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線香の囓り跡
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建物の内外から聞こえる騒音が今の尊には攻撃だ。
隣の部屋の住人が立てる生活音、排気量の多いバイクの走行音は、歯をカタカタと鳴らせる程に恐ろしい。
俎板の上で跳ねる魚のように見っともない右往左往をして、ワンルームの天井から下りる長い紐を引く事なら出来た尊は、明るくなった部屋で膝を抱えず脱力していた。
この世に味方などいなかった。
絶対的な愛情をくれる筈の両親は乳児期に喪い、生活の面倒を見てくれた祖父母もこの世を去った。
尊を守ってくれるものと言えば伯母が管理している遺産だろうか。
その残高がどれ程あるかも知らず、大学を卒業したら完全な自立を約束させられた。
あらゆる物事や現象が尊を追い詰めている。
青年になりきれない未熟で不出来な少年は、びしょ濡れの丸裸の滑稽さに、築40年のアパート全体が揺れる扉の開閉がして数分してから漸く思い至った。
罅割れた唇からあぶれる過呼吸気味の息は、ひっひっ、と耳障りだ。
目を開けずには動けない彼は、まだ整然と保たれていた箪笥の中から衣類を取り出し、しかし着る事は出来ず、頭から被るだけで薄暗い目のまま仏壇の前の座布団に着く。
質素な暮らしを送る中でいやに豪勢な仏具店の上等品に、髪から垂れる液体が沈む。
祖母の教えに忠実に先祖や両親に縋ろうとした尊だが、幼い頃から染み付いた手順が分からなくなっていた。
何から手を付ければいいのか急に記憶が奪われたかのように、蝋燭に火を点ければいいのか、りん棒を持って鳴らせばいいのか、忘れてしまったのだ。
「線香……、線香……、俺……」
小学生の時に同級生から臭いと言われた独特の匂い。
毎朝毎晩と欠かさず手を合わせていた祖母は、死んだ両親が守ってくれる香りだと尊を諭した。
今彼の脳は憐れな程に萎縮をし、短絡的で強い衝動性を持ち、仏壇の脇に積まれていた未開封の箱を掴ませた。
怖いモノは線香を避ける、食べれば救われる、だから緑の棒っきれを貪り尽くす。
封を解かず囓る、噛み砕けず唾液が染みる。味蕾に広がる苦みと蘞みに今ここに生きてしまっている事実に滂沱して馬鹿のように線香の束をしゃぶる。
啜って啜って、口内の唾液が粘性を持っている錯覚に陥れば、嗚咽しながら執着していた。
やがて、どうにもならないものだと床に放り捨て、虚ろな視界の中で怯む程白い蝋燭を掴んでいた。
尊の正常性は損なわれていた。
身を掻き毟ったら叱られる、ならば〝怖い〟の根元を燃やすしかないと閃いた。
利手の右手で和蝋燭を持ち、充填式の長ライターの引き金を人差し指で引く。
「何で……、何で点かない……!」
カチカチと安っぽい空回りをするばかりで望んだものは何一つ手に入らない。
尊は喉を潰すように唸って畳を撲った。
するとどうだろうか、薄い床下の階下の住人からの苦情に見舞われ、だらりと背中が丸まった。
「……どうしよう」
小窪尊は憐れな生き物だった。
考えても考えても答えが出ない所に、考えなければ考えなければと鼓舞して潰れていく。
誰にも助けて貰えないのはとっくの昔に刷り込まれた。尊が求める程度の救済が差し伸べられた事はこれまでにない。
床に転がる物々と、畳まれていない洗濯物。
脚を伸ばして指先で布団の端を蹴り、指股で引き寄せようとして失敗し、下着すら身に着けられない非常事態に繰り返し繰り返し布団の方を動かそうとする。
そうして暫く経って飽き始めたら、頬を何度も叩いていた。
尊は蛆虫を見た事がない。
だが、あたかも体内の蛆虫を追い出す儀式のように全身を叩いて回った。
一先ず静かになっていた感情も、皮膚の中を這いずり回られた感触が甦る事で総毛立ち、混乱が錯乱を誘発する。
「助けてっ、助けて、助けて、助けて!」
癇癪を起こす子供が己を撲ってでも訴える相手が、尊にはいない。
肩甲骨の周囲が粟立ちながら「助けて」ともう一度音程を変えて言ってみて、尊は止まった。
すっ、と立ち上がりバスタオルを脱衣所の籠まで取りに行き、身体を拭いた後は服を着た。
よれたTシャツの襟ぐりのように疲れていた。
廊下のフローリングは温く、皮膚から駆け上がるモノへの反抗でペッタペッタと足音を鳴らし、仏壇の引き出しに仕舞われていた小さな箱の燐寸を取り出す。
シーツを数日替えていない汗を吸った布団に胡座を掻き、低価格帯のスマートホンでそのタイトルを検索する。
マッチ売りの少女、死に逝く者が最後に見る幸せな夢。
どうせ死ねないのに、真夏の茹だる室内で幻覚に閉ざされていたかった。
ヒットした候補から作品の本文が読めるサイトを選び出し、全身を前後に揺すりながら少女の終焉を見届けた。
しかし、肩透かしだった。
宗教的な色合いの強さに馴染みを持てず、かと言って思いつきを中断する回路もなく、箱を開ける。
「神様なんている訳ないのに!」
摩擦音は火花を散らさず、ポキンと軸木が折れてしまう。
楽しくなってしまって、楽しいと思い込まずにはいられずに、尊は立て続けに何本も燐寸を折った。
布団に散らばる赤と茶色。
指でちんまりと摘まみ、頭薬を繁々と眺め、丸呑みにした。
喉を掻かせて嚥下しても内側から燃やされてはくれない。けれどそれしかする事がないから真っ二つのささくれ立っている燐寸を呑んだ。
たるんだ腹を押さえて満足した心地を頭に練り込ませれば、今度こそ平穏が訪れる。
手を突いて仏壇に頭を垂れた。
「おやすみなさい」
眠れよ眠れ、さすれば救われる。
エアコンのリモコンを手にして運転ボタンを押した尊だが、何度掲げても反応しない。立ち上がりセンサー間近に突き付けてもウンともスンとも言わなかった。
「あ……そっか……、ブレーカー……」
胃を抑えて身震いした尊は、一晩中眠る事が出来なかった。
隣の部屋の住人が立てる生活音、排気量の多いバイクの走行音は、歯をカタカタと鳴らせる程に恐ろしい。
俎板の上で跳ねる魚のように見っともない右往左往をして、ワンルームの天井から下りる長い紐を引く事なら出来た尊は、明るくなった部屋で膝を抱えず脱力していた。
この世に味方などいなかった。
絶対的な愛情をくれる筈の両親は乳児期に喪い、生活の面倒を見てくれた祖父母もこの世を去った。
尊を守ってくれるものと言えば伯母が管理している遺産だろうか。
その残高がどれ程あるかも知らず、大学を卒業したら完全な自立を約束させられた。
あらゆる物事や現象が尊を追い詰めている。
青年になりきれない未熟で不出来な少年は、びしょ濡れの丸裸の滑稽さに、築40年のアパート全体が揺れる扉の開閉がして数分してから漸く思い至った。
罅割れた唇からあぶれる過呼吸気味の息は、ひっひっ、と耳障りだ。
目を開けずには動けない彼は、まだ整然と保たれていた箪笥の中から衣類を取り出し、しかし着る事は出来ず、頭から被るだけで薄暗い目のまま仏壇の前の座布団に着く。
質素な暮らしを送る中でいやに豪勢な仏具店の上等品に、髪から垂れる液体が沈む。
祖母の教えに忠実に先祖や両親に縋ろうとした尊だが、幼い頃から染み付いた手順が分からなくなっていた。
何から手を付ければいいのか急に記憶が奪われたかのように、蝋燭に火を点ければいいのか、りん棒を持って鳴らせばいいのか、忘れてしまったのだ。
「線香……、線香……、俺……」
小学生の時に同級生から臭いと言われた独特の匂い。
毎朝毎晩と欠かさず手を合わせていた祖母は、死んだ両親が守ってくれる香りだと尊を諭した。
今彼の脳は憐れな程に萎縮をし、短絡的で強い衝動性を持ち、仏壇の脇に積まれていた未開封の箱を掴ませた。
怖いモノは線香を避ける、食べれば救われる、だから緑の棒っきれを貪り尽くす。
封を解かず囓る、噛み砕けず唾液が染みる。味蕾に広がる苦みと蘞みに今ここに生きてしまっている事実に滂沱して馬鹿のように線香の束をしゃぶる。
啜って啜って、口内の唾液が粘性を持っている錯覚に陥れば、嗚咽しながら執着していた。
やがて、どうにもならないものだと床に放り捨て、虚ろな視界の中で怯む程白い蝋燭を掴んでいた。
尊の正常性は損なわれていた。
身を掻き毟ったら叱られる、ならば〝怖い〟の根元を燃やすしかないと閃いた。
利手の右手で和蝋燭を持ち、充填式の長ライターの引き金を人差し指で引く。
「何で……、何で点かない……!」
カチカチと安っぽい空回りをするばかりで望んだものは何一つ手に入らない。
尊は喉を潰すように唸って畳を撲った。
するとどうだろうか、薄い床下の階下の住人からの苦情に見舞われ、だらりと背中が丸まった。
「……どうしよう」
小窪尊は憐れな生き物だった。
考えても考えても答えが出ない所に、考えなければ考えなければと鼓舞して潰れていく。
誰にも助けて貰えないのはとっくの昔に刷り込まれた。尊が求める程度の救済が差し伸べられた事はこれまでにない。
床に転がる物々と、畳まれていない洗濯物。
脚を伸ばして指先で布団の端を蹴り、指股で引き寄せようとして失敗し、下着すら身に着けられない非常事態に繰り返し繰り返し布団の方を動かそうとする。
そうして暫く経って飽き始めたら、頬を何度も叩いていた。
尊は蛆虫を見た事がない。
だが、あたかも体内の蛆虫を追い出す儀式のように全身を叩いて回った。
一先ず静かになっていた感情も、皮膚の中を這いずり回られた感触が甦る事で総毛立ち、混乱が錯乱を誘発する。
「助けてっ、助けて、助けて、助けて!」
癇癪を起こす子供が己を撲ってでも訴える相手が、尊にはいない。
肩甲骨の周囲が粟立ちながら「助けて」ともう一度音程を変えて言ってみて、尊は止まった。
すっ、と立ち上がりバスタオルを脱衣所の籠まで取りに行き、身体を拭いた後は服を着た。
よれたTシャツの襟ぐりのように疲れていた。
廊下のフローリングは温く、皮膚から駆け上がるモノへの反抗でペッタペッタと足音を鳴らし、仏壇の引き出しに仕舞われていた小さな箱の燐寸を取り出す。
シーツを数日替えていない汗を吸った布団に胡座を掻き、低価格帯のスマートホンでそのタイトルを検索する。
マッチ売りの少女、死に逝く者が最後に見る幸せな夢。
どうせ死ねないのに、真夏の茹だる室内で幻覚に閉ざされていたかった。
ヒットした候補から作品の本文が読めるサイトを選び出し、全身を前後に揺すりながら少女の終焉を見届けた。
しかし、肩透かしだった。
宗教的な色合いの強さに馴染みを持てず、かと言って思いつきを中断する回路もなく、箱を開ける。
「神様なんている訳ないのに!」
摩擦音は火花を散らさず、ポキンと軸木が折れてしまう。
楽しくなってしまって、楽しいと思い込まずにはいられずに、尊は立て続けに何本も燐寸を折った。
布団に散らばる赤と茶色。
指でちんまりと摘まみ、頭薬を繁々と眺め、丸呑みにした。
喉を掻かせて嚥下しても内側から燃やされてはくれない。けれどそれしかする事がないから真っ二つのささくれ立っている燐寸を呑んだ。
たるんだ腹を押さえて満足した心地を頭に練り込ませれば、今度こそ平穏が訪れる。
手を突いて仏壇に頭を垂れた。
「おやすみなさい」
眠れよ眠れ、さすれば救われる。
エアコンのリモコンを手にして運転ボタンを押した尊だが、何度掲げても反応しない。立ち上がりセンサー間近に突き付けてもウンともスンとも言わなかった。
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