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1章・ブリズベン
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つい数時間前まで、持ち物の中でもっとも重要だった灰色のダウンジャケットを脱ぎ捨て、礼一はふっと息をついた。
空調のよく聞いた空港内だ。中に着たTシャツだけではまだ肌寒さを感じる気温。それでも、日本の名残を少しでも早く消してしまいたかった。
今ではもう色あせてすら見えるジャケットを見下ろす。自然と笑いが浮かびあがってきて、思わずそれを噛み殺した。どうやら柄にもなく、浮かれているようだ。
5年ほど勤めていた会社を退職したのは、今からちょうど2ヶ月のことだった。一般的に一流企業と呼ばれる会社で、勤務地は東京都心のど真ん中。中途採用だったため、中小企業ではあり得ない無駄の多さにも、卒倒しそうなほどに採算の合わないプロジェクトにも、遅々として進まない会議にも心底うろたえたが、それでもすぐに心は麻痺した。それまでの企業とは比較にならない給料と好待遇は、常に自分の能力以上の仕事をしなければ認められない環境に身を置いていた礼一にとって、簡単に手放せない程度には魅力的だったのだ。
穏やかに過ぎてゆく日々と、たまり行く一方の貯金。
それでも自分の人生のためには、それらは手放すべきものだったと――理不尽な思いと悔しさの中にあっても――それだけは素直に思えた。
オーストラリア特有の、癖のある英語に少しだけ戸惑いながら税関を抜けると、すぐに肌ではなく、目がその熱気を感じ取り、ここが南半球であるのだと心の底から実感させられた。窓の向こうに輝く空の色は、真夏のそれでしかあり得ないコバルトブルーで、今が1月であると言う現実感をあっという間に奪いさっていく。
この地で、礼一は少なくともビザが切れる1年間は生きていくつもりでいた。
外に出る前に水でも飲もうと空港の売店に立ち寄り――うわさ通りのその価格の高さに思い切り眉をしかめた。ここでの生活に一抹の不安がよぎる。
だがその些細な不安は、ドアの向こうから吹き抜けてきた熱風に、溶けて消えた。
まずはホテルに行こうと辺りを見渡し、目につく範囲で一番優しそうな人に声をかける。
「すみません、電車に乗りたいのですが、駅はどちらでしょうか」
礼一の声に、少なくとも礼一の2倍はありそうな白髪の男性が振り返った。
「やあ、ホリデーかい。行き先はどこだ。」
「ブリズベンです。」
「良い選択だ。」男性が片方の眉をくいっと引き上げ、にやりと笑う。
「大きすぎず、そう田舎でもない。静かな良い街だよ。――駅はあっちだ。表示があるんだが見えるかい?」
「ああ、本当だ。ありがとうございます。ブリズベンにはよく行かれるんですか?」
「以前住んでいたよ。なかなか雰囲気のある街だ。河に囲まれた部分が中心街でね。」この国の気質を表しているような、穏やかで余裕のある微笑み。その暖かさが、日本を出たことでわずかに緊張をしていた礼一の心をなだめていく。
「河を走る無料の船があるから、利用してみると良い。良い思い出になるだろう」
「ありがとうございます、きっとそうします。」
心からの感謝を込めて微笑んでから、礼一は男性に別れを告げ、駅に向かって歩き始めた。
耳に触れる言語が、すべて英語なこと。
切符一つ、改札一つに、いちいち戸惑うこと。
車窓からの風景。
そのすべてに否応なく高揚感を掻き立てられながら、礼一はこれから生活していく街、ブリズベンにたどりついたのだった。
空調のよく聞いた空港内だ。中に着たTシャツだけではまだ肌寒さを感じる気温。それでも、日本の名残を少しでも早く消してしまいたかった。
今ではもう色あせてすら見えるジャケットを見下ろす。自然と笑いが浮かびあがってきて、思わずそれを噛み殺した。どうやら柄にもなく、浮かれているようだ。
5年ほど勤めていた会社を退職したのは、今からちょうど2ヶ月のことだった。一般的に一流企業と呼ばれる会社で、勤務地は東京都心のど真ん中。中途採用だったため、中小企業ではあり得ない無駄の多さにも、卒倒しそうなほどに採算の合わないプロジェクトにも、遅々として進まない会議にも心底うろたえたが、それでもすぐに心は麻痺した。それまでの企業とは比較にならない給料と好待遇は、常に自分の能力以上の仕事をしなければ認められない環境に身を置いていた礼一にとって、簡単に手放せない程度には魅力的だったのだ。
穏やかに過ぎてゆく日々と、たまり行く一方の貯金。
それでも自分の人生のためには、それらは手放すべきものだったと――理不尽な思いと悔しさの中にあっても――それだけは素直に思えた。
オーストラリア特有の、癖のある英語に少しだけ戸惑いながら税関を抜けると、すぐに肌ではなく、目がその熱気を感じ取り、ここが南半球であるのだと心の底から実感させられた。窓の向こうに輝く空の色は、真夏のそれでしかあり得ないコバルトブルーで、今が1月であると言う現実感をあっという間に奪いさっていく。
この地で、礼一は少なくともビザが切れる1年間は生きていくつもりでいた。
外に出る前に水でも飲もうと空港の売店に立ち寄り――うわさ通りのその価格の高さに思い切り眉をしかめた。ここでの生活に一抹の不安がよぎる。
だがその些細な不安は、ドアの向こうから吹き抜けてきた熱風に、溶けて消えた。
まずはホテルに行こうと辺りを見渡し、目につく範囲で一番優しそうな人に声をかける。
「すみません、電車に乗りたいのですが、駅はどちらでしょうか」
礼一の声に、少なくとも礼一の2倍はありそうな白髪の男性が振り返った。
「やあ、ホリデーかい。行き先はどこだ。」
「ブリズベンです。」
「良い選択だ。」男性が片方の眉をくいっと引き上げ、にやりと笑う。
「大きすぎず、そう田舎でもない。静かな良い街だよ。――駅はあっちだ。表示があるんだが見えるかい?」
「ああ、本当だ。ありがとうございます。ブリズベンにはよく行かれるんですか?」
「以前住んでいたよ。なかなか雰囲気のある街だ。河に囲まれた部分が中心街でね。」この国の気質を表しているような、穏やかで余裕のある微笑み。その暖かさが、日本を出たことでわずかに緊張をしていた礼一の心をなだめていく。
「河を走る無料の船があるから、利用してみると良い。良い思い出になるだろう」
「ありがとうございます、きっとそうします。」
心からの感謝を込めて微笑んでから、礼一は男性に別れを告げ、駅に向かって歩き始めた。
耳に触れる言語が、すべて英語なこと。
切符一つ、改札一つに、いちいち戸惑うこと。
車窓からの風景。
そのすべてに否応なく高揚感を掻き立てられながら、礼一はこれから生活していく街、ブリズベンにたどりついたのだった。
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