手が来る前に引き上げるけど、私達はそれで問題無い?」
『……、……!』
「リゼさん? さっきから、なんか通信状態悪いんだけど」
バグった? とフォックスさんが機械の向こうに尋ねると、返ってきたのは雑音だけ。首を傾げてフォックスさんと顔を見合わせる。とりあえず、未だだらだらと血を流しているフォックスさんの頭と腕を止血しようと、手拭いを取り出したところで違和感を覚える。
なにか、おかしい。それはフォックスさんにとっても同様らしく、口を閉ざし、眉を寄せて、リゼさんの声を聞き取ろうとしている。聞こえてくるのはついにノイズだけになり、その音量も大きくなっていく。ガタガタと雰囲気が物々しい。
「……リゼさん?」
『フォック……! 遠……さん……連……早くそ……から逃げ……』
それを最後に、声はブツンと途切れた。瞬間、フォックスさんが困惑している私の腕を取って立ち上がり、ずんずんと二人の屍(モロに見てしまった)を超えて部屋を出る。足元が未だ覚束ない私を引っ張って、外の喧騒と、今しがたの沙汰かどちらによるものなのかわからないが、かつてあった静けさには程遠いざわつきが増した廊下の先を突き進もうとした。が、フォックスさんの足が、廊下を少し進んだところで止まる。
すぐさまフォックスさんの背中に隠されたが、私もその姿を見逃すことはなかった。
こつ、こつ、と床を叩くローファーの靴音が、前方からゆっくりと近付いてくる。忘れる筈もない。
「ここで来ちゃったかぁ」
やんなるね、ホント。フォックスさんの呟きは、勘弁してほしいという疲労の色が溢れている。無理もない。本人は何となし気だが、第三者から見たフォックスさんの状態は、十分に満身創痍だ。
「ジェイさん……」
名前を呼ばれたことに反応したのか、歩みを止めた人物が、何の感情も籠らない切れ長の目で、瞬きひとつせず見つめてくる。
特徴的な、左耳を飾る数多いピアス。以前よりも長く伸びた髪。まっすぐ綺麗に切り揃えられていた黒髪は今は不揃いで、艶は無くなっていた。ボロボロに擦り切れ、破れた跡があり、縫い繕うこともされず放置された制服の下に覗く肢体は痛々しく、清潔とは言えない古びた包帯が、頭部、首、手足、指先にまで巻かれている。
静観するジェイさんの背中には、大きな銃がひとつ、そして警棒に似たものと日本刀が交差して背負われている。腰には小型のピストルと、見覚えのある鞭がぶら下がっていた。
「サイコ女。御主人サマに言われてきたの?」
フォックスさんが、ジェイさんに呼び掛ける。返事が無いことに、フォックスさんは溜め息混じりにごちた。
「無視かよ……。しきちゃん。下がってて」
「で、でもフォックスさん、怪我が」
「うん」
「うんじゃなくて!」
「でも、まぁ、逃げるなんて選択肢は無いし、現状やるしかないからなぁ」
「だけど」
「いいから。ホラ後ろに居て」
「……」
「はやく」
強い口調で促され、躊躇いつつも言う通りする。大人しく見守っていると、睨み合っていた二人が互いの武器に手を触れた。西部劇の一騎打ちみたいだった。
背中にある日本刀を抜いたジェイさんを、すかさずフォックスさんが両手にした小銃で狙い発砲する。弾丸を避けるために真正面から向かってくるのではなく、猫の動きを模倣したみたいに壁伝いに走るジェイさんが一気に近付いてくる。目の前に迫るジェイさんにフォックスさんはなおも射撃を続けるが、寸前のところで避けられる。勿論、フォックスさんの狙いは的確だ。ただ、ジェイさんの野生とも言える勘と瞬発力、そして身体能力が並外れているだけ。普通の人間ならば、まず弾を避けるなどといった芸当が出来る筈もない。
ギン、と黒曜石と薄桃の瞳が間近でぶつかり合う。フォックスさんは、接近戦での銃では埒が明かないと判断したのか、素早く後ろに投げ捨て、彼女自身が仕込んでいた小刀を手にし、ジェイさんの首を狙い突こうとするが、日本刀で防がれ、弾かれてしまう。軽やかに刀を振うジェイさんの間合いから距離を取ろうと下がるフォックスさんに、ジェイさんが更に迫る。
私が居る位置をも通り過ぎ、先程激闘を繰り広げていた部屋に戻りかねない勢いだ。
ぴ、とジェイさんの握る刀の刃が、フォックスさんの髪を僅かに掠り切り落とす。ゾッとした。フォックスさんが一歩下がるのが遅ければ彼女の両目は今頃一文字に裂かれていた。
真上から振り下ろされた鈍く光る刃を避けるやいなや、フォックスさんが廊下に配置されていた消火栓を手に取り、吹き出し口をジェイさんの顔に目掛け、火を消す為の白の粉末を噴射させた。重力のある栓も投げつけられたジェイさんが体勢を崩したところに、後ろに転がしておいた銃を手に取り、フォックスさんが銃弾を放つ。ジェイさんが刀の柄で防いだことで直撃は免れたが、至近距離からの衝撃に耐え切れず、ジェイさんを守った刀の持ち手が割れて砕けた。四方に散った破片がジェイさんの右手を傷つけ、巻かれていた包帯をじんわりと赤く染める。もはや、刃の部分のみになったそれを、そのまま手掴みにして、皮膚と肉が切れる痛みなど知ったものかと揮い襲いかかろうとするが、その前に、フォックスさんがジェイさんの傷付いた手を狙って、素早く蹴り上げた。握力が低下していた手から刃は離れ、音を立てて天井に突き刺さる。
いつどちらが倒れてもおかしくない、予断を許さない状態での両者の攻守逆転の連続に、傍観者の立場にある私の精神力もゴリゴリと削られていく。
もうやめて、やめてよ。誰も死んでほしくない、と懇願を繰り返して、両手を胸の前で握り締めてしまう。神様どうかと、居るかどうかもわからない存在に願ってしまう。互いに手を取り合う未来は無いと頭でわかっていても尚、祈ってしまう。
腰に下げていた鞭を取り、フォックスさんの後ろについたジェイさんが彼女の首に鞭を回し思い切り締め上げる。ギリギリにフォックスさんが鞭と首の間に手を差し込んでいたが、それでも両手を使ってフォックスさんを絞め殺そうとする渾身の力は、彼女の顔を苦しみに歪ませた。それを見たら、もう、叫ばずにいられなかった。
「フォックスさん! や、やめて。ジェイさん! お願い!」
聞く耳を持ってくれる筈もない。きっとジェイさんは私の存在など気にも掛けないし、声も届かない。そう思っていたのに。
ジェイさんが、声の発生源である私に視線を寄越した。顔を上げて私の顔色を窺う様は、どことなくシロちゃんを思い起こさせる。ご飯をあげるために名前を呼ぶと、猫目を真ん丸にして「なぁに?」と寄ってくる様子に。
ジェイさんの手元が緩んだのか、フォックスさんがぐっと歯を食い縛り、首に負担をかけるとわかりつつも、後ろに居るジェイさんを背負い投げた。身体が床に叩きつけられる音が凄まじい。窒息状態から解放されたフォックスさんは顔を赤らめ、大きく息を吸って吐いてを繰り返し、ゲホゲホと咳き込みながらも、起き上がろうとしていたジェイさんの掌にナイフを刺し床にまで貫通させることで身動きを封じた。ナイフを抜き取ろうとする左手を即座に捕まえ、ゴキンと真逆の方向に折る。上半身に力を入れ起き上がろうとするジェイさんはそのままに、ばたつく片足をも捕らえたフォックスさんがジェイさんの膝に力を入れると、骨が碎ける痛々しい音を鳴らした。傍らに転がっていた抜き身の刀を拾ったフォックスさんは、ジェイさんの身体に乗り上げ、細い喉元に当てた。
「ねぇ、大人しく教えてくんないかな」
「……」
「太刀川尊嶺からの指図で、此処に来てんでしょ」
「……」
「案外、近くに居たりして」
もう一本折られたくないでしょ、と艶かしい手つきで、フォックスさんがスカートの下にあるジェイさんの太腿に触れる。無を貼りつけた表情のまま薄い唇を開いたジェイさんが何か答えようとしていると思ったのか、フォックスさんが注視すると、突如勢いよく上半身を持ち上げたジェイさんが限界まで瞳孔を開き、獣のような咆哮を上げた口を大きく開けてフォックスさんの喉に噛みつこうとした。首に当てられていた刃に臆することなく前に身体を押し出したので、喉が裂け、血が吹き出る。その豹変ぶりは、まるでゾンビか何かだ。
持ち前の瞬発力で顔を背け、ジェイさんの牙から逃れたフォックスさんは、ジェイさんの上から退いて距離を取った。物静かな雰囲気を保っていた人物の突然の変貌には流石に動揺したらしく、緊張気味に呼吸を整えている。
「いきなりスイッチ入んないでよ。ビックリするなぁ。なに? ヤク切れ?」
手の平に突き刺されたナイフが、無理矢理に肉を千切ることで抜き取られる。無造作に投げ捨てられたそれがコロコロと転がり、床を血で濡らした。骨折しているというのに、不安定に大股で開いた両足で立ち上がったジェイさんが、ひとつ、ふたつ大きな呼吸をした。首に出来た傷口は皮膚を傷つけたのみで、そこまで深くはなかったようだが、新しい血が滴っている。妙な方向に曲がった手首を無理矢理に戻したとき、更に骨が悲鳴を上げたのをものともせず、腰に下げていた銃を、血みどろの手で掴んだ。
「まだやる気? 手足もろくに動かせない、そんな状態で?」
勝機はこちらにあると確信したのか、フォックスさんが軽く挑発をかけて再び臨戦態勢に入ったが、彼女の目が見開かれた。
ジェイさんの銃が、私の方を向いた。
冷たく無機質な穴の向こうには、私の様な一般人が相手ならば、一瞬でその命を刈り取る凶器が潜んでいる。かちり、と引き金に細長い指が添えられ、力が込められるのが見えた。
本気だ。
あの引鉄に添えられた指が力を込めれば、私は確実に。
死、というワードが頭を過った瞬間に、恐怖からなのか、覚悟を決めたからなのか、身体はカチコチに固まり、本能的な防衛反応として、ぎゅっと目を瞑る。暗くなった視界に、誰かの舌打ちがやけに耳に届いた。
銃声がひとつ大きく鳴り響く。立て続けには聞こえてこないので、あれ、もしかして訳も分からない内に、一発で御陀仏してしまったのだろうか。恐る恐る、うっすらと目を開ける。
熱い。そして、痛い。
ワンテンポ遅れてやってきた痛覚は、ピリピリと頬を刺激した。ぴとりと右頬に手を当てて確認すると、ぴちょりと生暖かく湿ったものが付着した。指先は真っ赤に染まっていた。指の腹で擦り合わせて、やっと、それが血なのだとわかった。自覚すると、ちりちりと火傷の様に燃える痛みが増していく。
弾丸は掠めるだけに留まったらしい。私の脳天に風穴が出来ることを防いでくれたのは、紛れもなくフォックスさんだ。足が折れて、移動に難を極める状態となったジェイさんを射止めるのは、もはや赤子の手を捻る様なものだったろうに。
ジェイさんから距離を取っていた彼女は、私に銃口を向けたジェイさんの諸行に、まさかと目を剥いていた。ジェイさんの指が引き金に添えられたのを認識した瞬間、俊足とも言える早さでジェイさんの懐に飛び込み、銃を持った手を捻り上げた。私の後ろにある壁の柱に埋め込まれた銃弾は、ジェイさんが本気で私を撃とうとしていた証だ。フォックスさんが軌道を反らしてくれなかったら、私は頭から血を垂れ流して、もうこの世に居ない。
けれど、その為の代償は、私では到底払いきれないものだった。
形振り構わず胸の内に飛び込んできた標的を、見逃してくれる訳がない。片腕でフォックスさんの首を囲み捕らえ、ほぼ抱き抱える形で完全に身動きを取れなくさせた。抜け出そうと抵抗を試み暴れるフォックスさんだが、固定された姿勢では、それもままならず、まさに捕獲された状態だった。ジェイさんが自身の眼下にある、無防備に晒されたフォックスさんの背中を見つめ、不気味としか言いようがない薄笑いを浮かべた。
人差し指でフォックスさんの背筋が上になぞられる。心臓が位置する場所で止まり、暴れる身体をあやす様に、手の平でねっとりと撫でた。この部分で間違いないな、と確認する動作なのだと気付いたのは、後のことだった。
「フォックスさ……」
あれだけ駄目と言われていた足が、動け、動きたい、と訴える。フォックスさんの言いつけを守らねば、だけど、見ているだけでいいのかと、激情がせめぎ合って、立ち往生する。
もう後の祭りだけれど、動けば良かった、と思う。どうにもならない状況だとしても、もしかしたら、何とかして打破出来たかもしれない。そんな万が一の可能性を打ち捨てて、何もしなかったという後悔は、痛く、そして苦しいものだから。
無情な銃声音が、私の腹の底までも撃ち抜く。
ワインレッドの髪の女性の背部にピッタリとくっ付けられた銃口が、光を放つ度に、抱えられた女性の身体は、地上に打ち上げられて跳ねる魚になっていた。撃ち込まれた背中から、ビチャビチャと血が噴出する。距離を開けず直接に撃ち込まれた弾丸が何発か貫通し、フォックスさんの腹部から吐き出される。二人の下には血溜まりが出来ていた。
どんどん音が鈍く、重くなっていく。未だにバンバンと、ひとの命を奪う凶器が放たれる光景がスローモーションになる。直立不動。動け、動くな、と戦い続けていた思考すら、もう機能しなくなっていた。
塵を捨てる扱いで、完全に動かなくなったフォックスさんの身体が投げ捨てられる。うつ伏せに倒れた彼女の身体から、益々大きく血が広がっていく。
腰から力が抜ける。足は使い物にならない。だから、手を動かした。身体を引きずり、反り血をたんと浴びて立ったままでいるジェイさんの足元に居るフォックスさんに、そっと触れる。
「フォックスさん、フォックスさん。ねぇ」
身体に負担をかけないよう、慎重な手つきで優しく、最低限の力で緩く揺すった。ピクリともしない。だらりと伏せている右手をそっと手に取り、胸の前で両手で包む。まだ暖かい。けれども生気を感じられなかった。精巧な造りの人形に触れているみたいだ。暖めてあげたかった。喉の奥でくぐもった声が混雑する。処理しきれず、詰まっていた。
「起きて。起きてください。おねがい」
死んじゃいけない。もう動かなくていい、戦わなくてもいいから。駄目だ。だって、貴女はあの人の、岡崎さんが大事にしたいと言っていた人達の一人なんだから。欠けてはいけない。これ以上喪わせたくない。大丈夫だよって、薄桃色の瞳を細め、余裕そうに笑ってほしい。だから、ねぇ、お願いだから。
絵の具が水に溶けて滲んでいく。視界が赤と桃色にぼやけた。
腕を強引に引かれ、強制的に引き離される。嫌だと血を吐く位叫んでも、離してくれない。視界が高くなって、ジェイさんの肩に担がれていると気付く。ジェイさんも折れている足を無理に動かし引き摺っているから、揺れが激しい。
駄々を捏ね癇癪を起こす子供のように暴れて、もはや何を言っているのかもわからない言葉を発し、叫び続けても、その足は止まってくれない。降ろしてもくれない。ジェイさんの背中に手をやり、もがきながらフォックスさんの身体に手を伸ばしても無情に遠ざかっていく。
何度も名前を呼んで、変化が訪れる。ぴくりと、フォックスさんの手が微かに動いた。その指先はゆっくりと、辺りの地面の感触を探り、そして見つけた。血反吐を吐いて、重くなった上半身を微かに起こし、その場に座り込んだ。
重厚感のあるそれをこちらに向けて、照準を合わせた。ジェイさんは私を担ぎ上げ、足取りを安定させるのに集中して気付いていない。フォックスさんを呼ぼうとした途端に、火花が放たれ、勢いあるものが風を切り、ジェイさんの背部に直撃し、腹部をも切り裂き、貫いた。
衝撃を食らった身体は大きく揺れたが、驚くことに倒れはせず、折れていない片足に力をかけ、踏みとどまっていた。すぐ近くで、ジェイさんの、声と呼吸を詰まらせる音が聞こえてくる。少し下に視線をやると、ジェイさんの背部の制服に穴があき、そこからドクドクと赤黒い血が栓が切れたように流れ、ポタポタと床に滴る。弾は貫通したとはいえ、腹部に穴が開いたのだ。
苦しそうに息を荒げるジェイさんは、私を抱える手を緩めることはなく、落とすこともしなかった。腰に手をやったジェイさんが掴んだものを見て、その刃が見ている先に背筋が凍る。
「やめて、ジェイさん。やめ、おねがい、やめてぇ!!」
必死の訴えが届くことはなく、賽は投げられてしまった。ヒュンと投げられたナイフは、大きな銃を手に、此方を真っ直ぐに睨み付けていたフォックスさんの額に刺さった。ぷらんと僅かに後ろに傾いた身体は、倒れることはなく、銃を手にしたまま力尽きることとなった。
暫くその場で、彼女がもう動かないと確認したジェイさんは、再び歩き出した。真新しい赤の血を纏う足跡を残して。
通り過ぎていく景色が頭に入ってこない。時折響く地鳴りも、爆発音も、走ってどこぞへと逃げ去っていく舞妓さん達の姿も、悲鳴も、どこか遠い出来事の様に曇りがかかっていた。
人一人を抱えて歩くジェイさんの足取りは重い。怪我も出血もひどいために、時々ふらついて転びそうになっている。息遣いも更に荒くなっていた。
ずっと動いていたジェイさんのの足が、初めて止まった。緩慢に様子を伺うと、彼女は上を見上げていた。いつの間にか大きな空間に出ていたらしい。
ジェイさんの見上げる先を辿る。赤絨毯が敷かれた大きな立派な階段があった。登ったところには踊り場があって、その右手に続く短い段差を登ったところは2階になっている。
そこに彼が居た。よく目立つ赤い羽織と灰色の髪。急に視界と聴覚がクリアになる。全神経が働き、ジェイさんの肩に、お腹が深くまで食い込む形になっても構わず、身を乗り上げる。
戦時中とはこんな感じだったのだろうか。外から爆撃音が、連続して聞こえてくる。逃げ惑う人々の悲鳴をあげて、私達の横を身なりのいい人達が通り過ぎていく。
重度の怪我は見られないものの、かすり傷や打撲痕が多く見られる岡崎さんは、黒服の男性がふたり、女性がひとりと、鹿部さんに打ち直してもらった刀を持って対峙していた。そのお三方の後ろには、新しい着流しを着用した瀧島さんが、岡崎さんのことを悠々と、煙草を吸いながら眺めていた。その隣には霧江さんも居て、どこか不満げな表情で、共に彼を見守っている。
鎖の先についた鉄球を振り回しながら向かってきた男性に、岡崎さんが刀を振りかざした。刀に巻き付けられた鎖を逆に利用して引っ張り、男性をあえて寄せ付けて、その頬を思い切り殴る。力の強い岡崎さんの打撃は並みのものではなく、男性の身体は壁の方まで吹っ飛んでいくところだったが、岡崎さんが巻き付かれたままの刃をぐんと振り回し、遠心力で男性の身体を別の女性にぶつけさせてから、壁に叩きつけた。その衝撃音といったら恐ろしい。彼女の全身が何らかの損傷を負っただろうことは想像に難くない。振り回されている男性の負担だって相当なものだ。鹿部さんが見ていたら「もっと刀を大事に正しく扱え」とカンカンになっていただろう。
自身の武器を手放した男性が、何とか体勢を建て直し、壁に両足をつけて、新たに武器を持ち掛えてふらつきながらも岡崎さんに対峙したが、既に懐に飛び込んできていた岡崎さんの刃によって、両足を切り落とされていた。真っ赤な血飛沫が舞った。
ばたりと倒れたのは、両足を失った男性だろう。ここからは見えなくなったが、うごうごと宙をかく手だけが見えた。岡崎さんはまだ起き上がろうと蠢く男性を無視し、横を通り過ぎて、残る黒服の男性と、瀧島さん、そして霧江さんに向けて、改めて刀を構えた。
その折だった。薄笑いを浮かべて煙を吐きながら眺めていた瀧島さんがこちらに気付き、視線を寄越してきた。実験動物でも見るかの様な眼差しで見つめてきた人物が急に己から目を反らしたことで、岡崎さんも追って、こちらを見下ろる。赤い瞳がまんまるに見開かれた。
「志紀!!」
おかざきさん、と名前を呼びたかった。けれど出来なかった。代わりに溢れてきたのは涙。やっと止まったところだったのに、またもや欠陥して、ぽろぽろと溢れ出てしまう。
岡崎さんは、物言えず、何かを訴えたげな必死の表情で涙を流す私の様子に困惑している。けれど、人の情動に関して察しのいい彼だ。金魚の様に声は出せず、パクパクと口の開閉を繰り返す私を抱えるジェイさんに、そして明らかに死闘を繰り広げたあととわかる様相。
そして、私と一緒に居るはずのフォックスさんの姿が、どこにも見えないこと。
岡崎さんの顔が、呆然としたものになる。みるみるうちに悲しみ、悔しさ、そして深い憎しみの色に変化し染まっていく。顔に影を作り、瞳孔は開き、眉間に筋を立て、犬歯が見える程に歯を食い縛っていた。
そこからは怒濤だ。残っていた男性ひとりが向かってきたところを、目にも止まらない早さで胸ぐらを掴み、その場に叩きつけて、うつ伏せにし、紅の装飾が施された鞘で肩口を貫き、床に縫い止めた。そして手摺を軽々と飛び越え、大階段の下に居る私達の方に駆け寄ろうとした岡崎さんにジェイさんも身構えたが、それを邪魔する者が居た。
飛び越えようとした岡崎さんの腹部に細長い物がぶつけられ、私達に近付くことを妨げられる。岡崎さんが驚愕の表情を浮かべるのも束の間、顔面を鷲掴みにされ、後方に吹っ飛ばされてしまった。此処からの位置では見えないところに岡崎さんが消えてしまい、破壊音だけが聞こえてくる。
「っおかざきさん!!」
やっと出た声に反応したのは、彼ではない。岡崎さんを私達から遠ざけた張本人である瀧島さんだった。そこに居るだろう岡崎さんの姿を見つめたあと、瀧島さんが私達の姿を確認する。
「んだぁ、志紀ちゃん。まだ着替えてねぇのかい。おじさん待ちくたびれて、先におっ始めちまったよ。へへっ」
瀧島さんの手には、岡崎さんが男性に突き刺した鞘が握られている。先の方に赤い滴が流れて、ポタポタと落ちていた。
「鹿部は良い仕事をするなぁ。惚れ惚れする仕上がりだ」
鞘を掲げて、あらゆる角度から観察をしている。出来栄えを見つめ感想を述べたあと、鞘を振って血を払った。
「なぁ、岡崎さんよォ。同じ事を繰り返して言うのは好かねぇんだ」
刀身を納める筒の先が、私達に向けられた。
「お前さんが、喉から手が出る程モノにしたがってる女が、そこにあるぞ」
瓦礫を崩す音が聞こえてくる。ゆらり、と私の視界に入ってきたのは、全身を砂埃まみれにした岡崎さんの姿だった。フーフーと息を荒げ、完全に目が据わり、威嚇状態だ。鋭い犬歯を食い縛り、瀧島さんを鋭い視線で見据えている。
「躊躇することなんざねぇだろ。おいちゃんの提案に頷きさえすりゃあ、おめぇさんの欲しいものは全部、テメェのものになるんだ。金、権力、酒、そして女。昔から、尻尾振る位、大好物だったんだろう。俗物的だが、おいちゃんは嫌いじゃねぇ。寧ろ好感を覚える」
「……」
「俺はお前さんの腕を買ってる。頑丈で、計算高く、口も達者。腕も十二分に立つ。そして、何よりも欲深だ。おいちゃんはな、よぉく知ってるんだよ。やっぱり、男ってのは多少喧嘩が出来るってぇだけじゃあ話にならねぇんだよなぁ。健康第一って、ほんとだ。手塩に欠けて育ててやっても、直ぐに枯れちまうんじゃあ意味がねぇ」
「お前……」
「おお、怖いねぇ。とにかくま、お前さんが考えを変えてくれなきゃあ、いつまでたっても志紀ちゃんとイチャイチャ出来ねぇぞぉ? ちゅーもお触りも禁止だ。そんなの嫌だろぉ? なぁ?」
「ジェイ、連れていけ」と指示を下した瀧島さんに、ジェイさんは無言で再び足を進めた。それを見た岡崎さんの表情に焦りが生まれる。
「待て! 志紀!!」
「岡崎さ……」
「ロミジュリごっこは此処までだ。通しゃしねぇよ」
手を伸ばしても届かない。私達の間に立ちはだかる瀧島さんが、今度は岡崎さんに鞘先を向けていた。
「退けよ……」
「太刀川にしろ、お前さんにしろ、志紀ちゃんってぇより、女ってのは、本当に男を駄目にするなぁ。ついてるモンが違うだけだってぇのに、厄介な生き物だ」
「退けって言ってんのが聞こえねぇのか、糞爺!!!」
罵声を浴びせる岡崎さんに、にやついた瀧島さんが何事かを、自分達にしか聞こえない声量で岡崎さんに話している。耳にした岡崎さんが呆然と目を見開き、そして憤怒に燃える顔になった。
乱暴で感情的な太刀筋で、岡崎さんが瀧島さんに斬りかかったが、簡単に避けられる。ジェイさんの腕から逃れようと必死にもがいたけれど、ついに二人の姿が見えなくなってしまった。けれど、岡崎さんの空気を裂かんばかりの声だけは私に届いていた。
「志紀!!」
「……っ」
「お前は、お前だけは、俺が絶対に助ける! 助けてやるから! 這いずってでも、例え死んでも、迎えに行ってやるから!」
「……」
「だから、折れるな! 何があっても! お前は、前だけ見てろ!!」
ほろ、と大きな一粒が目から溢れた。
こんなときまで、私の心を持ち上げ、掬おうとしてくれるのか。貴方は。
ジェイさんの背中にしがみついて嗚咽する。ぎゅうと握りしめた制服には血が染み込んでいて、私の手を赤く濡らした。
諦めるな、諦めてはならない。踏み越えろ。泣いてばかりでは、なんにもならない。自分に出来ることをするんだ。
俯くな。顔を上げろ。
「ジェイさん。何処に行くんですか」
「……」
「ジェイさん。血が、血が止まってない。痛いでしょう? 歩くから。私、ちゃんとついていくから。下ろしてください。ねぇ」
わかってはいたが、何を言っても聞き入れてくれない。このままだと、ジェイさん自身だって危ないのに。なんせ、お腹に穴を空けているのだ。常人では、とっくに息を引き取っておかしくないし、当たり前だが、血色を失った顔色は凄まじく悪い。ジェイさんに運ばれた状態で、何度も無線機を叩く。けれど、リゼさんに繋がらない。どうしよう、リゼさんにも何かあったとしか。嫌な想像ばかりが巡る。
お庭に出る廊下を渡る。敷地内なので塀が建っており、その向こうでは、先程から何度も聞こえていた轟音が響き渡っている。空には、いくつも黒煙が上がっていた。
舗装された庭を眺めながら渡り廊下を暫く歩くと、離れに繋がっていた。赤い血痕が続く足跡を見送り、ジェイさんが道に迷うことなく目的の場所へ足を引きずった。
後方、つまりジェイさんの進行方向から女性の悲鳴が聞こえてきた。たすけて、いや、許して、と泣き叫ぶ声が、金切り声と共に消えていく。何があったのだと後ろを確認する前に、ジェイさんが立ち止まり、悲鳴の上がっていた和室の障子を遠慮なく開け放ち、そこに私を放り投げた。
「ぅえぶっ!」
べしんっと思い切り畳の上に叩きつけられる。不運にも顔面からいってしまったので、鼻が痛い。ううう、と唸り、特に強く打った右頬にも手を添える。傷が開いたのだろう。ちくりとした痛みと、指先に湿り気を感じた。鼻血は出ていない。
身体を起こしながら、くん、と鼻を鳴らす。なんだ、この匂い。きついお香が焚かれているのか。妙に甘ったるい。けれど何かを腐らせた様な、生々しい臭いも存在している。
その中に、懐かしい煙の匂いが入り交じっていると気付く。
ばっと顔を上げ、目に飛び込んできた光景は、地獄と言わずに何と言えようか。
かつて頭があった部分から、噴水が壊れた様に血の飛沫を散乱させる女性の身体はビクビクと痙攣し、踊っていた。部屋中が赤く、黒く、染まっていく。いや、元々赤い部屋だったのかと思うほど、この和室は血の色に染まっていた。
ころころと、座り込んでいた私の膝に何かが当たる。今しがた斬られたばかりの、女性の生首だった。
上質な畳に血溜まりが出来るその真ん中で、世にも恐ろしいものを目にし、涙を流して悲鳴をあげた壮絶な表情のまま、絶命していた。
ばたんと女性の身体が、何かの上に倒れる。クッションになったそれもまた、女性の遺体だった。ひとりじゃない。そう、いくつもの屍が積み重なって倒れていた。首を綺麗に切り落とされたもの、絞殺された身体に、四肢が全て千切れている者。ありとあらゆる方法で命を絶たれている。全員女性だった。
何よりも恐ろしいのが、皆年若く、私とそう変わらない年齢層であったこと。そして、犠牲者のなかに、年端もいかぬ小さな子供までもが居たことだった。可愛らしい青色の浴衣を血濡れにさせられた女の子が、彼の足元で倒れていた。
虐殺。その言葉以外に相応しいものがあるだろうか。
なぜ、どうして、こんな、惨いことを。
死体の山の真ん中に、此方に背を向けて静かに佇むひとが刀をひと振りし、真新しくついた血を払い飛ばした。龍神の描かれた立派な金色の屏風に、びちゃりと血が付着する。
キン、と静かな音を立てて、刀を鞘に納めたその人は、傍らに置かれていた、この甘い匂いの発生源であるお香の隣にある煙管をそっと手に取った。すぅと肺の中に煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出された紫煙が、彼を包み込む。
緩く結んだ帯のズレを軽く直すその腕には
、細やかに刻まれた藍色の龍の胴体が、彼の身体を縛り付けるようにして絡まっている。ひとつふたつ、小さく渇いた咳が聞こえた。
なんで貴方は、いつも、もう戻れないところまで、自らを更に、底へ底へと貶めてしまうんだ。
もうひと度の吸煙を味わい、取り込んだそれを吐きながら、彼は緩やかな動作で振り向いた。
私を見つめる深い青色の瞳は、以前よりも伸びた前髪に僅かに隠れてしまっている。それでも、その奥に潜む激情は、以前と何ひとつ変わっていない。
「……よォ、久し振りだな」
血に濡れた、不気味さすら感じる、冷たく綺麗な微笑も変わらない。何の変化もしていない様に見えるけれど、上手く隠しているだけなのだろう。
このひとの中で、確実に何かが歪み、壊れてしまっていた。もう、どうしようもないところまで。途方もない深みへ、この人はひとり、先に堕ちてしまった。
「志紀」
裸足で屍達を踏み越えて、紫煙を纏いながら、私に近付いてくる。
「志紀」
もう一度、私の名前を繰り返し呼んだ聞き心地の良い低い声は、毒の様な甘さを含んでいた。
「太刀川さん……」
座り込む私の前に立ち、見上げる私の顎に、赤く染まる手が添えられる。下唇をなぞられると、血の味が口内に入り込んだ。名を呼ばれた太刀川さんは満足そうに、しかし虚無的に笑んだ。
目と目を合わせる為に屈んだ太刀川さんは、私の傷付いた頬や乱れた髪を緩やかに、けれど執拗とも言える手つきで撫でる。私が確かに此処に居ることを確かめているみたいだった。
緩やかな煙が私の顔に吹き掛けられる。太刀川さんは、もう、その煙管を仕舞うことはしなかった。
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