蠟燭のぶよぶよ

鋸煮桃暢

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石鹸箱で命乞い

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 蠟燭ろうそくが溶けて再凝固した、窪みに溜まった白いぶよぶよ。
 その情けなくこの世にへばり付いている姿が自分にダブって見えてしまった。
 熱されながらも蒸発しきれない残骸。繰り返し萎縮させられる憐れな存在。
 自分はこの無価値なぶよぶよ、だらしない肉の塊。
 気付いてしまったら駄目だった。とてもじゃないが冷静さを欠いていた。

 日々最高気温を更新する真夏にブレーカーが落ち、エアコンを入れ直す正常な思考が小窪尊こくぼたけるからはなくなっていた。
 セットされていたアラームに従い菓子パン二つの夕食を取り、小休憩を挟み、風呂場へと向かう規則正しいタイムスケジュール。大学が夏休みに入ると自堕落な日々に陥る者が多い中、尊の強迫観念は肉体の悲鳴を無視し続けている。
 咀嚼が上手くいかなくなり服を脱ぐのに手間取るようになっても『まだ大丈夫』『まだ何とかなる』という呪いは既に健全ではない青年の頭蓋の奥を貪っていた。

 電気を灯さない半年近く暮らした安アパートで、尊は覚束ないながらに中折れ扉を開けてタイルを足の裏で蹴っていた。湯船へと爪先を掛けた時、ここで初めて習慣的日常が乱れている事を知覚してしまう。
 水も湯も張られてなどいなかった。
 手狭な石鹸箱に収まりながら、何故、という疑問すら浮かばずに尊はポツンと呟いた。

「疲れた……」

 昨日出来ていた事がまた一つ出来なくなっている。
 とっくに『もう駄目だ』の限界値を超えているのに、新天地を求めた結果で予定調和のように挫折している自分を受け止めきれずにいた。

 努力はしている、だが、追い付かない。
 不安が自己嫌悪を煽り、孤独が恐怖を誘き寄せ、幾許もなかった安らぎなど蝕み尽くしている。
 両親が死んだ事も、幼い尊を育ててくれた祖父母が逝ってしまった事も、地元を離れて都会に暮らせば乗り越えられるものと信じていた。全ては成長の糧となり何事も意味があるものと思い込んでいた。
 未知の世界に足を踏み入れ新しい生活を始めたら生まれ変われると、尊は救われたがりで孤独に生きた。

「……風呂」

 古い浴槽の底から僅かに這い出て、単水栓のコックを捻る。
 ザアザアと雑音に紛れて心拍数が高鳴っていた。
 人はこんなにも窮屈な浴槽でも水があれば逝けるだろうか。
 足が濡れていく、汗と皮脂と涙が混ざる液体が作られる。人ではなく澱だと自覚する儀式をしていると高揚感が飛び散った。

 尊の祖父は厳しい人だった。
 清潔である事に人一倍拘りが強く、高熱であっても毎日の入浴を強要された。浴室に追い立てられる夜が何度あっただろう。とうとう今夜は生きていく為に必要だった規則すら抜け落ちてしまった。

 薄く瞼を開いて揺れる藍を見下ろす。
 臍の上まで溜められた水面にぼたぼたと涙を落として、沈む。
 こんな所で死ぬなんて自分にはお似合いの結末だ。転んで頭を打って無様に死に損なっても、誰も見舞いになんて来てはくれないから入水がいい。
 お粗末な人生だった。
 死後の事なんて自分は知らない。
 腐乱死体になっても最期は等しく火の中だ。

(……もう充分頑張ったよ)

 尊はこのまま溺れてしまいたかった。
 呑み込まれる為に開かれた口には死と呼ばれる隣人への恍惚があった。弛緩した四肢はさらに醜悪なぶよぶよに成り下がろうと重みを増していく。
 やっと死ねるのだ、やっとだ、やっと。
 この数年一度たりとも感じ得なかった安堵に包まれて尊は目を閉じた。
 しかし、生きとし生けるものの肉体には、生存しようとする本能が備わっている。
 恐怖が彼を生かすのだ。

「なっ、何! 何!!」

 足元の些末な違和感を拭いきれず、そのまま落ちていってしまえばいいものを、生白い手は浴槽の脇を強かに掴んだ。
 冷水がいやに感触を変え、ぬぅめぇっと皮膚に纏わり付いた。カルキ臭が鼻腔を刺激する。何かが耳の穴と眼球の上を這いずり回る。体内へと侵蝕してくる粘液にぷつぷつと鳥肌が立っていた。

 貧相な足首は渦に取られ、捻じってすり潰すような悍ましい振動と共に排水溝の下へと引き摺られる。最後に回転する髪の毛を思い出し、尊は惨めな家鴨みたいに手足をバタつかせた。

(死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない…………!!)

 初めて命乞いをした。
 薄く引き伸ばされているだけの生に追い縋る。足の指をこよられながらみっともなく藻掻いていた。

(何でもするから誰か助けて……!)

 19年に満たない人生、誰とも知らないモノに殺されるのは怖かった。

(何っ、何だよ、何なんだよ…………!!)

 溺死体の想像図も自分の葬式の光景も掻き消され、これまでにない渇望で尊は心から死にたくないと望んでいた。
 消極的率先的自害を幇助しようとした親切な〝モノ〟に抵抗してしまったのは、尊が悲しくも矮小で常識から逸脱しない人間だったからに他ならない。

「電気…………点いた……?」

 怪奇現象の幕間、照明が点いた見慣れた風呂場。
 手の平から零れていく水は元の姿をしていたが、無色透明だったモノが大きな塊へと一滴合流していけば、贅肉に穴が開いたかのように薄らとした赤が広がる。

「ひいっ……!」

 汚濁されていくH2O、擬似的に設けられた己の血溜まり。
 いよいよ尊は混乱して這う這うの体で逃げ出した。
 全身濡れたまま居間へと走る、転がっているペットボトル、中身のないビニール袋、今日も立派な両親と祖父母の仏壇。目に入るあらゆる物が魔物の隠れ処になる。
 尊は布団すら被れずに、顔を覆って手についた蛞蝓なめくじのような鼻水を垂らしてしゃくり上げていた。

「どうしよう……!」

 時刻はまだ、午後八時を回ったばかりだ。
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