1 / 6
第1話 冷えた視線の先で
しおりを挟む
――私はエレノア・ヴァルディス。ヴァルディス侯爵家の長女であり、次期侯爵だ。
この国は長子継承制で、男女の別なく、最初に生まれた子どもが家を継ぐ。そのため私は幼いころから、当主としての教育を受けてきた。
礼儀作法、領地経営、法、政治、財務、そして外交。
すべては「侯爵として相応しくあるため」――だが、正直に言えば、私はこれらの勉強が大好きだ。
領地の税制改革案を考えている時、新しい交易路の可能性を検討している時、領民の生活を豊かにする政策を練っている時。
そんな時間が、何よりも楽しい。
だから私は今日も、昼休みに図書館で借りた『北方交易の実例集』を読みながら、紅茶を口に運んでいる。
ちらりと視線を上げると――学園の中庭で、ひときわ目立つ二人の姿。
「......また始まったわね」
私は小さくため息をついた。
あそこで義妹にデレデレしている男は、私の婚約者――ディートリヒ・フォン・ルーゼン。
ヴァルディス領の隣を治める、ルーゼン侯爵家の三男。政略のもとで結ばれた、幼少期からの婚約者だ。
そして、その腕に絡みついている少女。
「......リリアナ」
私はため息混じりに呟いた。
父が再婚した相手の連れ子である義妹。可憐な容姿に、しかしその態度はどこか遠慮がなく、平民育ち特有の、距離感の近さがある。
「あの小娘、またですか」
呆れながらも怒気を含んだ声でそう言ったのは、私の侍女――マルティナ。
代々ヴァルディス家に仕える家系の娘で、幼い頃から私に仕えてくれている。濃茶の髪をきっちりまとめた彼女は、常に冷静で有能だが、時折こうして感情を滲ませる。
「ええ。今日も元気そうね~」
私はそう答えて、微笑む。笑顔は完璧。
「......あのように人目を憚らず......しかも、婚約者がいらっしゃる身で......」
「マルティナ。噂話はしない約束でしょう?」
「そうですけれど......」
彼女は不満そうだ。私は本のページをめくりながら続ける。
「でも、ある意味助かるわ」
「え?」
「だって、あれだけ堂々と『私たち浮気してます』って宣伝して歩いてくれるんですもの。証拠集めが楽よね」
マルティナは一瞬呆然として、それから吹き出した。
「お嬢様......」
「事実でしょう?」
私はにっこり笑う。
中庭では、リリアナがディートリヒの腕に身を寄せている。彼女の淡い栗色の髪が風に揺れ、大きな瞳が甘く細められている。
ディートリヒは、それを拒まない。いや、むしろ楽しんでいるように見える。
周囲の生徒たちがざわめくが、二人の耳には届いていないようだ。
「あれ、ルーゼン家の三男様......」
「婚約者って、ヴァルディス家のご長女様よね......?」
「でも、あの二人、最近ずっとあんな感じじゃない?」
噂はすでに、広まっている。
「本当に、お嬢様は平気なんですか?」
マルティナが心配そうに尋ねる。
「平気よ。むしろ――」
私は本を閉じて、立ち上がった。
「あの婚約、早く解消したいくらいだもの」
「お嬢様!」
マルティナが驚いた声を上げる。
「だって、本当のことよ? 政略結婚だし、ディートリヒとは会話も合わない。彼は領地経営の話をしても『難しい話は苦手』って逃げるし」
私は肩をすくめる。
「それに――私、領地のことで頭がいっぱいなの。恋愛に時間を割いている暇なんてないわ」
「......お嬢様らしいですね」
マルティナは苦笑した。
私たちは中庭を通り過ぎる。視線だけを一瞬、あの二人に向けて。
ディートリヒは気づかない。リリアナは――気づいて、小さく勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
『ふふ、エレノアお姉様、悔しいでしょう?』
そんな顔をしている。
――かわいそうに。
私は内心で笑う。
彼女は知らないのだ。じつは私が、この婚約を面倒に思っていることを。
「さ、午後の講義に行きましょう。今日は財政学よ」
「お嬢様、本当にお好きですね......」
「当たり前でしょう? 私、将来侯爵家を継ぐんだから」
私は明るく答えた。
――私は気づいていなかった。
遠く、回廊の影から、深い紺色の髪の青年が、私の背中だけを静かに見つめていたことに。
彼の金色の瞳には、静かな怒りと、それ以上の何かが宿っていた。
「......強いな」
レオニス・アルバート・クラウゼル。
この国の第三王子は、誰にも聞こえない声で呟いた。
彼女が泣かないことを、誰よりも知っている。
いや――彼女は、そもそも傷ついてすらいないのかもしれない。
その隣に立つ短い黒髪の青年――近衛騎士カイ・ルーヴェンが、小さく呟く。
「......殿下はエレノア様と長い付き合いですよね」
「ああ。お前もな」
「彼女は、気づいていないんですよね?」
「......そうだな」
レオニスは、苦笑した。
カイは肩をすくめる。
「まあ、エレノア様は領地経営のことで頭がいっぱいでしょうから」
「......ああ」
「あんなのでも、婚約者がいらっしゃるし」
「うるさいぞ、カイ」
レオニスの視線は、エレノアの背を追い続けていた。
この国は長子継承制で、男女の別なく、最初に生まれた子どもが家を継ぐ。そのため私は幼いころから、当主としての教育を受けてきた。
礼儀作法、領地経営、法、政治、財務、そして外交。
すべては「侯爵として相応しくあるため」――だが、正直に言えば、私はこれらの勉強が大好きだ。
領地の税制改革案を考えている時、新しい交易路の可能性を検討している時、領民の生活を豊かにする政策を練っている時。
そんな時間が、何よりも楽しい。
だから私は今日も、昼休みに図書館で借りた『北方交易の実例集』を読みながら、紅茶を口に運んでいる。
ちらりと視線を上げると――学園の中庭で、ひときわ目立つ二人の姿。
「......また始まったわね」
私は小さくため息をついた。
あそこで義妹にデレデレしている男は、私の婚約者――ディートリヒ・フォン・ルーゼン。
ヴァルディス領の隣を治める、ルーゼン侯爵家の三男。政略のもとで結ばれた、幼少期からの婚約者だ。
そして、その腕に絡みついている少女。
「......リリアナ」
私はため息混じりに呟いた。
父が再婚した相手の連れ子である義妹。可憐な容姿に、しかしその態度はどこか遠慮がなく、平民育ち特有の、距離感の近さがある。
「あの小娘、またですか」
呆れながらも怒気を含んだ声でそう言ったのは、私の侍女――マルティナ。
代々ヴァルディス家に仕える家系の娘で、幼い頃から私に仕えてくれている。濃茶の髪をきっちりまとめた彼女は、常に冷静で有能だが、時折こうして感情を滲ませる。
「ええ。今日も元気そうね~」
私はそう答えて、微笑む。笑顔は完璧。
「......あのように人目を憚らず......しかも、婚約者がいらっしゃる身で......」
「マルティナ。噂話はしない約束でしょう?」
「そうですけれど......」
彼女は不満そうだ。私は本のページをめくりながら続ける。
「でも、ある意味助かるわ」
「え?」
「だって、あれだけ堂々と『私たち浮気してます』って宣伝して歩いてくれるんですもの。証拠集めが楽よね」
マルティナは一瞬呆然として、それから吹き出した。
「お嬢様......」
「事実でしょう?」
私はにっこり笑う。
中庭では、リリアナがディートリヒの腕に身を寄せている。彼女の淡い栗色の髪が風に揺れ、大きな瞳が甘く細められている。
ディートリヒは、それを拒まない。いや、むしろ楽しんでいるように見える。
周囲の生徒たちがざわめくが、二人の耳には届いていないようだ。
「あれ、ルーゼン家の三男様......」
「婚約者って、ヴァルディス家のご長女様よね......?」
「でも、あの二人、最近ずっとあんな感じじゃない?」
噂はすでに、広まっている。
「本当に、お嬢様は平気なんですか?」
マルティナが心配そうに尋ねる。
「平気よ。むしろ――」
私は本を閉じて、立ち上がった。
「あの婚約、早く解消したいくらいだもの」
「お嬢様!」
マルティナが驚いた声を上げる。
「だって、本当のことよ? 政略結婚だし、ディートリヒとは会話も合わない。彼は領地経営の話をしても『難しい話は苦手』って逃げるし」
私は肩をすくめる。
「それに――私、領地のことで頭がいっぱいなの。恋愛に時間を割いている暇なんてないわ」
「......お嬢様らしいですね」
マルティナは苦笑した。
私たちは中庭を通り過ぎる。視線だけを一瞬、あの二人に向けて。
ディートリヒは気づかない。リリアナは――気づいて、小さく勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
『ふふ、エレノアお姉様、悔しいでしょう?』
そんな顔をしている。
――かわいそうに。
私は内心で笑う。
彼女は知らないのだ。じつは私が、この婚約を面倒に思っていることを。
「さ、午後の講義に行きましょう。今日は財政学よ」
「お嬢様、本当にお好きですね......」
「当たり前でしょう? 私、将来侯爵家を継ぐんだから」
私は明るく答えた。
――私は気づいていなかった。
遠く、回廊の影から、深い紺色の髪の青年が、私の背中だけを静かに見つめていたことに。
彼の金色の瞳には、静かな怒りと、それ以上の何かが宿っていた。
「......強いな」
レオニス・アルバート・クラウゼル。
この国の第三王子は、誰にも聞こえない声で呟いた。
彼女が泣かないことを、誰よりも知っている。
いや――彼女は、そもそも傷ついてすらいないのかもしれない。
その隣に立つ短い黒髪の青年――近衛騎士カイ・ルーヴェンが、小さく呟く。
「......殿下はエレノア様と長い付き合いですよね」
「ああ。お前もな」
「彼女は、気づいていないんですよね?」
「......そうだな」
レオニスは、苦笑した。
カイは肩をすくめる。
「まあ、エレノア様は領地経営のことで頭がいっぱいでしょうから」
「......ああ」
「あんなのでも、婚約者がいらっしゃるし」
「うるさいぞ、カイ」
レオニスの視線は、エレノアの背を追い続けていた。
16
あなたにおすすめの小説
「貴女じゃ彼に不釣りあいだから別れて」と言われたので別れたのですが、呪われた上に子供まで出来てて一大事です!?
綾織季蝶
恋愛
「貴女じゃ彼に不釣りあいだから別れて」そう告げられたのは孤児から魔法省の自然管理科の大臣にまで上り詰めたカナリア・スタインベック。
相手はとある貴族のご令嬢。
確かに公爵の彼とは釣り合うだろう、そう諦めきった心で承諾してしまう。
別れる際に大臣も辞め、実家の誰も寄り付かない禁断の森に身を潜めたが…。
何故か呪われた上に子供まで出来てしまった事が発覚して…!?
(完結)伯爵令嬢に婚約破棄した男性は、お目当ての彼女が着ている服の価値も分からないようです
泉花ゆき
恋愛
ある日のこと。
マリアンヌは婚約者であるビートから「派手に着飾ってばかりで財をひけらかす女はまっぴらだ」と婚約破棄をされた。
ビートは、マリアンヌに、ロコという娘を紹介する。
シンプルなワンピースをさらりと着ただけの豪商の娘だ。
ビートはロコへと結婚を申し込むのだそうだ。
しかし伯爵令嬢でありながら商品の目利きにも精通しているマリアンヌは首を傾げる。
ロコの着ているワンピース、それは仕立てこそシンプルなものの、生地と縫製は間違いなく極上で……つまりは、恐ろしく値の張っている服装だったからだ。
そうとも知らないビートは……
※ゆるゆる設定です
濡れ衣を着せてきた公爵令嬢は私の婚約者が欲しかったみたいですが、その人は婚約者ではありません……
もるだ
恋愛
パトリシア公爵令嬢はみんなから慕われる人気者。その裏の顔はとんでもないものだった。ブランシュの評価を落とすために周りを巻き込み、ついには流血騒ぎに……。そんなパトリシアの目的はブランシュの婚約者だった。だが、パトリシアが想いを寄せている男はブランシュの婚約者ではなく、同姓同名の別人で──。
私に婚約者がいたらしい
来栖りんご
恋愛
学園に通っている公爵家令嬢のアリスは親友であるソフィアと話をしていた。ソフィアが言うには私に婚約者がいると言う。しかし私には婚約者がいる覚えがないのだが…。遂に婚約者と屋敷での生活が始まったが私に回復魔法が使えることが発覚し、トラブルに巻き込まれていく。
短編 跡継ぎを産めない原因は私だと決めつけられていましたが、子ができないのは夫の方でした
朝陽千早
恋愛
侯爵家に嫁いで三年。
子を授からないのは私のせいだと、夫や周囲から責められてきた。
だがある日、夫は使用人が子を身籠ったと告げ、「その子を跡継ぎとして育てろ」と言い出す。
――私は静かに調べた。
夫が知らないまま目を背けてきた“事実”を、ひとつずつ確かめて。
嘘も責任も押しつけられる人生に別れを告げて、私は自分の足で、新たな道を歩き出す。
王太子に婚約破棄されたけど、私は皇女。幸せになるのは私です。
夢窓(ゆめまど)
恋愛
王太子に婚約破棄された令嬢リリベッタ。
「これで平民に落ちるのかしら?」――そんな周囲の声をよそに、本人は思い出した。
――わたし、皇女なんですけど?
叔父は帝国の皇帝。
昔のクーデターから逃れるため、一時期王国に亡命していた彼女は、
その見返りとして“王太子との婚約”を受け入れていただけだった。
一方的に婚約破棄されたのをきっかけに、
本来の立場――“帝国の皇女”として戻ることに決めました。
さようなら、情けない王太子。
これからは、自由に、愛されて、幸せになりますわ!
で、お前が彼女に嫌がらせをしている理由を聞かせてもらおうか?
Debby
恋愛
ヴェルトが友人からの手紙を手に辺境伯令嬢であるレィディアンスの元を訪れたのは、その手紙に「詳細は彼女に聞け」と書いてあったからだ。
簡単にいうと、手紙の内容は「学園で問題を起こした平民──エボニーを妻として引き取ってくれ」というものだった。
一方その話を聞いてしまった伯爵令嬢のオリーブは動揺していた。
ヴェルトとは静かに愛を育んできた。そんな自分を差し置いて、言われるがまま平民を妻に迎えてしまうのだろうか。
そんなオリーブの気持ちを知るはずもないエボニーは、辺境伯邸で行儀見習いをすることになる。
オリーブは何とかしてヴェルトを取り戻そうと画策し、そのことを咎められてしまう。もう後は無い。
オリーブが最後の望みをかけてヴェルトに自分を選んで欲しいと懇願する中、レィディアンスが静かに口を開いた。
「で、そろそろお前が彼女に嫌がらせをしている理由を聞かせてもらおうか」
「はい?」
ヴェルトは自分が何を言われたのか全く理解が出来なかった。
*--*--*
覗いてくださりありがとうございます。(* ᴗ ᴗ)⁾⁾
★全31話7時19時更新で、全話予約投稿済みです。
★★「このお話だけ読んでいただいてもOKです!」という前提のもと↓↓↓
このお話は独立した一つのお話ですが、「で。」シリーズのサイドストーリーでもあり、第一弾「で、私がその方に嫌がらせをする理由をお聞かせいただいても?」の「エボニーその後」でもあります(あるいは「最終話」のその後)。
第一弾「で、私がその方に嫌がらせをする理由をお聞かせいただいても?」
第二弾「で、あなたが私に嫌がらせをする理由を伺っても?」
第三弾「で、あなたが彼に嫌がらせをする理由をお話しいただいても?」
どれも女性向けHOTランキングに入り、特に第二弾はHOT一位になることが出来ました!(*´▽`人)アリガトウ
もしよかったら宜しくお願いしますね!
公爵令嬢ローズは悪役か?
瑞多美音
恋愛
「婚約を解消してくれ。貴方もわかっているだろう?」
公爵令嬢のローズは皇太子であるテオドール殿下に婚約解消を申し込まれた。
隣に令嬢をくっつけていなければそれなりの対応をしただろう。しかし、馬鹿にされて黙っているローズではない。目には目を歯には歯を。
「うちの影、優秀でしてよ?」
転ばぬ先の杖……ならぬ影。
婚約解消と貴族と平民と……どこでどう繋がっているかなんて誰にもわからないという話。
独自設定を含みます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる