カイイユウギ

Haganed

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予期せぬ始まり

虚像と実像の正体不明

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 時は流れて月曜日。痛みも引いて学校に通えるようになった状態の康平は早めに家を出て徒歩で学校へと向かった。全損した自転車は保険の加入と弁護士の介入も行われるとのことだが、当の運転手本人が既に死亡しているためその遺族に支払いの矛先が向かうことになり──色々と思うところはあれど仕方の無いことだと割り切り、通学中に自分のやるべき事を再確認していく。月曜日の夜はあの石禾町の塾に向かう日、そこでまた同じように入れる保証は定かでないが少なくともその機会が訪れても問題ないように常に準備を怠ってはならない。

 こちらから領域への侵入は駈剛曰く、基本的には不可能とのこと。あくまで領域の主であるバケモノが開催者という立ち位置になるため参加者として扱われる者はその招待を待つしかない。例外として力の差が圧倒的であれば無理矢理侵入することも出来るが、それが出来るようになるまで早くとも数年はかかるとのこと。

 あくまで待ちの姿勢を取りチャンスがあれば一気に叩く、それが今の彼らが取れる最大手であった。そのために用意してきた物もあるが大体のものはあの領域で入手できる。安全性の問題を考慮すれば今いるこの現実世界で調達すれば良いのだが、持ち運べる量にも限度があるため本当に必要な物のみ持っていく状況となった。とはいえ果たして用意した物が効くのかどうかといった疑問が残りはするが、何もしないよりはマシな選択であると康平は結論づける。

 通学中、交流のある同級生や先輩後輩から事故のことについて様々な心配をされたが肉体的な問題は大分解決していることを伝えるとすぐにその話題はされなくなっていた。塾の時間までは今まで通りの学校生活を過ごしている中、同じく巻き込まれた晴彦と朝の廊下で会い昼休みに校内の花壇に設置されているベンチで昼食を摂りがてら話をすることになった。そして昼休み、康平は幾つかの事情を説明して怪異を討伐することを伝えた。


「ほ、本当に倒せることが出来るの? あんなに恐ろしい怪物を?」

「出来る、やってみせる。あれを放置して被害が増す一方なら何だってやる。」

「でも! ……でも、危険だよ。もし康平君がやられたりでもしたら殺されちゃう。 ねえ逃げることって出来ないの?今は石禾町になるべく近付かないってやればさ、危険な目に遭わないんじゃ。」


 康平に向かってそう問いかけるように言った晴彦の顔には想像通り不安の表情が現れていた。無理もない、仲の良い友達が敢えて危険に飛び込んで到底不可能だと思うことを為そうとしているのだから。傍から聞けばそれは無謀以外の何物でもなく何も躊躇うことなく理解出来るものではない、寧ろなんとしてでも止めて保守的な姿勢を取る安全策に引き込もうとするのは当然のことだ。しかし康平は決意に満ちた目を晴彦に向けて言った。


「もし逃げてどうにかなるなら、そうしてるよ。でもどうにもならないし、寧ろ被害が増えるばかりだ。──なら、は戦う。戦って立ち向かって、あれを倒す。」


 自身の前髪をかきあげながら低くドスの効いた冷たい声色をしていた。一人称が変わり静かだがとても攻撃的な側面を晴彦も今まで見た事がなく二の句が告げなかった、横目で彼の様子を見た康平は少し慌てながらも何時もの穏やかな様相へと戻った。


「あーごめんね、かなり驚かせちゃったみたいで。」

「いや……うん、確かにびっくりした。」

「あんまりさっきみたいなのは表に出さないようにしてるんだけど、いけないね。こういうのは。」


 止めていた橋を持つ手を動かし残されたおかずとごはんを若干食べ進めていったあと、あのバケモノ退治の件は自身と協力者とで進めていき暫くは石禾町に近付かないようにするか早めに帰ってもらう事を言って安易にこの件に関わらないようにさせる。晴彦はそれ以上何も言わず弁当を食べ進めていき、残り時間が15分を過ぎたところでそれぞれの教室へと帰って行った。



───────────────────────



 出かける準備を整え、塾のある石禾町へバスで向かって行く康平は車内に揺られながら窓からの景色を見る。夕暮れ時に近付きつつあるが未だに太陽は降りきらず世界を照らしている、そうやって照らしている建物や人間などの影を見ていると不意にあのバケモノの住まう領域を思い出した。照らされることの無い1人きりの世界で、かくれんぼで遊ぶために生者を呼び寄せる。坂東茜のように死者が迷い込む場合もあるにせよバケモノになった明里詩音は、自分にとって大切だった何かを忘れてしまっているのだろうかと考えた。

 やがてバスが塾付近のバス停に停車することをバス車内の音声ガイドによって知ると停車ボタンを押して待つ。数分も満たないうちに目的地に到着し運賃を支払ったあとバスから降りて塾へと入っていく。そしていつものように休憩を挟みながら3時間弱の勉強時間を終えて、今度は徒歩で家への帰路に付いていた。そして道中辺りを見回しているとこの時間帯で異様に人が少ない事が気になり始めた途端、頭の中で駈剛の声がした。


(来るぞ。)


 そして頭の中で響く規則的なリズムを伴って ポーン ポーン という無機質な音楽が頭の中で流れ出した直後、頭の中で黒板を引っ掻いているような不快な音が康平を襲った。2度目とはいえ気を抜けば意識が持っていかれそうな程の音量で聞こえているそれを耐え続けてどれほど経っただろうか、次第にその不快な音は小さくなっていき聞こえなくなると康平は疲弊気味ながらも周囲を見ていって、そこに居た2人の人物に驚きを隠せなかった。


「晴彦君!? それに、宮崎さんも!?」

「うぅ……。」

「こ、こは……っ?! なんでっ……。」


 おそらくは後をついてきたのであろう私服姿の晴彦と、本人もなぜこのような場所に居るのか分かっていない寝間着姿の宮崎梨愛が領域内に居た。あと他にやって来ているのは何故か全員女性ばかりであった、あの時とはまた違った状況下にあり若干混乱しているもののすぐに明里詩音の姿を探したが見つからず、まだ始まっていないことを確認すると急いで2人を立たせて先に晴彦に訊ねた。


「何で付いてきたのさ!? 君が危険な目に遭う必要なんてどこにも無いのに!」

「心配だからだよ! あの時の康平君、まるで自分が死んでもいいって思ってるような顔をしてたから! そう考えたら怖くて、恐ろしくなって。……僕でも君の為に何か出来ることがあるなら、絶対に足でまといにならないように手伝う! だから自分だけで解決しようとしないでよ……!」


 その言い分に対して反論しようとしたが康平は面と向かって言った晴彦の姿勢に徐々に怒る気力が削がれ、瞼を閉じて俯くと長い溜め息を吐く。出会った頃はここまで自らの意見を言うことの無かった彼が、自分の意思でついてきたという成長の実感と無謀すぎる判断を下したことに対する憤りの感情に板挟みになりながらも今はこの領域のバケモノを倒すことが何よりも優先されることであるとして、その申し入れを渋々ながら受け入れた。


「分かった……でも僕の言う事は必ず聞いて、ここから生きて出るために。」


 晴彦は頷いて了承した。それを見届けたあと今度は宮崎梨愛の方を見て何かを言おうとしたが、彼女の足元にいつの間にか立っていた明里詩音に驚きながらも2人を引き寄せて離れた。何事かと思い文句を言おうとしていた彼女も、康平の視線の先に居る少女を目にすると酷く怯え始めた。嫌な緊張感を伴いながらもそれに対して何か言うこともなく明里詩音は頭に直接届くような声で言った。


「かくれんぼ、しよ」


 少女がそう言って両手を使い自身の目を覆い隠す一連の行動を取り、すぐに声を荒らげて他の集められた3人の女性に言い放つ。


「全員早くここから逃げろ! 絶対そいつに、明里詩音に見つかるな! 隠れろ!」

「えっ? えっ?」

「あかさと、しおん……?」

「宮崎さん走れる?」

「いーち、にーい」


 力なく首を横に振って否定すると、ならばと有無を言わせず彼女の体を持ち上げて動ける準備を取ると晴彦についてくるように指示を出しその公園から離れていく。何が起きているのか全く理解が及んでいない残された彼女らはどうするべきか考えが思い浮かばなかった。そうしている間にも明里詩音のカウントは5まで進んでおり、兎にも角にも数えている少女に事情を聞こうとして1人の女性が近付いて話しかけた。


「ねぇ。しおん、ちゃん? ここが何処か知ってる?」

「はーち、きゅーう」

「ねぇったら。」

「じゅーうっ もーいーかーい!?」


 女性が何か訊ねようとしたが答えない少女に少し苛立ちを覚えた時、目を覆っていた手を外し辺りを見回し彼女らを視界に捉えた。すると少女の顔はみるみると怒りの表情へと変化していき、しまいには地団駄を踏んで彼女らに向けて怒鳴った。


「ねぇ! かくれんぼしよっ!」

「それは良いけど、先にあなたの事を教えて欲しいな。」

「やーだっ! かくれんぼするのー!」

「うーん……。」


 困り果てた様子の女性がどうしようかと悩んでいる中、この異常事態の中にいる少女という不釣り合いな現実と先程康平が言っていた発言から1人の女性がどこか不安げに2人へ言う。


「ね、ねぇ。早くここから逃げた方がいいんじゃないの? 明らかにこんな状況で、突然その女の子が現れたじゃん。」

「だとしても子どもを置いて行ける訳ない──」

「遊んでくれないなら」


 少女がそう言った直後、少女が居る場所からおよそ人から鳴ってはならない音が彼女らの耳に入る。離れていた女性2人は途端に怯えその場で腰を抜かして、そのうち1人は恐れによって失禁までしてしまった。少女に近付いていた女性は自身の身体が隠れるほどの大きな影が見えたことと先程の音を間近で聞いていたことにより、何が起きているのか確かめるために振り向いた。

 彼女の目に映ったのは少女ではなく人の身長を優に超えるバケモノであった。両腕と両脚が異様なまでに長く、肉体はぶよぶよと肉々しくそれだけで見ているものに不快感を与えている。だが真に不快感を与えているのはその肉体に何十何百と埋め込まれた眼球であった、そして少女の顔であっただろう部分は顔の上半分が背中側へと直角に曲げられていて口であった箇所にある大きな目玉が彼女らを見つめていた。


【要らナイ】


 おそらく上顎じょうがく犬歯であった場所から角のような何かが伸びきったのを見終えた次の瞬間、明里詩音だったバケモノの近くに居た女性は何も発することなく外部から不可思議な力が働いて全身を丸められた。内側に収められていた臓物などがバラバラになった骨によって裂かれた肉体から水を含んだ時のような重い音をたてながらこぼれ落ち、眼球は飛び出し歯や爪などが砕けてぼろぼろと地に落ちていく。

 その惨劇によって発生した臭いと音を皮切りに彼女らは自らが見ている光景が現実のものである事に漸く気付いたは良いものの、恐怖によって声も挙げられず足腰に力が入らなくなりその場に座り込み、1人は胃の中から込み上げてくるものを抑えきれずに吐き1人はそのまま失禁した。辺りに独特の臭いが漂い始めるもそんなことはお構い無しにその目玉だらけのバケモノは近くに居る女性、ではなく先ほど吐いた女性の元まで向かって問う。


【ねぇ】

「ァゥ……ア……?」

【かくれんぼ、しよ】


 無数の目玉によって見られているような感覚を彼女は味わいながら僅かに保った意識で考えを巡らせる。先程の光景からしてここで拒否すれば同じように死んでいくのなら、選択肢はひとつしか残されていない。ただそれでも訳の分からない場所でこのバケモノとかくれんぼをする事への抵抗感があった、ゆっくりと顔を上げてバケモノの大きな目玉を見る。この世のものでは無い存在が今こうして彼女の前に存在している事実を改めて突き付けられると、考えは1つに纏まりそれを実行するしか手立てはなかった。失禁して動けずにいた女性を無視し立つことさえ難しく感じる足腰を無理やり動かしてその場から彼女は逃げていく。


「まっ、待って……! 待って! 待ってってば!ねぇ!こんな所で1人にしないで! ねぇ!」


 後ろから残された女性の悲痛な叫びが聞こえてくるが、それを無視しなければ自分の命は無い。人を連れてあのバケモノから逃げ隠れる余裕なんてものは微塵も無かった。今出せる全速力で彼女は逃げ出した。

 バケモノは去っていく女性の後ろ姿を見届けたあと残された方へとその大きな目玉を向け、動けずにいる女性のもとまで歩き始めた。次はお前の番だと言わずとも訴えかけているような雰囲気で近付くバケモノへの恐怖の感情に支配されている彼女は、パニック状態となり地面に這いつくばりながら逃げようと試みるがバケモノはまた訊ねた。


【ねぇ、かくれんぼしよ】


 女性は答えず、止まることなくバケモノから逃れようと必死になっている。そのため自身の膝が擦りむけようと爪が若干割れようと口の中に土埃が入ろうと止めなかったので、バケモノはその女性の胴を掴み自らと目が合うように女性の向きを変えて再度訊ねた。


【ねぇ、かくれんぼしよ】


 バケモノから逃れようと暴れるものの、膂力の差なのか別の何かなのか全く抜け出せないでいる女性はどんどんパニックに陥っていく。何を言ったところで離すことの無い状況の中、バケモノは同じ質問を繰り返した。


【ねぇ、かくれんぼしよ】

「ぃゃ……いや、離して。離してよお! 離してぇ! 死にたくない! 死にたくない!」

【かくれんぼ、しないの】

「離してよぉおおお! ここから出してよおお!い゙や゙ あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!」


 もはや発狂して叫ぶことしか出来なくなった女性をじっと見つめて、バケモノは何を思ったのだろう。そのまま彼女を掴む手の力を強めていく、骨がミシミシと音を立て壊れ始め血や肉が元からあった穴という穴や握り潰された時に出来た隙間などから漏れ出ていく。


「あ゙あ゙あ゙あ゙……ば……あ゙……」


 自らの血が外へと排出されようとして喉や口を逆流し声さえ出すこともままらなくなった彼女は次第に叫ぶ気力さえも失ったらしく、痛みに悶えるものの何故だか痛みは感じなくなって遂には洗って綿がしぼんだぬいぐるみのようにバケモノの手の中でその命を終えた。

 バケモノは物言わぬ骸となった人間だったものを揺らして何の反応も示さなくなると飽きたのか適当に放り投げ、その軌跡は植え込みの上に落ちるように描かれた。そうしてバケモノは何事も無かったかのようにぶよぶよとした自身の肉体で全ての目を覆い数を数え始めた。その声に少女の面影はもう無く唸り声が僅かに言葉として発せられているように聞こえているだけだった。



───────────────────────



 ただ1人あの公園から逃げ去った女性は走っていくうちに徐々に気力を取り戻したのはせめてもの救いだっただろうか、けれど頭の中で聞こえてきたカウントダウンが死が近づいている実感を与えてくる。走って、走って、走って、どこまで逃げられたかは定かでないにせよ隠れられる場所を探し回った。足を止めればあのバケモノに見つかって殺されるという不安と絶望が、彼女の生存本能を高めていたのだろう。運良くアパートに設置されていた業務用ダストボックスを見つけたことですぐにその中へ入り身を潜めることに成功した。しかし中はゴミの臭いが酷く、とても長時間入れるような所では無かった。

 すぐにでも出たい気持ちはあった、だが肉を引きずるような音が耳に入りすぐにそれも消え失せていく。その音が近付いてくると今度はペタペタと2回ずつ、間隔を空けた足音が彼女の耳に入る。外の景色は見えない、ただただ音という情報しか入らない閉鎖空間もまた彼女の恐怖を助長させていた。ゆっくりと彼女の傍を通り過ぎていく足音と肉を引きずる音は確実に遠くなっている筈なのに、頭の中でそれらが反芻し永遠とも感じられる時間が彼女の中で流れていく。

 やがてバケモノの位置は彼女の居るゴミ箱から通り過ぎ、聞こえていた音もしなくなり彼女は安堵した。油断ともとれるべき思考はゴミ箱が擦れ合う音がしたことで一瞬にして引き締め直し彼女は動きを止めた。音に敏感ならば先程ので気付いてしまうと死を覚悟したが一向にこちらに向かってくる気配も音もなく、再度緊張の糸が解れる。バケモノは通り過ぎ去った筈だと考えた彼女はここから出るために外の様子を確認しようと少しだけ蓋を開けて外を見た。

 何処にもバケモノは見当たらない。それを知った彼女は蓋を開けてゴミ箱の外に出た途端に全身を突き刺すような何かを感じ取り、一刻も早くこの場から逃げ出し何処か別の場所に隠れようと走った。どれだけ逃げて何時まで隠れれば良いのか分からない中、足がもつれてアスファルトの道路に倒れた。痛む体を起こそうとして、不意に顔の左側に現れた何かの影を視界の端に捉える。彼女はそちらへと顔を向けたくはなかったがそれでも何なのかは確かめなければならないのも事実であった為に、不審な何かがあるそちら側に視線を向けてしまった。


「ひぃっ!?」


 そこにあったのは目玉であった、何かに繋がれたままの目玉が浮いており彼女を見ていたのである。急いで立ち上がり目玉から逃げるために痛む脚の事など後回しに全速力で走った、しかし背後を見やれば目玉は全速力であろう彼女を悠々と追いかけている。距離が変わらぬまま走り続けて兎に角この目玉を巻くことを考えていた彼女の目に、飲食店の前に立てかけられていた電光看板を目玉に向けて投げたあと走った。

 後ろを振り返らぬま走り続けた彼女は路地裏に入り電柱の影に隠れる。気付けば目玉は巻いていたようで一安心した彼女は電柱を背にその場に座り込んだ。とはいえ彼女の精神は最早限界を迎えており今起きている現実の全てに悲観的になってその場で堪えるように泣き始めた。不快感を与えるあの音から始まった異常な事象のことごとくが彼女のキャパシティを超過していたのだから無理もない、ましてや平和な現実の中で暮らしていた普通の人にとってこのような異常な世界に異常な存在、目の前で突然起きた人間の凄惨な死に耐え切れる筈がない。

 もう諦めようかと考えていた矢先、またも肉を引きずる音と足音が聞こえてくる。すぐにその場に小さくなって蹲り瞼を閉じて視界の情報を遮断した。もう何も見たくない、もう何も聞きたくない、早くこの悪い夢から目覚めたいと思うしか無かった。ゆっくりと近づいてくる音に、ただただ今まで適当にお祈りをしていた神様に向けて必死に願った。全てから目覚めて夫の待つ暖かな家庭に戻りたいとそう願った。

 ひたすら祈り続けてどれほど経っただろう。何も起きなかったために戸惑いながらも彼女は瞼を開け、耳から手を外し頭を上げてバケモノや目玉が居るか確認していく。丁寧に丁寧に確認していきその視界に何も映らなかったことに対してまた安堵して、足腰に力が入らなくなりまたその場に座り込んだ。


「たすかった……ははっ。」


 もう足も動かせないし、現状は何も変わってはいない。ともあれ助かったという事実に笑みを浮かべるしか出来なかった、あのバケモノから逃れられたことにどうしようもなく安心してしまったのだ。本当に気付くべきことに何も気付かないまま、ただ笑っていた。


【見ィつケタ】


 背後から発せられた声にもならない唸り声がそう聞こえたような気がした。もう諦めも混じっていたのだろう、恐怖に支配された顔を声のした方へと振り向くと視線の先にあのバケモノが居た。そして気付けば彼女の周囲には何か紐のようなものでバケモノと繋がれた数十の目玉が浮いていて、もう逃げることは叶わなかった。

 乾いた笑いが彼女の口から発せられた。バケモノはゆっくりと近付き大きな目玉で彼女を見つめると、その瞳孔が赤く妖しく光った直後に彼女の肉体は内側から破裂した。臓物や骨、血がアスファルトの地面やコンクリートの壁などを着色し残ったのは人間だった痕跡だけ。それらに対して何の躊躇もなくバケモノは四つん這いのような状態で移動を再開し、残りの3人を見つけるために動き出す。

 そうしようとした時、バケモノが急に止まりある方向へと大きな目玉を向けた。それに続くように、この世界にある全ての時計の秒針が動き始めた。
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