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3章・船上の邂逅
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クリスとハオランが何か叫んでいるのを背後に聞きながら、礼一は光るイルカの背中に乗って空を駆けていた。背景には冴え冴えとした月とオリオン座が輝き、向かう先には竜がいる。一体自分は何をしているのだろうと思わなくはなかったが、こんな光景は、今時珍しくはないと言い聞かせて、そんな思いを振り切った。
そう、ゲームやテレビの世界では珍しくない光景だ。イルカに乗って空を飛ぶ男の姿など、きっとありふれているに違いない。
そんなことを考えている間にも、竜が船に手をかけて、持ち上げようとしているのが見えた。礼一とイルカは慌ててその目の前に躍り出て、パチンパチンと黒い虫の様な文字を手でつぶしてみせる。その様子で意図を察したのだろう。竜が、渾身の力を振り絞って動作を停止し、礼一たちの前に首をもたげた。
その姿にありがとうと告げてから、礼一はイルカの背をなでる。「いーちゃん、重いだろう。あのヨットに降ろしてくれていいよ。」
イルカを思いやっての言葉だったが、当のイルカは聞こえない振りをしてすいすいとヨットから遠ざかっていく。どうやら、一度礼一を背にのせたら楽しくなってしまったらしい。そんなイルカの様子に苦笑しながら、礼一は目の前の文字を一つ潰した。
それは、本当に気の遠くなるような作業に思えた。それほどまでに竜にまとわりつく文字の数は多く、まるで黒い霧のようにうごめいている。それでも他に方法が思いつかない礼一は、ひたすら目の前の文字を一つ一つ潰していった。嫌な顔をしつつも噛み付いたり、尾びれで叩き落としたりと、礼一よりはるかに確実に文字を消していくイルカの助けもあり、15分ほど経つ頃には、かなり霧も晴れてくる。
ただ同時に、竜の気力もまた限界に近づいているのがひしひしと伝わってきていた。竜の足が持ち上がり、苦しげに震えながらまた静かに下ろされるのを見るたびに、礼一の背には焦りのためか暑さなのためかわからない冷たい汗がつたっていく。
一隻のボートがこちらに近づいてきたのは、まさにそのような時だった。頭の片隅で、誰かが様子を見に来たのだろうか、くらいのことは考えたかもしれない。ただ、この事態を乗り切ったら値段を気にせずビールを飲もう、というすばらしい未来と、間に合わなかった時の最悪の事態とを行き来する思考に、礼一は疲弊しきっていた。それ以上の注意を払う余裕などない。
ところが、そのボートから一人の男が立ち上がり、竜の背に飛び乗った瞬間、驚きのあまり思考の露が一気に晴れた。目を見張る礼一の目の前で、男は俊敏ながらも悠然とした足取りで頭の方へと着実に足を進めていく。それほど傾斜のない体勢を竜がとっているとはいえ、一体どんな運動神経をしているのだろう。信じられないことに、男は革靴を履いていた。
彼は礼一たちの近くまでやってくると足を止め、ちらりとこちらに顔を向けた。
「――無茶をする。」短い一言だった。だが、ぶれのない、深く低く落ち着いた声は、このような現実離れした事態の中で差し出された力強い命綱のように、心を揺さぶるほどの安心感を与えてくれた。礼一は半ば呆然と男を見つめながら、もう大丈夫なのだ、と思った。そう思わせる何かが、男にはあった。
彼はそのまま再び足を動かそうとして――一瞬躊躇するそぶりを見せた後で付け加える。「だがとても助かった。ありがとう。」
そう告げると、今度こそその均整のとれた体を無駄のない動きで動かしながら、竜の頭へと足を進めていった。
礼一とイルカが見守る中、男が竜の耳元に片膝を立てて座る。しばらくして、竜の周りを飛び回っていた文字が光をまといながらボロボロと崩れ始めた。その文字に代わって一瞬だけ、ターコイズブルーに輝く文字がいくつかポツポツと浮かんだが、それもまた月の光の中に消えていく。
それと同時に、それまでじっと身をこわばらせていた竜が大きく伸び上がる。慌てる男を無視して優雅に飛び去ろうとしたその生き物は、思い出したようにゆっくりと振り返り、礼一とイルカに向きなおった。穏やかになった淡い光から、感謝と喜びがあふれ出し、礼一とイルカを包む。
竜はそのままゆっくりと礼一に顔を寄せ、礼一などイルカごと一瞬で丸呑みにできそうな大きな口を彼の額にちょんと当てると、茶目っ気たっぷりに1回転してからどこかへと飛び去っていった。思わずその姿を目で追ったが、影すら一瞬で見えなくなっている。竜が立ち去るとともに吹き荒れていた風も穏やかになり、月は何事もなかったかのように静かに海を照らしていた。
――まるで夢でも見ていたような時間だった。
ぱしゃん、と大きく水を叩く音がして礼一は我に返る。見下ろすと、いつの間にか竜の背から飛び降りていたらしい男がヨットの方へと泳いでいるのが見えた。
「大丈夫ですか?」
「......この扱いの差だよ、まったく。」男は憮然とした表情で毒づいてから礼一を見上げ、そのまま眩しげに目を細める。「――これは、なかなか幻想的な光景だな。」
礼一は「自覚はあります」と苦笑し、そして改めて男の顔を見つめると静かに口を開いた。「あなたはこの子が見えるんですね。」
礼一の言葉に短く「ああ」と答えてから、男は思い出したようにぱっと顔を上げた。
「そうだ、申し訳ないんだが君、もうひと仕事頼まれてくれないか。」そう言ってヨットの方へと目を向ける。「ちょっとあの船の乗組員の様子を見てきてほしい。あいつにだいぶ揺さぶられたようだから。」
礼一は、はっと顔を引き締めた後で快諾し、イルカにヨットの近くまで行ってくれるようお願いした。
そう、ゲームやテレビの世界では珍しくない光景だ。イルカに乗って空を飛ぶ男の姿など、きっとありふれているに違いない。
そんなことを考えている間にも、竜が船に手をかけて、持ち上げようとしているのが見えた。礼一とイルカは慌ててその目の前に躍り出て、パチンパチンと黒い虫の様な文字を手でつぶしてみせる。その様子で意図を察したのだろう。竜が、渾身の力を振り絞って動作を停止し、礼一たちの前に首をもたげた。
その姿にありがとうと告げてから、礼一はイルカの背をなでる。「いーちゃん、重いだろう。あのヨットに降ろしてくれていいよ。」
イルカを思いやっての言葉だったが、当のイルカは聞こえない振りをしてすいすいとヨットから遠ざかっていく。どうやら、一度礼一を背にのせたら楽しくなってしまったらしい。そんなイルカの様子に苦笑しながら、礼一は目の前の文字を一つ潰した。
それは、本当に気の遠くなるような作業に思えた。それほどまでに竜にまとわりつく文字の数は多く、まるで黒い霧のようにうごめいている。それでも他に方法が思いつかない礼一は、ひたすら目の前の文字を一つ一つ潰していった。嫌な顔をしつつも噛み付いたり、尾びれで叩き落としたりと、礼一よりはるかに確実に文字を消していくイルカの助けもあり、15分ほど経つ頃には、かなり霧も晴れてくる。
ただ同時に、竜の気力もまた限界に近づいているのがひしひしと伝わってきていた。竜の足が持ち上がり、苦しげに震えながらまた静かに下ろされるのを見るたびに、礼一の背には焦りのためか暑さなのためかわからない冷たい汗がつたっていく。
一隻のボートがこちらに近づいてきたのは、まさにそのような時だった。頭の片隅で、誰かが様子を見に来たのだろうか、くらいのことは考えたかもしれない。ただ、この事態を乗り切ったら値段を気にせずビールを飲もう、というすばらしい未来と、間に合わなかった時の最悪の事態とを行き来する思考に、礼一は疲弊しきっていた。それ以上の注意を払う余裕などない。
ところが、そのボートから一人の男が立ち上がり、竜の背に飛び乗った瞬間、驚きのあまり思考の露が一気に晴れた。目を見張る礼一の目の前で、男は俊敏ながらも悠然とした足取りで頭の方へと着実に足を進めていく。それほど傾斜のない体勢を竜がとっているとはいえ、一体どんな運動神経をしているのだろう。信じられないことに、男は革靴を履いていた。
彼は礼一たちの近くまでやってくると足を止め、ちらりとこちらに顔を向けた。
「――無茶をする。」短い一言だった。だが、ぶれのない、深く低く落ち着いた声は、このような現実離れした事態の中で差し出された力強い命綱のように、心を揺さぶるほどの安心感を与えてくれた。礼一は半ば呆然と男を見つめながら、もう大丈夫なのだ、と思った。そう思わせる何かが、男にはあった。
彼はそのまま再び足を動かそうとして――一瞬躊躇するそぶりを見せた後で付け加える。「だがとても助かった。ありがとう。」
そう告げると、今度こそその均整のとれた体を無駄のない動きで動かしながら、竜の頭へと足を進めていった。
礼一とイルカが見守る中、男が竜の耳元に片膝を立てて座る。しばらくして、竜の周りを飛び回っていた文字が光をまといながらボロボロと崩れ始めた。その文字に代わって一瞬だけ、ターコイズブルーに輝く文字がいくつかポツポツと浮かんだが、それもまた月の光の中に消えていく。
それと同時に、それまでじっと身をこわばらせていた竜が大きく伸び上がる。慌てる男を無視して優雅に飛び去ろうとしたその生き物は、思い出したようにゆっくりと振り返り、礼一とイルカに向きなおった。穏やかになった淡い光から、感謝と喜びがあふれ出し、礼一とイルカを包む。
竜はそのままゆっくりと礼一に顔を寄せ、礼一などイルカごと一瞬で丸呑みにできそうな大きな口を彼の額にちょんと当てると、茶目っ気たっぷりに1回転してからどこかへと飛び去っていった。思わずその姿を目で追ったが、影すら一瞬で見えなくなっている。竜が立ち去るとともに吹き荒れていた風も穏やかになり、月は何事もなかったかのように静かに海を照らしていた。
――まるで夢でも見ていたような時間だった。
ぱしゃん、と大きく水を叩く音がして礼一は我に返る。見下ろすと、いつの間にか竜の背から飛び降りていたらしい男がヨットの方へと泳いでいるのが見えた。
「大丈夫ですか?」
「......この扱いの差だよ、まったく。」男は憮然とした表情で毒づいてから礼一を見上げ、そのまま眩しげに目を細める。「――これは、なかなか幻想的な光景だな。」
礼一は「自覚はあります」と苦笑し、そして改めて男の顔を見つめると静かに口を開いた。「あなたはこの子が見えるんですね。」
礼一の言葉に短く「ああ」と答えてから、男は思い出したようにぱっと顔を上げた。
「そうだ、申し訳ないんだが君、もうひと仕事頼まれてくれないか。」そう言ってヨットの方へと目を向ける。「ちょっとあの船の乗組員の様子を見てきてほしい。あいつにだいぶ揺さぶられたようだから。」
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