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三章 夢と手を繋ぐ
第29話 少女の夢
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ここは、ふたたび、荒れ果てた土地を貫く一本道。
頭のない白色の兎が、道路の端を指さしながら全身を震わせている。ブク、ブク。首の断面が泡立つ。湯気が立っている。体中の血液が沸騰しているのだ。
可哀そうじゃないか。見過ごすわけにはいかない。そっと近づく。兎に手を触れた。
気づけば、元通りの姿に変化した兎が何事もなかったかのように両耳を立てながら鼻をヒクつかせていた。よく見ると、とても可愛らしい顔をしていた。
兎の指さす場所。そこには、ああ、タイヤ痕だ。爪で引っ搔いたようなタイヤ痕が、道の外側へツーと伸びているのだ。表面の凹凸を観察するに、どうやら最近できたものらしい。
これだったのか、違和感の正体は。あの島には、自動車がなかった。島の領主である詩文の家の庭を歩き回ったが、これぽっちも自動車の置かれている雰囲気は感じられなかったのだ。それに、山小屋の娘はこう言っていた。『もうこの島に車はないよ』と。
島を貫く一本道の上にタイヤ痕が残っている。有り得ないのだ。
兎は、じっとこちらを見つめる。他にもなにか伝えたいことがあるのだろうか。
目が霞んで視界がぼやけてきた。島へ行け。実際に島へ行って確かめてみろ。断片的な言葉が、とつぜん意識の片隅に立ち現れた。
分かった、行くよ。誰もいない森で倒れる木は音を立てない。お前の鳴き声は、ぽっぽうではないはずだ。
視界が霧に包まれて。
「二十九番。入れ」
一歩足を踏み入れると、そこには、死が広がっていた。
埃とカビに覆われた分厚いコンクリートの壁。無表情で一列に並んだ背の高い鉄格子。廊下の天井に吊るされた、傘のついた電球。明かりはたったそれだけ。
なんだか生きていることが不自然に思えてくる。幸福から最も離れた地点。苦痛を味わい続ける為だけに作られた部屋のようだ。
鉄格子の扉がガシャンと閉められた。大人は乱雑に扉の鍵穴をひねると、どこかへ立ち去っていく。
埃が剝げてコンクリートの表面の一部が露わになった。ニキビまみれの肌みたいに、ぼこぼこしていた。
「こほん」
壁の埃を吸い込んで胸が苦しい。膝を抱えて辛そうにうずくまってみる。鉄格子は、冷たい表情をしてただ立っているだけ。ここには体調を心配してくれる人なんて、いないんだ。
部屋の隅に、薄茶色に変色した便器が置いてある。恐る恐る便器へ近づく。ポッカリと空いた穴の底には、洞窟のような果てしない闇が続いていた。
コツン。今、どこかで、うめき声が聞こえた気がする。
コツン、カラカラ。
ああ、間違いない。小石が床を転がるような乾いた音が、糞尿の香りに混じって、こちらに運ばれてきているのだ。鉄格子の隙間に顔をうずめて耳に手を当てる。音の発生源は……正面の部屋か。
体二つ分くらいの距離の先にある、もう一つの部屋。鏡写しのようなその場所から、コロン、カランと優しく骨をぶつけ合うような音が響いてくるのだ。
なにかが、潜んでいる。鉄格子の隙間をすり抜けるようなイメージで鏡写しの部屋を凝視する。徐々に目が暗闇に慣れてきた。鉄格子越しに、分厚いコンクリートの壁が見える。薄茶色に変色した便器が見える。それと、もう一つ見えた。
あれは、人間の背中だ。黒の布切れを巻いて、フックのように背中を丸めた人間が、達磨のような恰好で、汚物まみれの床の上にうずくまっているのだ。落ち武者のような頭髪。松の枝のように細くゆがんだ背筋。この距離では、年齢はおろか性別すらも分からない。
手垢まみれの小石を壁に投げつけ、コツンと跳ね返ってきたところを拾い上げる。ふたたび小石を壁に投げつけ、拾い上げる。コツン、カラカラ。コツン、カラカラ。枯れ果てた後ろ姿の人間は、この奇行を永遠と繰り返すのだ。
なんども小石を打ち付けられたコンクリートの壁が、まだら模様に剝げている。ダーツの的みたく、点々が壁の中央に密集していた。もしや部屋の住人は、小石を投げ続けてコンクリートの壁を破ろうとしているのではないか? 壁が削り取られる方が先か、あるいは、命が削り切られる方が先か……。
「なに見てるんだ?」
突然、どこからともなく声が聞こえてきて、私は思わず体をビクつかせた。
「あんた、人間だよな?」
鏡写しの部屋の住人は、相変わらず小石を壁に投げ続けている。こちらへ話しかけているようには見えない。
「聞こえるのか? おうい、ここだよ。地面だよ」
反射的に足元を見ると、鉄格子の前に、ふさふさとした灰色の毛をまとい長い尻尾を生やしたネズミが一匹。
「あなたが、喋っていたの?」
「そうさ。すごいや、ネズミと会話ができる人間なんて」
ネズミは、嬉しそうに鼻をヒクつかせて言う。
ネズミと会話してはいけない。そんな命令、大人の口から聞いた覚えはなかった。足元の彼、もしくは彼女とならば、会話できるのだ。
「こんにちは、ネズミさん。私の名前は……ごめんなさい、薬で忘れちゃって、思い出せない」
「君の名前は『二十九番』だよ。そこに住む二十九番目の人間。だから、二十九番」
そんな些細なことで名前を決めてしまうなんて。なんだか美しさに欠けていると思った。
「前の人が気になるのかい? 名前は、たしか『十一番』だっけ。可哀想に。ここに来た時からずっと、ああして小石と戯れている。下水道中にコロコロ小石の音が響き渡って眠れやしないんだ」
ネズミは、素早い動作で鉄格子を登ると、吊り下げられた電球の傘にピョンと飛び乗った。ゆら、ゆら。ブランコのように電球が揺れる。
頭のない白色の兎が、道路の端を指さしながら全身を震わせている。ブク、ブク。首の断面が泡立つ。湯気が立っている。体中の血液が沸騰しているのだ。
可哀そうじゃないか。見過ごすわけにはいかない。そっと近づく。兎に手を触れた。
気づけば、元通りの姿に変化した兎が何事もなかったかのように両耳を立てながら鼻をヒクつかせていた。よく見ると、とても可愛らしい顔をしていた。
兎の指さす場所。そこには、ああ、タイヤ痕だ。爪で引っ搔いたようなタイヤ痕が、道の外側へツーと伸びているのだ。表面の凹凸を観察するに、どうやら最近できたものらしい。
これだったのか、違和感の正体は。あの島には、自動車がなかった。島の領主である詩文の家の庭を歩き回ったが、これぽっちも自動車の置かれている雰囲気は感じられなかったのだ。それに、山小屋の娘はこう言っていた。『もうこの島に車はないよ』と。
島を貫く一本道の上にタイヤ痕が残っている。有り得ないのだ。
兎は、じっとこちらを見つめる。他にもなにか伝えたいことがあるのだろうか。
目が霞んで視界がぼやけてきた。島へ行け。実際に島へ行って確かめてみろ。断片的な言葉が、とつぜん意識の片隅に立ち現れた。
分かった、行くよ。誰もいない森で倒れる木は音を立てない。お前の鳴き声は、ぽっぽうではないはずだ。
視界が霧に包まれて。
「二十九番。入れ」
一歩足を踏み入れると、そこには、死が広がっていた。
埃とカビに覆われた分厚いコンクリートの壁。無表情で一列に並んだ背の高い鉄格子。廊下の天井に吊るされた、傘のついた電球。明かりはたったそれだけ。
なんだか生きていることが不自然に思えてくる。幸福から最も離れた地点。苦痛を味わい続ける為だけに作られた部屋のようだ。
鉄格子の扉がガシャンと閉められた。大人は乱雑に扉の鍵穴をひねると、どこかへ立ち去っていく。
埃が剝げてコンクリートの表面の一部が露わになった。ニキビまみれの肌みたいに、ぼこぼこしていた。
「こほん」
壁の埃を吸い込んで胸が苦しい。膝を抱えて辛そうにうずくまってみる。鉄格子は、冷たい表情をしてただ立っているだけ。ここには体調を心配してくれる人なんて、いないんだ。
部屋の隅に、薄茶色に変色した便器が置いてある。恐る恐る便器へ近づく。ポッカリと空いた穴の底には、洞窟のような果てしない闇が続いていた。
コツン。今、どこかで、うめき声が聞こえた気がする。
コツン、カラカラ。
ああ、間違いない。小石が床を転がるような乾いた音が、糞尿の香りに混じって、こちらに運ばれてきているのだ。鉄格子の隙間に顔をうずめて耳に手を当てる。音の発生源は……正面の部屋か。
体二つ分くらいの距離の先にある、もう一つの部屋。鏡写しのようなその場所から、コロン、カランと優しく骨をぶつけ合うような音が響いてくるのだ。
なにかが、潜んでいる。鉄格子の隙間をすり抜けるようなイメージで鏡写しの部屋を凝視する。徐々に目が暗闇に慣れてきた。鉄格子越しに、分厚いコンクリートの壁が見える。薄茶色に変色した便器が見える。それと、もう一つ見えた。
あれは、人間の背中だ。黒の布切れを巻いて、フックのように背中を丸めた人間が、達磨のような恰好で、汚物まみれの床の上にうずくまっているのだ。落ち武者のような頭髪。松の枝のように細くゆがんだ背筋。この距離では、年齢はおろか性別すらも分からない。
手垢まみれの小石を壁に投げつけ、コツンと跳ね返ってきたところを拾い上げる。ふたたび小石を壁に投げつけ、拾い上げる。コツン、カラカラ。コツン、カラカラ。枯れ果てた後ろ姿の人間は、この奇行を永遠と繰り返すのだ。
なんども小石を打ち付けられたコンクリートの壁が、まだら模様に剝げている。ダーツの的みたく、点々が壁の中央に密集していた。もしや部屋の住人は、小石を投げ続けてコンクリートの壁を破ろうとしているのではないか? 壁が削り取られる方が先か、あるいは、命が削り切られる方が先か……。
「なに見てるんだ?」
突然、どこからともなく声が聞こえてきて、私は思わず体をビクつかせた。
「あんた、人間だよな?」
鏡写しの部屋の住人は、相変わらず小石を壁に投げ続けている。こちらへ話しかけているようには見えない。
「聞こえるのか? おうい、ここだよ。地面だよ」
反射的に足元を見ると、鉄格子の前に、ふさふさとした灰色の毛をまとい長い尻尾を生やしたネズミが一匹。
「あなたが、喋っていたの?」
「そうさ。すごいや、ネズミと会話ができる人間なんて」
ネズミは、嬉しそうに鼻をヒクつかせて言う。
ネズミと会話してはいけない。そんな命令、大人の口から聞いた覚えはなかった。足元の彼、もしくは彼女とならば、会話できるのだ。
「こんにちは、ネズミさん。私の名前は……ごめんなさい、薬で忘れちゃって、思い出せない」
「君の名前は『二十九番』だよ。そこに住む二十九番目の人間。だから、二十九番」
そんな些細なことで名前を決めてしまうなんて。なんだか美しさに欠けていると思った。
「前の人が気になるのかい? 名前は、たしか『十一番』だっけ。可哀想に。ここに来た時からずっと、ああして小石と戯れている。下水道中にコロコロ小石の音が響き渡って眠れやしないんだ」
ネズミは、素早い動作で鉄格子を登ると、吊り下げられた電球の傘にピョンと飛び乗った。ゆら、ゆら。ブランコのように電球が揺れる。
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