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スコアブック

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場の会話は今年の野上さんの活躍についてに移っていた。
健太と磯田くんは、
「今年はなんといってもあの7月のホームランだよな。」
「あー、わかります!あのドームでの特大の!」
と盛り上がっている。

今季野上さんは夏に絶好調で、6月から8月のホームラン記録だけだったらホームラン王になっていた。
4月の序盤の成績に伸び悩んだ事と、9月にチーム勝利を優先した戦略とで個人成績はホームラン王にあと2本届かなかったのが残念で悔やまれる。

特に月の外国人ピッチャーからもぎ取ったドームでのホームランは、あわやノーヒットノーランかと思われるほど完璧に押さえ込まれていたけれど、前に四球でのランナーがいたためにツーランホームランとなり、結果勝利点となった…。

「だからそれ8月のでしょう?」
と健太に聞いた。
「8月1日の大阪のですよね。グーリーから打ったの。アレ8月ですよね?」

キョトンとした目で野上さんは私を見てる。
「あれ?違いました?」
急に自信がなくなった。7月末から8月頭に掛けての3連戦。グーリー選手が登板したのは3戦目の8月1日。
だと…思ったけど?

「8月だけど…。ユキ俺の試合見てるの?」
「み、見てます…ケド?」
「興味なかったんじゃないの?」
「そんな事言ってませんよ。」
「球場来て、って言っても断るじゃん。」

だって…それは…。

「優希まだスコア付けてるの?」
と隣で聞いていた健太が口を挟んできた。
「スコア?まだ?」
野上さんに聞き返される。
「どういう事ですか?」
磯田くんが健太に尋ねる。

「優希、スコア記録の練習をプロ野球の試合でやってたんです。中継だと球種やコースもわかる解説つきだし。球場だと席によってはストライクとボールの判定くらいしか付けらんないって。
…まだやってるの?」

健太のバカ!なんでバラすんだ!
くっ!恥ずかしいじゃないか!!
健太をグッと睨みつけた。ヤベっ、とスッと視線は逸らされる。

「ユキ?俺のスコア付けてるの?」
私と健太の間に野上さんが身体を入れて聞いてくる。
今度は私の目が泳ぐ。

「付けて…ます。趣味みたいなことだし、それしか出来ないし。」
「今…ある?」
「あります…けど。」
「見たいな。」

野上さんはプロ選手だ。きっとチームで完璧に仕上げられたスコアだけじゃなく映像だって沢山見ている。
なんだか期待された瞳で私を見据えてくるけれど…?
「素人の趣味…」
といって断ろうと思ったのに、野上さんはしつこかった。
「見たいんだけど。」
と私の頬をグッと押して視線を無理やりに合わせられる。
「見せて。」
真っ直ぐに私を見つめる野上さんは絶対に期待してる。過剰な期待に答えられるようなシロモノじゃないのに…。

横から健太が見せてやれよ、とヤイヤイ口を挟む。
「優希のスコア、スッゲー綺麗ですよ。」

って健太のバカ!余計なハードルを上げやがった。
野上さんは絶対に視線を逸らさないし、私が逸らす事を許してはくれない。
俯いたら顎をクイっと持ち上げられて、横を向いたら頬を押してくる。

これ、断れないヤツ…?
仕方なく渋々立ち上がって、私の私物がまとめて置いてあるクローゼットを開けた。

「これ…です。」
横長の水色のスコアブックを野上さんに渡した。
野上さんに渡したのは、一般的な全てのスコアを記録したもの。
ストライクやアウト、ヒットやエラーなどを追って纏めたもの。
これなら見せられる。ただの記号と文字の羅列。

「本当にきれいに書くな。」
と野上さんが感心してくれる。
野上さんは私がスコアを書いているのを見たことがあると言ってたから、きっとその頃よりは…少しはマシなはず。
磯田くんも、へぇーっと感心した感じで見てくれている。
「さすが元マネージャー。ここまでしてくれる人あんまりいないですよねー。」
と誉めてくれる。

…でも。お願い!!どうか…気付かないで!!
と心の中で祈ったのに…。
「優希、投球詳細記録、付けてねぇーの?」
って健太がバラした。
黙れ!!
健太に送った合図はニヤリと笑って肩をすくめる健太には届かなかった。

「投球詳細記録?それも付けてるの?」
「つ、付けて…」
「付けてるね?」
…ます。

ガックリと項垂れる。
アレは…見せたくなかった。

「お、怒らないで下さいね。ただのファンが気まぐれで適当に書いた…ってことにしてくださいね。や、約束してしてくださいよ。」

いいから早くと催促されて、仕方なく黒のバインダーを見せた。
これは…見せたくなかった。

詳細投球記録というのは、ひとつの打席の球種とコース、その順番をひとつの図形に纏めたもの。
これは野上さんのしか付けてはいない。
右打ちの野上さんを模した人型の横に四角を9つのマスで区切ったストライクゾーンを書き、それが1試合分横に並べたオリジナルのファイルだ。

例えば、1Sは1球目がストレートだった事を表す。よく野球中継の右下に出てくるあれだ。ストライクはマスの中、ボールならマスの外。見逃しなら無印、空振りは丸で囲んで、ファールは三角で囲んでいる。

「ここまで…?」
野上さんが感心してくれているのは多分その下にあるコメントだ。

「タイミング良し、少し外に逃げられた感アリ、予想より半個分?」
好き勝手に適当な事をツラツラと書き綴っていったもの。
「会心の一打!!最高!!」
と書いてあったのが、例のホームランだった。
1S無印真ん中下ストライク 2C無印左外ボール…タイミングバッチリの3F真ん中下をファール、追い込まれてからの4球目、S 4左下を掬い上げ、瞬間ボールは勢いよく飛んでいった。
日付はやっぱり8月1日。

恥ずかしいから、サラッと見て欲しかったのに、野上さんは丁寧に丁寧にひとつずつ指で追って行った。
きっとその時の打席を思い出しながら。

「約束しましたよ、怒らないって。文句は受け付けませんからね。」
と言い、もう良いでしょうとスッとファイルを野上さんの手から引き抜いた。




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