竜と水面に光る街

ひかり

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2章・日常の始まり

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「ハオラン、ぼくは今日13:00から1時間休憩をいただきます。」

 ドアを開けると同時に投げかけられた言葉に、今日もきっちり15分遅刻をしてきたハオランは、やや面食らったようだった。

 「お、おお。」のどの奥で返事をしながら、ハオランはバックパックを肩から下ろす。珍しく自ら片手をあげたので、その手のひらに向けて礼一は雑巾を投げた。

 カウンター周りの机と棚を拭きながら、ハオランが口を開く。「珍しいな、外で飯食うのか?」

 「ええ、まあ。」そう言って、ふとハオランの方を見る。「そう言えばハオラン、あなたはこの辺でどこかおすすめのお店を知りませんか?」

 「おすすめ?昼飯食うのにって意味か?」

 「そうです。量や値段の安さよりも、おしゃれで、クリーンで、うるさくはないけれども、話し込んでも嫌がられないような......。」礼一は、うーんと一瞬考え込む。「――そうだ、例えばあなたが彼女を連れて行くような店を教えてください。」


 13:00になると同時に店を出た礼一は、ハオランに勧められた店の位置をスマホの地図上に表示させながら、待ち合わせ場所へと急いだ。

 「やあ、ターニャ。ごめんなさい、待たせたみたいですね。」明るい髪を緩やかに巻いた迫力の美人、ターニャの姿を見つけると、礼一は足早にそのそばへと駆け寄った。

 「ハイ、レーイチ。13:00に店を抜けるって言ってたから、もう少しかかると思ってたわ。急いできてくれたのね。」にっこりと笑いながら、ありがとう、という。

 いい子だなあと思いながら、礼一も穏やかに微笑み返した。

 「一応店は決めてきたのですが、あなたに行きたい店があるのなら、そこに行きましょう。」

 「そのお店って、なに屋さん?」

 「フレンチです。クイーンストリート沿いにある――。」

 礼一がそう言った瞬間、ターニャが目を輝かせながら胸の前で手を組んだ。

 「レーイチ!素敵!名店じゃない!ランチもやっていたのね。」

 「ええ、そうみたいです。」彼女に異論がなさそうなので、礼一はほっとしながら店の方へと足を向けた。「食事前にこのようなことを言うのはマナー違反かもしれないのですが......ターニャ、今日は当然ですが僕がごちそうさせていただきます。ですから、どうか遠慮なく好きなものを食べてくださいね。」

 「ああ、レーイチ。わたしを口説いて一体どうするつもりなの?」

 そう言って嬉しそうに飛び跳ねながら笑うターニャを見ていると、礼一まで嬉しくなってしまう。ひねくれ者の同僚は、意外にもまともな店を教えてくれたようで、礼一はまた少し彼に感謝したのだった。

 「それで、聞きたいことってどんなこと?」料理とワインを選び終え、ウェイターが立ち去った所で、ターニャが口を開いた。

 「2つ程あるのですが」聞きやすい質問と、聞きにくい質問が1つずつ。礼一はまず、聞きやすい方から聞くことにした。「ターニャ、あなたが見える動物ってどのような子たちですか?」

 礼一が尋ねると、ターニャは心持ち悲しそうに言った。「残念ながら、わたしは見えないの。みんながいる位置は結構はっきり分かるんだけど、姿形は全然。」そう言ってため息をついた。「今ではもう、コンプレックスってほどでもないんだけど、小さい頃は見える人達がうらやましかったわ。」

 「あなたの回りに見える人がいて、彼らの存在をあなたに教えてくれたということですか?」

 「うーん、そういうことになるわね。」アペタイザーが届いたので、2人そろっていったん口を閉じた。ウェイターが立ち去るのを確認して、ターニャが再び口を開く。「わたしの家、代々続く薬師の家系なの。一昔前は魔女と呼ばれた様なイメージ。分かる?」

 礼一は深くうなずいた。日本人にとっては古き悲しき歴史の象徴に過ぎない言葉が、実体を伴って目の前に現れた気がした。ターニャが続ける。

 「素質があれば、男でも女でも薬草の技術を継げるんだけど、その素質っていうのが、彼らのことが見えるかどうかってことだったの。」

 なぜ、と聞きかけて礼一は質問をかえた「――継ぎたかったのですか?ターニャ」

 「うん、すごく。小さい頃ね、本当に苦しくて、死んじゃうんじゃないかって思うような時だって、母が調合してくれた薬草の香りを吸い込んで、祖母が煎じてくれた薬を飲むと、すぐに体が楽になるの。魔法みたいだったわ。あんなのを間近で見続けちゃったら、憧れるなっていう方が無理。」

 「ターニャ......」そのまま、いうべき言葉が見つからずに礼一は困惑してしまった。いつの世にも、誰の身にも、理不尽と思える出来事は降り掛かるものだ。

 「気にしないで、レーイチ。昔の話よ」屈折を感じさせない笑顔でターニャが言ったので、礼一は何も言わず、ただ微笑み返した。

 「それで、もう一つの質問は?」

 ナイフとフォークを持つ手が一瞬止まったのが、自分でも分かった。これは本当に聞きづらい話なのだ。

 礼一は、聞きたいことを頭の中でまとめながら、口を開いた。「これは、あの子達のこととは関係ない、本当にごくプライベートな質問なんです。」途端にターニャの目が、きらきらと輝く。「誰かに話してもらっても問題はないのですが、ぼくがものすごく恥ずかしいので、できたら内密にしてもらえると嬉しいです。」

 そう告げると、ターニャがきゅっと顔を引き締めた。「あなたは恩人よ。絶対に話さないってこの血に誓うから、話してみてよ。」

 「そんなに大げさな話ではないんです、本当に。」ターニャのまじめな物言いに苦笑しながら礼一は続けた。「ちょっとこちらの恋愛事情について話を聞きたくて。」

 「恋愛!オーケイ、大好物よ。何でも話すわ。恋愛事情って、具体的にはどういうこと?」

 「そうですね、例えば......。」礼一は少し考える。「ぼくの国では、恋人になる境目には、たいていの場合、言葉があります。思いを告げて、相手が了承してくれたら恋人同士と呼ばれる関係になり、デートを重ねて、お互いの思いが高まったら、その、なんというか、関係を結ぶというのが一般的な流れです。」

 「関係?――ああ、セックスってこと?」

 言われて、礼一は顔を赤らめる。言い慣れていないわけではないが、日の明るい時間帯に、良いレストランで、うら若い女性にその言葉を口にされると、妙にうろたえてしまう。

 「もちろん、例外なんていくらでもありますが、この流れに首をかしげる人はあまりいないと思います。ただ以前、この流れは東アジア以外の地域ではあまり一般的ではないと聞いたことがあったので。」

 「うーん、理解できなくはないし、そんな風におつきあいする人たちだっていると思うけれど、わたしの回りにはいないかなあ。正直に言うと、ちょっと堅く感じる。」言いながら、ターニャはメインの最後の一口を口にした。「わたし達の場合は、いいな、と思ったらまずデートして、お互いのことを良く知ろうとするわ。もちろんセックスも含めて。この期間は、別の人とそれぞれデートをしてることも珍しくはないわね。」

 「セックスも含めて?」

 「うーん、まあそれは人それぞれだとは思うけど、含めてって人も多いわね。その相性が分からないうちに、恋人なんて決められないし。」

 なるほど、確かに日本とは少し価値観が違うようだ。

 「ちなみに、普通の友人がその恋人未満の関係に発展するきっかけって、やはりデートをするかどうかってことなのでしょうか?」

 「だいたいの場合はそうだけれど、そこもしっかりルールがあるわけじゃないの。お互い、何となく感じるメッセージみたいなもの、あるでしょう?例えばーー」ターニャが平然と言った「首筋を舐めるとか。」

 礼一は思わずデザートのスプーンを取り落としていた。すかさず新しいものを持ってきてくれたウェイターに力なく微笑んで礼を言う。

 昨晩のことで考え込んでいた自分がばからしくなっていた。友人から恋人未満の関係に進む方法が、そんなにカジュアルで、かつ――礼一の価値観からしたら――過激なら、クリスがついあんな行動をとってしまったとしても、おかしくはない気がした。

 なるほど、価値観の違いか。

 「ありがとう、ターニャ。よくわからなかった問題が解決したようです。」思わずほっとして、目の前の気のいい美人にお礼を言う。「疲れによる気の迷いだとは思うのですが、ぼくの友人の一人が、少し前に何となくそんな雰囲気を漂わせてきたことがあって。お互いにその気がないと思っていたので、少し困惑していたのです。ぼくが堅く考え過ぎていただけですね。」

 「え、それってどっち......」ターニャが言いかけた瞬間、礼一の背後で鋭く何かが動く気配がした。とっさに身をひねろうとしたが、相手の動きが思いのほか早く、そのまま襟首をつかまれる。

 「おれだ」

 聞き覚えのある声に、攻撃の手を止めた。顔を上げて顔を確認する。

 「ハオラン!」礼一とターニャの声が重なった。

 「何やってんのよこのストーカー!」

 「店はどうしたんです?!何のためにぼくが朝、1時間店を抜けるとあなたに伝えたと思っているんですか?!信じられません、ばか!」

 「ちゃんと鍵は閉めたぜ。それより、おれ分かっちゃったわ、いろいろ。」かけらも反省の色がない男が、にやにやと笑いながら満足げに言った。「あんたが引き止められた理由も含めて。」

 驚いて問いただそうとする礼一の口を遮ってから、ハオランが続けた。

 「明後日、ダニエルが一瞬ブリズベンに立ち寄るらしいから、あいつに説明させる。お前、予定空けとけよ。」
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