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セネカ
しおりを挟む『ーー絶好の洗濯日和です。お日さまりんりんの快晴。雨の心配はありません。日中も、このまま全国的に晴れるでしょう』
「東迎大学金澤一朗教授、48歳。神経質で潔癖症」
『最後に週間予報です』
「准教授、烏丸拓海先生。38歳。冷静沈着な皮肉屋。助手、椎名舞子さん。現役大学院生。今回は講義を休んで、付き添いで教授に同行……」
『連休を含め、カラッとした快晴が続きます。このお休みにお出掛けされる方は、日傘や日焼け止めを使って紫外線予防をしましょう』
暗記したことをブツブツ念仏の如く繰り返し唱えながら、姿鏡の前で、ピョコンと跳ねた前髪の寝癖と奮闘する。しかし、これが中々の頑固者で、撫でども、濡らせども、熱風を吹かせども、ちっとも収まらない。
「もう」
愚痴を垂れたって仕方ない。諦め悪く、もう一度撫でてみたが、やはりピョコンと飛び上がる。い、いい加減にして。けれど、やはり言うことを聞かない。
今度こそ観念して、肩口の少し下まで伸びた髪を一纏めにして後ろで結ぶ。その際に、胸元にペンダントとしてぶら下がる黄金の指輪が、窓から差し込む太陽光によってキラキラと輝いた。乱れた髪を直していた手を止める。鏡の向こうの私が、下唇を噛んで指輪を握り締めた。
「わ、わわ。はーい!」
ピンポンと玄関から音が鳴って、慌てて返事をする。ウソ、もうそんな時間? ベッドの上の据え置きの時計を確認すると、確かにそんな時間だった。急かすように、またピンポンが鳴って、えーとえーと、と鞄に必要なものを詰め込んでいると、扉の向こうで私を待つ短気が、鬼のようにピンポンを鳴らしまくる。あ、あと、ちょっとだから。待って。なんて心中の言葉が届く筈も無く、玄関は開かれ、靴を脱ぐ音が聞こえてきた。
案の定、リビングにカチコんできた人物は不機嫌に眉を寄せていた。
「遅い」
「ご、ごめん」
「もたもたもたもた。何をチンタラしとんねん」
「も、もうちょっと! あと3分待って。おねがい」
「何めかし込んどん。合コンか」
「ちがう。今日、午後から教授のお客さんが来るの。そのお手伝い。お偉い人達みたいで、失礼の無いようにしなきゃって」
「普段研究室に籠っとる学者相手に、無駄に着飾る必要無いやろ。キャバクラちゃうねんから」
「それはそうだけど」
「ブスが厚化粧しても見苦しいだけやぞ」
「う、うるさいな!」
そういうことは思ってても言わない! と指摘しても、この俺様はちぃっとも聞いていない。先程、私がにらめっこしていた姿鏡の前に立ち、高い身長故に膝を曲げて、耳につけたピアスのチェックをしていた。
「えっと……身分証と、鍵、お財布、書類も。よし大丈夫、忘れ物はない。ごめんね、お待た……」
振り返ると、私を迎えに来たかつての級友は、仏壇の前で正座をし、一礼をしているところだった。手慣れた動作で蝋燭に火を灯し、お線香に近付け、目を閉じて静かに合掌している。彼の少し後ろに座り、私も仏壇の前で目を閉じて一礼し、手を合わせた。
暫くして、ゆっくりと頭を上げた級友は、壇に置かれた写真をふたつ見つめて、後ろに座る私に視線を寄越した。
「いつも有難う。明石家くん」
「別に。人ン家邪魔して、仏様が居ったら手ぇ合わせる。挨拶ぐらいは当たり前やろ」
「その当たり前、そんなに出来る人居ないから」
「しょうもない世の中やな」
「お祖父ちゃんとお祖母ちゃん、喜んでると思う」
にっこりと笑顔を見せる老夫婦の写真。私が生まれる少し前、イタリアに二人で旅行に行ってきたときのものだそうな。古く美術的な町並みを背景に、楽しそうに、仲睦まじく微笑んでいる。私が知る二人よりも少し若かった。
「あ、もう準備できた。お待たせしてごめんね」
「ほなら行くぞ。鍵は」
「ちゃんと持った」
「エアコン付いたままやぞ。テレビも」
「消す消す。今から消す」
「あと下着、干しっぱなしにすな。はよ片せ」
「う、うわー! だめ! みちゃだめ!」
「うさぎの柄パンツなんか誰が得すんねん。アホか」
「もー! もおおおお」
「牛か」
明石家くんの顔にタオルを被せ、その間に急いで下着を片付け、除湿も切る。押し付けられたタオルを剥がす明石家くんに、これでバッチリ! とフン! と鼻を鳴らし胸を張ると、思い切りデコピンをされた。痛い。
スタスタと先に出て行ってしまった学友の後を追う前に、もう一度祖父母の前に正座し「いってきます」と声を掛けた。
『以上、最新の天気予報でした。それでは今日も元気に、いってらっしゃい!』
「明石家くん? あれ? え、ウソ。もう居ない!?」
リモコンでテレビを消して、玄関へと駆け込む。靴を履いて、バタンと扉を閉めれば、日常の始まりだった。
「いつも迎えにきてもらってごめんね。ありがとう」
「別に。速水に頼まれとるだけやし。駄賃も貰っとるから、バイトと変わらん」
「そうでした。明石家くん。連休はどうするの? バイト、お休み貰えたんだよね。大阪の実家帰るの?」
「面倒やけど、一応」
「面倒って」
「帰ってもやることないやろ。どこ行ったってアホみたいに混んどるやろし。まぁ、家居ると親父が店の手伝いしろって煩いし、適当に買い物でも行くか、犬の相手して休み終わるのが目に見えとる」
「いいなぁ。土佐犬だっけ」
「お前は?」
「私? 私は特に予定無いよ。先生にもお休みだって言われて。家で大人しく勉強する」
「へぇ、真面目」
「そんなことないよ。もう高認試験も近いから、頑張らなきゃ」
「さいで。土産いる?」
「いる! たこ焼きと561の豚まんと、海老焼売に、あとルオタのフロマージュに、りくとーおじさんのチーズケーキとツキゲキショウのお饅頭に、それと、それと」
「多いわ、アホ」
「あでっ」
「しれっと小樽土産混じっとるやんけ。大阪関係無いやんけ」
「期間限定で大阪に出店してるらしいから……」
「わざわざ行けってか。あつかましいんじゃ、ボケ。通販で買え」
「むむ」
おでこを擦り、積もる紅葉の上を自転車を引いて歩く明石家くんの後ろを、金魚の糞の如くついて歩く。明石家くんは前を向いたまま「おじさんには会いに行かんの」と尋ねてきた。はて、おじさん。
「おじ……あ、お父さんのこと? 連休の真ん中らへんに、向こうから顔見に来てくれるって」
「ふぅん。割りと頻繁ちゃう。一ヶ月前会ったとこやろ」
「私がお祖父ちゃん達取っちゃったから、寂しいんだよ」
「預かったの間違いやろ」
「う、うん。そうなんだけど。でも、お祖母ちゃんと一緒に居た時間、一番長いの、お父さんだったから」
連れて行ってあげなさい、と一人暮らしを始める私に父が託したのは、祖父母の遺骨が納まる骨壷だった。
突然姿を消した私のことを、お祖母ちゃんは特に心配していた。ずっと顔を見たがっていた。毎日毎日、私の名前を呟いては嘆き、時には隠れて涙を流して。それは認知症に苛まれてからも変わること無く、料理も、洗濯も、トイレの仕方も、生活の全て、そして息子や夫を忘れても、孫娘のことだけは、ずっと覚えていて、そして帰りを待ち続けていた。
以前よりマシにはなったものの、まだほんの少し窶れ、私が知っていた頃よりも無駄な脂肪が消えて、ずっとスリムになった父が教えてくれた。
私が帰ってきたとき、祖母の身体は既に焼かれ、お骨になっていた。やっと帰ってこれた家に佇む仏壇。信じられなかった。やりきれなかった。私は何をしていたんだと自分を責めた。誰かに殴ってほしかった。
もう居ない。会えない。顔をしわくちゃにして笑い、時に厳しく叱ってくれる母にも等しい存在の温もりは、どこにも無い。台所に並んで一緒に料理することも、付き添ってお買い物に行くことも出来ない。写真を撮ることだって。一緒に。もっと、もっと早ければ。悔やんでも悔やみきれない。悲しい。悔しい。なんて不孝者だ。馬鹿な孫娘だ。
仏壇の前で膝を折り、わぁわぁと祖母を呼んで泣き崩れる私を、父は抱き締めてくれた。
「帰ってきたよ、帰ってきてくれたよ、おふくろ。おやじ。やっと。志紀が元気に帰ってきてくれたよ。この家に。よかったね。本当によかったね」
おかえり、志紀。おかえりと鼻を啜りながら、ヨシヨシと娘を宥める父はほっそりしていた。
「……何年やったっけ。見つかってから」
「二年と、ちょっと経つかな」
「まだ二年か」
「もう二年だよ。バタバタしてたら、あっという間」
「行方不明者の中に中学の同級が入ってたことも、ほんで唯一の帰還者って、未だに信じられへんわ」
「それは本人が一番ビックリしてるから」
「やろうな」
「それに、私もまさか、その中学のクラスメイトと大学で再会するとは思わなかったよ。普通だったら、鉢合わせることなんて無いし」
「やろうな」
「私のこと覚えてなかった。お互い認識するの、ちょっと時間かかっちゃって。覚えてる? 先生からお互いの名前教えてもらったときのこと。私、すんごい顔しちゃって、開口一番「ブス」って言われて」
「言うても、一緒やったん中1ンときだけやんけ。覚えてる訳無いやろ。名前すら怪しかったわ」
「まぁ、そうだよね。クラス変わって、話さなくなっちゃったし」
「大体、気づけっていう方が難しいわ」
「それはそうだけど」
「中坊んときのお前、もっとビクビクオドオドしとったやろ。人ともまともに目ェ合わされへん上に、いつも相手の顔色窺って。私なんかって、ことあるごとに卑下して」
「……」
「遠坂」
「なに?」
ちら、と明石家くんは後ろを歩く私を一瞬だけ見て、またすぐに「何でもない」と言って前を向いた。その背中に私も何にも言えなくて、胸元にぶら下がる指輪に触れる。指で輪の形をなぞるように転がすと、いつも気分が落ち着いた。
「ま、まって」
物思いに耽ってしまっていた私を置いて、明石家くんは遠慮もなしにスタスタ自転車と共に進んでいってしまう。それでも、足を悪くした私が追い付ける位の、ゆっくりとした歩調を保ってくれている。
意図的に、少し後ろを歩く。
口は悪い。不遜な態度。性格はそんなに良くはない。でも、常識を重んじていて親切。並んで歩くことを好まない性格。私がかつてチョコをあげ損なった男の子は、昔と何にも変わっちゃいなかった。
大学に到着して、まずはゼミの教室に直行する。明石家くんも目的地は同じだ。てくてくと目的の棟まで明石家くんの後ろをついて歩き、階段などでは支えてもらいながら扉の前まで来た。しかし、明石家くんは、取っ手に手をかけたまま扉を開けようとしない。
「どうしたの?」
「誰か来とる」
「え」
確かに、教授の他に知らないひとの話し声が微かに聞こえてくる。あ、あれ? おかしいな。来客は午後からって。ヒヤッとした。スマホに登録している予定と時間を確認する。合ってる。よかった。
「あっ、葵せんぱーい。志紀せんぱい。オハヨーゴザイマス」
「咲ちゃん。おはよう。ムニャムニャしてるけど、どうしたの? 寝不足?」
「昨日クラブではしゃぎ倒しちゃってー。ふぁああぁあ。何してんですか。こんなトコで突っ立って」
大きな欠伸をして、コツコツと踵を軽やかに鳴らして近付いてきたのは、明石家くんのふたつ後輩、一回生の咲ちゃんだった。ふわふわに巻いた髪に、ちょっぴり派手めのお化粧。甘い雰囲気を持つお洋服。小柄で華奢な女の子。今日も今日とて、可愛いゆるふわ女子……と、見せかけて。
むにゃむにゃと目を擦る咲ちゃんの首元に、うっすらと浮かんでいるそれに苦笑する。明石家くんが「朝帰りか、アバズレ」と呟いたので、軽く肘で小突く。ハッキリ言わない。
「聞こえてますよ、葵センパイ。誰がアバズレですか。え、なになに、処女厨ですか。大和魂ですか。うわダッセー。流石明治大正昭和男児ィ」
「やかましいわ。クソビッチ」
「あ? んだと男尊女卑野郎。カラオケでひとり関白宣言歌っとけや。一生独り身で孤独死しろ」
「お前こそ、性病撒き散らして人に迷惑かけとんちゃうぞ」
「貰ってません~。ちゃんと検査もオールAですぅ~」
「ふ、二人とも。人も居るから」
「チッ。早く入りましょーよ。授業始まっちゃいますよぉ」
「あ、あ、咲ちゃん」
「おいダボ。ちょっと待て」
「おはようございまぁーす。速水てんてー……あり?」
中に居た赤の双眼がこちらを向いた。特に調子は悪くないのに、季節を問わず、年がら年中マスクを装着し、白髪の髪を後ろでひとつに纏め、教卓に腰掛ける人物は、我らが教育者たる速水教授。
その真正面に対峙するは、SPの様な黒いスーツをだらしなく着崩した、金髪の男だった。此処は禁煙なのに、悠々と煙草をふかしている。見慣れない男性……では無い。むしろ、最近は頻繁に見かける。
その男を視界に収めた途端、明石家くんは私を背中に隠した。咲ちゃんも同様、眉を寄せ、「失礼しやした~」と言って、すかさず扉を閉めようとしたが、制止の声がかかる。
「まぁ、待ちなさいよ、ズッコケ三人組。もう話は終わったから。ってことで、授業始まるから。真面目な教育者として、俺は学生優先しててね」
「そういう訳だから帰った帰った。シッシッ」と速水教授は、目の前に立っている男を追い払う仕草をする。
明石家くんの腕の隙間から、男性の反応を窺う。彼は鋭い。野生の勘めいたものを持っていた。灰色のかかった青い瞳が私達の方を向く。正しくは、私を見ていた。自意識過剰などではない。男性は速水教授から離れ、私達の居る出口へと歩みを進める。咲ちゃんが口を尖らせ、上目遣いで睨み上げてくるのも意に介さず、男性は明石家くんの前に立ち止まり、咥えた煙草を口から離し、指で挟む。
「何か覚えてることは?」
「……」
「思い出したことは」
「……」
「誤魔化してるのか。それとも忘れているのか」
私は、このひとの目が苦手だ。灰色の中に入り交じる青い瞳が。圧迫感、そして凄まじい威圧感がある。身体が縮みこむ。このひとには逆らってはいけないと、刷り込まれたみたいに。
口では返事をせず、明石家くんの後ろで、ただただ首を振り続けるだけの私に、金髪の男性はため息をついた。明石家くんの左肩に手を添え、軽く押し退ける。横切る際に「また来る」と呟かれ、ビクッと体が跳ねる。そのまま煙草の煙を残して立ち去っていくスーツの男の後ろ姿に、咲ちゃんが「また来る、じゃねーよ。来んなバカ。税金泥棒」と中指を立てて台詞を吐いた。
「いやはや、お前らが来てくれて助かったよ。まるで尋問だ」
「いや、別にセンセの為じゃないし」
「じゃあお前ら何しに来たのよ」
「授業受けに来たんやけど」
「え? 今日午後に変更しただろ。掲示板見てないのか」
「は?」
「え」
「え、え? でも教授、私も聞いてない。それに、午後は来客が」
「あ~、それもキャンセルになったから、いーのいーの」
「え、えぇ?」
うっそ。昨日の夜、必死で相手方の名前も、特徴も、趣味も、その他諸々、全部覚えたのに。いつも以上に身嗜みもキチンとして、引き締めてきたのに。一瞬で、努力が水の泡になってしまった。
「掲示板、10分前に更新されとんやけど。気付かんやろ、こんなん」
「いやセンセ、まじ横暴。王様じゃん。暴君じゃん」
「しょーがないでしょー。政府のお偉いサマが朝っぱらからアポ無しに来ちゃったんだから。俺だって、研究室でスヤスヤ堕眠を貪ってたのに、パジャマ姿で学長に叩き起こされちゃったのよ」
「いや、家帰れや。研究室自宅にすんな」
「っていうか、あのひと、ほんとしつこくないですかぁ。公安だか政府の使いっ走りだかなんだか知りませんけどぉ」
「そこは理解出来なくもないよ。志紀は失踪事件で初めて発見された超重要参考人だし、やっと出てきた手掛かりに必死なんでしょうよ。今も尚、帰ってきたのは一人だけとあっちゃあなぁ」
「志紀パイセンも、なーんも話せないって何回も何回も何回も何回も言ってんのに」
「まだ見つかってないのが世界中にわんさか大勢居る。親族の為にも、今後の捜査の為にも、なんとか情報を絞り出したいのよ」
「けど、あれ、容疑者を見る目ですよ。チョー不快」
「お前、珍しいね。そんなに毛嫌いするなんて。イケメン好きデショ」
「好きだけどぉ、あれはイヤ。生理的に。なんか、やな感じ。しつこい男嫌いだし」
「へぇ? ま、そういうことだから休講にしたのよ。どんだけ引っ張られるかわかんなかったし。思いの外、今日は早くに引き下がってくれて助かったけど」
国のお偉いさん方も、警察関係各所も、諦め始めてんのかもね、と教授は気力の無くなった声量でそう言った。ポリポリ真っ白の頭をかきながら、教授は併設された自分の研究室(通称・速水の巣)に引っ込み、瓶詰めの飴ちゃんを持ってきた。
「詫びと礼に、先生が有難いお菓子をあげよう」
「要らん。甘いモン好きちゃうんで」
「和菓子嫌いでーす。ハーゲン●ッツ以外いらないでぇ~す」
「お前らね……」
「だって、速水センセのくれる飴ちゃん、爺臭いんだもん。味渋いし、ちっとも美味しくない」
「ええ? これ、伝統ある老舗で作られたやつよ? 結構お値打ちものよ? はぁ~。最近の若人は好き嫌いが激しいね。嘆かわしいことだよ。価値も分からないときた。こうして古き良き職人の技は衰退して朽ちていくんだ。志紀は?」
「え」
「飴」
足の踏み場も無い程、書物やら書類やら、資料やらでとっ散らかった研究室内に侵入して、三日前に掃除して、もうこれか……と絶望していた私に、教授が飴を薦めに入り込んできた。あ、ちょっと、踏んでる踏んでる。サンダルの下でぐしゃぐしゃのシワクチャになっているのが重要書類だったらどうすんだ。
というか、また素足にサンダル履いて。もう冬も差し迫ってるから、足冷やしたら身体に悪いって、いつも言ってるのに。しかして、この人は雨であろうが、このスタイルを変えることはない。濡れたら濡れたで、べちゃべちゃ音を奏でて、床を濡らして堂々歩く。
「靴下嫌いなんだよね。覆われてる感が不快だよ」
と言って、取り合ってくれない。言っても聞いてくれない。将来、この人の奥さんになる女性は大変だろうな。
赤い林檎を型取った、珍しい形をした瓶の中身が、教授の手の中でカラカラと鳴る。
「要るでしょ?」
「あ、はい。頂きます」
ニッコリと笑う目元に、断れた試しがない。
蓋が開けられた、林檎特有の丸みのある瓶に手を突っ込んで中を探り、ひとつだけ取り出す。籤引きみたい。包装を剥がすと、紫水晶のまんまるな飴玉が出てきた。窓から差し込む光に翳してみると、薄透明に輝いた。
「綺麗ですね」
「デショ。そんだけの透明度を出せるのは、流石職人技って感じだよね」
「教授にしては、いつものお菓子とは傾向が違いますね」
「そ?」
「若向けだなって。この瓶も古めかしくないし。今時の女の子が好みそう。イン●タ映えするって」
「やってるの、イン●タ。お前が? 意外だね」
「いえ。イメージで言ってみただけです」
「そ。ま、たまにはね。日頃爺臭いってあんだけコケにされちゃあ、俺も気にしちゃうのよ」
「先生って、おいくつなんですか? この質問、もう数えきれない位してますけど」
「ヒミツ。さーさー、ズッコケ三人組。先生は今から昼まで寝て、午後の講義への英気を養うから出て……あ。葵」
「はい?」
教授にご指名を受けた明石家くんは、階段形教室の一番真ん前の机に腰掛けている。指を滑らせていたスマホの画面から顔を上げることもなく、ついでみたいな返事をした。教授は「もうちょっと興味持ってくんないかな、この子」と眉をへにょりと下げ、少々呆れている。
「連休明けの水曜日、ヒマだったりする?」
「男は趣味ちゃうんで」
「デートの誘いじゃないから。俺だって願い下げだよ」
「で? 内容聞いてから受けるか決めます」
「ほとほと信用されてないね、俺。連休明けに、ウィリアムが英国から戻ってくるんだけど、空港まで迎えに行って、大学まで届けて欲しいんだ」
「俺に頼まんでも、自分の足で行ったったらええやないですか」
「やー、そのつもりだったんだけど、会議差し込まれちゃって。自分で足運ばせようとも思ったけど、アイツ、放っとくと、すーぐあっちこっちフラフラ放浪しちゃうから、日本の地を踏んだら、すぐ首根っこ捕まえとかないと。頼むよ。先生の車貸すから」
「バイト代出ますか」
「ゲンキンな奴だなぁ。出す出す」
口の中に入れかけていた飴玉を引き戻す。引っ掛かりと違和感を覚えた。私の中に生まれたモヤを代わりに晴らさんとしてくれたのは、可愛い後輩(仮)だった。
「わっ、すご。ガイジンさん? イギリス紳士? え、スゴ。かっこい~。てか、センセ、友達居たんだ~。咲、ビックリ」
「居ますけど。友達くらい。お前も大概失礼だね」
「だって、そうじゃん。枯れたお爺ちゃん達と話してんのしか見たことないもん。そんなことよりさ、ね、ね。そのウィリアム? さん? かっこいい? イケメン? センセと同期なら、たぶんアラフォーでしょ?」
「ハイハイ。獲物を狙う狩人の目は止めなさい」
「いいじゃん~。紹介してよ」
「するよ。するけど、グイグイ行くのは止めてやってくれ。アイツ、かなり消極的なんだ。肉食系女子に絡まれたら一溜まりもない」
「え、陰キャ?」
「どっちかっていうと、そうだな。草食系だ。逃●恥だ、逃げ恥。流行っただろ?」
「恋ダンス踊らないでくださ~い。めっちゃ下手だし。じゃあ、いいや。咲、ゼッタイ合わない。どっしり構えてるのがタイプだし」
「どっしりとは真逆だな。常にふらふらした奴だし。……ってことだから。ハイ、出てった出てった。あ、志紀はちょっと残っといてくれな」
「え、あ、はい」
「うわ、センセやらし~。インコーは駄目ですよ、インコーは」
「淫行ぐらい漢字で言いなさい。ほら、葵。その教育的指導問題児、さっさと連れてって」
「行くぞ、アホ」
「いっ!? ちょ、バカバカ先輩、女のコの髪引っ張るとか何考えてんの、有り得ないんですけど! いだいっ。いーだーいー!」
加減無く、ぐわしっと咲ちゃんの前髪部分を掴んでズルズル引き摺っていく明石家くんの容赦の無さといったら。ヤカラなんてもんじゃない、あれはヤクザだ。今からあらゆる手段を以て、何がなんでも取り立てる場面そのまんまだ。
「しきせんぱぁい、た~すけ~てぇ~」
緩いヘルプを求められ、呆気に取られてる場合ではないと慌てて仲介しようした。が、一瞬だけ明石家くんは私に視線を寄越し、あえなくピシャリと扉は閉ざされてしまった。ごめん、咲ちゃん……。合掌。
二人が教室を去って、すぐピコンとスマホが鳴った。なんぞやと画面を点灯させると、今しがた咲ちゃんをドナドナした明石家くんからのメッセージだった。文章にすらならない、本当に要点だけの、コストのかからない吹き出しがひとつ。
『昼飯、ラウンジ』
たった、それだけ。メモ帳じゃないんだから。しかしながら、これも慣れたもので、私も了承のメッセージ代わりに、りょうかい! ご機嫌な顔でパタパタ尻尾を振るわんちゃんのスタンプを貼り付けておいた。勿論既読はつかない。必要なことだけ言ったらば言いっぱなし。こちらの返事など全く意にも介さない。慣れたけど。
「食べないの?」
「えっ」
「飴。ベタベタになるよ」
マスクで顔の下半分が隠れていても、ニコーと効果音が付いてそうな笑顔の教授に言われ、まだ手に持ったままだったことに気づく。確かにペタペタし始めていた。口内に放り込み、舌の上で転がす。葡萄味だった。
ヨシヨシと、どこか満足げに頷いた先生は、適当な雑誌を引っ張り出してきてペラペラと捲った。
「ほんと、俺って、なぁんで学生に舐められちゃうかねぇ。そんなに威厳無い? 結構すごい先生なのよ。界隈じゃあ中々の功績収めてんのよ、俺」
「そんなことないですよ。明石家くんも咲ちゃんも、教授のこと頼りにしてます。ツンデレってやつですよ」
「そう言ってくれるの、志紀だけだよ。お世辞でも、ありがとね。流石、遠坂先生のお孫さんだよ。涙が出るね」
「私も、教授のこと尊敬してますから。それに恩人だし……。何から何までお世話になっちゃって、すみません。たいしたことしてないのに、お金まで頂いちゃって」
「や、その点は本当に気にしなくていいよ。お祖父さんとの約束だからね。勉強ぐらい、お茶のこさいさいだよ。雑用関係も手伝ってもらって助かってるし。バイトだよ、バイト。葵と一緒。特に掃除、俺、てんで駄目だからねぇ」
グッチャァ……となった研究室(通称・速水の巣)を見る速水教授には、改善しようという気概は一切として見られない。ま、まぁ、私はいいんだけど。大学側は許容してるのかな、コレ。完全に自宅代わりにしてるし、我が物顔で私有地にしてるけど。
「それに、固まった資金、必要なんデショ。寄付って形でも、絶対受け取らないだろうし」
「ええと、それでお話は」
「あ。そうそう。そのまま話の流れで言っちゃうけど。学費のこと、もっかい考え直す気ない?」
「教授、それは」
「お父さんも、心配の電話掛けてきてたぞ。何言っても、自分で何とかするの一点張りで、どうしたもんかと。それぐらい、親として出してやりたいのにって」
「こ、これ以上、父に負担はかけたくないんです」
「我が子の為に、いつだって力になりたいと考えるのが親心なんじゃない?」
「それでも、です」
「なら、俺に大学行く資金ぐらい援助させて頂戴よ」
「もっと駄目ですよ」
「あのねぇ、殊勝なのは美徳ではあるけどもな。自分ひとりで稼ぐってったら、厳しい道のりだぞ。しかも、お前は人よりもハンデがある。その足じゃあ、働ける場所も限られてきただろ?」
ちら、と私の足を赤い目が見つめる。
戻ってこれたその日から、私の左足は徐々に機能しなくなっていった。歩きづらいな、とは思ってはいたが、動かす度に折れるんじゃないかという位の痛みを伴った。これはいけないと通院を重ね、検査の結果、私の左足はもう走ることは出来ない、普通の人と同じペースで歩くことも難しい、これ以上の負担をかけ続ければ、肉の塊同然になる。つまりは、今と同じ生活を続けていれば、いつかは完全に動かせなくなる。そう診断された。
元々、あまり激しく動かず安静にしていなければならないところを、何らかの無茶を仕出かして悪化した様に見受けられるとも言われた。全力疾走とかしなかった? と確認されたが、何故か、頷くことも否定も出来ず。
将来、それも近いうちに、車椅子での生活になる得ることも覚悟しておきなさい、とお医者さんは話してくれた。
不思議と、絶望感だとか「なんで私が」という疑問は湧いてこなかった。誰かさんの目論見は、きちんと果たされたのだなと、ぼんやりと他人事の様に考えた。ただ、それだけ。
「ちなみに先生は、どうしてもそれしかアテが無い場合を除いて、奨学金利用するのは薦めないぞ。悪いものとは言わんし、救済措置ではあるが、返済云々で、将来ジワジワ首を締めてくる。で、お前はそのアテがある訳だが」
「……」
「もっと甘えたっていいと思うんだよ。先生は」
「すみません……」
「いやー、お祖父さんに似て頑固者だね。似なくていいとこまで似ちゃって」
「……」
「わかった」
「……」
「お父さんにも、先生から話しとくよ」
引き留めて悪かったな、と一言。教授はふぁああと、マスクの下で、おそらく大きな欠伸をした。
「さて! 先生はこれから仮眠を取る訳だが、志紀。お前はどうする。午後の予定潰れたろ。準備の必要も無くなったし」
「図書館で勉強してようかなと。お昼御飯食べたら、家に帰ります」
「ええ? 何でよ。俺の講義があるデショ。受けていきなさいよ」
「でも、私、ただのお手伝いで……まだここの学生じゃないし。学費だって払ってないのに、ズルというか、不公平ですよ」
「俺の授業だけならノーカンでしょ。どうせ、俺のゼミ、十人も居ないんだから。席も余ってるし。一人増えたところで誰も気にしやしないよ」
「逆に目立ちます」
「かの偉大なスティーブ・ジョブズだって、こっそり授業受けてたっていうじゃない。もっと厚かましくなりなさいよ」
「私、ジョブズにはなれませんから」
「とにかく、図書館で勉強して、ズッコケ三人組で仲良しこよしランチして、講義受けて、葵に送ってもらいなさい」
「そのことなんですけど……明石家くんに悪いです。友達と遊びに行きたいって日もあると思うし、そろそろ、私ひとりでも家に帰れます」
「そのオトモダチとは、いっつも週末の夜に若者らしくクラブで飲んで騒いで、ラ●ワン行ったり、ナイトプール行ったりで、バカ騒ぎしてるらしいじゃない。いいねー、青春だねー。リア充ってやつだねー」
「棒読み過ぎます」
「夜通し遊び呆けてるから、その辺は大丈夫でしょ。いっつも送り届けたあとは、ス●バのバイト直行らしいし。ウンウン、平日位は、健康的に過ごさせないと」
隠す必要なんてないのに、先生は自身の口許を更に雑誌で隠し、赤い目だけをゆったりと覗かせた。常に着けているマスクに加え、先生はよくコレをする。癖なのだろうか。
「あんまり、一人にさせたくないんだよねぇ」
「……」
「お前がどこに居るのか、そりゃあもう四方八方探して、骨が折れたからなぁ。俺も若くないし、あんまり無茶はしたくない訳よ。だから、大人しくしててチョーダイね」
遠回しに言っているが、「これ以上面倒をかけさせるな」ということだった。教授は本音をオブラートに隠しつつも、やんわりと圧をかけてくる。それを言われてしまっては、ぐうの音も出ない。
「ま、ウィリアムが来たら、どっちにしろ、俺はもうお役御免になっちゃうかな」
「?」
「はい。お話終わり。それじゃあ、また後でね。ちゃんと出てきなさいよ~」
ポンポンと労いのつもりなのか肩を軽く叩かれ、緩く扉の方へ誘導される。それじゃ、と片手をあげる教授に、慌てて頭を下げた。
雑念は振り払い、図書館で試験に向けての勉強に真面目に取り組めば、時間というのは知らぬ間に過ぎるもので。昼時だぞ、と知らせてくれたのは腹の虫だった。お腹を擦って時計を確認し、ラウンジに向かわねばと、勉強道具を仕舞って、図書館を出た。一応メッセージを確認すると、最後につけた私のスタンプに既読がついていた。あちらも授業が丁度終わったらしい。
ラウンジに到着すると、こっちこっちと陽気に手を振ってくれる咲ちゃんに導かれ、よたよたと、先に取っておいてくれたテーブルに近付く。咲ちゃんは猫の様に、でろんとテーブルの上で両手をいっぱいに伸ばし、スペースを確保する。明石家くんは一瞥をくれず、パズ●ラに勤しんでいた。
「二人とも、お疲れ様」
「うんにゃ。ほんとに疲れたー。ねぇ、聞いてくださいよ、志紀センパイ。咲、葵パイセンと講義被ったら、いーっつも咲に前座らせて、壁にしてグースカ寝るじゃないですか。で、今日、唐突に抜き打ちテストあって」
「うん」
「基準点届かなかったら補講だーって、皆ブーイングの嵐で。運転免許の本試みたいな意地悪い問題ばっか出してくるから、対策してないと絶対イイ点なんか取れる筈もなくて~」
「ほうほう」
「でも、咲はシメシメと思った訳ですよ。ずーっと授業中寝てる葵パイセンが、普段の授業内容頭に入ってる筈ない! いつも咲を壁にしてる罰だ! 補講になってしまえ! そうほくそ笑んだんです……で!」
「お、おおう」
「これですよ! どー思います!?」
べん! っと眼前に突き付けられた用紙を、そっと手に取る。これじゃ近すぎて見えない。ううん? と首を傾げながら確認すると、そこには赤丸、赤丸、次に赤丸。そして上には華麗なる100、その下に気持ちよく滑らかな横線が。
「……」
「……」
「ま、まぁ、明石家くんって、昔から勉強出来たし……」
「納得いきません! ナンデ!?」
「ほら、実は家に帰ってから猛勉強してるのかも」
「はー!? センパイ、それ本気で言ってます!? このひとのプライベートは、遊ぶ、バイトの二択ですよぉ!? 頭スッカラカンの典型的大学生ライフですよぉ!? いだっ」
「じゃかしいねん。もう少し静かにせぇ。目立つんじゃ」
「暴力反対! 暴力反対!」
「小突いただけやろが」
「(親子……)ちなみに、咲ちゃんは何点だったの?」
咲ちゃんは、さくらんぼの色をした唇を一文字に引き伸ばした。ぷぅと膨らんだ頬は、一度突っつけば風船に割れてしまいそうだ。その反応を見ただけで何となく察したので、それ以上は突っ込まないでおこうとしたのに、明石家くんが明らかに小馬鹿にして鼻で笑うので、咲ちゃんの眉間に更なる皴が刻まれた。
「もー、いいです。ねぇね、志紀センパイ」
「うん?」
「咲、悪いパイセンに意地悪されて傷心中です。来週に控えた補講も、めんどくさすぎてガン萎えです」
「お、おう」
「肉まん奢ってください」
「なんでそうなるねん」
「いたいっ! ここぞとばかりにツッコまないでくださいよ。これだから関西人は!」
「性や。俺にはどうにもならん」
「むきーっ」
「遠坂にタカんな。食いたいんやったら、自分で買え」
「金欠中で……財布忘れてきちゃったんですよぉ~。お昼御飯買えない……飢え死にしちゃう」
「い、いいよいいよ。明石家くん。私買ってくるから。丁度割引してるし」
「はわーっ。志紀センパイ、神! 今日は財布が向こうから来るから、またお礼しますねー」
「うん。えっと、何がいい?」
財布を持ち、隣接のコンビニに向かおうとしたところで、右腕を掴まれ、静止させられる。えっ、と思っていたら、明石家くんが既に立ち上がっていて、私の肩を上から押し、再び席につかせた。疑問符を浮かべる私に、明石家くんは一瞥もくれることなく「そんぐらい、俺が買ったる」と素っ気なく申し出た。えっ。
「い、いいよいいよ。そんな高いものじゃないし。なんなら、私、ポイントあるから、それで……」
「やったぁ。葵パイセンなら言い出してくれると思いました。じゃあ、豚まんとピザまんとフカヒレまんで、それぞれ3つずつ買ってきてください」
「調子乗んな。ひとりでそんな食いきれる訳無いやろ」
「何言ってんですか。咲と葵パイセンと、志紀センパイの三人分に決まってるじゃないですか」
当たり前だと言い放つ咲ちゃんに明石家くんは返事もせず、大きくため息をついて、スマホをいじりながらコンビニへと歩いていく。こ、こら。いくらすぐそこだからって、歩きスマホはいけないんだぞ。
何だか思春期の息子を持った様な気持ちで、ケースの中で暖められている肉まんを店員さんに指差し、注文している明石家くんを見てしまう。
しかして、私も前方から視線を感じて身体の向きを変えると、両手で頬杖をついた咲ちゃんが、何か探る様な上目遣いで私を見上げていた。長い睫毛に、ばっちりとアイラインの引かれた大きな瞳に少したじろぐ。迫力があるのだ。
「ど、どうしたの、咲ちゃん」
「志紀センパイって、ほんとに葵パイセンと付き合ってないんですか?」
「明石家くんと私が? ないない。有り得ないよ。本当に、ただの昔馴染みで……って言える程のものでもないんだけど」
「ふぅん? そうは見えないですけど?」
「そ、そんな目で見ないで。ほんとほんと。お話する仲だったけど、それも一年だけだったし、クラス別れて、簡単に疎遠になったし」
「ふぅーーん?」
「ほ、ほら。それに、明石家くん、地元に彼女居るって、咲ちゃんも知って」
「最近、上手くいってないみたいですよ。さっき詰めましたけど、彼女さんが関東来たとき、平手でバチンされる大喧嘩したらしくって。たぶん、もう別れるって」
「えっ。も、もう!? 1ヶ月も経ってないよね」
「いつものことでしょ。あの性格だし。本人に直接は言えませんけどね、あれ、長い目で見たら、ずっとは付き合ってられませんよ。冷たいし、そっけないし、デートも彼女側から言わなきゃ無し。常時あの調子で来られちゃあ、愛されてるって感じしないだろし」
「結構ズバズバっとメス入れるよね、咲ちゃん……」
「いやいや、マジですよ、コレ。葵パイセンの生涯の相手と考えると、ゲロ苦労しますよ。鬱にもなるし、絶対に胃が蜂の巣になっちゃう。いくら顔良くても、付き合うのは絶対ナシっすね。1ヶ月なんて、今回は相手方も頑張った方ですよ。愛想尽かされても仕方ないと、咲は思いますケド」
「わぁ」
「だって、フォローできますぅ?」
「うーん……不器用なだけじゃないかな。たぶん、愛情表現とか得意じゃないんだと思う。だから誤解されやすいというか」
「ふーん?」
「な、なに?」
「いんや、別に。さすが同級生だなって。ねーねー、センパイ。もし、もしもね? 葵パイセンに付き合えって言われたら、男女の仲ってやつになります?」
「まさか! ないない。本当に無いから」
「即答じゃん」
「明石家くんも、私のことそんな風には見てないだろうし」
「だから、もしの話だって。あの明治大正昭和男児の、黙って俺についてこいな感性についていけんのって、大和撫子タイプだけじゃないですか。今んとこ近しいのって、ぶっちゃけ志紀センパイだな~って思ってたんですけど」
「私、そんなんじゃ……」
「だって、控えめだし、いつも文句も言わず一歩下がるし、考え方とかババ臭いし、古いし、貞淑すぎて逆に引くときあるし、いや武家の娘かよってなるときありますよ、たまに」
「え、あの、誉め、誉めてるんだよね? あれ?」
「時代錯誤もいいとこなんですよ。……っていうかぁ、やっぱり、志紀センパイ、実は付き合ってる人、いるんでしょ」
咲ちゃんが指差すは、私の鎖骨辺りにぶら下がる金の指輪だった。いい加減に教えてくれ、と物凄いニヤケ顔でじりじり迫ってくるものだから、思わず身を引いてしまう。トンと背中に椅子の背が当たった。
「それとも、ただの男避け? まさかね。そんな高そうなの、志紀センパイが自分で買う訳無いし、そもそも、する訳もないし。貰い物でしょ。ずーっと大事そうに、肌身離さず着けてるもんね」
「え、えっとね」
「いいじゃないですか~。ここだけの話にするから。咲、絶対誰にも言わないから。ね、ね」
「咲ちゃ……」
「それ、よく見たら、ちっちゃい字で何か彫ってありますよね。なんて書いてんですか。もしかして、相手のイニシャル?」
お、押しが強い。ズイズイとテーブルに上半身を乗り上げ、追求してくる咲ちゃんに、これはね、と説明しようとした途端だった。
ほかほかの温もりが漂う袋が、咲ちゃんと私の顔の間に、会話を遮る様に落下してきた。食欲をそそる美味しそうな饅の匂いだ。
ジュ、と何か吸い上げている音が聞こえて、二人同時に顔を上げると、明石家くんがリ●トンの紙パックにストローを突っ込んで飲んでいた。
コショコショ話に上がっていた張本人の帰還に、咲ちゃんが「お、おかえんなさ~い」と若干口をひきつらせて笑う。
明石家くんは些か乱暴に椅子に腰掛け、私の首辺りを見て眉を潜め、そっぽをむいてストローを、がじ、と噛んだ。見るからにご機嫌斜めの様子に、どうしたものかと咲ちゃんに目配せするが、彼女は肩を竦めるだけだ。「葵パイセン、ゴチになりまーす」と御礼を言って、いそいそと袋の中を漁っている。
「葵パイセンはピザまん、志紀センパイ、はいコレ」
手渡された豚まんを受け取る。じんわりと掌に広がる温もり。
「明石家くん、いただきます」
明石家くんは、やはり何も返事をくれなかったが、それでも彼にはちゃんと伝わっている。ちょっとクールにかっこつけたいお年頃だったりして、と咲ちゃんが私に囁いたが、やはり聞こえていた様で、チョップをかまされていた。元々がこうなんだよ、咲ちゃん。
もぐ、と豚まんにかじりつく。饅頭は、ほかほか、ふかふかの熱々だ。口内を火傷しそうになって、はふはふと空気に触れさせて冷ます。横と正面では、熱さなど何ともないのか、咲ちゃんと明石家くんが大口を開けて、ピザまん、フカヒレまんにそれぞれかじりついていた。すごいな、君達。
「あ、次、速水の講義じゃん。センパイ達、そろそろ行きましょ。ほら、志紀センパイ、はやく食べて」
「えっ、んぐ。あ、私は」
「帰る気か」
「そのつもりだったんだけど……」
「え~、センパイずるい。駄目ですよ。連行です」
「う、うーん」
「今更……毎度毎度、何躊躇しとんねん。普通に受けとったらエエやろ」
「今更だけど……その毎度に罪悪感というか、やっぱり、いけないことしてる感が、その」
「行くぞ」
鞄を明石家くんに浚われてしまい、反射的に取り返そうとしたが、ヒョイと上に掲げられてしまう。頑張って手を上に伸ばしても、177センチに届く筈がない。そうこうしてる内に、腕に絡み付いてきた咲ちゃんに、ぐいぐいと誘導される。ふわふわとした髪が、真横で揺れている。
「葵パイセンの言う通り。志紀センパイ居ないと困ります。あとでノート見せてくださいね。咲、夜に備えて寝るから」
「えええ」
強引さにかけては右に出るものは居ない。そんな二人にお縄になってしまえば、もう抵抗の為す術はなし。結局並んで着席し、速水教授に「はい、ズッコケ三人組。君ら、そこはかとない大蒜臭するんだけど。エチケットって知ってる? 一人ならともかく、三人まとめて来るから、くちゃいくちゃいなんだけど。つか、こういうときだけ、三人仲良く並んで最前列並ぶのやめてくれない? 特に左右男女、お前ら確信犯だろ」と嫌な顔をされたので、三人仲良くクッチャクッチャとミントガムを噛みながら授業を受けることになった。
伸びをすると、ボキボキと体の節々がリズムを奏でる。定期的にストレッチしなきゃな、流石に。20を過ぎると、身体は衰えていくだけっていうし……。
本日の講義を全て終えた咲ちゃんも、解放感からスッキリした顔をしている。さてと、と言って、シャ●ルの鞄から、手鏡とディ●ールの口紅を取りだし、大人っぽい表情で顔を整え始めた。その様子を、次の講義の教室を確認していた明石家くんが呆れた顔で見やる。
「懲りひんな。お前」
「あ、まぁたそういう色眼鏡で見る」
「ええ加減やめろ。事件巻き込まれても知らんぞ」
「ダイジョーブですよ。ちゃんとしたとこからの紹介しか相手してませんから。そこんとこは抜かりなくやってます」
「出所がどうあれ、ロクなもんちゃうわ」
「これも立派なオシゴトですよ。パパと遊ぶってバイトです」
「……」
「んも~。そんな怖い顔しないでよ~、パパ~」
「誰がパパじゃ。茶化すな。虫酸が走る」
「ひど。いやマジで、大丈夫ですって。ホラ、志紀ママに渡された防犯グッズもこ~んなに。重いったらないんですよね」
咲ちゃんが、鞄の中身を明石家くんに見せた。中には、防犯ブザーに催涙スプレー、スタンガン、フラッシュライト、護身棒、その他諸々が、ぎっしり詰められている。無言でこちらを見てくる明石家くんに、気まずい笑みを返す。いやだって、私も何度も何度も止めたけど聞いてくれなくて、咲ちゃんの親御さんも奔放な方で、まさかの容認済みで。咲ちゃんを止められる術が無いのなら、せめて、と授けたのだ。今ではすっかり、お出かけの際、防犯ブースで何か役立つものはないかとチェックし、あれば咲ちゃんに持たせるといった流れが常になってしまっている。
「あっ、もうこんな時間。車で迎えに来てくれることになってるんで、咲、もう行きますね~。それじゃ、また休み明けに」
良い連休を~、と間延びした調子で、あっという間に消えてしまった咲ちゃんの身を案ずるばかりだ。お家にちゃんと帰れたら連絡頂戴ね、とメッセージを打っておく。すると秒で『ハーイ』とイ●ラちゃんのスタンプがついた。はやすぎる。流石現代っ子。
「明石家くんは、あと一コマ?」
「建築史。小テストだけやから、提出したら終わる。そのあと野暮用あるから、ド●ールで待っとけ」
「はい。……ん? ド●ールって、体育館近くの? いつもと同じ図書館じゃ駄目なの? 入り口、遠くなるけど」
「正門やなくて、裏口から出る」
「ちなみに、用事って?」
「バスケ部の助っ人」
途中まで道は同じ。明石家くんの少し後ろを歩きながら目の前の背中を見上げる。バスケ部の助っ人かぁ。男の子って本当、成長期にニョキニョキ身長伸びるんだな。中学のときは、私よりもちょっと高いかな? 位だったのに。
「速水の話、何やったん」
「ちょっとした進路面談」
「お前、この大学入るんやろ」
「うん。第一希望」
「金出す言うてんやから、出させたらええねん。独身貴族やし、有り余っとるやろ」
「そこまで教授に甘える訳にはいかないよ。それに、わかんないよ? 教授のことだから、もしかしたら、ある日突然いい人に出会ってゴールイン……」
「ない」
「即答……慈悲も無し……」
「高認受かったら、その次はバイト三昧で受験勉強か」
「……だめ?」
「実家ならまだしも、効率悪い。何年かかるねん」
「今も実家住みと変わらないよ。管理って名目だけど、教授が使ってないお家お借りしてて家賃はかかってないし、むしろ、管理費だって言ってお金まで頂いちゃって……管理って言っても、普通に生活してるだけで、たいしたことしてないのに」
「……」
「私、自分で払ってるの、光熱費とスマホ代だけなの。なんか、何から何までお世話になってて、申し訳なくて。どうしても、大学は自分で働いたお金で行きたくて」
「この遠慮しいが。甘えられるんやったら甘えたらええやろ。親に迷惑かけるのも子供の仕事って言うやろが」
「子供って年でもないよ。それに、そんなこと言って、明石家くんだって、入学二年遅らせて、たくさんバイトしてお金貯めて、自分で学費払ってるじゃない」
「俺は男やからな」
「なにそれ」
通りすがりのカフェテリアには、小型ではあるが、テレビがいくつか設置されている。丁度、夕方のニュースをしていた。オーストラリアとニュージーランドの都市区で、50名以上の大多数が突然に行方不明になったと、緊迫した様子でキャスターが告げている。
「やだあ、またぁ?」
ニュースを見ていた学生が、友人と呟いていた。
人間は言わずもがな、森に住んでいた動物も、虫も、魚も、生けとし生けるもの全てが、綺麗に忽然と消えた。
空っぽになった都市の様子が映し出される。生活感に溢れる住居の中に入った海外のリポーターが、荒らされた様子は無いと、居間や子供部屋などを見渡していた。遊んでいる途中だったのだろう。散らばったオモチャや人形が片付けられず、そのままになっていて生々しい。
次に、二つの国の大統領の映像に切り替わる。国を挙げて捜索する。原因を究明し、必ず全員見つけ出す、と威勢良く声明を上げていたが、幾度も見てきた光景だ。
立て続けに、それも頻度がより高くなってきた、世界を震撼させる大事件の説明がスタジオで為される。
そこに決まって話題に上がるのは、唯一の帰還者である日本人女性のことだ。顔を伏せる。色んなところから視線を感じる。
「ほら、あの子が例の」
囁き声を耳にしつつ、ニュースを黙って見ていた明石家くんに話す。
「お父さんに、これ以上無理させたくないの」
「……」
「私の捜索で、結構なお金、出てっちゃったみたいだから」
それについては明石家くんも何とも言えないのか、微妙な顔をした。そりゃあそうだ。
父も祖母も、私が帰ってくると信じて、諦めることなく尽力してくれた。財力が豊かにある方では決してないのに、ただでさえ元々が忙しかったというのに、父は更に身を粉にして働き、捜索費の資金繰りをしてくれていた。祖母もそうだ。毎日の節制を欠かさずして、老後の楽しみも捨て、慎ましい生活を徹底していただろうことは想像に難くない。
私は、長い年月を経て、ここに帰って来た。しかし、現実的に考えて、それまでに引き換えとして喪ったものは多い。
償わなければならないと思う。だって、家族にそういった苦労を強いている可能性があることをわかっていた。なのに、ここまで長引かせてしまった。今までの分を返さなければ、償わなければならない。私にはその責がある。これ以上甘えてはいられない。
私個人として、一文無しからのスタートだった。だけども、弱音を吐いてはいられない。進まないと道は拓かれない。大変な苦労を掛けた父にだけは、今後楽をさせてあげたい。祖母は……間に合わなかったけれど。それでも、せめて、自分で出来る可能性が一筋でもあるならば。
無意識に首に下げた指輪に触れていた。
「それにね、必死になれる環境でないと、色々モヤモヤしちゃって。だから、今すごく充実してるよ」
「鮪じゃあるまいし」
「う、動かないと死ぬとか、そんな大袈裟な話じゃなくて」
「そういうことやろが」
「って言っても、色んなひとに助けてもらってばっかりだよ。生活面でも勉強面でも教授には一生頭が上がらないし、明石家くんも咲ちゃんも手助けしてくれるし」
「俺は小遣い稼ぎや言うとるやろ。気ィ遣うことない」
「はい、そうでした」
「はよ行くぞ」
未だひしめくカフェテリアの居心地の悪さから抜け出すべく、再び前を歩き出した明石家くんの後をつく。先頭を切っていた明石家くんがスマートに歩みを進めるのに安心して、油断した。
「わ、わわっ」
曲がり角から人が出てくるのに気づかず、対処が遅れた。普通ならば軽く礼をして、さっと避けて通ればいいものを、私の足は唐突の機転には対応出来ず、あえなく盛大にぶつかり、身体をよろめかせて、呆気なく尻餅をついてしまった。明石家くんが少し驚いた顔で振り返る。
「え」
衝突相手の、大きいヘッドホンを首にかけ、パーカーのフードを被った女性も、そんなに強くはぶつかっていないのに、あまりにも私が足元も覚束ない幼児の様に倒れたものだから、呆気に取られた声を出していた。
耳元にスマホを当てていることから、電話中だったらしい。この距離からでも、電話の相手が物凄い大声で女性に「返事をしろ」と呼び掛けているのが聞こえてくる。
明石家くんが、何やってんだという呆れた顔で近寄ってくるのが、視界の端に見えた。
あ、支えがないときついかも。すぐには起き上がれない。床に足を打ち付けてしまった。軽い衝撃ではあったが、足は十分に驚いたらしく、上手く動かせない。一時的なものだから、少し落ち着けば、何とか一人でも立ち上がれそうだった。けれども、こんな廊下の真ん中でへたり込んでいるのは迷惑極まりない。
大人しく明石家くんの手を借りようとジッとしていたら、骨ばった白い手が、私に差し出された。指は細長い。女の子にしては、随分と大きな手をしていた。
顔を上げると、被っていたフードを脱いだ女の子が、驚きで真ん丸にした目を瞬きさせながら、私に掌を差し出している。前下がりショートの横髪が、さらさらと揺れていた。
「ごめん。余所見してたわ」
「あ……い、いえ。こちらこそ、ごめんなさい」
「大丈夫? 立てる?」
「は、はい。有難うございま」
「あー、もう、うっさいな。わかったって。ちょ、後で掛け直すわ」
お手をするみたいに、女の子の手を借りて起き上がろうとする間も、女の子は忙しそうだった。電話口の向こうで、未だヒステリックに叫び続ける女性の怒鳴り声に顔をしかめ、相手の了承も得ず、通話を終えてしまった。
「遠坂」
「だ、大丈夫、大丈夫」
立ち上がったはいいものの、よろめいたところを、明石家くんに二の腕を掴まえてもらった。うん、ちゃんと立てる。
「や。マジごめんね」
女の子は落っことしてしまった私の鞄を拾い、はい、と持たせてくれた。その時、私の隣に居る明石家くんを見て、緩んでいた目を大きく開き、更にまん丸にさせた。
「明石家じゃん。お久」
「珍しい顔やな。帰って来てたんか」
「レコーディング、日本でやることになってさ。終わったら、すぐ戻る。ついでに実技試験あんの忘れてて、課題曲とか全然知らなくて、聞きに行ってきたとこ。試験明日なんだよ。ギリ過ぎてウケる」
脇に抱えていた紙をペラペラとさせる。細かい音符がびっしりと記載されている。楽譜だ。
「今は何してんの?」
「ス●バのバイト。あとガソスタ。その他諸々」
「ス●バ! 明石家、バリスタ目指してんの? はは。似合わないことしてんね」
「うっさいわ」
「今度フラペ飲み行くわ。どこ?」
「●●駅前」
「スタジオ近いじゃん。早く言ってよ。追加クリーム無料にして」
「せん」
「ケチかよ。で、その子は? 明石家のカノジョ?」
「ちゃうわ。遠坂、こいつは音楽学科の……教えてええんか」
「いいよ、別に。私のこと、知らなそうだし」
明石家くんが口に出す前に自然と、その名前が私の口から小さく発せられた。自分でも驚くほど、するりと。
「ながつき、おぼろ」
意外そうに、ほんの僅か目を見開いた明石家くんの表情は珍しい。名前を言い当てられた女の子は、フードを被り直し、ヘッドホンの位置を調整した。
「なんだ。知ってたの」
「え?」
「え」
「あ、いや」
「ん? あ、もしかして、私のアンチ?」
「ちっ、ちがいます、ちがいます!」
「首振りすぎでしょ。取れんじゃないの。まぁ、どっちでもいいか。騒ぎ立てる様な子じゃないのは見ただけでわかるし。で、明石家。この子は?」
「遠坂志紀。中学で同クラス」
「ってことは、私ともタメだ。どこの学部所属? 四回生?」
「あ……私、ここの学生じゃなくて」
「え? そうなの?」
「進学希望出しとる。受験生」
「へぇ。頑張ってね」
「あ、有難うございます」
「いいよ、そんな気ィ張んなくて。敬語も外していいし。オープンキャンパスで来てんの?」
「いえ。私、速水教授とご縁があって、お手伝い的なことをさせてもらってて」
「ハヤミ? ハヤミ……ハヤミ……あぁ、噂の。明石家も入ってる、考古学のゼミだっけ」
「噂?」
「速水んとこに所属してる学生、皆優秀だけど、扱いづらい曲者揃いだって。そう聞いたことあるけど」
「へ、へぇ……」
「お隣見てると納得だよ。遠坂さんはそうでもないらしいけど」
「人のこと言えるクチか」
「あ、そうだ。明石家さ。語学堪能だったりしない? 今度、ちょくちょくアジア回ることになってんだけど、付き添いの通訳募集してんの。どう?」
「雇えばええやろ」
「皆、すぐ辞めちゃうんだよね。頻繁にエグい口論になるから、通訳してて、その板挟みになるのはヤダ、嫌気が差したっつって。これ以上罵詈雑言のレパートリー増やしたくない、思いつかない、ノイローゼになるって」
「自業自得や」
「直そうと思って直せるもんじゃないし。私としてもさ、知り合いについてきてもらった方が気が楽なんだよ。ほら、明石家のことだから、そつなく就活も終わってんでしょ?」
「俺は日本語しか喋らん」
「ですよねー。流石、生粋の日本男児。ぶれない。遠坂さんは?」
「え?」
「アジア圏の言語、ペラペラだったりしない?」
会話の内容の節々に、なんだかただ者じゃないことが伝わってくる。簡単に圧倒されてしまった平凡なモブAは瞬きを繰り返すしかなかった。だから、唐突に話を振られて大層驚いた。一瞬、何を聞かれたのかわからなくて呆然としていた私に、再度「アジア圏の言語、何か喋れたりする?」と、特に気分を害した様子もなく、質問を繰り返してくれた。
「あ、え、えっと、少しなら」
「え、マジ? どこ? 若い女の子なら、韓国語とかかな。あ、ごめん、必須事項忘れてた。英語は? 日常会話レベルで全然良いんだけど、話せる?」
「堪能とはいきませんけど、少しだけ」
「チャイ語は?」
「チャイ語……あ、中国語なら大丈夫です」
「へー、アリじゃん。十分だよ。今度中国廻ることあったら、遠坂さんに通訳頼もっかな」
「えっ! で、でも、私、そんなスラスラとは」
「大丈夫だよ。交通費、渡航費、滞在費は全額こっちで負担するし、お給料は弾むからさ」
「永月。こいつは」
「あ、タンマ。ちょっとごめんね」
明石家くんの声を遮り、またも着信音が鳴り始めたスマホを煩わしそうに見た彼女は、物凄く顔を歪めてチッと舌打ちした。思い切りが良い音だった。すぐには電話に出ず、思い切りため息をついて、そのままにしている。ほ、放置?
「もう行かなきゃ。遠坂さん」
「は、はい」
「私、日本は拠点じゃなくて。ここと提携してるアメリカの大学の方をメインに単位取ってんの。ダブル・ディグリーっていうんだけど。レコと試験終わったら、またすぐアッチ戻んなきゃだし。中々顔合わせらんないから、また通訳がらみの仕事でお願いしたいこと出来たら、連絡すんね。明石家、あとで遠坂さんのラ●ンのID送っといて」
「おい」
「そうだ。アメあげるよ。はい、チュッ●チャプス。コーラ味しかないけど。あ、ぽた●た焼もあるわ」
「お前は大阪のおばちゃんか……」
「誰がババアじゃ。違うし。つか、大阪行ったことないし。え、っていうか、大阪のおばちゃんってマジでアメくれんの? 都市伝説じゃないんだ。めちゃ優しいね」
はいはい、と私達の掌に、棒つきの丸飴を乗せた彼女は、ほいじゃと片手をあげ、パーカーのポケットに手を突っ込んで軽やかに去っていく。
去り際に聞こえてきたのは、機嫌の良さそうなハミング。その鼻歌に聞き覚えがあった。チリチリと視界にノイズがかかる。美しい歌声と、銀色を纏った妖精の様な女性の姿が重なってダブつく。
その後ろ姿に声を掛けなくてはと、赤い警鐘が鳴る。伝えなければならない、と。けれど、何を?
「な、永月さん!」
衝動的なものだった。肝心の内容を頭で考える前に、先に彼女の名前を呼ぶ為の声が出る。怪訝な顔をして振り返るその人は疑問符だけを頭の上に浮かべていて、応答する為に添えていたスマホのボタンを留めてくれた。
「なるべく、なるべく一人にならないでください。あ、危ないから……」
考えるよりも先に出たのは、脈絡の無い言葉だった。塞翁が馬。今後、彼女に振りかかるかもしれない確証もない何か、その火の粉から遮らなければ、と。
突然に意図の読めないことを言われた彼女が戸惑うのも無理はない。言い出した張本人の私でさえ、どう反応したらいいのかわからないのだから。
無言でじぃっとこちらを見つめる目は、少し眠たそうにとろんとしている。けれど、その鋭さたるや、内面を覗かれている気分になって、身が縮みこまる。指輪を握り締め、口をパクパクと魚の様に開閉させる私を見て、彼女は少しだけ笑った。
「なんか、ヤバいのかな。私」
「えっ、あっ、いやっ、その」
「障りってやつ? 憑いてるの見たり、感じたりするひとだったりする? 確かに、恨まれたりすることは人よか多いけど」
「あぁあ、ごめんなさい。そういう訳じゃ」
「ふぅん。よくわかんないけど……ま、肝に命じとくよ」
じゃね、と手を振り、今度こそ、彼女の応答を待ちくたびれていただろう電話の向こうの相手を始めた。
「あー、はいはい。わかってるって。今行くって。そんなにがなんないでよ、うるさいなぁ」
忙しそうにするその背中は、ついぞ、曲がり角を彼女が進んだことで見えなくなってしまった。腕を組んで、呆れたように息を吐き、明石家くんは「相変わらず、台風みたいな奴」と呟いた。
「自分を中心に世界回っとる思っとんちゃうやろな、アイツ……」
「私、なんだか圧倒されちゃって……。は、迫力が。普通にお話ししてただけなのに」
「あぁ、結構色んな奴からも言われとる。圧がエグいって。お前だけやない。気にすな」
「圧……」
「いい意味でも、悪い意味でも、竹割った性格や。色んな人間が、常にアイツに振り回されとる」
「周りへの影響力、すごいんだね。でも、納得。実感した……」
「お前とは真逆やな」
「……なに?」
「珍しいな思て」
「え」
「万年、流行乗り遅れとるお前が、永月知っとったこと。普段、そんな音楽聞くタチちゃうやろ。流石に、日本代表しとる作曲家は遠坂でも認知もしてたか」
明石家くんがポツリと呟く。けれど、私はやはり世間の流れに置き去りにされていた。そして、疎すぎた。だって、明石家くんの発言で以て初めて、彼女が、永月朧さんが、日本どころでなく、世界そのものを股に掛ける天才的な音楽家であることを知ったのだから。
あ。コーヒー冷めちゃってる。
待っているように言われたド●ールでの勉学も、長い時間続ければ、いずれ集中力の限界を迎える。ぐぬぬと伸びをすると、バキバキと身体の節々が鳴った。最近、ずっと机に向かう生活だから、心なしか姿勢も悪くなった気がする。気付けば猫背になっていることが多い。腰に両手を当てて天井を仰ぐ。ふいに、店内の壁にかけられた時計が目に入った。まだ、待ち合わせには早いな。
完全に集中力の切れた状態で珈琲を追加注文したとて、それは何だかお金が勿体ない気がする。なれば、こちらから迎えに行くとしよう。裏の出口は、このド●ールよりも体育館の方が近い。明石家くんにわざわざ引き返してもらって、ご足労願うのもアレだし。
ということで、場所を移動し、体育館。シューズがキュッキュッと床を滑り、叩く音が響く。体育は嫌いだが、昔から、この音だけは結構好きだった。
キャアキャアと応援に来ている女学生陣とは少し離れた場所に移動する。視界は悪いが、問題にするほどではない。
パスされたボールを軽やかに受け取り、ガードしてくる高身長の男の子達に怯むことなく、力強く素早いドリブル、そしてトリッキーな動きで敵チームを撒き、ゴールへと駆ける七番の背番号。
「行け! 葵!」
チームを勝利へと導けと、味方選手から激が飛ぶ。激しく動くが故、汗をかきながらも、聞いてるか聞いてないのかわからない素面の表情。しかし、明石家くんは確かに、その声に、期待に応えた。
あとすこし、ゴール手前で待ち構えていたディフェンスを目の前に、明石家くんはそれ以上の攻めこみはしなかった。その代わりに、自らの手からボールを解き放った。そこそこに離れた距離。投げるにはかなりの度胸が要る。しかし、ボールは綺麗な曲線を描き、ゴールに吸い込まれ、重力に従い、コートへ落ちていった。
黄色い歓声が体育館内に響く。いい勝負だった。ギリギリではあったものの、僅かであろうが点差をつけて、明石家くんが属するチームが勝利を勝ち取った。
鬱陶しそうに額の汗を手の甲で拭っていた明石家くんの周りに、選手が集まる。肩に手を回され、汗まみれの体同士でベタベタされるのが不快なのか、顔を歪めてはいるものの、明石家くんが彼等の手を振りほどくことはなかった。
「葵くーん!」
「かっこいい! すごい! 流石の運動神経だよね」
「助っ人なんて勿体ないよ。もうバスケ部入っちゃえばいいのに!」
「それな。あたし毎日応援来ちゃうわ~」
「でも、他の部で活躍する葵くん見れなくなっちゃうじゃん! 弓道のヘルプしてたときの葵くん知ってる? 弓道着がバチクソ似合っててさ~、あれは惚れる」
キャッキャッと色めく女の子達の反応の、若々しく、なんと愛らしいことか。っていうか、弓まで出来るの。初耳だ。どれだけの部活動、網羅してるんだろ。
すごいな。中学のときも確かに、どんなスポーツもそつなくこなしてたけど。得意なことで頼りにされるのはいいことだ。……そこに金銭が絡んでることを良しとしていいのかは、私にはわからないけれど。
試合は長期戦になった為、体育館の利用時間の終りが迫っている。すぐに片付けを始めねばならない。邪魔になってはいけないと、応援の女の子達もそそくさと去っていった。ちょくちょくふざけながらも、後片付けと掃除を始めたバスケ部員から離れ、首にかけたタオルで汗を拭くユニフォーム姿の明石家くんが、入り口付近に居た私に気付いて歩み寄る。
「遠坂」
「お疲れ様。アク●リアス、そこの自販機で買ってきたところなんだけど、いる? 冷たいよ」
「ん」
ペットボトルを受け取るや否や、キャップを開け、ゴクゴクといい飲みっぷりで半分近くを一気に飲み干してしまった。代謝が良い為、明石家くんは結構な汗を流す。もうカラカラだったのだろう。
「着替えてくる。部室すぐやから、そこのベンチおれ」
「うん。ゆっくりでいいよ。待ってる間、体育館の片付け、手伝う?」
「いらん。ほっとけ。アレはアイツらの仕事や。ええから、大人しく待っとけ」
「はい。わかりました」
ちょん、と指定されたベンチに大人しく腰掛けると、明石家くんはフイと顔を反らし、着替えるべく、ペットボトルの残りを飲みながら更衣室へ歩いていく。近くに設置されたゴミ箱に空になったペットボトルを捨て、扉を開ける手前に明石家くんが此方を見たので、とりあえず手を振っておいた。彼は何の反応せずスルーし、扉を開けて中へ入ってしまった。
15分も経たない内に、私服に着替えた明石家くんが戻ってきて、自転車を取りに行き、朝と同じように明石家くんの後ろをとろとろついていく。特に話題は無い。明石家くんも疲れているだろうし、静かにしておいた方がいいだろう。この後もバイトだって言ってたし。あれだけ激しい運動したあとにまだ働けるなんて、タフだなぁ。
カアカアと鴉が鳴いている。夕焼け色の空を見上げると、数羽並んで飛んでいた。
「先週の休み」
「ん? あ、はい。なに?」
「……」
「明石家くん?」
「お袋さんに会いに行ったんやろ」
「え。何で知ってるの?」
「速水に聞いた」
「教授って、すぐに私の予定喋っちゃうよね……」
「本人曰く、遠坂のメンタル面のケアも仕事の内らしいからな。……で?」
「うん。面会日だったから会いに行ったよ」
「……大丈夫か?」
「大丈夫大丈夫。なんともないよ。平気」
「……」
「少し情緒不安定だったけど、比較的落ち着いてたし。いつもより、ちゃんとお話し出来たと思う。散歩もね、ちょっとだけ一緒に出来たんだよ」
無言で立ち止まり、後ろを振り向いて黙ったままの明石家くんは私の真意を探ろうとしていた。何となく察するものがある。本当なら黙っておいてあげた方が、本人にとってはいいんだろうけど。
「もしかして、ずっと心配してくれてた?」
「アホ。自惚れんな」
「そうだね。ごめんね。でも、ありがとう」
コンマ一秒で返ってきたのは、予想通りの憎まれ口。後ろから見える耳が夕焼けに透けて、ほんのりと赤く染まっている。
照れ屋だなぁ。本人の口ぶりとは裏腹な反応が可愛くて、耐えきれずくすくす笑うと、明石家くんの機嫌を損ねてしまった。眉間に刻まれた皺が深くなる。けれど、ちっとも怖くなかった。中学の私、明石家くんのこういうところが好きだったんだな、と思い出した。
「……次、お袋さんのトコ行くとき教えろや」
「いいけど。どうして?」
「俺も行く」
「え、なんで? いいよ、そこまでしてくれなくても」
「ええから」
「え~……」
「なんやねん。不服か」
「だって、その、知ってるでしょ。本当にその日の機嫌で左右されちゃうから、迷惑かけるかもだし……」
「今更迷惑もクソもあるか、ボケ」
「で、でもなぁ……さっきの理由ナシにしても、なんか恥ずかしくない? 友達に親会わせるの……」
「参観みたいな言い方すな」
「別に駄目ってことはないんだけど……どうして会いたいの?」
「……喝入れてやりたい思ただけ」
「ええ?」
「冗談。たいした理由は無い。深く考えんな」
「ならいいけど……」
「月イチやったか。中旬か?」
「うん、その位かな」
「わかった」
「あ、それじゃあ、ここで。送ってくれて有り難う。バイト頑張ってね」
家の前に到着し、明石家くんの自転車の籠に入れていた鞄を回収する。すると、明石家くんが「あ」と、少し待つ様に声を出してパンツのポケットを探り始めた。出てきたのは、少しぐちゃぐちゃになった細長いチケット。受け取れと差し出されたので、大人しく受け取り、『優待券』と書かれた紙の詳細を確認する。
「やきにくたべほうだい」
「……」
「え、ど、どうしたのこれ。結構いいとこのやつじゃない? じょ、叙●苑って書いてあるんだけど。芸能人とかが、こぞって行く、あの……実はお肉より、サラダの方が劇的に美味しいと噂の」
「叙●苑に謝れ。バイト代のチップや言うて貰った」
「貰った!? 食べ放題のタダチケットを!? いいひとすぎやしない!?」
「うっさい。食いモンのことになると、ほんま喧しい、お前」
「えっ、えっ」
「くれたるわ」
「ファッ!? 私!? い、いいよ、いいよ。明石家くん、焼き肉好きでしょ。行ってきなよ。私、ひとりで焼き肉行く度胸なんて無いし」
「アホ。よく読め」
呆れ顔で詳細を確認しろというので、目を走らせる。この券一枚でお二人様ご招待、と記載されていた。
「親父さん、連れてったれ」
「え……」
「うまいもん食わして、労ったれ」
明石家くんが顔を背けて勧める。なんだか、かなり気を遣わせてしまったかもしれない。
このひと、こういうところある。他人に無関心だと誤解されがちだが、その逆だ。対面相手だけではなく、その背景に居る向こうの人物にまで気を配っている。踏み込みすぎず、かといって離れすぎず。絶妙に難しいバランス。程好いタイミング。
そんな明石家くんの面に気付く前に離れていくひとも居れば、その一面を知れば、誰もが明石家くんを良き友と呼ぶ。咲ちゃんもわかっているから、先輩として慕い続けている。ただ、女性関係では、それらが適応されないというだけで。
ハッキリもの言いがちな言動さえなんとかすれば、もっと彼女さんと上手くいきそうなものだけど
「なんやねん、その生温い顔。ウザいぞ」
「何でもないです。何から何までありがとう。今度ちゃんとお礼するね」
「あれ食いたい。ウンコみたいなチョコ」
「トリュフ! トリュフね!」
そこは間違えほしくない。訂正を促しても、本人は聞く耳持たずだ。後ろ手に手を振り、自転車に跨がって沈みかけた夕日に向かって、姿はあっという間に小さくなっていった。
完全に姿が見えなくなったのを確認して、家に入る前にポストを見ておこうとロックを外す。手を突っ込み、探る。スーパーの広告に、ガス料金の請求書、お届けの不在通知に、そして、クシャッっとした茶色の紙製の小包だった。なんだ、これ。
上から軽く包みを握ると、細長く固いものが入っている。宛先には私の名前が書かれている。首を傾げながらも、それらを手にして、とりあえず家の中で確認することにした。
帰ってからも少し勉強して、作り置きしていた夕食も食べて、お風呂にも入り、寝巻きに着替え、ようやくテーブルの前に腰を落ち着かせる。
湯呑みに注いだお茶を啜り、スマホを確認すると、咲ちゃんから『無事に帰りました、ママ~』とメッセージが来ていて、ホッと胸を撫で下ろす。ヨシ! と現場猫のスタンプを返しておいた。
テレビをつけようかと思ったが、特に見たい番組もないな、とリモコンを置き直す。そういえばと、ポストに入っていたものを手繰り寄せ、要不要のものを仕分けていく。最後に残るは小包だった。宛名は遠坂志紀。送り主は。
「京都嵐山、オルゴール館……」
口に出たのは、あまりに馴染み深いワードだった。瞬きを繰り返す。落ち着かない。小包を胸に当ててみたり、もう一度外装を確認してみたり、冷静になろうと一気にお茶を飲んでしまって、口内も喉の奥も火傷しかけた。吹き出し、溢して、濡れた胸元を手拭いで拭き取る。
開けるか、開けまいか。ひどく迷った。爆発物を前にした気分だ。
緊張で手が震える。指先が上手く機能しない。その為に、何度も何度も包みをぽろぽろと手から滑り落として、その度に中身が心配になってしまった。割れ物が入っているかどうか、わかる筈ないのに。
ゆったりと時間を掛けて、やっとテープを剥がすことが出来た。中から、つまみ出てきたのは、細く繊細な造りをした、青と白の薔薇の簪だった。
震える掌の上に乗せたその装飾品に、ドクリと大きく心臓が鳴る。呼吸も早くなる。決して重量感があるものでないのに、私には、とてつもなく重たくて仕方がなかった。指先で恐る恐る薔薇の輪郭をなぞる。シャラン、と銀色のビラが私の指を擽った。
簪を慎重に手にしたまま、もう一度包装に貼られたラベルを引っ付かんで、穴が開くほど見つめる。何度見たって、宛先の名前も住所も変わりはしない。色んな意味でのどうしてが渦巻く。考えてもキリがない。正解となる答えは返ってこない。
知りたいのなら、自ら確かめるしかない。
両手で簪を優しく抱き締めて、祖父母の仏壇に移動する。前屈みに深く頭を下げて、祈りを捧げる。仏壇に置いた祖父母の写真の前に、いったん簪を置き、そのまま額縁の後ろに手を伸ばす。見えないように隠しておいた、簪とは逆に、ずっしりとした重みのある感触のあるソレを掴んで引き出す。
色彩豊かに、輝かしい宝石がたんと埋め込まれた宝石箱。その煌めきはちっとも色褪せておらず、角度を変えてみれば、部屋の照明で十分にキラキラと輝いた。蓋の部分を覆っていた埃を手で払う。
この宝石箱を手にするのが怖かった。仕掛けを解き、ひと度その音色を聞けば、いつだって呼ばれている気がしたから。
誰かが、耳を塞ぎたくなる狂おしい悲鳴を上げて、私の名前を叫び続けている。
自然に手が動いていた。あれだけ怖かったのに、まるでこの簪が早くしろと無理矢理背中を押した様だ。ひとつひとつ丁寧に仕掛けを解く。長い間触れていなかったのに、一度として間違うことなく、確実に暴かれていく。
一粒一粒。音の粒が響き連鎖して、音楽を少しずつ作り上げていく。拒み続けていた耳は、意外にも素直に、それらを取り込んだ。
今は空っぽな宝石箱の中身をただ見つめて、首もとで揺れる指輪を右手で握る。ペンダントに通した指輪は、寝るときも身につけている。いつも、この指輪が側にあるとホッとした。困ったときや、辛いとき、そっと握りしめれば、心は穏やかになった。そして、今も。
宝石箱とそして、写真の前に置かれた簪を交互に見つめてから、写真の中で穏やかな笑みを浮かべている祖父母に向き合う。一礼し、合掌。お線香に火をつけて、香炉に立てる。
ゆらめく灰色の煙。白檀の香り。会いたくても会えないひとの匂い。抱き締めてほしいと願っても、二度と感じられない温もり。
もう声も思い出せない。きっと、次は顔、そして思い出。そうして、少しずつ忘れていってしまう。
だから、人は形に残す。確かに傍に存ったことを、一緒に過ごした日々が存在したという証を。
何があろうとも、全てを忘れることは勿れという願い、そして迷ったときは、これを見て、聞いて、触れて、思い出せと囁くのだ。
「すみません。みたらし団子、二串ください」
「はい、毎度~。できたて、熱いから気をつけて」
「有難うございます」
お店のおじさんから頂戴した、みたらし団子。丁度いい焼き加減の焦げ目がついたお団子に、とろとろのタレがかかっている。美味しそう。
お店の前でふぅふぅと息を吹き掛けて冷ましてから、あーんと大きく口を開けて、団子を一つ口に含む。ふにゅりとした団子の食感に絡み付く砂糖醤油の葛餡。思わず顔が綻ぶ。美味しそうに食べるねぇなんてお店のおばさんに笑われてしまって、少し恥ずかしい。
「(湯豆腐と、にしん蕎麦も食べたいけど、時間的にちょっと難しそうだな)」
もぐもぐと咀嚼を繰り返しながら、目の前の光景を見つめる。人が多い。とてつもなく賑わっている。
連休を利用した観光客が京の都を訪れているのだ。家族連れに友人同士、カップル、海外からの旅行客。紅葉のシーズンということもあって、優美たる秋の嵐山を写真に収めんと、高級なカメラを手に撮影に来ている人も多く見受けられた。
しかも、今はお昼時。ご飯屋さんは、どこを見ても長蛇の列だ。あの列を待っていたら、お昼を通り越しておやつになってしまう。空腹には耐え切れぬとなったところで漂ってきたのは、みたらし団子の香りだった。ピークは過ぎていた様で、そこまで列は長くない。そそくさと飛び付いたのは当然のことで。
食べ終えた串をゴミ箱に捨て、橋を渡った川の向こうの景色を見つめる。こちらの岸よりも、あちらの方が混み具合がえげつなそうだ。この距離からでも、そのごみごみとした感じが容易に伝わってくる。
つい衝動に駆られて、勢いで関西、しかも京都まで出てきてしまった。新幹線に乗って、やっと熱の入っていた頭も冷静になって「なにやってんだ、私……」と顔を覆い、我に返った時には既に遅し。乗ってしまったものは仕方ない……乗ってしまったものは……。いや、でも黙って出てきてしまった。
うわぁ、ごめんなさい、教授……。罪悪感に苛まれ、座席の壁際でずーんと沈みこんだ。
今、京都に向かってます。ひとりで。と、メッセージを打つ勇気は未だ持てず。のほほんと見えて、速水教授は結構怖い。普段怒らないひとが怒ると、というタイプだった。ちゃんと帰ったら、報告、連絡、懺悔します、すみませんと事後報告を固く誓い、目をぎゅっと瞑って、教授の連絡先を一旦画面から消した。
別に、どこへ行くにもひとりは駄目だと、きつく言い付けられている訳ではない。友達と遊びに行ったり、それこそ、ひとりでスーパーに買い物に行ったり、散歩したりは普通に出来る。ちょっとそこまでコレ買ってきて、とおつかいを頼まれることもある。もちろん少し遠出したいときは、保護者代わりの教授から、ちゃんと連絡するようにと言われている。しかし、教授は頑なに「京都だけは駄目だ」「ひとりで、あの地に近付くな」と譲らなかった。
因縁と言える場所だ。そりゃあ、本人にこの地を踏ませたくないのは当然だろう。なんせ、事が起こった場所であり、そして終わりを迎えた場所でもある。
私の祖父への恩もあり、捜索活動に尽力してくれたという教授に、またじわりと罪悪感が顔を出す。
駄目だ。やっぱり、正直に連絡しとこ。
ラ●ンを再び起動させ、教授に『ごめんなさい。今、京都にひとりで居ます。人混みを選んで行動してます。ちゃんと帰ります。連絡します』と、かなりびびり散らかしているメッセージを送っておいた。既読はつかない。
私自身、京都が、この嵐山が怖い。今もなお焦燥感に襲われている。歩く度に、馴染み深い感覚が身体全身についてくる。まるで、足りないものを補う様にして、風景、匂いに、少しずつ、勝手に満たされていく。
人混みが多いことに安心感を覚える。人気の少ないところには行きたくなかった。一人ぼっちになると、得体の知れない何かに、たちまち呑み込まれそうだった。
木漏れ日が綺麗だ。川沿いに広がる砂利に木々の影が映っている。転ばない様に気をつけて、皆と同じように、今から渡る橋をスマホで撮す。私、写真撮るの下手だなぁ。スマホの中に収まった渡月橋は、少し斜めになっていた。
紅色の山から風に乗って飛んで来た紅葉が、橋を鮮やかに彩る。賑わう声、川のせせらぎ。橋を伝って、足裏に微かに感じる人々の振動。
見た目からでもよくわかるが、長い橋だ。向こう側からも、観光客はひっきりなしにやってくる。ぶつからないようにと気をつけて、橋の半分をやっと渡り終えた。
川を小舟が往く。比較的落ち着いた川の流れ。水面に映る橋と紅葉の山岳。後ろを振り向けば、雄大たる景色が広がっている。誰も彼もが、その美しさに見惚れ、美しい四季のひとつを手に入れようと、四角い端末を構えている。
山から視線を下げた。ここまで歩いてきた道のりを、元居た遠くの橋を見つめる。
半分を渡りきるまでに、何度も後ろを振り向きたいという欲に駈られた。振り返ってはならないと、何故だか心に強く言い聞かせて、我慢して、真ん中まできた。でも、何を恐れることがあろう? と、こうして振り返ってみせた。なんてことはない。其処には私のよく知る、人々でひしめく渡月橋の姿しかない。何も変わったことなどない。だというのに、心はぽっかりと穴が開いて、秋風が少し寒かった。
橋の終着点まで来て、今から上らんとする坂を見上げて、少し物怖じする。
どれくらいかかるだろう。
邪魔にならないところに立ち止まって、パンフレットを確認する。目的地は、ほぼ坂のてっぺんだった。単純に登るだけならいい。問題は人の多さだ。ずっと向こうまで立ち並ぶお土産屋さんに、ご飯屋さん。所謂、古都日本の物珍しいものが選り取りみどり。島国の人間でさえ目を惹かれるのだ。そりゃあ、観光客にとっては見る物尽くし、買い物尽くし。あちら側も人は多かったが、割合に静かだった。しかし、此方側は、やはり桁違いの賑わいだ。
ほ、と息をつく。一歩一歩、人にぶつかりそうになるのを気をつけて進んでいく。緩やかな坂といえど、やはり少々きつい。が、行けそうだ。
「あらっ……しきちゃん!?」
「え?」
呉服屋さんの前を通り過ぎかけたとき、丁度、展示品の着物のズレを直していたお店のおば様に声を掛けられ、ビクリと肩が揺れた。
「あぁ、やっぱり。志紀ちゃんやないのぉ~。あなた、あなた!」
驚き半分の喜色満面に、感嘆の息を吐いて、私の頭の天辺から足元を忙しなく、おば様の目が追った。お店の奥にいる男性、おそらく旦那さんに、こっちへこいと呼んでいる。きちんとしたお着物を着用したおば様の顔をぼうと見つめて、過去の靄が合致した。
おつかいを任せられた私を、いつも笑顔で迎え入れ、ほかほかの焼き立てのパンと、そしておまけにとフランスパンを持たせてくれた。
「……あ。あ、もしかして、パン屋のおばさん?」
「そうよ、そう~! 覚えててくれたんやねぇ。嬉しいわぁ」
「え、あれ。でも、パン屋さんじゃない」
「あのお店、今は息子夫婦に任せとるんよぉ。ホラ、あそこ」
向かいを指す、おば様の人差し指の先を追う。確かに、そこにはこじんまりとした、暖かい雰囲気のパン屋さんがある。店内の様子がうっすら見えた。男性が焼き立てのパンを並べているところだった。
きゃっきゃっと、まるで旧友と再会した女学生の様なはしゃぎぶりのおばさんに、私も口角が緩く上がる。店内から甚平を着た壮年の男性も出てきて、花を咲かせる奥様の様子に怪訝な顔をしていた。
「あんだい」
「あなた、ホラ、志紀ちゃんよ! 覚えとるやろ。昔、あすこのオルゴール館の館長さんとこでお手伝いしてた……」
興奮気味に頬を染め、身ぶり手振り激しく説明するおばさんに、最初はおじ様も不思議そうにしていたが、徐々に合点がいった様で「そりゃ、また」とハハァと目を丸くして、先程の奥様と同じく、私の全身を信じられないものを見る目で眺め倒した。
「本当に大人っぽく、綺麗になったわねぇ」
「なんや、何も変わっとらんなぁ!」
ご夫婦から真逆の感想を同時に浴びて、思わず顔がひきつる。おばさんがホホホと笑いながら、旦那様の脇腹を肘で小突いた。あっ、これはお世辞だなと確信する。いや、いいんだけど。別にいいんだけれども。も、もうちょっとこう、大人っぽくなったって思われたかったな、とは。ちょびっと位は。
旦那さんは未だ信じがたいのか、困惑を紛らわす為からか、無意味に袖を捲る。
「ほんに、何しとったんや、お前さん。心配してたんやで」
「そうよッ。ニュース。ビックリして。同姓同名の別人かと思っちゃったけど、でも、もう年も同じ位やと思て。大変なこと巻き込まれとったんやねぇ」
「帰ってこられて、ほんまに良かったやないか」
「ご心配をお掛けしまして……」
「でも、館長さんもまだ見つかってないやろ。もう、あれから大分経って……」
おばさんは眉を下げ、憂いを帯びた顔で黙りこみ、「いややね、物騒な世の中なってもうて」とがっかりしてしまった。そんな奥様を労る為に、おじさんが軽くポンポンと奥さんの背中を叩く。志紀ちゃんと、年季の入った低く嗄れた声に呼ばれ、顔をあげる。
「嵐山には観光で来たんか?」
「ええと、用事があって。その後、少しお店を軽く見て周って、お土産買って帰ろうかと」
「用事ってのは急ぎ? ここから結構歩く?」
「いえ、夕方までに着けば全然……坂を登る途中にあるので、15分もあれば」
「ほんなら余裕やな。せやったら、ほら、中入り」
「え?」
「うち、着物のレンタルもやっとるから。せっかくの嵐山やし、着ていき」
「あらぁ、ええやない! そうと決まれば、早速色々用意せなねぇ。どんなのがええかしら~」
「えっ、えっ、あ、でも、私、お金、そんな持ってなくて」
「何言うてんの。そんなんいらへんよ。はいはい、ドウゾドウゾ」
「ええええ」
圧しに完全に負けた。ぐいぐいと肩と背中をおばさんに押され、呉服屋の中に招き入れられる。店内には、私の他に着物を吟味している外国のお客さんがグループで居て、ご夫婦とは別の店員さんが対応していた。
どんな色がいいかしらと、あれやこれやと手に取り、色と柄はどれが合うものやらと、私の身体に添えるようにして合わせられる。勢いのままに、若干置いてけぼりになりつつも、飾られている着物を一着一着、順繰りに目を通す。
そういえば、と頭に思い浮かんだのは、私が此処に帰ってきたときに着ていた純白の着物だった。泥や埃、乾燥した赤黒い血によって、かなり汚れていた。
「これは、もう元通りには直せないな。漂白剤でも落ちない」
病院まで着替えを持って来てくれた教授に断言され、数日間かなり落ち込んだ。
着物の上に羽織っていた真っ赤なコート共々、教授が預かっておくと有無を言わさずして回収され、以来、私の手に返ってきてはいない。教授も何も言わない。もう着ることはないだろうと処分してしまったのかもしれない。その可能性が色濃い。その事実を耳にするのがとてつもなく怖くて、一年近く経った今でも、「あの日に着ていた服はどうしたんですか」と聞くことが出来ていない。
「うんうん。やっぱり志紀ちゃんは着物が一番しっくりくるわぁ」
目を開けると、筆を片手に満足そうに頷くおばさんの顔がすぐ近くにあった。もう一度目を閉じて、とされるがままになると、目尻の部分を優しく指で当てられる。
「ウン。艶っぽくなった」
さ、見てみなさい、と姿鏡の前に連れられる。
鏡の中で所在無さげに佇む自分の姿。白の布地に散りばめられた紅と紺の桔梗。金色の刺繍が施された至極色の帯は大人っぽく、上質なものだとわかる。帯揚げに通した香袋が良い匂いを纏わせる。
目尻と目頭から眉下に流すように紅が縁取られている。歌舞伎の隈取りみたいだ。けれどもアクセント程度で決してはくどくはない。適当なゴムでひとつに縛っていた髪は、サイドテールで赤の紐飾りで緩く纏められていた。
私たちの後ろで鏡に映ったおじさんがウンウン頷いていた。見繕ってくれた本人も納得の出来映えらしい。
「隣に尊嶺くんもおったらねぇ。完璧やのに」
おばさんが懐古し、眉を下げて寂しそうに笑う。
「あの子、何してはるんやろね。志紀ちゃん、今でも連絡取っとるの?」
何も答えられなかった。
口を閉じ、ウンともスンとも言わない私に、おばさんもおじさんも首を傾げている。あ、と声を出すのがやっとで、もじもじと指輪に触れて下唇を噛む。
「そ、そろそろ行ってきます。お着物、有難う御座います。お店、何時までですか?」
今日中にお返しにきます、となんとか絞り出せはした。ちゃんと笑えていただろうか。
風邪を引かないようにと、若紫のレースの羽織まで貸してくれたご夫婦に、店先でいってらっしゃいと見送られる。手を振り、薄桃色の巾着袋を片手に、坂の上を再び目指す。
草履ではなく、履いてきたショートブーツをそのまま着用している。かつ、足が悪いと伝えると、おじさんが楽に歩けるように裾割りをしてくれた。もともと、着物は歩幅は小さくを意識して歩くものだから、私には苦にはならない。むしろ、慣れ過ぎていて怖いくらいだった。
ゴミゴミとした人だかりを抜ける。橋の近辺に比べると、人もまばらになり、上は比較的静かだ。お店が下に固まっているからだろう。だからこそ、和を重んじる京の地に佇む、古びた洋館の存在は際立っていた。
薔薇は秋になると、春薔薇に比べて、小ぶりで、そして開花する数も少なくなるものだ。それがどうだろう。館のお庭には、情熱的な色をした真っ赤な薔薇が豪華絢爛に咲き誇り、洗練された芳香が漂ってくる。
薔薇園と言って遜色ないお庭は一般公開している様だ。可愛らしいお洋服を身に纏った小さい女の子が楽しそうに、薔薇のお庭をころころと鈴のような笑い声を上げて跳ね回っていた。誰かに、こっちこっちと呼び掛けている。
女の子のお兄さんだろうか。「あんまり走って転んで、怪我しても知らないぞ!」と注意した、人の良さそうな青年が女の子を捕まえ、高い高いをしてクルクルと回転する。視点が高くなって興奮の収まらない女の子と戯れ、地面に下ろし、女の子の頭についていた薔薇の花弁を取ってあげる動作に、胸が締め付けられた。
ジリジリと、二人の姿にノイズのかかった映像が重なる。驚いてゴシゴシと目を擦り、瞬きを繰り返して、もう一度庭の方を眺めても、そこには先程の兄妹が居るだけで、視界が歪むことはもうなかった。
チリンチリンと呼鈴が鳴る扉を開けると、いらっしゃいませと声が掛かる。出迎えてくれた店員さんに案内され、入ってすぐに目に飛び込んできた、赤絨毯の敷かれた、階段の隣にある細い廊下を歩き、奥へ向かう。
珈琲と紅茶、焼き立てのクッキーやケーキのいい匂いが入り交じった喫茶と、大小と種類豊富なオルゴールが並ぶショップが併設されていた。お客さんがそれぞれ、アフタヌーンティーを楽しんだり、お土産のオルゴールを吟味したり、試聴してみたりと、穏やかで静かな時間を過ごしている。
キョロキョロしていると、黒エプロンを着た店員さんと目が合い、柔和な笑みを浮かべながら尋ねられた。
「カフェをご利用ですか?」
「あ、えっと。どうしようかな……あの、入り口の看板にオルゴールの博物館って書いてあったんですけど、それって」
「博物館は2階となっております。こちらでチケットをご購入頂きましたら、入り口の階段を上がったところにおります受付が、ご案内致します」
「じゃあ、大人ひとり、お願いします」
「かしこまりました」
オルゴール館ツアーをご利用のお客様で、お着物着用の方は入館料10%オフと説明書きがあった。やった。ちょっと得をした。ありがとう、おじさん、おばさん。小さな幸せに綻ぶ。
チケットを受け取って、入り口まで戻り、手摺を頼りに階段を上る。そこまで多くはない段差を上り終えると、如何にも歴史がありそうな重厚なオルゴール達や人形が私を出迎えた。感嘆し、四方八方に視線を巡らせて、受付のカウンターに立っていた女性に持っていたチケットを渡す。
「それでは、あちらのお部屋でお待ち下さい。もう五分ほど致しましたら、当館の支配人がオルゴールの解説を致しますので」
「わかりました」
指定された部屋は薄暗い。オルゴールと人形がライトアップされていた。既に、ちらほらと人が入っていて、皆長椅子に座って、そわそわと待ちわびていた。私も、後列の端の方に腰掛け、一番近くにあった古めかしい柱時計と椅子を眺めるていたら、人の影が通った。
私たちの前に現れたそのひとは、仕立ての良い、赤薔薇のラペルピンがポイントのスーツを着た、細身の壮年の紳士だった。
音もなく出てきた人物に、皆が注目する。両手を擦り合わせながら、あちらこちらオルゴールを観察して回る人物は、ガラスの中に展示されている置物の前に立ち止まった。ポケットから白い手袋を取り出して着用し、腰ベルトに固定させていた鍵を取って、錠前を外した。大きな機械人形を両手で大事に抱え、私達の正面にある展示台に置いた。
「さて」
優しげで穏やかな紳士はにっこりと笑み、各オルゴールの紹介を、ゆったりとした口調で語り始めた。このオルゴールが作られた歴史、背景、制作者の意図、仕組みなどが、まるで子どもへの読み聞かせの様にゆるりと語られる。
「片付けをしてるときなんかは、よく話しかけるんですよ? 今日も可愛いねって。ひとりでこの子達とお話ししてるところを、たまぁに見つかって、お手伝いの子に変な顔をされちゃうんですよ。まぁ確かに不審者ですからね。暗がりでお人形と話してるおじさんは怖いでしょう」
時折、ユーモアに溢れた冗談を、あまりにも穏やかに、愛嬌たっぷりに言うものだから、私達観客の笑いを誘う。ひとを引き込むお喋りが上手いひとだ。
貴重な文化遺産として残っていると紹介された可愛らしいビスクドールは、ドレスのよれを支配人に丁寧に直してもらい、心なしか表情が嬉しそうに見える。彼女を優しく抱き上げ、ガラスケースに丁寧に優しく戻し「お疲れ様」と、まるで友達のように接するその姿に、非常に好感が持てた。
館長さんは、説明してたら、ときどき熱が入っちゃって、あれもこれもと次々に紹介するものだから、その度に重たい人形やオルゴールを出しては戻してを繰り返し、いつも腰を抑えてヒイヒイ言って、お客さんに心配されていた。スマートさに欠けると毎度反省していた館長さんだったが、オルゴール達への愛情に溢れた必死さが私は好きだった。……と、そこまで考えたところで、思考がシャットダウンする。す、と僅かに上がっていた口角が自然と下がり、首元に指を這わせてしまう。
最後に見せてくれたのは、シンキングバードという鳥籠のオルゴールだった。籠の中では、青い小鳥がピチチと切なげに小さく鳴いていた。
部屋を出て、自由に見て回ってもいい時間を設けられる。各々が興味の牽かれた作品に近づくと、支配人がそのオルゴールを起動させ、生の演奏を聞かせてくれた。繊細な音粒は優しい旋律を奏で、私達の心を癒す。
私はというと、どこか見覚えのある作品達を順に見て周りながら、あるものを探していた。意外にも、それはすんなりと見つかった。
2階奥の壁に設置された、銀食器のスプーン。その傍らに置かれた箱の中に、赤い玉があった。無意識に手に取っていたそれを、自然とスプーンの上に乗せていた。玉の重みが加わったスプーンは斜めに傾き、玉はレールに添って、どこかへと転がっていく。しかし、玉は流れるのみで何も起こらない。
「それは動きませんよ」
「あ……す、すみません! 私、勝手に触って」
「お気になさらず。構いません」
支配人の男性は、途中で止まってしまったビー玉を取り出し、元あった箱の中へと落とした。
なに、勝手なことしてるんだ、私。此処には貴重なもので溢れている。許可も無しに触れるなんて、言語道断だとわかっていた筈なのに。
「これを製作したのは、 私の前任者でしてね。このオルゴールは、あまりに繊細で綿密な仕掛けなばかりに、日頃のメンテナンスが欠かせない代物なのです。しかし、諸事情でその調整が滞ってしまい、すっかり拗ねて動いてくれなくなりました」
「そうなんですか……」
でも、きっと、また奏でてくれる日が来ますよ。そう予言めいたことを口走りそうになって
、急いで口を閉じる。ぺちぺちと軽く自分の頬を叩く。此処に来てから調子がおかしい。ちぐはぐな発言が、自然と飛び出そうになる。
「随分と当館にお詳しそうにお見受けしますが、此方の博物館には、何度かお越しに?」
「今回で二回目です。初めては友達と……あ、いえ。そうです。友達と来て、素敵だなって」
「それはそれは。再度のご来館頂き、有難う御座います。オルゴール達も喜んでいることでしょう」
「こちらこそ。……あの、おふたつ、お聞きしても宜しいですか」
「ええ。何でもどうぞ」
巾着袋を開き、入れていたものを取り出す。掌の上に置いたものを見せると、男性はほんの少し目を見開き、うっすらと口を開けた。
「このオルゴールが、いつ、どこで、誰に作られたものか、ご存知ありませんか? 些細なことでもいいんです。知りたくて」
紳士は、暫く宝石箱を静かに見つめたあと、視線を上げ、私に「手に触れて拝見しても?」と問うた。勿論と何度も頷くと、支配人は先程と同じ様に白い手袋をはめ、丁重な手つきで、私の掌から宝石箱を持ち上げた。音も立てず、傍のアンティークテーブルに宝石箱を置き、胸ポケットからルーペを取り出し、あちこちの角度から詳しく熟視する様子を静かに見守る。
暫くして観察を終えた男性が、慎重な手つきで私に宝石箱を返し、穏やかに笑ってみせた。
「それは、世界にひとつしかない特別なオルゴールかと」
「えっ。ひっ、ひと、せかっ、え!?」
「どうぞ此方に。レプリカが御座います」
衝撃的な事実であるにも関わらず、支配人はとてものんびりしたもので、反応の差にギャップを感じる。手中に収めたものが、とんでもない代物であるプレッシャーに襲われて、じんわりと手に汗が滲む。どんな作品かはまだわからない。が、世界にひとつだなんてワードはそうそう出てこない。相当なものに違いない。落とさないように気を付けないと。ちゃんと胸に抱き締めながら、紳士についていく。
部屋の隅っこに配置された、透明なガラスボックス。その中に、キラキラと彩り豊かな宝石が輝く箱が確かに存在した。支配人曰く、レプリカの展示。
……驚いた。自分が持っているものと見比べる。瓜二つ。
『それはねぇ、運命のひとに出逢わせてくれるオルゴールだと言われているんだよ』
「えっ」
思わず声を上げ、後ろを振り向く。そこには柔和な雰囲気を崩すことのない支配人が、突然勢いよく此方を見る女を、首を傾げて見ていた。ぱちぱちと瞬きをして、あの……と、念の為、確認しておくことにした。
「あの、さっき、何か仰いました?」
「いいえ。私は何も」
「あれ……そうですか……」
「何か聞こえましたか?」
「いえ。たぶん気のせいです。すみません。変なこと言って」
「大丈夫ですよ。私もたまに、人形たちの声が聞こえることがありますから」
「そ、そうなんですか?」
「そうかもしれませんね」
穏やかに返す紳士に、食えないタイプのひとだ……と内心呟く。
「このオルゴールについての詳細と、あともうひとつ、質問が残っておりましたね」
「は、はひ」
「少々のお時間を頂くことは出来ますでしょうか。立ち話もなんです。よろしければ、下の喫茶でお茶にしながら続きをお話しましょう。良いお茶の葉が、本日入りまして」
ご馳走致します、如何でしょうか。提案を断る理由はどこにもなく、戸惑いつつも、小さく頷いた。
一先ず、国宝的なものじゃなくて良かったと息をつき、ミルクをたっぷり入れたアッサムティーを口にした。香りが良く、マイルドでコクのある味わいが魅力の液体は、とても飲みやすい。スコーンもどうぞとお薦めされ、手でちぎり一口食べる。焼き立てだ。
「あのオルゴールは、かつて、この館で過ごした青年が手ずから作ったものを模していると記録がございます」
「手ずから……」
いちから作るには、かなりの手間を要する代物であることは誰でもわかる。このオルゴール館に展示されている作品達と並べても、何ら遜色も、違和感のない、精巧な造りだ。
「ええ。一見、ただの宝石箱に見えますが、中には絡繰が仕込まれており、その仕掛けを解く方法を知っている者しか、その箱の音色を聞くことは出来ないとも。そう、制作者から直接、贈られた人物にしか」
ぴくりと指先が反応する。小さく動揺する私を特に詰めることはなく、支配人は穏やかに話を続ける。
「どれだけの年月が経とうとも、離れようとも、姿が変わろうとも、そのオルゴールだけは二人を必ず結びつける」
「……」
「何故、貴女がその宝石箱を持っているのか、追及は致しませんよ」
私の心配を読み取り、気遣われる。ほっとした。もし尋ねられても、上手く答える自信がない。何せ、自分でも靄がかかっている部分が多過ぎて、明瞭でないから。
「しかし、確認しておきたいことが御座いまして」
「何でしょうか」
「鍵をお持ちではありませんか」
「鍵……ですか?」
「はい。この館を管理しておりました先代から、遺された言伝が御座います。この宝石箱をお持ちのお客様がいらっしゃったら、尋ねる様にと」
不思議な話だ。まるで私が、いつか、この館に赴くことがわかっていたかの様な。
かぎ、鍵。なんの鍵だろう。
巾着袋を開けて、とりあえず自宅と実家、教授のお家と、大学の研究室の鍵を纏めたリングを取り出したところで、もしかしてと一瞬手が止まる。
テーブルの上に、数本の鍵を纏めたリングを置く。無機質な鍵の中に、一本だけ異質なものがあった。ずっと持ってはいるけれど、どこで使うのか、用途不明のものが。
鍵頭は、色彩豊かなステンドグラスの細工になっており、太陽の光などに翳すと、影が床をグラスの色に反映させる。古い造りの鍵だ。もはや本来の仕事は為さず、飾りになっていたが。
「もしかして、これでしょうか」
リングから、その一本だけを外し、支配人に差し出す。しかし、彼が受け取ることはなく、ゆっくりと手を翳し、私にそのまま握らせた。ここまで言伝通りであったことに些か驚いている様子だったが、嬉しそうな表情に変わる。
「紅茶をどうぞ。飲み終えましたら、その鍵の場所へご案内致しましょう」
再び2階へと上がり、私達ゲストが先程案内を受けた場所とは別に、関係者のみが入ることの出来る奥の部屋へと通された。STAFF ONLYとプレートが掛けられた扉を支配人が開く。赤絨毯が続く廊下を真っ直ぐに進み、突き当たるところに出てきたのは四つの扉。
「こちらは、一般では公開していない部屋になります。が、今回は特別に」
「あ、有難う御座います」
「手前左のお部屋は、自由にご覧になって下さい。この館を取り仕切っておりました前任が、昔、此方に滞在したという女の子の為に拵えたお部屋になっております。とても可愛らしいので、そのままの状態で残しております。お気に召されるかと」
「女の子……」
「ええ。その真向かいのお部屋は旧主のものなのですが、こちらは開きません。番号式の錠前が掛けられておりまして、私共も番号が分からず。すっかり開かずの扉と呼ばれております。開けゴマも試してはみましたが、ダメでした」
茶目っ気を交えながら支配人は奥に進み、左手の扉を指した。
「此方は、殆ど何も御座いません。最低限の家具が置かれているだけのお部屋です。そして」
丁度真向かい、左奥の扉の前に並んで立つ。残る部屋は、此処だけ。支配人を見上げると、彼はひとつ頷いてみせた。
「ここは、誰の部屋なんですか?」
「存じません。私も、廃墟になりかけていたこの館の管理者が居ないと、関係各所から泣きつかれてしまいまして、正式な引き継ぎも無しに任された次第なのです。はや数年が経ちますが、ご案内しました前任者のお部屋も含め、未だに、この館には謎に包まれた部分が多いのです」
「そうなんですか……。その、以前、此処を管理されていた方は?」
「消息不明です。数年前から、連絡ひとつ取れない状態で」
「え……」
「でも私は、いつかまた、かの人は、この館に戻ってこられると信じておりますよ」
「……」
「不明点ばかりでしたが、確実なことがひとつ。その鍵は、この館に関する全ての権限を持つ、正当な後継者のみが持つものです」
え、と素っ頓狂な声を上げた私に、支配人はクスクスと笑う。じわじわと嫌な汗を流し、困惑故に母音しか発せなくなった。手の中にある鍵が、突然に重くなった気がする。
「私も気になるところではありますが……謎は謎のまま、私は胸の内に仕舞っておくとします」
曰くの鍵を使用するらしい部屋を見つめ、朗らかに笑んだ支配人は胸に手を当て、軽くお辞儀をした。私も慌てて頭を下げる。
「ご自由にご覧になって下さい。私は一階におります。何かあれば、私でも、スタッフにでもお申し付け下さい」
「本当に、ご丁寧に有難う御座いました」
「いいえ。私こそ、お会いできて光栄でした。それでは」
「……あっ。あ、あの!」
背を向けかけた支配人を慌てて呼び止める。
あ、危なかった。忘れるところだった。巾着袋の中身を漁る。「何でしょう」と首を傾げて待ってくれている紳士の前に、京都の地まで赴くきっかけとなった小包を見せる。
「先日、この小包が私の家に届いたんです。送り主がこのオルゴール館になってて。でも、その、私、中身を拝見しても、どうして私に送られてきたのか思い当たるところがないんです。もし間違いだったら、お返ししなくちゃと思ったんですけど……」
「もしや、その為に、わざわざ」
「あっ、いえ。丁度、京都観光したいなと思っていたので、全然」
本当にその点についてはお気になさらず! という意味も込めて、ぱたぱたと両手を振る。それに、返送すればいいところをそうしなかったのも、私だし。
「確かに、当館の物件名と住所ですね。お開けしても?」
「は、はい」
丁寧な手つきで、ぴりぴりとテープを剥がすと、出てきたのは件の簪。ほほぉと感嘆の息を漏らしたのは支配人で、これは良い仕事をなさると感心していた。が、その反応に、あれ? となったのは言うまでもない。つまり、この人は、この簪を知らない。
「当館の御品ではありませんね。見たこともありません」
「そう、ですか」
「一階でお品出ししておりますお土産のみ、全国への郵送手続き等をスタッフが行っていますが、簪等の商品は、これまで取り扱ったことは御座いません。念の為、スタッフにも確認はしておきますが。申し訳ありません。お力になれず」
「とんでもない! 十分過ぎる程です。ただ、だとしたら、どうして、このオルゴール館の住所が……」
「呼び寄せる為やもしれませんね」
「え?」
「簪が、貴女をこの館に連れてきたと考えてみるのは如何でしょう。誰から送られてきたのかわからないなんて、気持ちの悪いお話で済ますよりは、どうせなら」
「私、どうすればいいでしょう。この簪……」
「貴女のお名前まで明記され、贈られたものです。警察に届けるも、質に出すも、お好きになさって良いと思いますよ」
「そっ、それは」
出来ない。それはだけは、と口が勝手に断言してしまう。本来ならば、交番に届けた方がいいに決まっている。だって、名も知らぬ誰かから送られてきたものだ。普通は怪しいし、ストーカーかもと疑う案件だ。でも、私には、そうは思えなくて。なんなら、今度こそ、壊さないように大事にしなくちゃと、強く考えてしまっていた。
青と白の薔薇が美しい簪が、私の手にそっと戻ってくる。軽く包むようにして、手の中に収まるそれを見つめた。
「一度、挿してみては如何でしょう。今日のお召し物にも、きっとよく似合いますよ」
捨てろとも届けろとも言わず、なんなら試してみたらいいですよと、支配人はのんびりとした助言を残し、再び礼をして、今度こそ階段を下りていった。
鍵を持って突っ立ったまま、モゴモゴと口を動かす。唇が緊張でカサカサになっている。鍵を差し込みかけたが、別の部屋から覗いてみようと、いったん下がる。
女の子が住んでいたという部屋。そこは開きっ放しにしているらしく、すんなりとドアノブを引くことが出来た。
一歩空間に足を踏み入れれば、あとはすんなり、躊躇もなかった。カーテンは開けられていて、太陽の光で中は明るい。ベッドの手前まで来て、部屋の中を見渡す。
今も時を刻む、柱時計などのアンティーク家具、絵画、可愛い人形に縫いぐるみ、そしてロココ調。
確かに、女の子が喜びそうな少女趣味の部屋だ。定期的に掃除されている様子で、黴臭さや埃も一切無い。懐かしい匂いがした。
ふと目についたのは、ブラウンのクマのぬいぐるみだった。何かで汚れてしまったのか、目の下辺りが赤く染まっている。こういうデザインなのかな。首には、形の崩れた真っ赤なリボンをしていた。
ふわふわとした小さな身体を抱き上げ、リボンを摘まみ、優しく引っ張る。ヨレていたので、両端を摘まんで伸ばし、ピンと張る。幾分かシワがマシになったので、クマの首に回し、綺麗にリボンを結び直した。毛並みを整えるように、フワフワの頭を撫でる。
机の引き出しに入っていたのはスケッチブック。留め具を外し、中身を確認する。
この館に影響を受けたのか、人形や動物、そして変わった造形の人物(人と表現していいのだろうか)が、クレヨンや色鉛筆などで沢山描かれている。
少し、狂気的と言ってもいい程に。
頁をめくる毎に、人間とわんちゃんが描かれる頻度が高くなっていった。お爺さんと小さい女の子が手を繋いでニコニコと笑っている。その傍らには、小さな灰色の犬が、ちょこんとお座りしていた。
飛ばし飛ばしで見て、たまたま止めた絵に目を奪われた。
たくさんの丸く赤い花に囲まれたその中央に、小さな女の子と、そして青年が描かれていた。
音が鳴る位の勢いをつけて、すぐにスケッチブックを閉じた。ドクンドクンと鳴る心臓が煩わしい。急いで留め具を結び直し、引き出しの中に封印する。机に両手をつき、フゥフゥと短い呼吸を繰り返し、落ち着くのを待つ。やがて大きく、ゆっくりと深呼吸が出来るようになると、顔は若干の汗で濡れていた。ゴクリと生唾を飲み込んで、こめかみを拭う。
一度室内を見渡してから、部屋を出て、音を立てないよう静かに扉を閉めた。背中を扉につけて、もう一度大きく息を吸って吐く。
前を見たらば、待ち受けるは厳重に錠がかけられた部屋。そうまでして、覗かれたくないものがあるのだろうか。
扉の前に立ち、ツン、と人差し指で錠を持ち上げる。覚えがあるのか、手は自然とそれから興味を無くし、探るように扉のあちこちに触れていた。
「いや、いや。だめだよ」
別の生き物の如く動いていた右手を捕まえて、押さえ付ける。いけない。これはよくない。何が、とは言えないけれど。
雪にも負けない白さの髪と、赤目が脳裏に浮かぶ。いけないよ、と笑いながら、私に口許だけで囁いている。優しい警告だった。教授の顔が見たくなった。然れども、メッセージを確認するのも怖いという、二律背反。
入る術なんか、わかる筈無い。その部屋からは踵を返し、左奥の部屋のノブを握る。捻って、身を滑り込ませる。
暗闇に包まれた空間だった。本当に、何も無かった。生活感が皆無だ。ミニマリストだと言われたら納得したかもしれないが、これは、あまりにも。
隣部屋とは違い、あまりにも寂しい光景だ。モデルルームとしても成立しない。
ベッド、棚、机。空虚、伽藍、虚無。
扉からは離れることなく、その場から何もない部屋を見つめて、ため息が漏れる。
この部屋で、どう過ごしていたんだろう。何をしていたんだろう。私と仲良くなる前は、ずっと独り善がりで、たまに館へ帰ってきたと思えば、この自室にすぐに引き籠って、暫く出てこないなんてザラだった。陰気臭いぞ、と心優しい老人に叱られて、すげなく五月蝿いと返して。
ただ無為に、この空っぽの箱の中で、時間だけが過ぎ行くのを待っていたのだろうか。
何となく、モヤモヤとした重たい気持ちを抱えたまま、パタンと後ろ手で扉を閉じる。
真正面で待ち構えるは、通称開かずの扉。まさか、某秘密の部屋みたいに、ラスボスと蛇なんて潜んでたりしないよね。まさかね。ないない。とは考えつつも、いやに緊張する。鍵を持つ手は微かに震えていた。
鍵穴に先端を差し込む。するりと中に入る。ゆっくりと回してみると、ガチャリと解放の音を立てる。
ここに来てから、どれだけの生唾を飲み込んだだろうか。なのに、喉はカラカラだ。
はぁ、と不規則に吐き出される息遣いは、二十何年も繰り返してきた筈なのに、下手になっていた。息を止めて、ええいままよ、と一気に身体を押し込む。こういうのは、結局勢いが大事だ。
フワリと鼻孔を擽るは、京都らしく品の良い、和香の香り。その中に入り交じる、顔を僅かに背けたくなる、独特の苦さ。
「(……煙草?)」
とにかく、カーテン。カーテン開けなきゃ。真っ暗闇なので、よく見えない。そろそろと慎重に、隙間から光が漏れている窓まで移動し、布を引く。換気の為、窓の鍵を外し、開けようとしたところで、ふと、あまり空気が篭っている感じがしないと気づく。首を傾げながら、とりあえず窓を開放して、新しい空気を取り入れる。すぐ近くで小鳥が休憩していたのか、驚いて囀ずりながら飛んでいってしまった。
コトンと、窓枠に置いてある何かに手が当たり、落っことしそうになったので、慌てて受け止める。ほ、と息をついて、手でキャッチした鉢植えを目の前に翳す。
日当たりの良い場所に飾られていたのは、小さく可愛らしいサボテンだった。小振りな花がたくさん咲いていた。土は湿っている。きちんと水やりがされている。花も咲いているのは、きちんとお世話されている証拠だ。
あれ? でもそれって変じゃない?
サボテンを再び元の場所に、優しくそっと戻す。日光浴をするサボテンの姿は、とても癒しになる。
窓の近くにはサボテンだけじゃない。窓際のベンチには煙管盆があった。盆上には、煙管に刻み煙草、火入れには香炭が入っていて、先程の香りはこれかと納得する。灰吹きに、吸殻が入っている。
それは、最近まで、誰かここに居たことを物語っていた。いや、なんなら、つい先程まで、此処で、この煙管を嗜んでいた可能性も。
けれど、ここは通称、開かずの扉。鍵がないと入れない筈。支配人のあの口ぶりだと、ひとつしか鍵はない印象を受けたけど……。え、実はスペアとかあって。でも、ずっと、この館の管理をしていて、それも、このフロアの掃除も定期的にしていて、なのに、ひとの出入りに気づかないなんてことはあるだろうか。
太陽の光で光に晒された部屋を振り返る。胸元に手が伸び、指輪に触れた。この部屋に置かれていた物の数々を、信じられない気持ちで見渡す。
あまり、この館の雰囲気にはそぐわない、パンダのぬいぐるみ。花紺青のマフラーをぐるぐるに、雑に首に巻き付けている。長すぎるのか、顔の半分が埋まる勢いだ。息苦しそうに見えたので、少し緩めてあげる。
所々、網目もまばら。決して上手とはいえない。手作りと見受けられる。かなり使い古されたものだ。龍の鱗みたいだと言ったのは、誰だったか。
パンダの隣に、ざっくばらんに置かれていたのはハマグリだ。貝には和桜が描かれている。中を開くと、殻に艶紅が入っていた。
奥に設置された衣桁には、赤染めの着物が飾られている。薄桃と白の桜が咲き誇る布地が、部屋を華やかに魅せている。ヒラヒラと舞う花弁の刺繍は、まるで今にも動き出しそうだった。
その着物の前には、ボロボロの青い傘が、開かれた状態で置かれていた。
足は勝手に傘へと近づいて、そして膝を折った。指先でそっと、あちこち穴だらけの、くすんだ青に触れる。
上は古風の蛇の目傘、そして持ち手の部分は、今は主流のくねり。傘の下を覗く。そのくねりに凭れかかる様にして、ウサギのぬいぐるみが、ふたつ並んでいた。デザインは少し異なれど、どちらもふわふわの毛並みの白いウサギで、二匹とも赤い目をしていた。傘の下で手を繋ぎ、仲良く寄り添って座っている。
他にも、たくさん見切れない程の物が所狭しに置かれている。それらをひとつひとつ手に取って、ぼんやりと見ていると、ワン、と外で犬の鳴き声が聞こえた。一度、二度なら気にはしないが、あまりにも何度も吠えているので、なんだなんだと気になり、窓に近づいて外に顔を出す。
ぴちょん、と鼻の頭に冷たいものが落ちる。見上げると、空は曇天に変わっていた。雨が静かに降り出し、雨粒が地を打つ。突然の雨に苛まれた観光客は、皆、傘など持っておらず、慌てて屋根の下へと避難していた。
部屋の中に雨が入りこんではいけないと窓を閉めようとしたら、それを犬の鳴き声が制止した。こっちを見て、気づいて、と言われたような気がした。下に視線をやる。たくさんの薔薇は雨に濡れても、力強く、そして凛々しい。
ワン、ともう一声誘われて、やっと見付けた。薔薇園の入り口付近、雨に濡れるのも構わず、灰色の毛並みの大きな犬がハッハッと舌を出し、座って此方を見上げていた。私が気付いたとわかると、彼は嬉しそうに四足で立ち、また2つ鳴いた。背を向けて、ぶんぶんと左右に揺れる尻尾を向けて、顔だけ振り返る。
「まって」
すぐ行くからと叫び、窓を閉める。雨が窓を打ち付ける。忙しなく動くせいで、あちこちぶつかりそうになりながら扉まで戻り、ノブに手を付けるが、一瞬止まって部屋を見返す。
ひとつだけ、借りていきたいものがあった。
「すみません、本当にすみません。すぐにお返しに戻ってきます」
「いえいえ、ご所望とあらば差し上げます。しかし、この天気です。別のものをお貸ししますよ?」
「だっ、大丈夫です。なんとか防、防げっ、んぐぐ」
閉めるときも一苦労だったが、これは開ける方が至難の技だ。中棒が曲がり、錆び付いていて、かなりもたつく。なんとか開き、下から頼りない屋根代わりの青を見上げる。ト●ロのカ●タが持っていたものと負けない位のボロボロ具合だ。しかし、なんとか、ギリギリ、本当にギリギリだが、雨を凌いではくれそうだ。
傘を差した私に、見送りに来てくれた支配人は穏やかに笑み、ゆっくりと一礼する。
「またお越し下さい。いつでも、お待ちしております」
「有り難う御座いました」
「あぁ、それと」
やっぱり、よくお似合いですよ、と支配人は私の髪をまとめている簪を見つめ、目尻に皺を作り笑った。
館の中から、いつまでも手を振ってくれる支配人を、何度も何度も振り返り、お辞儀をして、館を去る。
雨のせいで、人通りは先程よりもずっと少ない。キョロキョロと坂道を見渡す。見失った? がっくりと落胆しかけたところ、鳴き声が聞こえてくる。すっかり雨に濡れて、びちょびちょになっているわんちゃんが、少し離れた距離から此方を見つめ、そして歩きだした。
そのあとをついていく。ゆっくりしか歩けない私に、わんちゃんは何度も立ち止まり、ある程度私が追い付くのを待ってから、再び歩き始めた。利口な子だ。どこに連れて行きたいのだろう。
わんちゃんは、竹林の小径をスタスタと軽やかに進む。鶯の囀りが聞こえてくる。天を覆うようにして竹が密集しているため、雨の入りは少なく、穏やかだ。帰り路たる下り坂は少し滑りやすい。観光客は雨降りの為、ほぼ撤退していた。ツルン、と転けそうになったところで、大きな一吠えと共に、わんちゃんが駆け寄ってくる。何とか踏みとどまったので、大事には至らなかった。緩い坂とはいえ、こんなところで転げ落ちたら、私の場合、ひとたまりもない。
クーンと弱々しく鳴き、鼻を鳴らすわんちゃんが、心配そうに此方を見上げている。青い瞳は「だいじょうぶ?」と語っている様な気がした。
そっと手を伸ばし、頭を優しく撫でる。ふわふわの耳を後ろに倒し、口を開け、舌を出し、目を細めて気持ち良さそうにしている。尻尾は千切れるんじゃないかという位、左右に振られていた。あまりにもリラックスした表情を見せるので、ちょっと笑ってしまった。
軽やかに足を動かして、再び前を歩きだしたわんちゃんに、そろそろとついていく。やがて、横道にそれたところで受付所が現れる。
天龍寺の北門だった。
「あ」
受付の方の目を掻い潜り、するりと入り口の向こうに、わんちゃんは行ってしまった。しかし、彼は立ち止まっている私に、何でついてこないのかと首を傾げてお座りしている。仕方ないなぁ……。
誰も並んでいない北門参拝受付に近付き、チケットをおとな一枚、と頼むと、受付の方はえ? と受付所の中にある時計を確認した。
「閉館時間近いんで、今からやと、もう30分もおれませんけど、エエんですか?」
「大丈夫です。お願いします」
秋色に染まる木々が覆い繁っている。夕暮れによって、その赤みはより濃くなっていた。ヒラヒラと落ちてくる紅葉の量は、雨の影響で半端がない。まるで雪だ。
紅葉の絨毯を踏みしめて歩きながら、くるくると傘を回す。すると、傘に張り付いていた紅葉が剥がれ、ひらりと雨粒と共に落ちた。
ワンくんの後を追っていたのが、いつしか隣を歩くようになる。どこへ向かっているのかわかりもしないのに、足は自然と動いていた。
人は少ない。向かってくるひとも数名で、皆、帰るところなのだろう。
大方丈、曹源池庭園が見えてきた。日本庭園最高峰の龍門瀑。石橋。どの角度からも見応えのある景観。
紅葉が浮かぶ池の近くに寄る。いつもならば大勢の人々が集まり、縁側などで寛いでいたりするのだが、もう一組の老夫婦しか居ない。彼等も、そろそろいこうか、とお爺さんはお祖母さんに手を貸して一緒に立ち上がり、ゆっくりとした足取りで去っていった。
もしかしたら、私が最後かもしれない。時間を確認する。あと10分。
人気のない縁側にちょこんと座り、秋模様の庭園を眺める。桜が誇る季節も、雪化粧の季節も、ここはまた違った姿を見せ、そして美しいのだろうな。機会があれば、また見に来たいと考えながら。
ワンくんも私の足元に寝転び、穏やかな一時にウトウトしていたが、チリンチリンと鈴の音が前から聞こえてくると、大きな耳を立てた。ワンくんが身を起こし、鈴の音の方へと掛けていく。
再び傘を広げ、ついていく。クンクンとお互いの匂いを嗅ぎ合うそのお相手は、真っ白なネコだった。にゃあ、と此方を見上げて鳴いている。その首には、青い首輪に鈴がぶら下がっていた。
するりと私の足に近付き、撫でろと身体を擦りつけてくる。屈んで、その頭を、背中を撫でる。シロちゃんと名前を呼べば、私の掌に必死に頭を押し付けながら、甘えた声でにゃんと鳴いた。
「うわっ」
一瞬強い風が吹いて、傘をしっかりと掴む。今の一風で、大量の紅葉がハラハラと舞い落ちる。立ち上がり、見上げれば、幻想的な光景が広がっていた。
視界を覆い尽くさんばかりの紅葉に手を伸ばす。こんなにたくさんあるのに、一つだって掴み取れやしない。諦めようかと手を下ろしかけた。が、再び手を伸ばす。意固地になったのか、ムキになったのか。
オレンジ、黄色、その中でも、一際真っ赤な紅葉が落ちてくる。
あれがいい、と思った。
ヒラヒラと吸い寄せられる様に、私の手に向かってくる他の紅葉には目もくれず、見失うまいと、その紅葉だけを目で追う。必死で手を伸ばしていると、ヒラヒラと赤の紅葉が私の手に向かってくる。私の肌を掠めたところで、何とか捕まえることが出来た。
互いにぶつかりながら、地へと落ちていく葉の音。寺からのお香焚きと、雨の匂い。池に落ちる雨粒の音と、風で唸る山の木々の唸り。
全ての始まり、そして、終わりを迎えた場所。
目を開けると、私をここに導いてくれた友は、二匹とも姿を消していた。その代わりに、雨に濡れた紅葉を踏み締める音が、後ろから聞こえてくる。
足音は、徐々に距離を詰めてきていた。心臓がけたたましく鳴る。もう閉館時間だと告げにきた係りのひとか、警備員か。どちらも違うと確信を持てた。
やがて、足音はすぐ近くで止まる。
何も言葉を発することなく、胸にある紅葉と一緒に、指輪、そして曲がった傘の柄を握り立ち尽くす。
だって、きっと、振り向いたら終わりだ。
私が今から進もうと選んだ道も、未来も、私自身も、全部を捨てることになる。
でも、どうせ逃げられはしないのではないか? どこに行っても一緒だと、こうも証明されてしまえば。
小指が痛い。折れて、引き千切れるんじゃないかって程。
体が後ろを向けと命令する。傘が後ろに居る人物の姿を上手く隠していた。もう少し傾けば、その人物の顔が露になる。あと、少しで。
「遠坂!!」
ビクッと大きく体が揺れた。
え、えっ、と大きく惑いながら身を翻し、声のした方向、真横の縁側を見上げる。大きく荒々しく呼吸を繰り返し、身体を上下させ、汗だくになった人物が、かなり焦った怒り顔で私を睨み付けていた。
「……あ」
「……」
「明石家く……」
「こんのドアホ!!!」
「ピェッ!」
「こんなとこで、一人何しとんねん! お前、京都でひとり出歩くな言われとったやろが!!」
「ごっ、ごめんなさ、ごめんなさい」
「よりによって、天龍寺って……アホ! ボケ!!」
「すっ、すみません、すみませ……え、あかしやくん。何でここに……」
「なんばで買いモンしとったら、速水からお前と連絡とれへん、京都におる筈やから探してくれって、アホほど鬼電かかってきたんじゃ、ボケ!」
「っえ、あ」
急いでスマホを確認すると、それはもうとんでもない数の通知で溢れ帰っていた。教授からは30、明石家くんからは126件……。顔をひきつらせて、明石家くんのメッセージを開くと、最初は冷静に『どこにおる』から始まり、徐々に簡潔な罵詈雑言が飛ばされ、途中から打つのも煩わしくなったのか、最終的に何度も何度も着信を繰り返していた。もちろん、ひとつも出ていない。
私を見下ろす明石家くんの目は完全に据わっていた。眼力がえぐい。や、ヤクザがいる。
「あ、明石家くん、なんばからわざわざ……び、ビチョビチョだし……ごめん、ほんとごめんね……」
「ごめんで済んだら警察は要らんねん。シバくぞ、ゴラ」
「ごめんごめんごめん本当にごめんなさい! は、はい! オトシマエ! 指! 指詰めます!」
「いらんわ。はぁああ……。もうええ。疲れた。何でお前が関西おるとか、話は後で吐かす。覚悟せぇ」
「ひぇ」
「オラ、はよ、こっち上がれ。閉館のアナウンス。迷惑かけんな」
「う、うん」
「てか、なんやねん。そのカッコ……それと、ボロ傘」
「七五三じゃないからね」
「人の心読むな、アホ」
「え……ホントにそう思ってたの?」
閉館ですよ、と呼びにきた案内のひとに、「スマセン」と明石家くんが対応する。お寺に上がる小階段がすぐそばにあったので近付こうとしたが、立ち止まり、明石家くんと係りのひとの話し声をBGMに、恐る恐る、自分が立っていた木の下を振り返る。そして、その後ろも。
誰も、居なかった。
傘を先程よりも強く握り、じっとその場所を見つめていると、上から「遠坂」と呼ばれる。雨に濡れた前髪の下、その目は呆れ返りながらも、安堵に満ちていた。
ハァと大きなため息を漏らし、がしがしと頭をかいて、手を伸ばしてくれた。
「帰るぞ」
ほら、と日常が私を迎えにくる。
この手がなければ、明石家くんが引き留めてくれなかったら、きっと今頃、私は。
靴を脱ぎ、明石家くんの手を取って階段を上がる。縁側から、もう一度、曹源池の庭園を見渡す。
手の中に握りしめたままだった赤紅葉を見つめる。お世辞にも、綺麗な紅葉とは言えない。傷だらけだし、穴だらけだし、形も歪だ。けれど、他にも比べられないその勝ち気な赤だけは、何にも変えられない魅力だと思った。胸に抱いて、目を閉じた。
天龍寺を出ると、明石家くんが雨の中、お寺のひとの好意で頂いた黒い傘をさし、片手には雨対策のビニールに包まれた紙袋を持って、私を怖い顔で見ていた。
怒っている。でも、それ以上に心配してくれていることはわかっていた。
申し訳無い気持ちと、私の中に根付いてしまった何かを誤魔化したい気持ちがごちゃ混ぜになって、へにゃりと変な笑顔を見せてしまう。明石家くんの眉間の皺は、より深くなるばかりだった。
「ね。明石家くん。これ、着物、借り物でね、お店返しにいかなくちゃいけないの」
「……」
「教授にも連絡して……それから、明石家くんの替えの服も買わなきゃ、風邪引いちゃう。あと、咲ちゃんへのお土産と……まだお店開いてるかな。それ済ませたら、何か温かくて美味しいもの食べに行こ。お詫びに、ご馳走させてほしいな。今日中に関東帰らなきゃだから、ゆっくりは出来ないけど……」
「そんままでいい」
「へ」
「着物。下の呉服屋やろ。お前見掛けたって話、そこで聞いた。遠坂の服も返してもらった」
「え」
「料亭行くぞ」
「りょ……いや、でも、これレンタルだから返さなくちゃ」
「買い取った」
「なんて?」
「買い取った」
「……ファッ!? か、買い……? エッ、なんで?」
「喧しい」
「いや、やかましいじゃなくてね。あっ、明石家くん、待ってよ。ちょ、聞いてる? 着物買ったって、何で……」
「お前のいつものガキ臭いナリじゃ、店で浮く」
「そんな理由でお買い上げしたの!?」
「あと、今日はウチ泊まれ」
「ちょ、ちょっと待って。い、いや……次々と、も、もう色々と急すぎて」
「飯ぐらい、ゆっくり食わせろや。忙しないのは嫌いやねん」
「だ、だとしてもだよ。泊まるって、そんないきなり。私、何にも持ってきてないし……」
「妹おるから、必要なモンは借りたらええやろ。コンビニで下着だけ買っときゃ、あとは何とかなる」
「ねぇ、デリカシー! いや、ほんとそんな、明石家くんのご家族にも迷惑かかるし……そ、それに、流石に誤解されちゃうかもしれないし……」
「……」
「え、無視……? ん? ちょっとまって。着物着てなきゃ浮くって、ど、どんな料亭行こうとしてる!? お、お高いとこ!? 払える? 私、払えるとこかな!?」
「女に払わす訳ないやろ、アホ」
完
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めっちゃ面白かったです。岡崎さん太刀川さん共に不憫で切なかったです。続編はないんでしょうか。
感想頂きありがとうございます。また別の形で運命のひと。の世界を広げていけたらな〜と考えています〜!
退会済ユーザのコメントです
ムーンさんでも拝読頂けていたとのこと、有難う御座います。内容はほとんどムーンさんで掲載していたものと変わりはありませんが、お楽しみ頂けると幸いです。
太刀川さんが切なくて、夢中で読んでました。ムーンさんで完結してますが、アルファでの完結を楽しみにしています。
感想頂き有難う御座います。アルファでも完結目指して頑張ります。