【完結】婚約破棄される前に察して距離を置いていたら、幼なじみの第三王子が本気になっていました〜義妹と元婚約者? もう過去の人です〜

井上 佳

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第1話 冷えた視線の先で

――私はエレノア・ヴァルディス。ヴァルディス侯爵家の長女であり、次期侯爵だ。

この国は長子継承制で、男女の別なく、最初に生まれた子どもが家を継ぐ。そのため私は幼いころから、当主としての教育を受けてきた。
礼儀作法、領地経営、法、政治、財務、そして外交。
すべては「侯爵として相応しくあるため」――だが、正直に言えば、私はこれらの勉強が大好きだ。
領地の税制改革案を考えている時、新しい交易路の可能性を検討している時、領民の生活を豊かにする政策を練っている時。
そんな時間が、何よりも楽しい。
だから私は今日も、昼休みに図書館で借りた『北方交易の実例集』を読みながら、紅茶を口に運んでいる。

ちらりと視線を上げると――学園の中庭で、ひときわ目立つ二人の姿。

「......また始まったわね」

私は小さくため息をついた。
あそこで義妹にデレデレしている男は、私の婚約者――ディートリヒ・フォン・ルーゼン。
ヴァルディス領の隣を治める、ルーゼン侯爵家の三男。政略のもとで結ばれた、幼少期からの婚約者だ。
そして、その腕に絡みついている少女。

「......リリアナ」

私はため息混じりに呟いた。
父が再婚した相手の連れ子である義妹。可憐な容姿に、しかしその態度はどこか遠慮がなく、平民育ち特有の、距離感の近さがある。

「あの小娘、またですか」

呆れながらも怒気を含んだ声でそう言ったのは、私の侍女――マルティナ。
代々ヴァルディス家に仕える家系の娘で、幼い頃から私に仕えてくれている。濃茶の髪をきっちりまとめた彼女は、常に冷静で有能だが、時折こうして感情を滲ませる。

「ええ。今日も元気そうね~」

私はそう答えて、微笑む。笑顔は完璧。

「......あのように人目を憚らず......しかも、婚約者がいらっしゃる身で......」
「マルティナ。噂話はしない約束でしょう?」
「そうですけれど......」

彼女は不満そうだ。私は本のページをめくりながら続ける。

「でも、ある意味助かるわ」
「え?」
「だって、あれだけ堂々と『私たち浮気してます』って宣伝して歩いてくれるんですもの。証拠集めが楽よね」

マルティナは一瞬呆然として、それから吹き出した。

「お嬢様......」
「事実でしょう?」

私はにっこり笑う。

中庭では、リリアナがディートリヒの腕に身を寄せている。彼女の淡い栗色の髪が風に揺れ、大きな瞳が甘く細められている。
ディートリヒは、それを拒まない。いや、むしろ楽しんでいるように見える。

周囲の生徒たちがざわめくが、二人の耳には届いていないようだ。

「あれ、ルーゼン家の三男様......」
「婚約者って、ヴァルディス家のご長女様よね......?」
「でも、あの二人、最近ずっとあんな感じじゃない?」

噂はすでに、広まっている。

「本当に、お嬢様は平気なんですか?」

マルティナが心配そうに尋ねる。

「平気よ。むしろ――」

私は本を閉じて、立ち上がった。

「あの婚約、早く解消したいくらいだもの」
「お嬢様!」

マルティナが驚いた声を上げる。

「だって、本当のことよ? 政略結婚だし、ディートリヒとは会話も合わない。彼は領地経営の話をしても『難しい話は苦手』って逃げるし」

私は肩をすくめる。

「それに――私、領地のことで頭がいっぱいなの。恋愛に時間を割いている暇なんてないわ」
「......お嬢様らしいですね」

マルティナは苦笑した。

私たちは中庭を通り過ぎる。視線だけを一瞬、あの二人に向けて。
ディートリヒは気づかない。リリアナは――気づいて、小さく勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

『ふふ、エレノアお姉様、悔しいでしょう?』

そんな顔をしている。

――かわいそうに。
私は内心で笑う。
彼女は知らないのだ。じつは私が、この婚約を面倒に思っていることを。

「さ、午後の講義に行きましょう。今日は財政学よ」
「お嬢様、本当にお好きですね......」
「当たり前でしょう? 私、将来侯爵家を継ぐんだから」

私は明るく答えた。


――私は気づいていなかった。

遠く、回廊の影から、深い紺色の髪の青年が、私の背中だけを静かに見つめていたことに。
彼の金色の瞳には、静かな怒りと、それ以上の何かが宿っていた。



「......強いな」

レオニス・アルバート・クラウゼル。
この国の第三王子は、誰にも聞こえない声で呟いた。
彼女が泣かないことを、誰よりも知っている。

いや――彼女は、そもそも傷ついてすらいないのかもしれない。

その隣に立つ短い黒髪の青年――近衛騎士カイ・ルーヴェンが、小さく呟く。

「......殿下はエレノア様と長い付き合いですよね」
「ああ。お前もな」
「彼女は、気づいていないんですよね?」
「......そうだな」

レオニスは、苦笑した。
カイは肩をすくめる。

「まあ、エレノア様は領地経営のことで頭がいっぱいでしょうから」
「......ああ」
「あんなのでも、婚約者がいらっしゃるし」
「うるさいぞ、カイ」

レオニスの視線は、エレノアの背を追い続けていた。
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