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第一章 青年、少女と邂逅す【2】
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人の多い商店街は通らずに狭い路地を抜け、ジャンは一本の通りに出た。
そこは戸が閉まった店ばかり並んでおり、いくつかの店が細々と営んでいるだけの閑散とした通りだった。
国の横暴な政策で税金が高くなってからこの通りはさびれ、今では喫茶店とベーカリー、そして小さな本屋しか残っていなかった。
ジャンはその喫茶店、『ラ・ポート』の三階に住んでいた。
「さすがにその格好じゃ人目にもつくし、どうにかしないと」
ジャンは振り返ってなるべく丁寧な口調で言った。
スラム街を抜けてすぐ、引いていた手を放してから彼女はずっと警戒したままで、ジャンとは距離をとって歩いていた。
「……」
少女はひどく嫌悪に満ちた眼差しでこちらをにらみ、なにも言わない。
(まったく、嫌われたもんだな)
ジャンは面倒くさそうに頭をかいた。
そもそも、ジャンはただ彼女の手首のあざが気になったから助けただけで、奴隷として好きに扱おうなんて思っていなかった。
しかし、この様子じゃ彼女から信用されるのは難しかった。
(さて、どうしようかね)
せめて身なりだけでも整えてやろうと思っていたが、持っていた金はすべて少女との引き換えに使ってしまっていた。
(しくじったな、ブイオを気絶させたときに金も取ってくればよかった)
だが今頃後悔しても遅い。これからどうするかだ。ジャンはさらに嫌われるのを覚悟で言った。
「あのさ、ひとまず俺の家行くから。それからどうするか考えよう」
少女は相変わらず黙ったままだったが、それでもすぐに逃げ出そうとはしなかった。行くあてがないのか、
それとも彼女も今の格好では逃げるにも逃げられないと思っているからなのかはわからなかったが、おとなしくついて来てくれるだけ、今のジャンにはありがたかった。
しばらくして、喫茶店が見えてきた。
ジャンは少女を連れて喫茶店のある建物の裏手にまわり、階段を三階まで上がった。木製の戸を開け、少女を招き入れようとする。
が、そこで少女はいきなり立ち止まった。
「どうしたの、早く入んなよ」
そう言って促すも、少女はうつむいたまま動かない。
(まさか、ここまで来て……?)
ジャンは顔をしかめた。
しかし、嫌がる女の子を無理矢理連れ込むのも趣味ではなかった。
かと言って、こちらから働きかけないままでは、目の前の少女に逃げられてしまうかもしれない。
その場しのぎでもいいから、なにか相手が納得するようなことを言わなければならなかった。
「あー、じゃあさ」
ジャンは首に手を当てて言った。
「俺はどこかで服探してくるから、それまでにあんたは体についたほこりとか落としときなよ。で、着替えたらどこへでも好きなところへ行くってのはどう?」
その言葉に、少女はうつむいていた顔を上げた。
驚いたような表情でこちらを見たあと、小さくしかしはっきりと頷いた。
ジャンはそれにやっとかと思いながら一息つき、彼女を招き入れた。
「そっちで水浴びられるから。タオルはそこの棚から出して」
玄関を入ってすぐ、ジャンは右側の曇りガラスの戸を指さし、適当に指示する。
「んじゃ、ちょっと出かけてくるけど、鍵閉めとくし。誰も来ないだろうから、まぁのんびりしてて」
それだけ言って、ジャンはドアノブに手を掛け、回す。
と、そこでふとその手を止める。そして、浴室へと向かう少女の背中に声をかける。
「そう言えば、まだ名乗ってなかったっけ。俺はジャン・ラグドール。あんたは?」
すると、少女は足を止め、振り向いてからわずかにためらったあと、
「……コリー・マールド」
「へぇ。変わった名前だな」
言うと、コリーと名乗った少女は頬を膨らませた。
「私だって、好きでこんな名前じゃない」
「ま、別に悪いとは言ってないし」
苦笑しながらジャンは言った。
(でもまぁ一応名前を教えてくれたってことは、ちょっとは信用されたか?)
そんなことを考えながらジャンは戸を開け、
「さてと、じゃ行ってくるかね」
そのまま家を出た。
◆
とは言っても、服装にほとんど興味を持っていなかったジャンは、今時の若者がどんな服を着ているのかわからなかった。
自分がいま着ている服だって、ただ動きやすくて、着心地がよくて、どこにでも着ていけるっていう理由だけで決めたのに、まして女の子の格好なんてわかるわけがなかった。
「金でも持ってれば、店に行っておすすめのやつとか聞いて買えるけど、そうもいかないしなぁ」
首に手を当てながら、階段を下りていくジャン。
「ここはひとまず、キャトルさんにでも相談するってもんか」
女の子のことは女の子に。それは、昔ジャンがまだ小さかったとき世話をしてくれていた老人から教えられたことだった。
とりあえずジャンは、大家である喫茶店のマスターの娘、キャトル・アバディーンに会うことにした。
「今日は店休みだから、家にいるか?」
そう呟いて、二階で止まると、階段すぐの木製の戸をノックする。
「アバディーンさん? 上の階のラグドールですけど。いますか?」
すると、しばらくしてカチャッという音とともに、戸が開いた。
「はーい」
鈴が鳴るような可愛らしい声。中から現れたのは、ちょうどキャトルの方だった。
胸元あたりできれいにカールされた赤くてくせのない髪の毛に勝ち気な紫色の瞳。華奢でジャンより頭一つ分くらい低い背丈の彼女は、今青チェックのワンピースを着ていた。
彼女はジャンの姿を見るときょとんとした表情で、
「あ、ジャン。どうしたの? 父さんならいま買い物に行ってていないけど……」
それにジャンは首を振った。
「いや、用があるのはマスターじゃなくて、キャトルさんの方で」
「うん? 私に用?」
ジャンは頷き、真剣な表情で言った。
「あの、女物の服なんだけど、上に着るのと下に穿くのでなにか着てないのある?」
「……はい?」
「まあ自分で買いに行ってもよかったんだけどさ、一昨日家賃払ったばかりだし、さっきも実は結構な額の金使っちゃってて、あんま余裕がないっていうか……キャトルさん?」
見ると、なぜかキャトルはわなわなと体を震わせ、まるで変なものでも見るかのような目でこちらを見ていた。
「……?」
意味がわからず首をかしげていると、キャトルが両手を頬に当てて叫んだ。
「いやぁぁぁ、ジャンが変態にぃぃぃ」
「は? ちょ、待っ、いきなりなにを……」
が、ジャンの言葉を遮って、今度は低くて太い声が背後から聞こえてきた。
「ただいま。おおジャン、どうしたこんなところでつっ立って。今日は朝から出かけるんじゃなかったのか」
振り返ると、そこにはキャトルの父親であり、喫茶店のマスターであり、ジャンの借りている部屋の大家である、アンガス・アバディーンがいた。
ジャンはこの事態を収束させてくれそうな人物の登場に安堵した。
「マスター! いやあの実は……」
わけを話そうとすると、そこで慌てふためいたキャトルが早口でまくし立てた。
「お父さん! ジャンが女装しようとしてるの!」
「だからそれはちが……」
なんとか否定しようとするが、まるでキャトルの耳には届いていない。
アンガスは薄笑いのままこちらを見て、慰めるようにジャンの肩をぽんぽんと叩いた。
「別に私は気にしないぞ? おまえにそういう趣味があっても」
「うう……頼むから、俺の話聞いてよ……」
ジャンのそんな呟きは、もはや二人には届かず、むなしく空を切っただけだった。
十分後。
ジャンはなんとか事情を説明して、ようやく二人にわかってもらえた。
「なんだぁ、そういうことなら早く言ってよ」
「そうだぞ。私はてっきりおまえにそういう趣味があるのかと」
「はは……」
ジャンが力なく笑うと、
「じゃあ、ちょっと待ってて。服持ってくるから」
そう言って、キャトルは奥の部屋へ消えた。
残されたジャンは上着のポケットから飴を一つ取り出すと、口の中へ放り込んだ。レモン味だった。
アンガスはジャンのわきを通り、家の中へ入っていく。その際、ふとなにかを思い出したように彼はジャンの方を振り返った。
「そういえばジャン。その娘はコリー・マールドという名だと言ったな?」
「そうだけど?」
「マールド家って言えば、この街じゃ有名な貴族だぞ」
「へぇ、でも俺聞いたことないけど」
それにアンガスはなにかに気づいたように、
「そうか、おまえがこの街に来たのは七年前だったから知らないんだ」
「ん?」
わけがわからずジャンが首をかしげていると、アンガスは続けた。
「マールド家ってのは金持ちで名の知れた貴族でな。港の船舶とか貿易とかに関する企業を経営していたんだ。今は海も落ち着いているが、昔は結構荒れててな。資金繰りも大変だったらしい。結局貿易を成り立たせるために、マールド家は破産。今は別の貴族が引き継いでいるが、まぁそんなわけでマールド家は九年前、ついに没落したんだよ」
「ふーん、それで」
ジャンは鷹揚に頷いた。
「まぁ、彼女もいろいろあっただろうから、ちゃんと面倒見てやりなさい。幸い部屋はまだ空いてるし、食事なら一人分くらい増えても問題はないから」
「わかった。さんきゅな、マスター」
そんな話をしていると、奥から服を腕に下げたキャトルが戻ってきた。
「お待たせー」
「さて、私も店の準備でもしてくるか。ジャンも用が済んだら店の方へ来てくれ。掃除を頼みたいんだ」
「えぇ 掃除って、今日店休みなのに」
「あほ、休みだから綺麗にしておくんだ。営業日じゃ客の邪魔になるだろうが」
「うう……」
「そういうわけだから、よろしくな」
そして、アンガスは廊下のわきの階段から一階へと降りていった。
ジャンは、その姿を見送ったあと、キャトルの方へ向き直った。キャトルはいくつかの服を手に持っていた。
「あの、着てないのって言ったらこれだけなんだけど、平気?」
見せてくれたのは、レースをあしらった白いブラウスと、濃紺でデニムのジャケット。そして、少し丈の短めな赤チェックのキュロットスカートだった。
その、いかにも彼女らしい服のセンスに、
「全然問題ないよ。無理言って悪いね。この礼はあとで必ずするから」
言うと、キャトルは嬉しそうに笑って、
「やだぁお礼なんて。私とジャンの仲じゃない。別にいいわよ。まぁ、ジャンが見つけてきた宝物とかくれるって言うんなら、もらってあげてもいいけど?」
それは暗に礼は宝でいいよって言ってるのと同じじゃないか。
ジャンは苦笑して、
「わかったよ、考えとく」
「ほんと ありがと、ジャン。楽しみにしてるから」
「ま、あんま期待しない方がいいと思うけどね。さて、じゃあ俺そろそろ行くわ。ほんと助かった。ありがとな」
「うん。あ、その服もう着ないから返さなくていいわ」
それに右手だけで応じ、ジャンはキャトルのところをあとにし、自宅に戻った。
◆
玄関のドアを開けると、まだ浴室の方から水の流れる音がしていた。
ジャンはその前まで行くと、ドア越しに声をかけた。
「服、ここに置いておくから」
だが、水の音で聞こえなかったのか、それともわざと無視しているのか、コリーの返事はなかった。
(ま、そうだとは思ってたけど)
ジャンは半ば呆れながら服を浴室のドアの前の床に置き、それから玄関の横にある小さな靴入れのところへ行くと、女物の革靴を取り出した。
「まさか、これが役に立つ日が来るとは……」
それは、以前に商店街の福引きで当てたものだった。
無論、ジャンが履けるわけもなく、早めに処分しようと思っていたのだが、そのまま放置してしまっていたのである。
靴についていたほこりをはたき、下に置いた。
「ま、とりあえずはこれでいっか」
そして最後に、持っていたメモ帳に一応自分が一階の喫茶店にいることと、靴も自由に履いていっていいということを書き記して靴入れの上に置き、ジャンは家を出た。
そこは戸が閉まった店ばかり並んでおり、いくつかの店が細々と営んでいるだけの閑散とした通りだった。
国の横暴な政策で税金が高くなってからこの通りはさびれ、今では喫茶店とベーカリー、そして小さな本屋しか残っていなかった。
ジャンはその喫茶店、『ラ・ポート』の三階に住んでいた。
「さすがにその格好じゃ人目にもつくし、どうにかしないと」
ジャンは振り返ってなるべく丁寧な口調で言った。
スラム街を抜けてすぐ、引いていた手を放してから彼女はずっと警戒したままで、ジャンとは距離をとって歩いていた。
「……」
少女はひどく嫌悪に満ちた眼差しでこちらをにらみ、なにも言わない。
(まったく、嫌われたもんだな)
ジャンは面倒くさそうに頭をかいた。
そもそも、ジャンはただ彼女の手首のあざが気になったから助けただけで、奴隷として好きに扱おうなんて思っていなかった。
しかし、この様子じゃ彼女から信用されるのは難しかった。
(さて、どうしようかね)
せめて身なりだけでも整えてやろうと思っていたが、持っていた金はすべて少女との引き換えに使ってしまっていた。
(しくじったな、ブイオを気絶させたときに金も取ってくればよかった)
だが今頃後悔しても遅い。これからどうするかだ。ジャンはさらに嫌われるのを覚悟で言った。
「あのさ、ひとまず俺の家行くから。それからどうするか考えよう」
少女は相変わらず黙ったままだったが、それでもすぐに逃げ出そうとはしなかった。行くあてがないのか、
それとも彼女も今の格好では逃げるにも逃げられないと思っているからなのかはわからなかったが、おとなしくついて来てくれるだけ、今のジャンにはありがたかった。
しばらくして、喫茶店が見えてきた。
ジャンは少女を連れて喫茶店のある建物の裏手にまわり、階段を三階まで上がった。木製の戸を開け、少女を招き入れようとする。
が、そこで少女はいきなり立ち止まった。
「どうしたの、早く入んなよ」
そう言って促すも、少女はうつむいたまま動かない。
(まさか、ここまで来て……?)
ジャンは顔をしかめた。
しかし、嫌がる女の子を無理矢理連れ込むのも趣味ではなかった。
かと言って、こちらから働きかけないままでは、目の前の少女に逃げられてしまうかもしれない。
その場しのぎでもいいから、なにか相手が納得するようなことを言わなければならなかった。
「あー、じゃあさ」
ジャンは首に手を当てて言った。
「俺はどこかで服探してくるから、それまでにあんたは体についたほこりとか落としときなよ。で、着替えたらどこへでも好きなところへ行くってのはどう?」
その言葉に、少女はうつむいていた顔を上げた。
驚いたような表情でこちらを見たあと、小さくしかしはっきりと頷いた。
ジャンはそれにやっとかと思いながら一息つき、彼女を招き入れた。
「そっちで水浴びられるから。タオルはそこの棚から出して」
玄関を入ってすぐ、ジャンは右側の曇りガラスの戸を指さし、適当に指示する。
「んじゃ、ちょっと出かけてくるけど、鍵閉めとくし。誰も来ないだろうから、まぁのんびりしてて」
それだけ言って、ジャンはドアノブに手を掛け、回す。
と、そこでふとその手を止める。そして、浴室へと向かう少女の背中に声をかける。
「そう言えば、まだ名乗ってなかったっけ。俺はジャン・ラグドール。あんたは?」
すると、少女は足を止め、振り向いてからわずかにためらったあと、
「……コリー・マールド」
「へぇ。変わった名前だな」
言うと、コリーと名乗った少女は頬を膨らませた。
「私だって、好きでこんな名前じゃない」
「ま、別に悪いとは言ってないし」
苦笑しながらジャンは言った。
(でもまぁ一応名前を教えてくれたってことは、ちょっとは信用されたか?)
そんなことを考えながらジャンは戸を開け、
「さてと、じゃ行ってくるかね」
そのまま家を出た。
◆
とは言っても、服装にほとんど興味を持っていなかったジャンは、今時の若者がどんな服を着ているのかわからなかった。
自分がいま着ている服だって、ただ動きやすくて、着心地がよくて、どこにでも着ていけるっていう理由だけで決めたのに、まして女の子の格好なんてわかるわけがなかった。
「金でも持ってれば、店に行っておすすめのやつとか聞いて買えるけど、そうもいかないしなぁ」
首に手を当てながら、階段を下りていくジャン。
「ここはひとまず、キャトルさんにでも相談するってもんか」
女の子のことは女の子に。それは、昔ジャンがまだ小さかったとき世話をしてくれていた老人から教えられたことだった。
とりあえずジャンは、大家である喫茶店のマスターの娘、キャトル・アバディーンに会うことにした。
「今日は店休みだから、家にいるか?」
そう呟いて、二階で止まると、階段すぐの木製の戸をノックする。
「アバディーンさん? 上の階のラグドールですけど。いますか?」
すると、しばらくしてカチャッという音とともに、戸が開いた。
「はーい」
鈴が鳴るような可愛らしい声。中から現れたのは、ちょうどキャトルの方だった。
胸元あたりできれいにカールされた赤くてくせのない髪の毛に勝ち気な紫色の瞳。華奢でジャンより頭一つ分くらい低い背丈の彼女は、今青チェックのワンピースを着ていた。
彼女はジャンの姿を見るときょとんとした表情で、
「あ、ジャン。どうしたの? 父さんならいま買い物に行ってていないけど……」
それにジャンは首を振った。
「いや、用があるのはマスターじゃなくて、キャトルさんの方で」
「うん? 私に用?」
ジャンは頷き、真剣な表情で言った。
「あの、女物の服なんだけど、上に着るのと下に穿くのでなにか着てないのある?」
「……はい?」
「まあ自分で買いに行ってもよかったんだけどさ、一昨日家賃払ったばかりだし、さっきも実は結構な額の金使っちゃってて、あんま余裕がないっていうか……キャトルさん?」
見ると、なぜかキャトルはわなわなと体を震わせ、まるで変なものでも見るかのような目でこちらを見ていた。
「……?」
意味がわからず首をかしげていると、キャトルが両手を頬に当てて叫んだ。
「いやぁぁぁ、ジャンが変態にぃぃぃ」
「は? ちょ、待っ、いきなりなにを……」
が、ジャンの言葉を遮って、今度は低くて太い声が背後から聞こえてきた。
「ただいま。おおジャン、どうしたこんなところでつっ立って。今日は朝から出かけるんじゃなかったのか」
振り返ると、そこにはキャトルの父親であり、喫茶店のマスターであり、ジャンの借りている部屋の大家である、アンガス・アバディーンがいた。
ジャンはこの事態を収束させてくれそうな人物の登場に安堵した。
「マスター! いやあの実は……」
わけを話そうとすると、そこで慌てふためいたキャトルが早口でまくし立てた。
「お父さん! ジャンが女装しようとしてるの!」
「だからそれはちが……」
なんとか否定しようとするが、まるでキャトルの耳には届いていない。
アンガスは薄笑いのままこちらを見て、慰めるようにジャンの肩をぽんぽんと叩いた。
「別に私は気にしないぞ? おまえにそういう趣味があっても」
「うう……頼むから、俺の話聞いてよ……」
ジャンのそんな呟きは、もはや二人には届かず、むなしく空を切っただけだった。
十分後。
ジャンはなんとか事情を説明して、ようやく二人にわかってもらえた。
「なんだぁ、そういうことなら早く言ってよ」
「そうだぞ。私はてっきりおまえにそういう趣味があるのかと」
「はは……」
ジャンが力なく笑うと、
「じゃあ、ちょっと待ってて。服持ってくるから」
そう言って、キャトルは奥の部屋へ消えた。
残されたジャンは上着のポケットから飴を一つ取り出すと、口の中へ放り込んだ。レモン味だった。
アンガスはジャンのわきを通り、家の中へ入っていく。その際、ふとなにかを思い出したように彼はジャンの方を振り返った。
「そういえばジャン。その娘はコリー・マールドという名だと言ったな?」
「そうだけど?」
「マールド家って言えば、この街じゃ有名な貴族だぞ」
「へぇ、でも俺聞いたことないけど」
それにアンガスはなにかに気づいたように、
「そうか、おまえがこの街に来たのは七年前だったから知らないんだ」
「ん?」
わけがわからずジャンが首をかしげていると、アンガスは続けた。
「マールド家ってのは金持ちで名の知れた貴族でな。港の船舶とか貿易とかに関する企業を経営していたんだ。今は海も落ち着いているが、昔は結構荒れててな。資金繰りも大変だったらしい。結局貿易を成り立たせるために、マールド家は破産。今は別の貴族が引き継いでいるが、まぁそんなわけでマールド家は九年前、ついに没落したんだよ」
「ふーん、それで」
ジャンは鷹揚に頷いた。
「まぁ、彼女もいろいろあっただろうから、ちゃんと面倒見てやりなさい。幸い部屋はまだ空いてるし、食事なら一人分くらい増えても問題はないから」
「わかった。さんきゅな、マスター」
そんな話をしていると、奥から服を腕に下げたキャトルが戻ってきた。
「お待たせー」
「さて、私も店の準備でもしてくるか。ジャンも用が済んだら店の方へ来てくれ。掃除を頼みたいんだ」
「えぇ 掃除って、今日店休みなのに」
「あほ、休みだから綺麗にしておくんだ。営業日じゃ客の邪魔になるだろうが」
「うう……」
「そういうわけだから、よろしくな」
そして、アンガスは廊下のわきの階段から一階へと降りていった。
ジャンは、その姿を見送ったあと、キャトルの方へ向き直った。キャトルはいくつかの服を手に持っていた。
「あの、着てないのって言ったらこれだけなんだけど、平気?」
見せてくれたのは、レースをあしらった白いブラウスと、濃紺でデニムのジャケット。そして、少し丈の短めな赤チェックのキュロットスカートだった。
その、いかにも彼女らしい服のセンスに、
「全然問題ないよ。無理言って悪いね。この礼はあとで必ずするから」
言うと、キャトルは嬉しそうに笑って、
「やだぁお礼なんて。私とジャンの仲じゃない。別にいいわよ。まぁ、ジャンが見つけてきた宝物とかくれるって言うんなら、もらってあげてもいいけど?」
それは暗に礼は宝でいいよって言ってるのと同じじゃないか。
ジャンは苦笑して、
「わかったよ、考えとく」
「ほんと ありがと、ジャン。楽しみにしてるから」
「ま、あんま期待しない方がいいと思うけどね。さて、じゃあ俺そろそろ行くわ。ほんと助かった。ありがとな」
「うん。あ、その服もう着ないから返さなくていいわ」
それに右手だけで応じ、ジャンはキャトルのところをあとにし、自宅に戻った。
◆
玄関のドアを開けると、まだ浴室の方から水の流れる音がしていた。
ジャンはその前まで行くと、ドア越しに声をかけた。
「服、ここに置いておくから」
だが、水の音で聞こえなかったのか、それともわざと無視しているのか、コリーの返事はなかった。
(ま、そうだとは思ってたけど)
ジャンは半ば呆れながら服を浴室のドアの前の床に置き、それから玄関の横にある小さな靴入れのところへ行くと、女物の革靴を取り出した。
「まさか、これが役に立つ日が来るとは……」
それは、以前に商店街の福引きで当てたものだった。
無論、ジャンが履けるわけもなく、早めに処分しようと思っていたのだが、そのまま放置してしまっていたのである。
靴についていたほこりをはたき、下に置いた。
「ま、とりあえずはこれでいっか」
そして最後に、持っていたメモ帳に一応自分が一階の喫茶店にいることと、靴も自由に履いていっていいということを書き記して靴入れの上に置き、ジャンは家を出た。
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