リオネル・デュランの献身

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 ドアの隙間から薄明りと共に、大人たちの言い争う声が漏れてくる。
 眠れない。
 部屋は寒く、床に敷いた毛布は湿っている。三度とるのが当たり前だった食事は、数日前からは食べ物を手に入れられた時だけに限られ、今日にいたっては何も口にしないまま夜になってしまった。漏れ聞こえる話は途切れがちで全てを理解できるわけではないが、生きるか死ぬかの瀬戸際にいることだけは、子供の自分にも分かる。
 腕の中に抱いた小さな体のぬくもりをよすがに、眠気が訪れるのを待った。柔らかい髪からは汗と埃のにおいに混じって、焼きたての菓子のような甘い香りがした。
「…眠れないの?」
 腕の中の幼子が薄目を開けて、頬を摺り寄せながら問う。自分とて浅い眠りと戦っているだろうに、心配そうに眉を寄せる様子がいとおしくて、力いっぱい抱きしめ直す。
「お気になさらず、眠ってください。ずっとこうしておりますから」
 ゆっくりと髪を梳いた手を背中に移し、トントンと鼓動より少し早めに叩くと、何度か瞬きをした瞳は安心したようにまた、ゆっくりと閉じた。
「ずっとおそばにおります。ずっと…」



「花と紙吹雪が舞う中を、立派な軍馬にまたがった陛下が力強くお手を振られるたび、窓という窓から乙女の黄色い声が上がるんだ。いやぁ、華やかだった」
 リアンにも見せたかったよ、と付け足しながら、初老に差し掛かった男は股座にある青年の頭を撫でる。国境線をかつての位置に戻したのみならず、緩衝地帯に拠点となる都市をいくつか余計に奪って隣国との戦に勝利した、若きディオレア王。その姿を拝みに、建国記念日に合わせて王都まで足を延ばしてきたらしい。
「いいなぁ。うらやましいです」
 なかなか硬くならない一物を舐めながら、リアンは長い睫毛を揺らして目線を上げた。客の自慢話を聞き流すなどもはや習い性になっているリアンだが、今度ばかりは本気で羨ましかった。

 この娼館に売られて以来、一度も敷地から出たことはない。男娼と下働きが暮らす屋敷に、申し訳程度のテラスと庭。それが世界のすべてだ。14の頃から客を取り始め、20歳くらいまではそれなりに人気があった。しかし、売られた時の法外な値からすれば、そんな地味な売れ方で稼げる金はたかが知れている。商品としては外れの部類だ。負債は一向に減らないまま、今やこの館最年長の25歳になった。  
 背丈もあまり伸びず、華奢な骨格で若く見えるとはいえ、男娼としてはとっくにとうが立ちすぎており、近頃はなんとか常連客を繋ぎ止めるので精いっぱいだ。

「花のかんばせ、竜の体躯。女神の祝福は慈雨のごとし」
「ルロイの叙事詩ですね」
 詠う男に、すかさずリアンが返す。陰茎の先端から伸びたしずくを唇に光らせたまま、おっとりと微笑むと、男は「さすがリアン。いい子だね」と満足そうに笑った。
 寝台に這い上がって男を跨ぎ、なんとか勃ち上がったものに腰を下ろす。
「ん……」
 指で尻を割りながら、力を抜いて吞み込んでゆく。慣れた圧迫感をやりすごし、微かな快楽を拾うように腰を振ると、長く伸ばした銀髪が肩で、背中で揺れた。

 「没落貴族の子息」という、高級娼館にはよくある触れ込みで身を売ってきたリアンだが、読み書きはもちろん、一通りの教養を身に着けていたため、文化人を気取りたい役人や商人らには受けが良かった。ここスフィアは交易の中継地としてだけではなく、女神の伝説が残る聖地の程近くにあり、巡礼の拠点としても古くから栄えてきた。リアンは聖地を訪れる学者や文化人に受けが良かったが、王都奪還以降に客層が変わって王国軍の下士官などが増え始めると、若くて媚の上手い男娼にばかり客がつくようになった。
 このまま客のとれない日が増えれば負債は減るどころか嵩み、高級娼館であるこの館から、短い時間で事を済ませてたくさん客を取らせるような場所へと転落する日も、そう遠くないかもしれない。

「リアンを身請けできればいいんだけどねぇ…。そうしたら王都に小さい屋敷でも買って、毎日こうして過ごせるのに。観劇でも朗読会でも、いくらでも連れて行ってあげるよ」
 とりとめもなく言いながら、馴染み客が駒を進める。寝台での軽い一戦を終えたあとは、ひたすら盤上での遊戯にふけるのが常だ。そうでなければ詩を作ったり、楽器を奏でたり。
 リアンの体は楽でいいが、頭の隅では、こんな暇つぶしに大金をはたくなんてどうかしている、とも思う。
「素敵ですね。季節が良いと、舟遊びも盛んなのでしょう?」
「流行っているらしいな。船上での夜会なんてさぞ見ものだろう」
「でも僕、旦那様が王都の洗練された美人に目移りされて、寂しい思いをするのは嫌ですよ」
「ははは、可愛いことを。っと、…そう思うなら少しは手加減を…」
 唸りながら頭を抱えた男に、リアンがくすくすと笑いを向ける。
 男は繊維の仲買を営む商人だ。数年前に息子へと代替わりして今は悠々自適の身だが、リアンを身請けできるほどの金持ちでもない。第一、復興から興隆へと舵を切りはじめたディオレアの王都ハイルは、大商人ですら小さい屋敷を構えるのがやっとというほど土地の値段が上がっているらしい。あくまで会話を楽しむためだけの夢物語だ。
 ふと思い出したように、「そうだ」と呟いた男が、傍の衝立にかけた上着に手を伸ばす。
「リアンにお土産があったのを忘れていたよ」
 すまんすまん、と孫を見るような目で笑いかけた男が差し出したのは、簡易な額に入れられた、手のひらサイズの姿絵だった。
 描かれた人物と目が合って、一瞬息が止まる。
「っ…うわ…! 嬉しいです! とっても! ありがとうございます!」
「そりゃよかった。リアンがこんなに喜ぶものが今まであったかな。妬けるなあ」
 落ち着いた物腰が売りのリアンが、身を乗り出してはしゃぐのを見て、馴染み客が苦笑する。
 柄にもない、と自分でも思う。
 線描は版画のようだが、着彩は職人の手によるもので、量産品にしてはよいものだ。繊細で鮮やかな筆致で描かれているのは若々しい青年。意思の強そうな瞳と短い髪は一見すると黒のようだが、よく見ると深くて暗い紺色をしている。いくぶん記号化されてはいても、若い娘たちがこぞって拝むディオレア国王の魅力は、十分に表現されていた。
 小さな額を胸に抱き、リアンはうっとりとため息をこぼす。
「死ぬ前に一目でいいから、会いたいです…」


「また新しいのですか? それ。もういっぱい持ってるじゃないですか…」
 同僚のシャルがペンを振り回しながら、呆れたように言った。
「インクが飛ぶからやめろ。ほらちゃんと書いて」
 リアンは顔をしかめて姿絵をかばい、指先で机をたたく。綴りを書き散らした紙はまだ半分以上真っ白で、シャルが集中していないのが丸わかりだ。館主の指示で、仕事の合間に若い男娼の読み書きをみてやっているが、お世辞にも皆熱心とは言い難い。
「いいんだよ。陛下の姿絵は何枚あってもいいんだ」と開き直るリアンに、
「どれも同じような絵でしょう?それに最近は陛下の人気に便乗して、ワインの瓶やら菓子の袋にまでお顔が描かれてるじゃないですか」とシャルは冷ややかだ。
「え? そうなの?うわー、全部ほしい。全部キレイにとっておきたい」
「マジですか? そこまで? リアンさんちょっと怖い…」
 吊り目を細めて身を引くシャルの隣で、ふわふわの金髪を揺らしてメルが笑う。
「確かに陛下はとっても素敵ですけど、僕たちが一生かかっても会える人じゃないし。冷静で大人なリアンさんがこんなに熱心になるなんて、ちょっとびっくりです。流行りには乗らない印象だったから」
 メルの言うことはもっともだ。金もないのに姿絵を買い集め、雲の上の人に会いたいと思うなんて、10代の娘ならともかく、大の男が趣味にするには馬鹿らしい。
 しかし、2年前に18で即位した国王の人気が高まり、国が豊かになり、地方都市でも徐々に姿絵が手に入るようになると、どうしても欲しくなった。館の使用人に頼んで買っては眺めているうちに、噂を聞いた常連客がこうやって土産に持ってきてくれるまでになり、今では箱いっぱいになるほど増えてしまった。
「いいんだよこれは。なんていうかこう、生きるための潤いみたいなものだから」
 枯れた老人の様に自嘲したリアンに、メルはふんわり微笑みながら頷いた。
「わかります。僕もたまに食べる砂糖菓子がなかったら、お仕事頑張れません」
 可愛い例え話にシャルが「あー、甘いもの食べたいなぁ…」と便乗する。

 昼下がりの今は、営業が始まる直前だ。店は昼遅くに開店して明け方まで続く。男娼たちは買い手がつけば、昼と夜一番、そして夜半からの3つの時間帯で、最大3人の客を取れる仕組みになっている。もちろん、3つの時間帯全てを一人の客が買ってくれれば最高だ。複数の客を相手にすれば、それだけ体がきついし、経費もかさむからだ。寝具の交換や消耗品の補充などすべてに値段がついていて、客の払いから引かれる仕組みになっている。たとえ客が無茶をして寝具が駄目になったとしても、店は絶対に損をしない。
 多いのは夜一番を買う客だが、懐が温かければ夜半も通しで買って朝まで居続ける客も少なくはない。一方昼の客はまばらで、価格も安く設定されているから、茶飲みに付き合わせるだけという需要もあって平和なものだ。中には男娼を一方的に眺めながら昼酒を飲む酔狂な客や、夜に買う男娼を昼間から物色する念入りな客もいたりする。

 ふと視線を感じて、リアンは二階を見上げた。客はまだ入っていないはずなのに。
 リアン達が今いるのは、商品である男娼を客に見せるための場所だ。優雅な応接室のような広間で、お茶を飲んだり書き物をしたり寝そべったりと、思い思いに過ごす男娼を、飾り格子の向こうから品定めできるつくりになっている。この空間は二階へと吹き抜けになっていて、客は一階と二階の二方向から格子越しに眺められる。
「今日は大佐の予約が入ってんの。やだなー」
 頬杖をついたシャルがぼやく。シャルのような気の強い子を啼かせるのが好みだ、という軍人は結構多い。気まぐれな性格と吊り目が色っぽくていいらしい。
 常連の通ってくる日でもないため、おそらくリアンには今日、客がつかない。客がつかない男娼は夜半の受付が終了するまでここで過ごした後、撤収するのだ。

「あれ? 館主だ。めずらしいね」
 メルが驚いた声を上げる。二階と広間をつなぐ階段に目をやると、館主がゆっくりと降りて来た。
 男娼を呼びに来る仕事は専門の使用人がいるし、滅多に姿も見ない館主がこんな所に現れるのは、確かに珍しい。しかもまっすぐこちらに向かってくる。
 この娼館が長年安泰な経営を続けているのは、このやり手の館主によるところが大きい。商品である男娼を買い付けて育てる手腕に加えて、客を選ぶ目が確かなのだ。来る客拒まずの下町の娼館と違い、おかしな客は門をくぐることすらできないため、リアン達も安心して仕事ができる。
 いつもと違う光景に、場がそわそわと浮き立つ。
 緩く巻いた赤毛に細身の館主は年齢不詳で、どことなく色気がある。
「リアン」
 低くかすれた声が、リアンを呼んだ。
 意外過ぎて一瞬呆けたように固まってしまい、慌てて返事をする。椅子から立ち上がって、なるべく優雅に見えるよう腹の前で軽く手を組んだ。
「…何かご用でしょうか」
「リアンに新規のお客様だ。昼から買い上げだが、お相手は夜から。ゆっくり準備をするようにと仰せつかった」
 何の感情も見えない館主の口から、事務的に告げられる。
「えー、リアンさんに新規客?」「お金持ちかな?」「金持ちの変態かもよ」というざわめきとともに、好奇の視線が向けられる。とうの立ったリアンなど商売敵にもならないだろう魅力的な子たちばかりなのに、「お高くとまっている」と敬遠する同僚も多いのだ。
 リアンは口答えに聞こえないように気を付けながら、「昼からお相手せずともよろしいのでしょうか?」と一応聞いてみる。
 夜からの客が、昼の客との掛け持ちを嫌い、余分に金を払って押さえておくことはたまにある。その場合ほぼ間違いなく、客は金持ちだ。
「心配するな。とても気前のいい方だ。ただし、閨での条件を一つだけ出された」
「…条件?」
 知らずこくりと喉が鳴った。金持ちの変態という誰かの読みが、大当たりかもしれない。
 館主が眉間の皺をほんの少し深くして、ゆっくりと口を開く。
「お相手をつとめるための条件は、その瞳を隠して、ご奉仕すること」
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