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3章・船上の邂逅
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男がヨットにたどり着いた時、礼一は必死に腕を伸ばして風にはためくシート(船の艤装に使うロープ)を掴もうとしているところだった。
「......何をしているんだ?」男が無表情に近い顔に困惑をにじませながら、礼一に尋ねる。
「ご覧の通りです、シートの結び目が解けてしまったようで、索端が、ほら、あそこに。」
「いや、君の身長では物理的に無理だろう。」男は呆れたようにそう言うと、船のヘリに飛び乗り、伸び上がるようにしてその索端をつかんだ。揺れる船のふちに立ちながら危うげない様子の彼は、自身の体重を利用してシートをくるくると引き寄せていく。
「状況を聞いてもいいか。」
「ええ。」彼の様子を心持ち悔しげに見守っていた礼一は、彼が来るまでに乗船者の一人に聞き、確認した内容を伝えた。「この船の乗船者は合計で5人、そのうちヨットの操縦を担当していた人を含め2人の意識がありません。ただ、残りの3人のうちの一人が看護師だったため、応急処置は済んでいます。」
「なるほど。」
「彼らは頭を打っているので、医者に診せた方がいいそうです。客船にOKをもらったので、そちらにお連れしようと思うのですが、ボートまで運ぶのは負担がかかるし、残りの乗船者をそのままにしておけないので、ヨットごと客船まで向かうつもりです。操縦の仕方はあなたが詳しいから任せるよう言われています。」そこで一息ついてから、礼一は付け加えた。「ちなみに、ぼくたちは客船から様子を見に来た船員ということになっています。」
男はちらりと礼一を見下ろしてから、短く「了解。」と言った。
彼のコントロール下におかれたセールが風をはらみ始める。同時に、ぐうっと船が向きを変えた。
「この索端をどうにかしようとしてたってことは、君、ヨットの経験があるんだろ。」
「......シーホッパー(1人~2人乗り用の小型ヨット)くらいですよ、きちんと練習したのは。」
「上等。いざとなったら手伝うから、舵を頼む。時間が惜しい。」
困惑して口を開きかけたが、彼の言う通り、確かに時間が惜しい。そう判断し、礼一は渋々舵を手に取った。
そうはいっても、小さなヨットを乗り回していただけの知識と経験しか持ち合わせていない礼一は、ただただ基本に忠実にジグザグと船を進めていく。だが、船の向きを変えるたびに、絶妙なタイミングでセールを引いたり緩めたりする男の助けもあり、船は思いのほか順調に進んでいった。
「――すごいシート捌きだ。」何度目かの方向転換の時、礼一は思わず口を開いた。「船に慣れているんですね。」
その言葉に、男の表情が怪訝そうに陰った。
あれ、と思ったが、表情に乏しい彼の顔からそれ以上のことを読み取れない。
この何とも言えない沈黙に既視感を覚えていると、男がどこか探るように口を開いた。
「君こそ、船に乗り慣れているのだろうと思っていた。――いつも揺れる船の中をまっすぐ歩いていくから。」
今度は礼一が首を傾げる番だった。その怪訝な表情に、男の眉がぐっと寄る。
「やっぱり......。君、おれに気づいていなかったのか。毎朝顔を合わせているのに、ひどいやつだ。」
「毎朝......?毎、うわっ。」その瞬間、かちっと何かが噛み合わさり、礼一は驚愕に目を見開いた。
「ブリズベン無料船の船員さん?!」
礼一が毎朝通勤で利用している、ブリズベン川の無料船。無愛想で、爽やかさのかけらもない朝の挨拶。船乗りらしい、均整のとれた身体に、おそらくはオーストラリアの平均よりも高い身長――なるほど。改めて見ると、彼はあの無愛想な船員以外の何者でもない。
だが、とっさに分からなかったのは、彼のヒゲが丸ごときれいさっぱりなくなっていたからだ。
ヒゲの印象が強すぎて顔をきちんと意識したことはなかったが、こうして見ると、きれいな造りながら男らしく精悍な顔をしており、なぜヒゲで隠していたのかと疑問に思うほどに男前だった。
そしてその分、無表情にすごみが増した気がして、礼一は思わず引きつった笑顔を浮かべる。もしかして、顔の恐さを和らげるためにヒゲを伸ばしていたのだろうか。
「わあ、ヒゲがないとハンサムさが際立ちますね!」
気まずさのあまり、日本語では決して言えない、ストレートな褒め言葉を礼一は口にしていた。笑顔も大盤振る舞いだ。
そんな礼一の様子に、憮然とした様子ながらもやれやれと息をつく彼は、顔ほどに素っ気ない人間と言うわけではないのだろう。
それにしても、このような不思議な場面で出会った人物が、いつもの何気ない日常の中で挨拶を交わす相手だったとは。奇妙な縁だ。この縁に関心を持たずにいる方が難しい。
礼一はふっとその顔に微笑をのせると、くるくるとシートを引いている男に声をかけた。
「改めまして、お会いできて光栄です、船員さん。」
「......船員さんはよしてくれ。」礼一の言葉に、男が苦い顔をする。そして、今度はまた絶妙なタイミングでシートを緩めながら言った。「エドヴァルドだ。エドでいい。」
そして着岸用の緩衝剤を、慣れた手つきでポイポイと船の外に取り付けると、そのまま客船にヨットを横付けした。
「......何をしているんだ?」男が無表情に近い顔に困惑をにじませながら、礼一に尋ねる。
「ご覧の通りです、シートの結び目が解けてしまったようで、索端が、ほら、あそこに。」
「いや、君の身長では物理的に無理だろう。」男は呆れたようにそう言うと、船のヘリに飛び乗り、伸び上がるようにしてその索端をつかんだ。揺れる船のふちに立ちながら危うげない様子の彼は、自身の体重を利用してシートをくるくると引き寄せていく。
「状況を聞いてもいいか。」
「ええ。」彼の様子を心持ち悔しげに見守っていた礼一は、彼が来るまでに乗船者の一人に聞き、確認した内容を伝えた。「この船の乗船者は合計で5人、そのうちヨットの操縦を担当していた人を含め2人の意識がありません。ただ、残りの3人のうちの一人が看護師だったため、応急処置は済んでいます。」
「なるほど。」
「彼らは頭を打っているので、医者に診せた方がいいそうです。客船にOKをもらったので、そちらにお連れしようと思うのですが、ボートまで運ぶのは負担がかかるし、残りの乗船者をそのままにしておけないので、ヨットごと客船まで向かうつもりです。操縦の仕方はあなたが詳しいから任せるよう言われています。」そこで一息ついてから、礼一は付け加えた。「ちなみに、ぼくたちは客船から様子を見に来た船員ということになっています。」
男はちらりと礼一を見下ろしてから、短く「了解。」と言った。
彼のコントロール下におかれたセールが風をはらみ始める。同時に、ぐうっと船が向きを変えた。
「この索端をどうにかしようとしてたってことは、君、ヨットの経験があるんだろ。」
「......シーホッパー(1人~2人乗り用の小型ヨット)くらいですよ、きちんと練習したのは。」
「上等。いざとなったら手伝うから、舵を頼む。時間が惜しい。」
困惑して口を開きかけたが、彼の言う通り、確かに時間が惜しい。そう判断し、礼一は渋々舵を手に取った。
そうはいっても、小さなヨットを乗り回していただけの知識と経験しか持ち合わせていない礼一は、ただただ基本に忠実にジグザグと船を進めていく。だが、船の向きを変えるたびに、絶妙なタイミングでセールを引いたり緩めたりする男の助けもあり、船は思いのほか順調に進んでいった。
「――すごいシート捌きだ。」何度目かの方向転換の時、礼一は思わず口を開いた。「船に慣れているんですね。」
その言葉に、男の表情が怪訝そうに陰った。
あれ、と思ったが、表情に乏しい彼の顔からそれ以上のことを読み取れない。
この何とも言えない沈黙に既視感を覚えていると、男がどこか探るように口を開いた。
「君こそ、船に乗り慣れているのだろうと思っていた。――いつも揺れる船の中をまっすぐ歩いていくから。」
今度は礼一が首を傾げる番だった。その怪訝な表情に、男の眉がぐっと寄る。
「やっぱり......。君、おれに気づいていなかったのか。毎朝顔を合わせているのに、ひどいやつだ。」
「毎朝......?毎、うわっ。」その瞬間、かちっと何かが噛み合わさり、礼一は驚愕に目を見開いた。
「ブリズベン無料船の船員さん?!」
礼一が毎朝通勤で利用している、ブリズベン川の無料船。無愛想で、爽やかさのかけらもない朝の挨拶。船乗りらしい、均整のとれた身体に、おそらくはオーストラリアの平均よりも高い身長――なるほど。改めて見ると、彼はあの無愛想な船員以外の何者でもない。
だが、とっさに分からなかったのは、彼のヒゲが丸ごときれいさっぱりなくなっていたからだ。
ヒゲの印象が強すぎて顔をきちんと意識したことはなかったが、こうして見ると、きれいな造りながら男らしく精悍な顔をしており、なぜヒゲで隠していたのかと疑問に思うほどに男前だった。
そしてその分、無表情にすごみが増した気がして、礼一は思わず引きつった笑顔を浮かべる。もしかして、顔の恐さを和らげるためにヒゲを伸ばしていたのだろうか。
「わあ、ヒゲがないとハンサムさが際立ちますね!」
気まずさのあまり、日本語では決して言えない、ストレートな褒め言葉を礼一は口にしていた。笑顔も大盤振る舞いだ。
そんな礼一の様子に、憮然とした様子ながらもやれやれと息をつく彼は、顔ほどに素っ気ない人間と言うわけではないのだろう。
それにしても、このような不思議な場面で出会った人物が、いつもの何気ない日常の中で挨拶を交わす相手だったとは。奇妙な縁だ。この縁に関心を持たずにいる方が難しい。
礼一はふっとその顔に微笑をのせると、くるくるとシートを引いている男に声をかけた。
「改めまして、お会いできて光栄です、船員さん。」
「......船員さんはよしてくれ。」礼一の言葉に、男が苦い顔をする。そして、今度はまた絶妙なタイミングでシートを緩めながら言った。「エドヴァルドだ。エドでいい。」
そして着岸用の緩衝剤を、慣れた手つきでポイポイと船の外に取り付けると、そのまま客船にヨットを横付けした。
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