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第8話
5
珍しく、糸川からの誘いを断った金曜日だった。
最近、誘われれば二つ返事でOKの返事を返していたから、「ごめん」と伝えたときに、糸川がかすかに傷ついたような表情を見せて、とても悪いことをした気になった。
だから聞かれてもいないのに、断った理由を説明してしまう。
「金曜、久しぶりにライブがあって、ミトも出るから……」
前回行ったライブからすでに三ヶ月以上経っていた。
今回は東京のみで開催のライブだ。全国のファンが集うから、そこそこ倍率の高いチケットだった。
なんとか先着で勝ち取ったそのライブは、私のここ最近の頑張る活力でもあった。
「あー……。まあ、じゃあ仕方ねえなあ」
糸川はそう言って苦笑いを浮かべている。
「ごめん」
「大丈夫。なんかもうライブってはっきり言われた方がいっそいい気がしてきた」
「え?」
「知らないやつと会ったり遊びに行ったりする方が不安じゃん」
そもそも遊びに行くような友達もいないから、無駄な心配なのに。
それでも糸川が時々見せる独占欲を、心地よく受け入れてしまう時点で、私の気持ちはとっくに傾いていたのだ。
だけど――。
糸川との仕事だけに集中できればいいけれど、会社員としてはそうも言ってられない。
ただでさえ私がA社を優先するようになって、その他の業務をギリギリのところで回しているのだ。できることは率先して手を挙げなければ、とは思っていた。
それはつまり、吉野のお目付け役を担当する、ということだ。
吉野はとにかくひとつひとつの仕事をこなす速度が遅い。丁寧、と言えるレベルは超えていた。けれど「急いだらミスしちゃいます~」と言って全く悪びれない。指導する同僚たちの苛立ちは募るばかりだった。
先輩が部長に「さすがに勤務態度が酷すぎる」と直談判したらしいけれど、曖昧な答えしかもらえなかったと憤っていた。
いよいよ縁故採用の線が濃厚となり、アシスタントたちの中では、大手取引先の代表の娘らしい、とか、いや娘じゃなくて孫らしい、とか、果ては社長の隠し子らしい、なんて噂まで出回る始末だった。そうでもないと、上のこの対応は納得できない。
糸川が客先に出ている間に、頼まれていたデータをまとめ、そろそろ吉野の進捗を確認するか、と思ったときだった。
「せんぱーい、届いたメールってどうすればいいですかあ?」と間延びした声がオフィス内に響いた。
今まさに、話をしなければと思っていた吉野本人の声。タイミングが良いんだか悪いんだかわからないまま、隣のパソコンを覗き込む。その時点で、違和感に気づくべきだった。
商談を行うのは営業だが、先方の秘書やアシスタントを通してのアポ取りや、資料の送付は私たちが直接やりとりすることもあった。
でも吉野のスキルではあまりに危険だから、直接対応の役割からは外し、あくまでサポート業務だけしかさせていないはずだった。
「今日の会食につきまして……」
吉野の言うメールに素早く目を走らせる。どうやら今日予定されているらしい会食についての連絡だった。馴染みのある社名が添えられている。
佐藤さんが担当している会社で、当初は私もアシスタントとしてついていた。取引が軌道に乗るまで、一緒に訪問したこともある。メールの署名を見て、先方の担当は変わっていないのだな、と懐かしさを覚えた。
「これ、佐藤さんに転送して。で、今日のことだから口頭でも説明して……」
佐藤さんは自席にいるものの、誰かと電話中だった。
取り急ぎメールだけ転送してもらい、電話が終わるのを待つ。
「待ってる間、こっちのまとめやっちゃおう」
そう言って、吉野の肘の下敷きになっている資料をひっぱりだす。ファイルから今にも溢れおちそうな資料の束は、紙の端がめくれていた。
吉野が「え~?」と不満そうな声をあげる。仕事が遅い一端を垣間見てしまった気がする。
ため息を飲み込みながら、根気強く横から指示を出していく。
ちらりと視界に入った自分のスマホが、何の着信も告げていないことに、少しだけ喉の奥がざらついた。自分から断ったのに。
糸川との仕事ぶりとは雲泥の差だ。これで、給料をもらっているのだと思うと腹立たしい。
これなら確かに縁故採用の方がマシかも、と私も思うようになっていた。
これで通常通り入社試験を受けて給料をもらっているのだとしたら、会社に対しても疑念を抱いてしまいそうだ。彼女の一時間分の給料を捻出するために、いったいどれだけの仕事をこなせば良いのだろう。計算しそうになって、慌てて思考を引き戻した。
最近、誘われれば二つ返事でOKの返事を返していたから、「ごめん」と伝えたときに、糸川がかすかに傷ついたような表情を見せて、とても悪いことをした気になった。
だから聞かれてもいないのに、断った理由を説明してしまう。
「金曜、久しぶりにライブがあって、ミトも出るから……」
前回行ったライブからすでに三ヶ月以上経っていた。
今回は東京のみで開催のライブだ。全国のファンが集うから、そこそこ倍率の高いチケットだった。
なんとか先着で勝ち取ったそのライブは、私のここ最近の頑張る活力でもあった。
「あー……。まあ、じゃあ仕方ねえなあ」
糸川はそう言って苦笑いを浮かべている。
「ごめん」
「大丈夫。なんかもうライブってはっきり言われた方がいっそいい気がしてきた」
「え?」
「知らないやつと会ったり遊びに行ったりする方が不安じゃん」
そもそも遊びに行くような友達もいないから、無駄な心配なのに。
それでも糸川が時々見せる独占欲を、心地よく受け入れてしまう時点で、私の気持ちはとっくに傾いていたのだ。
だけど――。
糸川との仕事だけに集中できればいいけれど、会社員としてはそうも言ってられない。
ただでさえ私がA社を優先するようになって、その他の業務をギリギリのところで回しているのだ。できることは率先して手を挙げなければ、とは思っていた。
それはつまり、吉野のお目付け役を担当する、ということだ。
吉野はとにかくひとつひとつの仕事をこなす速度が遅い。丁寧、と言えるレベルは超えていた。けれど「急いだらミスしちゃいます~」と言って全く悪びれない。指導する同僚たちの苛立ちは募るばかりだった。
先輩が部長に「さすがに勤務態度が酷すぎる」と直談判したらしいけれど、曖昧な答えしかもらえなかったと憤っていた。
いよいよ縁故採用の線が濃厚となり、アシスタントたちの中では、大手取引先の代表の娘らしい、とか、いや娘じゃなくて孫らしい、とか、果ては社長の隠し子らしい、なんて噂まで出回る始末だった。そうでもないと、上のこの対応は納得できない。
糸川が客先に出ている間に、頼まれていたデータをまとめ、そろそろ吉野の進捗を確認するか、と思ったときだった。
「せんぱーい、届いたメールってどうすればいいですかあ?」と間延びした声がオフィス内に響いた。
今まさに、話をしなければと思っていた吉野本人の声。タイミングが良いんだか悪いんだかわからないまま、隣のパソコンを覗き込む。その時点で、違和感に気づくべきだった。
商談を行うのは営業だが、先方の秘書やアシスタントを通してのアポ取りや、資料の送付は私たちが直接やりとりすることもあった。
でも吉野のスキルではあまりに危険だから、直接対応の役割からは外し、あくまでサポート業務だけしかさせていないはずだった。
「今日の会食につきまして……」
吉野の言うメールに素早く目を走らせる。どうやら今日予定されているらしい会食についての連絡だった。馴染みのある社名が添えられている。
佐藤さんが担当している会社で、当初は私もアシスタントとしてついていた。取引が軌道に乗るまで、一緒に訪問したこともある。メールの署名を見て、先方の担当は変わっていないのだな、と懐かしさを覚えた。
「これ、佐藤さんに転送して。で、今日のことだから口頭でも説明して……」
佐藤さんは自席にいるものの、誰かと電話中だった。
取り急ぎメールだけ転送してもらい、電話が終わるのを待つ。
「待ってる間、こっちのまとめやっちゃおう」
そう言って、吉野の肘の下敷きになっている資料をひっぱりだす。ファイルから今にも溢れおちそうな資料の束は、紙の端がめくれていた。
吉野が「え~?」と不満そうな声をあげる。仕事が遅い一端を垣間見てしまった気がする。
ため息を飲み込みながら、根気強く横から指示を出していく。
ちらりと視界に入った自分のスマホが、何の着信も告げていないことに、少しだけ喉の奥がざらついた。自分から断ったのに。
糸川との仕事ぶりとは雲泥の差だ。これで、給料をもらっているのだと思うと腹立たしい。
これなら確かに縁故採用の方がマシかも、と私も思うようになっていた。
これで通常通り入社試験を受けて給料をもらっているのだとしたら、会社に対しても疑念を抱いてしまいそうだ。彼女の一時間分の給料を捻出するために、いったいどれだけの仕事をこなせば良いのだろう。計算しそうになって、慌てて思考を引き戻した。
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