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第11話
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糸川と必要最低限の業務以外で会話を交わさなくなって、半月以上経っていた。
私の日常はすっかり静かで無色になった。薄くなった爪先が視界に入る。
白っぽいそれは、引っかければ表皮が剥がれてしまいそうなほど浮いていた。
わずか数ヶ月前に戻っただけのはずなのに。
ミトを応援していれば、それだけで心は晴れたはずなのに。
今では大好きな明るい笑顔さえも糸川を思い出してしまう。
糸川は相変わらず吉野と頻繁に会っているようだった。
昼休みになるたび、二人がリフレッシュルームで並んで座る光景が当たり前になっている。そんな二人を見ているのが嫌で、私はリフレッシュルームに寄り付かなくなった。
会社近くの公園のベンチで一人お弁当を食べ、そのままデスクに戻る。
そのうち食欲も減ってきて、ここ最近はお弁当を持っていくことすら面倒になった。コンビニで買ったオレンジジュースを啜りながら、ぼんやりと考える。
大学時代に裏切られることを知ってから、誰も信じないと決めていたのに。よりによって、大嫌いな糸川をこんなに信じてしまったのは、いつからだろう。
いや、近づいた糸がまた離れただけで、別に裏切られたわけではない。
被害者みたいな顔をするのは嫌だった。
息を吸う。草花の香りを吸い込もうと思ったのに、公園には毎日キッチンカーが出ていて、香ばしい匂いが漂ってくる。
いろいろなお店に連れていってもらったけれど、一番印象に残っているのは、糸川が作ってくれた料理だったかもしれない。
あれ以来、糸川の家には招かれていないな。
どう切り替えようとしても、糸川と過ごした日々を思い返してしまう。
自分の手で顔を覆って、ため息を吐いた。
私のことを好きでなくなったなら、はっきりそう宣告してほしかった。
そう思って――、ふと気づく。
「付き合わない?」と言われたけれど、別に糸川自身に好きだと言われたわけではない。ただ、「告白を断るのが面倒になったから彼女がほしい」と言われただけで。
社内にいるちょうど良い女が私だっただけ。
だから糸川の彼女は、別に私じゃなくていい。
セックスもまともにできない女と付き合う利点なんて、糸川には最初からなかったのかも。
そう考えると、合点がいった。
糸川が会っても触れてこなかったことも、キスを避けていたことも。
なのにこの前、あろうことか自分から糸川を誘うような真似をしてしまった。
頭を殴られるような衝撃が走った。糸川は迷惑だったのだ。嫌な気持ちにさせたのは、私のほう。優しく受け入れてくれる腕に甘えたのは私だ。
はっきり、させなければ。
胸に使命感のようなものが沸いてくる。
まわりには、私たちは別れた、と認識してもらわなければならない。でないと、まるで糸川が浮気しているように思われてしまう。
そんなひとじゃないのに。
自分の右手を見つめた。少しだけ細くなった指。もう何年も嵌め続けているシルバーリング。
いつの間にか、社内では糸川からの贈り物として通っている。
会社では外すことにしよう。そう決めて、指輪を抜き取る。枷の取れた指は、どこか心許ない。
皮膚を押し上げるようについたリングの痕を撫でる。久しぶりに触れる空気に馴染ませるように。
ぬるい銀の環を、そのままバッグの奥底にしまった。
私の日常はすっかり静かで無色になった。薄くなった爪先が視界に入る。
白っぽいそれは、引っかければ表皮が剥がれてしまいそうなほど浮いていた。
わずか数ヶ月前に戻っただけのはずなのに。
ミトを応援していれば、それだけで心は晴れたはずなのに。
今では大好きな明るい笑顔さえも糸川を思い出してしまう。
糸川は相変わらず吉野と頻繁に会っているようだった。
昼休みになるたび、二人がリフレッシュルームで並んで座る光景が当たり前になっている。そんな二人を見ているのが嫌で、私はリフレッシュルームに寄り付かなくなった。
会社近くの公園のベンチで一人お弁当を食べ、そのままデスクに戻る。
そのうち食欲も減ってきて、ここ最近はお弁当を持っていくことすら面倒になった。コンビニで買ったオレンジジュースを啜りながら、ぼんやりと考える。
大学時代に裏切られることを知ってから、誰も信じないと決めていたのに。よりによって、大嫌いな糸川をこんなに信じてしまったのは、いつからだろう。
いや、近づいた糸がまた離れただけで、別に裏切られたわけではない。
被害者みたいな顔をするのは嫌だった。
息を吸う。草花の香りを吸い込もうと思ったのに、公園には毎日キッチンカーが出ていて、香ばしい匂いが漂ってくる。
いろいろなお店に連れていってもらったけれど、一番印象に残っているのは、糸川が作ってくれた料理だったかもしれない。
あれ以来、糸川の家には招かれていないな。
どう切り替えようとしても、糸川と過ごした日々を思い返してしまう。
自分の手で顔を覆って、ため息を吐いた。
私のことを好きでなくなったなら、はっきりそう宣告してほしかった。
そう思って――、ふと気づく。
「付き合わない?」と言われたけれど、別に糸川自身に好きだと言われたわけではない。ただ、「告白を断るのが面倒になったから彼女がほしい」と言われただけで。
社内にいるちょうど良い女が私だっただけ。
だから糸川の彼女は、別に私じゃなくていい。
セックスもまともにできない女と付き合う利点なんて、糸川には最初からなかったのかも。
そう考えると、合点がいった。
糸川が会っても触れてこなかったことも、キスを避けていたことも。
なのにこの前、あろうことか自分から糸川を誘うような真似をしてしまった。
頭を殴られるような衝撃が走った。糸川は迷惑だったのだ。嫌な気持ちにさせたのは、私のほう。優しく受け入れてくれる腕に甘えたのは私だ。
はっきり、させなければ。
胸に使命感のようなものが沸いてくる。
まわりには、私たちは別れた、と認識してもらわなければならない。でないと、まるで糸川が浮気しているように思われてしまう。
そんなひとじゃないのに。
自分の右手を見つめた。少しだけ細くなった指。もう何年も嵌め続けているシルバーリング。
いつの間にか、社内では糸川からの贈り物として通っている。
会社では外すことにしよう。そう決めて、指輪を抜き取る。枷の取れた指は、どこか心許ない。
皮膚を押し上げるようについたリングの痕を撫でる。久しぶりに触れる空気に馴染ませるように。
ぬるい銀の環を、そのままバッグの奥底にしまった。
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