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第4話
4
そうしてA社との最終面談日。
今後我が社と取引が行われるかどうかが決まる日。
出発前の糸川と、会議室でふたり、プレゼン用にまとめた資料の最終確認を行なっていた。
今回、アシスタントは同伴せず、先方に向かうのは部長と糸川の二人だ。
つまり命運は糸川にかかっているということになる。
「データはこれで全部です。あと手土産に用意した菓子折りが……」
百貨店の紙袋を引き寄せていると「なあ」と固い声が響いた。
普段以上にスーツをビシッと決めて、髪も綺麗にセットしているけれど、さすがの糸川も、いつもに比べて強張った顔をしているように見えた。
「なにか?」
不足があっただろうか、と考えていると「そうじゃなくて」と緩く手を掴まれた。
糸川の指先が氷のように冷たい。珍しいな、と思った。
「ちょっとだけ……励ましてくんない? 彼女として」
そう言われて、目を瞬かせる。
会社で何を言ってるの、と叱咤することもできたけれど、そうしなかったのは、いつになく糸川の声に張りがなかったからだ。
目の前の顔をじっと見つめる。切れ長の瞳が少しだけ腫れぼったい。
糸川でも緊張して眠れない、なんてことがあるのだろうか。
「大丈夫……でしょ」
「なんだよ、それ」
「糸川なら」
そう言うと、糸川が息を呑んだ。
掴まれた手を解き、少しだけ青白く見える頬に指を添える。手だけではなく、頬も少しだけ冷たかった。
吸い寄せられるように、自然と顔が近づいていく。
糸川が目を閉じる。
イケメンはまつ毛も長いんだな、とぼんやり考えているうちに、そっと唇を押し当てる。
頭のなかが甘く痺れるのを感じた。
啄むように、何度か口付け、そっと離れる。
ごく近くにある糸川の唇に紅が移っていて、それが自分が取った行動を突きつけてくるようだった。
「終わり?」
目を開けた糸川がイタズラっぽく笑う。
「あ、当たり前でしょ!」
自分からキスをしておいて弁解もできない。しどろもどろになる私を見て、糸川は満足そうに笑った。
「嘘。サンキュ。頑張れそう」
そう言って、大きな手がわしゃわしゃと頭を撫でてくる。
こんなこと、絶対にだめなはずなのに。
「……ちゃんと口紅落としてから行ってね」
そんなわかりきった忠告をするだけで精一杯だった。
糸川と部長が戻ってきたのは、定時を少し過ぎた頃だった。
特に急ぎの作業があったわけではないけれど、気になってオフィスに残っていたのだ。
商談は無事上手くいったらしく、残っていた社員たちにもみくちゃにされる糸川を無言で眺めていた。
声をかける間もなく社長室に報告へ向かう糸川を見送って、そろそろ帰ろうかと帰り支度を始めたときだった。
スマホが見慣れぬ番号からメッセージを受信している。
スパムかもしれない、と用心深くメッセージを開くと、
――もし急いでないなら待ってて。
糸川からだった。
――話したい。
続けてもう一通届く。
エレベーターで打っているにしても、さすがにもう着いてしまうだろう。
慌てて、わかった、と返信したけれど、それは既読にならなかった。
長丁場になるかもしれないから、『リフレッシュルームにいます』と送って、荷物をまとめてオフィスを出た。
さすがに定時を過ぎた時間だから、室内には誰もいなかった。
入ってすぐの椅子を引き、座って待つ。
しばらくかかるだろうと思っていたのに、バタバタという足音が聞こえてきたのは、十五分も経たないうちだった。
糸川が、肩で息をしながら姿を現す。
「早かったね……」
社長の元へ行って、こんなにすぐ終わると思わなかった。
「帰りに電話でも報告してるし。そんな何度も話すことねーのに」
「さすがに社長のところに行って、それは無理でしょ」
「相川に早く伝えたかった」
「私だって、みんなから報告聞いたよ?」
「じゃなくて」
「上手くいってよかったね。おめでとう」
そう伝えると、糸川が目を見開いた。
それから柔らかい笑みを向けられる。どきっと胸が高鳴った。
「相川のおかげ。本当に。まじで。提案してくれた資料もわかりやすいって褒められたし。本当。感謝してる。ありがとう」
まさかそんなふうに言ってもらえると思わず、胸のうちにじわじわと喜びが込み上げる。
「私は、別に」
「んなわけねーだろ。アシスタントなんだから」
「だって糸川が頑張ったんでしょ」
「そりゃ頑張ったけど、それはアシスタントのフォローあってだろ。あ、そういえばこのままいけば前期の社長賞狙えるって。金一封出たら、一緒にお祝いしようぜ」
「そんな、気が早すぎ」
「そうだけど。もし取れたら約束な」
そう言って、小指を差し出された。指切りなんて、いつぶりだろう。
「わかったから」
素直に小指を絡めると、糸川がへらりと破顔した。ぷらぷらも小指同士をゆすって、「絶対な」と最後にきゅっと力が込められた。
今後我が社と取引が行われるかどうかが決まる日。
出発前の糸川と、会議室でふたり、プレゼン用にまとめた資料の最終確認を行なっていた。
今回、アシスタントは同伴せず、先方に向かうのは部長と糸川の二人だ。
つまり命運は糸川にかかっているということになる。
「データはこれで全部です。あと手土産に用意した菓子折りが……」
百貨店の紙袋を引き寄せていると「なあ」と固い声が響いた。
普段以上にスーツをビシッと決めて、髪も綺麗にセットしているけれど、さすがの糸川も、いつもに比べて強張った顔をしているように見えた。
「なにか?」
不足があっただろうか、と考えていると「そうじゃなくて」と緩く手を掴まれた。
糸川の指先が氷のように冷たい。珍しいな、と思った。
「ちょっとだけ……励ましてくんない? 彼女として」
そう言われて、目を瞬かせる。
会社で何を言ってるの、と叱咤することもできたけれど、そうしなかったのは、いつになく糸川の声に張りがなかったからだ。
目の前の顔をじっと見つめる。切れ長の瞳が少しだけ腫れぼったい。
糸川でも緊張して眠れない、なんてことがあるのだろうか。
「大丈夫……でしょ」
「なんだよ、それ」
「糸川なら」
そう言うと、糸川が息を呑んだ。
掴まれた手を解き、少しだけ青白く見える頬に指を添える。手だけではなく、頬も少しだけ冷たかった。
吸い寄せられるように、自然と顔が近づいていく。
糸川が目を閉じる。
イケメンはまつ毛も長いんだな、とぼんやり考えているうちに、そっと唇を押し当てる。
頭のなかが甘く痺れるのを感じた。
啄むように、何度か口付け、そっと離れる。
ごく近くにある糸川の唇に紅が移っていて、それが自分が取った行動を突きつけてくるようだった。
「終わり?」
目を開けた糸川がイタズラっぽく笑う。
「あ、当たり前でしょ!」
自分からキスをしておいて弁解もできない。しどろもどろになる私を見て、糸川は満足そうに笑った。
「嘘。サンキュ。頑張れそう」
そう言って、大きな手がわしゃわしゃと頭を撫でてくる。
こんなこと、絶対にだめなはずなのに。
「……ちゃんと口紅落としてから行ってね」
そんなわかりきった忠告をするだけで精一杯だった。
糸川と部長が戻ってきたのは、定時を少し過ぎた頃だった。
特に急ぎの作業があったわけではないけれど、気になってオフィスに残っていたのだ。
商談は無事上手くいったらしく、残っていた社員たちにもみくちゃにされる糸川を無言で眺めていた。
声をかける間もなく社長室に報告へ向かう糸川を見送って、そろそろ帰ろうかと帰り支度を始めたときだった。
スマホが見慣れぬ番号からメッセージを受信している。
スパムかもしれない、と用心深くメッセージを開くと、
――もし急いでないなら待ってて。
糸川からだった。
――話したい。
続けてもう一通届く。
エレベーターで打っているにしても、さすがにもう着いてしまうだろう。
慌てて、わかった、と返信したけれど、それは既読にならなかった。
長丁場になるかもしれないから、『リフレッシュルームにいます』と送って、荷物をまとめてオフィスを出た。
さすがに定時を過ぎた時間だから、室内には誰もいなかった。
入ってすぐの椅子を引き、座って待つ。
しばらくかかるだろうと思っていたのに、バタバタという足音が聞こえてきたのは、十五分も経たないうちだった。
糸川が、肩で息をしながら姿を現す。
「早かったね……」
社長の元へ行って、こんなにすぐ終わると思わなかった。
「帰りに電話でも報告してるし。そんな何度も話すことねーのに」
「さすがに社長のところに行って、それは無理でしょ」
「相川に早く伝えたかった」
「私だって、みんなから報告聞いたよ?」
「じゃなくて」
「上手くいってよかったね。おめでとう」
そう伝えると、糸川が目を見開いた。
それから柔らかい笑みを向けられる。どきっと胸が高鳴った。
「相川のおかげ。本当に。まじで。提案してくれた資料もわかりやすいって褒められたし。本当。感謝してる。ありがとう」
まさかそんなふうに言ってもらえると思わず、胸のうちにじわじわと喜びが込み上げる。
「私は、別に」
「んなわけねーだろ。アシスタントなんだから」
「だって糸川が頑張ったんでしょ」
「そりゃ頑張ったけど、それはアシスタントのフォローあってだろ。あ、そういえばこのままいけば前期の社長賞狙えるって。金一封出たら、一緒にお祝いしようぜ」
「そんな、気が早すぎ」
「そうだけど。もし取れたら約束な」
そう言って、小指を差し出された。指切りなんて、いつぶりだろう。
「わかったから」
素直に小指を絡めると、糸川がへらりと破顔した。ぷらぷらも小指同士をゆすって、「絶対な」と最後にきゅっと力が込められた。
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