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第10話
1
「おはようございます」
「……おはよ」
休み明け、糸川のデスクに資料を持っていくと、一瞬こちらを見てすぐに目を逸らされた。
いつもはじっとこちらを見てくるくせに、どうしたのだろう。そう思いながら、手元の資料について説明を続けようとすると、
「ありがとう。確認しておきます」
置いておいて、とデスクに置かれたトレイを指さされ、慌ててそこに入れた。
いつも必ず手渡しで受け取ってくれるのに?
糸川のデスクの上には、要確認の資料を入れておくトレイが置かれていた。そこには常に大量のファイルが重なっていて、すごい仕事量だな、と思ってはいたのだ。
でも私が作った資料は、A社絡みのものが多いせいか、受け取ってすぐに確認してくれていたのに。
つと顔を逸らされたことも引っかかって、午前中はなかなか集中できなかった。
キーボードを叩く手が止まるたび、無意識のうちに糸川のデスクに視線を流してしまう。けれど今日は午前中から営業に出ているらしく、その姿を視界に収めることはできなかった。
A社の案件は、週に一回ふたりでミーティングを行なっていたけれど、それも延期で、と言われた。
社内チャットでその連絡が飛んできたとき、思わずペン取り落としてしまった。足元をころころと転がるボールペンを拾い上げて見返した画面には、そっけない一文が浮かんでいる。
喉の奥がひりついて、何度も唾を飲み込む。
『何か、ありましたか?』
キーボードに爪を引っ掛けながらそう返信したものの、まだ先方から見積もり依頼が届いていないから、という理由を伝えられたら、従うしかなかった。
先日のブッキングミスが問題となり、吉野はどんな小さな内容でも単独で仕事を受け持つことはなくなった。
アシスタントは同時に複数の案件を担当しているので、それぞれが一つずつ吉野をサブにつけて仕事を教え直す、ということで話がまとまったらしい。つまり、研修期間に逆戻りしたようなものだ。正直やってられない、という意見も上がったけれど、この前のようなトラブルが起きるよりはマシということになってしまった。
せめて今年中には一人立ちさせたい、というのが上の意向らしいけれど、まあ無理だろうというのが私たちの予想だった。
ずっしりと重たい蓋で押さえ込まれたように気が重い。
でもそれは、吉野のせいだけじゃなかった。
糸川と、話す時間がないのだ。
仕事だけではなく、プライベートでも。
今週に入ってから、休日に出かける誘いはおろか、食事の誘いもなかった。ただの一度も。
別に、約束しているわけではない。
少し前の状況に戻っただけのはずなのに。
急に連絡がなくなったから、戸惑っているだけだ。自分にそう言い聞かせる。
週明け鏡の前で途方に暮れた首筋の赤い痕は、すっかり消えてしまった。
ひとり、薄暗い洗面台の前で白い皮膚をなぞる。もうどこに痕跡があったのか、その場所さえわからなくなってしまった。
「……おはよ」
休み明け、糸川のデスクに資料を持っていくと、一瞬こちらを見てすぐに目を逸らされた。
いつもはじっとこちらを見てくるくせに、どうしたのだろう。そう思いながら、手元の資料について説明を続けようとすると、
「ありがとう。確認しておきます」
置いておいて、とデスクに置かれたトレイを指さされ、慌ててそこに入れた。
いつも必ず手渡しで受け取ってくれるのに?
糸川のデスクの上には、要確認の資料を入れておくトレイが置かれていた。そこには常に大量のファイルが重なっていて、すごい仕事量だな、と思ってはいたのだ。
でも私が作った資料は、A社絡みのものが多いせいか、受け取ってすぐに確認してくれていたのに。
つと顔を逸らされたことも引っかかって、午前中はなかなか集中できなかった。
キーボードを叩く手が止まるたび、無意識のうちに糸川のデスクに視線を流してしまう。けれど今日は午前中から営業に出ているらしく、その姿を視界に収めることはできなかった。
A社の案件は、週に一回ふたりでミーティングを行なっていたけれど、それも延期で、と言われた。
社内チャットでその連絡が飛んできたとき、思わずペン取り落としてしまった。足元をころころと転がるボールペンを拾い上げて見返した画面には、そっけない一文が浮かんでいる。
喉の奥がひりついて、何度も唾を飲み込む。
『何か、ありましたか?』
キーボードに爪を引っ掛けながらそう返信したものの、まだ先方から見積もり依頼が届いていないから、という理由を伝えられたら、従うしかなかった。
先日のブッキングミスが問題となり、吉野はどんな小さな内容でも単独で仕事を受け持つことはなくなった。
アシスタントは同時に複数の案件を担当しているので、それぞれが一つずつ吉野をサブにつけて仕事を教え直す、ということで話がまとまったらしい。つまり、研修期間に逆戻りしたようなものだ。正直やってられない、という意見も上がったけれど、この前のようなトラブルが起きるよりはマシということになってしまった。
せめて今年中には一人立ちさせたい、というのが上の意向らしいけれど、まあ無理だろうというのが私たちの予想だった。
ずっしりと重たい蓋で押さえ込まれたように気が重い。
でもそれは、吉野のせいだけじゃなかった。
糸川と、話す時間がないのだ。
仕事だけではなく、プライベートでも。
今週に入ってから、休日に出かける誘いはおろか、食事の誘いもなかった。ただの一度も。
別に、約束しているわけではない。
少し前の状況に戻っただけのはずなのに。
急に連絡がなくなったから、戸惑っているだけだ。自分にそう言い聞かせる。
週明け鏡の前で途方に暮れた首筋の赤い痕は、すっかり消えてしまった。
ひとり、薄暗い洗面台の前で白い皮膚をなぞる。もうどこに痕跡があったのか、その場所さえわからなくなってしまった。
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